2018年2月16日金曜日

世の中のせい?


 時折、犯罪に手を染めたり、事業に失敗したりした人や、

貧しさから社会的弱者となっている人などが、それを「世の

中のせいだ」と言うことがあります。

 また、そういう言葉を捉えて、「甘えてる」「自分の努力

が足りないことを棚に上げている」などと、批判する人もい

ます。

 自分の不幸や、過ちを「世の中のせい」にしていいのでし

ょうか?



 いいのです。少なくとも、50%は世の中のせいです。

 そして残りの50%は、その人が持って生まれた資質のせ

いです。

 個人の “行い”、“境遇” は、すべて当人のせいではありま

せん。
 

 「そんなの、無責任過ぎる! ありえない!」



 そう思われるでしょうか?

 でも、少し考えれば、そう言わざるを得ません。

 それが善行であれ、悪行であれ、その “行い” は当人のせ

いではないのです。それを説明しますね。



 まず、わたしたちは気付いたら、もうこの世に生まれてい

ます。ひとりひとりが、それぞれの民族・国籍・文化・人種

の中のひとりとして、それらが持つ価値観の中に生まれま

す。さらに、ひとりひとり脳や身体に違いがあります。

 もともとの脳の出来の良し悪し(何をもって良いとするか

という問題があるのですが、それは措いておいて・・)や、

身体の丈夫さの違いや、障碍の有る無しなど、各々の特性が

ありますが、それは当人のせいではありませんよね。

 そうした個人々々の特性が違うところに、物心付かぬ内か

ら、世の中がさまざまな価値感や物事の受けとめ方を刷り込

んで行きます。それに抵抗する事は、誰も出来ません。

 そして、その人特有の性質が出来てくると、そこに自然環

境と社会環境からの影響が加えられ続け、それぞれの〈個

人〉がほぼ形作られます。これらの〈個人〉は、その当人固

有のやり方で社会適応しますから、その当人オリジナルの行

動をし、その当人オリジナルの境遇を持つ事になります。そ

うなりますよね?



 どんな資質を持って生まれて来るかは、当人のせいではあ

りません。

 世の中から、価値観や物事の受け止め方を刷り込まれてし

まうのも、当人のせいではありません。

 外的環境の影響も、当人には防げませんし、影響を受ける

時には、もうすでに “物事の受け止め方” を刷り込まれてい

ますから、当人が「影響の受け方」を創造することは出来ま

せん。

 〈個人〉が “当人の意志” で、自分を作ることは出来ない

のです。
 

 自分を作ったのが自分ではないのですから、自分の行いが

自分のせいであるはずがありません。

 人が「どう考え」「どう行動するか」は、持って生まれた

資質と、世の中の刷り込みによって方向付けられてしまうの

で、「何をして」「どんな結果を招こうとも」、当人のせい

ではないのです。

 そして、すべての人間が同じ境遇にありますから、他の人

や、人の集まりである社会が行う事も、誰のせいでもありま

せん。



 人が行う事、社会が行う事に〈個人〉は何の責任もありま

せん。同時に、〈個人〉には何の自由もありませんし、「あ

らゆる評価」「あらゆる業績」も、持ち得ません。

 そもそも、社会的には〈個人〉というものは存在していな

いと観た方がよいのでしょう。残念ながら〈個人〉というも

のは、社会のパーツに過ぎません。



 私は「恐ろしい話」をしているのでしょうか?

 〈個人〉は存在しないのでしょうか?



 実は、私がしようとしているのは〈自由〉についての話で

す。



 さっきも言ったように、社会のパーツとしての〈個人〉に

、自由はありません。けれど、社会から外れた部分には

〈自由〉が存在します。「社会からはずれている」のであれ

ば、社会からコントロールされることはありませんから、当

然〈自由〉なんです。

 わたしたちの〈意識〉の、 “思考” と “感情” から外れて

いる部分を、社会は取り込むことが出来ません。

 そこに〈自由〉が存在します。


 社会の中では、わたしたちは何も持ち得ません 受験に

失敗しても、就職に失敗しても、仕事に失敗しても、事業に

失敗しても、法律を犯しても、戦争で人を殺しても、自殺し

ても、自分の責任ではありません。

 それと共に、一流大学に入れても、大企業で出世しても、

グローバル企業の CEO になっても、ノーベル賞を貰って

も、金メダルを獲っても、100歳まで健康に過ごしても、自

分の手柄ではありません。

 すべては、自分が生まれる時に持たされた資質と、社会に

刷り込まれた “生き方” によるものであって、自分には無関

係な事なのです。



 もちろん “社会のパーツとしての自分” は、責めを負わさ

れたり、バカにされたりします。褒められたり、尊敬された

りもします。社会の中では「責任」を持たされ、「評価」さ

れます。ですが、それはあくまで “社会のパーツ” としての

ことで、自分のことではなく、『社会のお話』に過ぎませ

ん。



 本当は、「自分には何の責任も無い」。

 本当は、「評価される何ものも持たない」。

 そのことを受け入れた時、何が起こるか?

 自分の、 “すべての責任” と “手に入れたすべての評価” 

を、ひとつ残らず放棄する時、何を感じるか?



 社会の「評価」や「責任」とは離れたところで、社会と自

分を俯瞰している〈自分〉を知るはずです。

 そして、その〈自分〉は “社会” と “自分” から離れてい

る為、完全に自由です。

 それは人としての本質的な《自由》です。
 

 国が滅びようが、人類が滅びようが、世界が平和になろう

が、人類が一億年繁栄し続けようが、誰のせいでもありませ

ん。

 自分が破産しようが、死のうが、殺されようが、原爆を落

として10万人を殺そうが、誰のせいでもありません。

 わたしたちの本質は、社会から離れたところに在ります。
 

 このような社会に対する「無責任さ」は、社会をメチャク

チャにしてしまうでしょうか?

 私は、逆だと思っています。

 〈個人〉は、自分の在り方の良否を問われる事で、危機感

を持ち、その不安から逃れようと、〈エゴ〉を暴走させ始め

す。それ故に、社会の状況を〈個人〉の「責任」や「業

績」の集積として見ることこそが、“社会の狂気” を生み出

すのだと。〈個人〉を苦悩の中に閉じ込めるのだと・・。



 とはいっても、社会の中の自分は、社会の中で生きるしか

ありません。そこでは誰も自由にはなれません。

 「自分の本質は違う!」と思ったところで、無責任な事を

すれば、非難され、罰を受けることをわたしたちは知ってし

まっています。それに異を唱えたところでどうにもなりませ

ん。

 社会に完全に異を唱えれば、わたしたちは抹殺されるでし

ょう。キリストが磔になり、ソクラテスが毒を飲み、慧可

(禅宗の第二祖。達磨の弟子)が殺されたように・・・。


 けれども、社会の中で生きつつも、自身の中で、自分と他

者と社会全体に対して一切の「評価」を放棄する時、わたし

たちは本当の《自由》と《幸福》を見い出すのだと思いま

すし、人がこの世に生を受けるのは、それを知る為だろうと

思いますね。






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