突然思い出したので、忘れないうちに書いておこう。
何のことかというとですね。一昨年、私の母親が九十歳で
亡くなりまして、その時の葬儀屋さんと火葬場の職員のこと
なんです。
本人の兄弟とか、本人を知っている親戚・友達なんかはみ
んなすでに死んでいるので、私たち家族だけで直葬(葬式無
しで火葬すること)にしたんですけど、葬儀場の待合室から
出棺する時の、葬儀場の担当者や、火葬場の担当者の話し方
が、すごく芝居がかっていたんです。
“マニュアル通り” っていう事もあるんでしょうが、それ
にしても異常に芝居がかっている。ほとんど大衆演劇のセリ
フです。
「これはなんだろう?」って思ったのです。
火葬が終り。お骨を膝に、クルマで家へ帰る道すがら、そ
のことを考えていて「はは~ん」と思った。
「毎日毎日、死に接していると、そこに自分を持ち込んで
しまうと精神的に持たないんだな」と。
うちの母親のように九十歳とかだと、こちらも淡々として
いて、取り乱したり、ふさぎ込んだりなんてことはないけれ
ど、あの人たちが日々接する「故人」の中には、相当数の若
い人が含まれているわけで、その中には、赤の他人でも遣り
切れないようなケースも多々あるでしょう。取り乱したり、
泣き崩れたりする家族もいるでしょう。そういう日々の仕事
の中に、自分を持ち込んでしまうと、とてもじゃないが身が
持たないんでしょうね。
だから、その仕事の、その役柄を演じて、自分の感情が巻
き込まれない様にしているのでしょう。
そう思って、「ああ、毎日ごくろうさんです」とクルマの
中で、ひとりで彼らの労をねぎらっていた。
彼らの仕事の場合は極端だけど、人はそれぞれ、それぞれ
の役割を演じているわけですね。
“マニュアルには見えにくいマニュアル”
をこなしている。
当人達には自覚がないだろうけど、その相当の部分が演技
です。演技という表現に抵抗を感じられるなら、思い込みで
す。
「母親というのはこういうもの」
「中学生というのはこういうもの」
「会社員というのはこういうもの」
「オバサンというのはこういうもの」
「男は、女は、こういうもの」
人それぞれに役作りをして、世の中という舞台に立ってい
る。(役作りに失敗する者もいて、まわりから「浮いてる」
とか「ダメ人間」とか言われたりする)
しかし、その中にはかなり無理している人たちが結構いる
わけです。自分の役を演じることは仕方ない。けれども、無
理が過ぎると苦しさに耐えられなくなってくる。まわりも、
合わせにくくなってくる。
LGBTの人たちのように、あからさまに無理をしている
人以外にも、分かりにくい部分で無理をしている人がたくさ
んいるはずです。
そういう無理をしている人たちに、「支援を」とか言うの
ではなくて、そもそも「無理なものは無理」と言える世の中
であればいいのにと思います。
「元気な子供!」みたいな古典的イメージが、いまだには
びこっていて、学校の運動会や体育祭で、もともと運動が苦
手な子が運動をさせられる
たりする。
運動なんか、最低限の体力作りの為に、体育の授業をする
だけでいいのであって、運動会なんぞは、出たい者だけでや
ればいい。運動が苦手な子には、苦痛でしかない。(私は、
運動神経はいいほうですが)
「私はそれが苦手です。だからやめておきます。以上」
なぜ、それではいけないのか?
なぜ、みんな一緒にしようとするのか?
『個性の尊重』などという御題目を唱える気はない。
ただ、本当に向いていない事を、無理矢理やらせること
が、その人の為になるのか? 世の中の為になるのか?
個人には苦しく、世の中にとってはムダなエネルギーの投
資でしかないだろう。何もいいことが無い。
以前も書いたけれど、戦後、教育現場に立った人たちも、
子育てをした親も、太平洋戦争中に軍隊経験をした人たち
で、軍隊式の教育方
ち込んでしまったのだろうと思う。(私の小学生時代を考え
ると、そうとしか思えない)
それが代々受け継がれて、いまだに教育現場でも職場でも
家庭でも、《成せば成る、成さねばならぬ何事も。成らぬは
人の成さぬなりけり》式の「指導」とやらが行われてる。
「社会の役に立つ人間を作る」
百歩譲ってそれでもいい。
でもそれならば、当人の適正にあった方向へ導いてあげる
方が、当人にも社会にも良いだろうことは誰でも分かる。
「無理な事でも一緒にやらせる」事は、教育でも指導でも
なくて、指導する側の “支配欲” を満足させてるだけだろう
としか思えないね。
そうやって、子供の頃から “自分に適性がなくても無理を
する” ようにしこまれた人たちが、さまざまな所で無理をし
ているし、無理をさせている。
「この役、出来ません」
そう言えない。言わせてもらえない。
葬儀場の職員も火葬場の係員も、すごく無理してる。自分
を “別の所に置いて来なければならない” ほどに・・。
けれど、彼らはまだそれが許される。「当然だよね」と。
「仕事柄仕方がないよ」と。
むしろ、一般的な仕事や立場にある人で、“無理をしてい
る人” の方が大変かも知れない。「それであたりまえでし
ょ」と言われてしまうから・・・。
なんでみんな無理してる?
なんでみんな無理させる?
誰の為? 何の為?
誰がしあわせになる?
みんなで背伸びして、みんなで疲れて、誰が喜んでるの?
「この役、無理です!」
そこから、もう一回やり直したいね・・・。
人が “それ” を出来ないことを許したい。
自分が “これ” を出来ないことを許して欲しいから・・。
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