昨日のブログは〈修行〉の話でした。
《 “出来事” を心に「そっ」と修めて行く》と言いました
が、《「そっ」と修める》ことを『最後まで送りとどける』
とも言います。
この言葉は、沢木興道老師(曹洞宗の禅僧・1880~
1965)の言葉をまとめた、『禅に聞け』〔櫛谷宗則 編
大法輪閣〕という本にあった言葉です。
《すべての行儀の根本は
「最後まで送りとどけること」である》
というのですが、ここで〈行儀〉と言われているのは、
「良く生きる」ということだと捉えていいのだと思います。
〈良い生き方の根本は
「最後まで送りとどけること」である〉と。
「最後まで送りとどける」。何を?
「何もかも」です。
「何もかも、最後まで送りとどける様にすれば間違いが無
い」と。
最後まで手を添えて鍵をテーブルに置く。
最後まで手を添えて扉を閉める。
最後まで手を添えてコップをシンクに置く。
最後まで足元に注意して、階段を下りる。
最後まで相手に届く様に、言葉を話す。
最後まで手を添えて送りとどけるように、出来事を心に修
める。
すべての事を、最後まで送りとどけるように心を使う。
途中で「ポン」と投げたりせずに、「そっ」と「静かに」
落ち着かせて行く・・・。
そうすることで、自分自身が落ち着いて行く。
「ポン」と放り出すと物が壊れる。
「ポン」と放り出すと人間関係が壊れる。
「ポン」と放り出すと自分の心が壊れる。
放り出さず、「最後まで送りとどける」と、失敗が無い。
いえ、「最後まで送りとどけること」そのものが、成功な
のだと思う。
「最後まで送りとどけた」、その “結果” がどうこうでは
ではなく、「最後まで送りとどけるように生きられる事」が
成功であり、幸福なんだということでしょう。
歩道を歩いていたって、車が突っ込んできて死ぬこともあ
る。誠実に働いていたってリストラされることもあるし、
健康に気を遣っていても重い病気になることもある。
“生き方” と “結果” が、必ずしも釣り合うわけではない。
ならば、“結果” は “結果” として、なるがままを受け止め
るようにして、その時その時を「良く生きられる事」を〈幸
福〉とする
は当然ですね
ます。
《修行とは、その時その時を、良く生きようとすること》
そう考えていいのだと思います。(「良く」と言っても、
世の中での “良く” とは違ってたりしますよ)
悪口言って申し訳ないですが、坊さんなんかが、個人的に
大袈裟な「苦行」をするぐらいなら、ご近所の掃除でも手伝
った方がいいんじゃないでしょうか? まぁ、そうしなけれ
ばならない宿業があるんでしょうけどね・・・。
それともう一つ。
「良く生きる」に関わることで、沢木興道老師はこんなよ
うなことも言われてます。
《 自分に親しむ。 自分が、自分を、自分する。 》
分かるような分からないような話ですが、それこそ「自分
に親しんでみる」しかない。
世の中の見せる、さまざまな誘いや、脅しや、おだてに乗
せられて「自分を失うな」、ということでしょうね。
私も自分が何だか分からない。
けど、分からないままでも、自分はここに在る。
その「ここに在る自分」に親しんで、「ここに在る自分を
“出来事” に揺さぶらせないこと」。それが〈幸福〉だ
と。
分かったような事言ってますが、時々書くように、このブ
ログは「自分に言い聞かせる為」というのが、書く理由の大
部分ですからね。ホントは、“口ほどでもない奴” です。
御了承下さい。
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