2018年3月20日火曜日

わたしたちの中の「オウム性」


 オウム真理教の起こした「地下鉄サリン事件」から、今日

で23年だという。

 先日は、これらの件で死刑が確定している元信者たちが、

拘置所から移送され、「死刑の執行が行われるのではない

か」という憶測が飛んでいる。それに対して、弁護士などか

ら成る団体が、「死刑の執行は、いまだにオウムの教えを信

仰している人間に、『死刑囚は《殉教者》』のイメージを持

たせることになる。彼らを死刑にせず、自分達の間違いを語

らせるべきだ」と、死刑に反対しているそうな。


 「死刑」是か否か?

 私はどちらでもいいと思っているけれど、以前にもこのブ

ログで書いた様に(『なぜ人を殺してはいけないか?』

2017/3執行するなら、起訴した検察か、死刑を望む

件の関係者に執行させるべきだと考える。刑務官にさせるべ

きじゃあない。


 「彼らを死刑にせず、自分達の間違いを語らせた方が良

い」という死刑反対派の主張に、私は懐疑的ですね。

 彼らが、現在の信者(隠れオウム)に「自分たちは間違っ

ていた」と語ったところで、「言わされているんだ」、「拘

置されている間に洗脳され、あいつらは堕落した!」という

受け取り方をするだけで、信仰(?)を捨てない人間は沢山

いるだろうと思うから。


 信者たちは、この社会の中で溺れ、浅原彰晃の幻影とドグ

マにしがみ付いているんだから、それに代わるものを用意し

てやらなければ、「それにしがみ付いてちゃダメだ!」と言

ったところで、手を離すことは無い。溺れちゃうもの・・。

 「死刑囚の死刑を執行するかどうか」なんて、現在の信者

の信仰心に対してあまり関係ないだろうと思う。(死刑執行

にキレて、反社会性が強まる可能性は、まぁ、あるかもしれ

ないけど)

 小手先の対応をしたところで、〈オウム的な人〉は無くな

らないと思う。社会の持つ、“非人間性” あるいは “人為性” 

とでもいうものを弱めない限り、社会は〈オウム的な人〉を

生み続けるだろう。


 わたしたちのエゴと、その「最大公約数」である、社会の

“善” は、そこに収まり切らない “人の持つ「何か」” を排除

する。けれど、人が社会を構成している限り、それは社会の

中に留まる。そして排除する力の限界に至ると、それは社会

の中心部になだれ込んで来る。
 

 「社会というものは、人が本来持っているものを排除して

成立しているものだ」ということを常に認識して、排除した

もののケアを欠かさぬようにし、同時に「社会が絶対の 

“善” ではない」ことを標榜しなければ、〈オウム的な人〉

に代表される「反社会的な存在」は、必ず生まれる。


 社会の秩序をより高め、安定度の高い「安心で、安全な社

会」になればなるほど、秩序から外れているものの排除はき

つくなる。《安心安全原理主義》は、必然的に、その排除の

ゆえに『反・安心安全原理主義』を生んでしまう。(私の事

か・・、困るなぁ。テロを起こさないようにしなくちゃ)

