2018年2月27日火曜日
〈今〉とは、何か?
前々回、前回をまだ引きずっています。
昨日は、マジで〈知恵熱〉が出た。けれども、ある程度は
決着を付けたい。(私なりにですが・・)
「わたしたちには〈今〉しかないのに、何故、“考える時
間” が必要な〈思考〉が可能なのか?」
脳の機能を考えると、「可能かな?」みたいに思ったりも
するのです。
あるひとかたまりの思考をしている時は、「スケートリン
クに次々とスケーターが出て来て、グルグルと動き回り、練
習が済んだらみんな出て行く」といった感じに、はじめに脳
に入った順に “入力” を動かし続けておけば、次々と入って
来る “入力” と関連付けながら、ひとつの思考を続けられ
る。どの “入力” も思考が終るまでは〈過去〉にせず、〈思
考〉を続けられると。
けれども、やはり〈今〉は一瞬です。
「一瞬」とは、もはや時間ではありません。
無限に小さい、「ある場」とでも呼ぶしかないものです。
スケーターを滑らせておく“間” は無いように思います。
〈今〉とは、何か?
脳が〈時間〉を見て、聴いてしまう為に、「この瞬間」だ
けを〈現実〉と捉えてしまうことによって生まれる概念でし
ょう。本当は〈今〉として区切られる瞬間は、無いのではな
いか。
やはり「時間は存在しない」という前提に立った方がよさ
そうだと思う。
わたしたちの脳が〈時間〉を見なければ、世界はどんな風
に見えるか? 残念ながら、それはわたしたちの〈思考〉で
は捉えることが出来ない。
〈思考〉する為には〈時間〉が必要なので、〈時間〉を排
除した途端に〈思考〉は止まる。
止まるが、止まるのは〈思考〉であって、〈意識〉が無く
なるわけではないので、“〈思考〉の無い〈意識〉” によっ
て世界を見ることは出来るだろう。それはどんな世界か。
〈時間〉を排除すると、同時に「距離」の概念・感覚もな
くなるので、〈全世界〉と〈全時間〉を自身の内に感じる事
になる。世界と自分がひとつになる。
いつの回だったか、私自身がそんな体験をしたことを、書
きました。「ある時、突然思考が止まり、世界との一体感を
持った」と。
あれは、いわば “脳がフリーズしたような状態” でした
が、事情がどうあれ、「わたしたちは世界と一体になる感覚
を持ち得る」のは、自分の体験上断言できます。そして、そ
れが良い事かどうかと言えば、私の実感としては「良いこ
と」でした。「また経験したい」「ずっとあの状態でいた
い」と思いますから。それこそ、あれを「ニルバーナ」と呼
ぶのでしょう。
あの時のような「思考停止」状態は、長く続けば生活に支
障をきたしますから、「ニルバーナ」と言っても、釈迦のよ
うな人たちの在り方とは違うでしょう。
あのような人たちは、その状態を自在に ON/OFFできる
とか、生活に支障の出ない “深さ” に、コントロールできる
のだろうと思います。
どちらにせよ、できるだけ〈意識〉から〈時間〉の観念を
排除するように〈思考〉をコントロールすることが、幸福で
あるために必要だとされて来たのでしょう。だから精神的な
豊かさを求めた人たちは、「いま、ここ」を強調する。
私も、「いま、ここ」に在ることが大事だと書いて来まし
た。
けれど、今回の話を書いている内に、〈過去〉と〈未来〉
を忘れて〈今〉に在ろうとすることは、実は〈今〉に没入す
ることで、〈過去〉と〈未来〉もろとも〈時間〉そのものを
消し去ろうという目論見だと感じてきました。
そして、〈過去〉〈未来〉ともども、〈今〉さえも存在し
ないのだと・・・。
〈今〉とは、アタマが作り上げた、〈過去〉と〈未来〉の
間で、綱渡りをする為の “綱” なのでしょう。人はその上で
いつもグラグラしている。
降りてしまったほうが良いのでしょう。
そのためには、『いま、ここ』よりも、『〈今〉は、ど
こ?』という感覚の方が強力かも知れません。
実は〈今〉さえも、幻想なんだと。
だから、歴史に名を遺す禅僧などが、何も言わず “指を一
本立てるだけ” とか、訊かれても “何も答えない” という振
る舞いをしたのでしょう。「今」とか「ここ」と答えること
さえ余計だと・・・。
(もちろん、日常生活をこんな意識でやったら、破綻しか
ねませんし、人に話したら「頭」を疑われます。私は各々の
「アタマ」を疑って欲しいんですけどね・・)
《 未来は無い、過去は無い、今も無い 》
それでいいんじゃないでしょうか?
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