2018年2月10日土曜日

「スクルット」たちへ。トーヴェ・ヤンソンさんからのエール


 ずいぶん前に『ムーミン画集~ふたつの家族~』(トーヴ

ェ・ヤンソン 講談社)という本を買って、一二度目を通し

た後、長い間本棚に眠らせていました。

 昨日、久々に見ていたら、こんな一文があった。



 《だれのために書くのか、という質問に、トーヴェは比喩

で答えた。しいて特定の読者をあげよというのであれば、

「スクルット」ではないかと。「スクルット」は造語で、

「どこにいても居心地がわるく、外部または周縁にとどまっ

ていて、小さくて、みすぼらしくて、途方にくれている」ひ

とたちをさす。(中略)居心地がわるくて、ちいさくて、こ

わがりやで、途方にくれる。しかしそれは、かならずしも短

所とはいえない。些細なことに興奮や不安をおぼえるからこ

そ、些細な変化にも冒険をみいだせる。さいわい、たいてい

の子どもには「スクルット」的な感性がある。トーヴェの言

葉を借りれば、「日常のなかでうまれる昂ぶり」と「幻想の

なかで生まれる安らぎ」への臭覚が鋭い。だから、この両方

のあいだで巧みにバランスをとる。

 昂ぶりのあとには、安らぎがくる。そして最後に、しあわ

せな結末が待っている。》



 「スクルット」の説明を見て、あなたは「自分のことだ」

と思ったんじゃないですか?

 こんなブログを観るような人は、「スクルット」だと考え

て、まず間違いないでしょう。書いてる私が「スクルット」

でしょうから。

 《どこにいても居心地がわるく。外部または周縁にとどま

っている・・・》というあたり、自分のことを言われている

ようです(『生まれ変わったって・・・』という回で、書き

ましたが・・)。今、これを読んでいるあなたも、きっとそ

う思っているでしょう。

 “中” にいる人間は、このブログに書かれている事なん

か、読む気になれない。「こいつバカか?」ぐらいにしか思

わないはずです。話なんか通じない。

 “中” にいる人間と、“周縁” にいる人間とでは、見ている

ものが違う。「ちょっと塀の上に登って見てごらん」なんて

誘ったって、絶対に来ない。「あぶない」「バカバカしい」

「意味がワカラナイ」。そう思われて終りです。

 そうして、《周縁にとどまって、小さく、みすぼらしく、

途方にくれている》わたしたちは、マイノリティのまま生き

て行くことになります。・・・まったく、途方にくれます

ね・・・。


 しかしトーヴェ・ヤンソンさんは、そんな「スクルット」

たちに向けて、物語を送ります。そしてその物語は、世界中

で多くの人に愛されている。

 それならば、マイノリティとはいえ、「スクルット」は、

けっして少なくはない。「ムーミン」が愛される事が、その

証明です。


 私は今、塀の上でブログを書いています。

 “中” の方を向いていると、確かに端っこに追いやられて

いるような気がしますが、塀の上にいると、外を見ることも

出来ます。“中” にいると決して見られないものが、見えた

りします。その喜びは “周縁” にいる人間にしか分からな

い。

 確かに塀の上は不安定です。気を付けないと、落ちてケガ

をしかねませんから、怖さもあります。けれど、その怖さを

コントロール出来れば、すごく景色がイイ。

 《・・・巧みにバランスをとる・・・》ことが出来れば、

《しあわせな結末が待っている。》ということです。


 トーヴェ・ヤンソンさんのような人たちからのエールを受

けて、まわりを見渡してみると、少し離れた塀の上にも誰か

が居て、少し「ホッ」としたりする。


 「ムーミン」の物語のように、〈しあわせな結末〉が訪れ

るわけではない。けれど、塀の上で《巧みにバランスをと

る》ことそのものが、〈しあわせ〉なのだと思ってもいいの

でしょう。

 “物語を描く人” は、物語を終わらせなければ仕方がない

から、〈しあわせな結末〉を用意するけれど、“生きる人” 

は〈しあわせな結末〉ではなく、〈しあわせな今〉を描くこ

とを本意とすべきなんだと思いますね。


 「スクルット」のひとりとして、少しばかり他の「スクル

ット」の助けになれれば、望外のしあわせですが・・・。



ムーミン谷のどこかで

 (「スクルット」の仲間から

も外れていたりしたら・・

  ゾッとする・・。それじゃ

ぁ、目も当てられないね。)



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