 存在しているものを無視し、臭いものにフタをしていれ

ば、いずれそれが表沙汰になるのは避けられないでしょう。
 

 わたしたちは面倒なことが嫌いです。

 面倒なことは排除したい。そりゃそうです。

 でも、「在るものは、在る」。

 消すことは出来ない。

 であれば、排除するのではなく、折り合いを付けるしかな

い。排除しても消えて無くならない。


 オウム真理教のしたことが、社会的に許されないのは当然

です。けれどそれは、社会が排除したり、取りこぼしたりし

たものが無秩序に積み上がり、必然的に崩れ落ちて来たとい

うことでしょう。

 何のエクスキューズもなしに社会の周縁に押しやられた者

の怨念が、噴き出したという言い方も出来る。


 社会は、それを嘲笑し、非難し、断罪して良しとするけれ

ども、もしもそれに社会と対抗し得る経済力や軍事力があっ

たなら、社会の方が潰されてしまう。そのことは歴史上何度

も繰り返されてきたことです。


 人は、〈オウム的な人〉を「あいつは異常(おか)しい」

と排除するけれど、それは、わたしたちの中の隠された “部

分” です。わたしたちの中のそれが、いつ共振して動き出さ

ないとも限らない。

 「自分はあんなバカじゃない」とタカをくくっていると、

気が付いたら、そっちの側に入って、社会に潰されそうにな

っているかも知れません。社会を潰そうとしているかもしれ

ません。


 どんな出来事も、他人事で済ませられ続けるとは限りませ

ん。

 わたしたちの中には、小さな他人が居るのですから。




2018年3月18日日曜日

生を明らめ死を明らむるは、仏家一大事の因縁なり


 道元の有名な言葉に、《生を明らめ死を明らむるは、仏家

一大事の因縁なり》という言葉がある。

 私はこの言葉を「生と死の真実を知ることが、もっとも大

切なのだ」と受け取って来たのだけれど、昨日突然、「単純

に、『生きることも死ぬことも諦めろ』ということだ、と捉

えていいのだ」と思った。


 本質的な受け止め方が変わった訳ではないが、今の自分に

はその方がしっくり来るし、より深く意識の中に入った気が

した。

 『生きることも死ぬことも諦めろ』ということは、「すべ

てを諦めろ」ということになる。「すべて」とは、要するに

〈自分〉ということだ。

 自分の物は何も無い。

 自分の物は何も無いのに、自分の物だと思って動かそうと

するから大事になってしまう。

 人は、他の生き物と変わらず、宇宙のエネルギー循環の中

を動かされているのにもかかわらず、アタマが勝手に “それ

以上の存在” だと思って〈自分〉を生きようとしてしまう。

それがあらゆる苦しみの原因だと。



 わたしたちは、生まれてしまった。生きさせられてしま

い、そして死ぬ。必ず死ぬ。
 

 以前『チェット・ベイカーの絶望』という話を書いた時、

《完全な勝利と、完全な敗北は人を同じ所に連れて行く》

書いた。

 わたしたちは、自分の意志で生まれて来たわけではない。

 わたしたちは、自分の意志とは関係なく死なねばならな

  自殺も自分の意志ではない

 〈自分〉というものは、スタートも終わりも〈自分〉のも

のではない。わたしたちは “完全に敗北している” のだ。

 それを「明らめろ」と。

 それを「認めろ」と・・。

 道元の言葉はそう諭している。



 「仏家一大事の因縁」



 〈自分〉の敗北を認めた時。

 〈自分〉から手を離した時。

 そこが「仏の家」(“仏家” は仏教徒という意味だけど)

であることを知る。

 「わたしは、始めから終わりまで救われているのだ」と。

 「世界は、隅から隅まで救われているんだ」と。



 仏教に限らず、世界には人を救いへ導く言葉が数多く遺さ

れている。

 それらは、単に知識・情報としてではなく、人の意識の中

で触媒として働く。意識を変容させる。

 化学反応の触媒が、温度・圧力・反応させる物質の濃度、

どで効果が変わる様に、“触媒としての言葉” も反応する

識の状況によって、変容の度合いが変わる。

 十年前に何とも思わなかった言葉を改めて聴いた時に、深

い省察を得たりする。(特別な言葉に限らず、言葉でない場

合もある)

 もしも、すべての状況が完全に整った時に、絶妙のタイミ

ングで最適の言葉を聴いたら・・。エゴは粉々に砕けて雲散

霧消する。「生」も「死」も意識から消えてしまい、〈思

考〉の無い《意識》だけがそこに在る。



 『生も死も諦めろ』
 

 《 わたしたちは、始めから終わりまで敗北している 》



 敗北しているから、戦わなくていい。

 一体、何と戦っているのか?
 

 完全な敗北は、完全な勝利となる。

 わたしたちの世界は、不完全な敗北と不完全な勝利に満ち

ている。つまり「あきらめが悪い」のだ。



 話がひと回りしたようだ。



 《生を明らめ死を明むるは、仏家一大事の因縁なり》  



 今回は私の中で、以前とは違う触媒反応を起こしたよう

です。

 でもまだ、意識の中には反応しきれていないエゴがブクブ

クと有害なガスを発生させている・・・。 




2018年3月17日土曜日

親切は結構難しい


 高齢者の介護施設を訪れると、認知症で車椅子に乗

ったお婆さんが、自分にどんな働きをするか知らない

薬を与えられ、飲んでいる。

 食が細くなり、食べ残しが増えると、「もうちょっ

とたべようね」と、介護士がいろいろ策を講じて食べ

させる。 

 手だけ、首だけでもと、ちょっとした運動をさせる

為に誘導する。

 元気で長生きしてもらおうと、考えうる限り管理す

る。

 親切だね。真面目だね。一所懸命だね。いい人達だ

ね。

 でもね…。そうやって管理されて生かされる人生

を、自分の人生としたい人が、どれ位いるのだろう

か?



 「あなたの為です」という言葉の意味も知らぬま

ま、訳も分からず薬を飲む。

 「長生きする為に食べましょう」と勧められて、『

いらない』と感じたご飯を口に運ぶ。

 「嚥下体操しましょう」と言われ、口をパクパクさ

せる。

 “車椅子の九十歳の認知症のお婆さん” が、食べた

い分だけ食べて、分からない薬は飲まず、静かにじっ

と座っていることは、いけないことなのだろうか?

 長生きはそんなに良いことなのだろうか?


 真面目で、一所懸命なのは分かる。しかし、「正し

さ」は人の数だけある。社会における「正しさ」だっ

て、時代で変わる。その「正しさ」をひとりひとりが

自問したことがあるか?



 尊厳死の話に繋がるけれど、「長生き」と「長生か

され」は違うだろう。
 

 個人を尊重するとは、どういうことか?

 時代の常識を当てはめてそれで済むのであれば、苦

労が無さそうだけれど…、いやいや、時代の常識とい

うものは、個人や身体というものを無視して、人を苦

しめることの多いものです。


 私の母は、九十歳で肺ガンの為、3日程苦しんで亡

くなりました。

 私たち家族は、「苦しんだこと」を可哀相に思いま

したが、九十という年齢には不足無く、淡々と見送り

ました。



 




 

2018年3月16日金曜日

テクノロジーに、バンザイ(降参)!


 世界中の何処か、私なんかのあずかり知らぬ所で、

大きなプロジェクトが沢山進められていて、世界が大

きく変わろうとしているらしい。


 けれど、人はこの世界に何ひとつ付け足すことはで

きないし、何ひとつ取り去ることもできません。

 せいぜい、右の物を左にやったり、何かを裏返した

りするだけのことです。

 わたしたちにできることは、世界を味わうことだけ

ですし、それだけがすべきことです。

 あくせくと何かを為す必要などありません。
 

 意図的に何かを為せば為すほど、そこから意図せぬ

ものが生まれ、それに対処するために “しなければな

らないこと” が生まれます。

 右の物を左にやった為にバランスが崩れます。そし

て、わたしたちは崩れたバランスを戻そうとします

が、その行為自体がさらにバランスの崩れを酷くして

しまいます。そのことは、政治、経済、環境問題など

の、人類の歴史に如実に表れています。


 一見、人の幸福に繋がっているように見えること

も、裏へ回ればより大きな不幸を生み出しているもの

です。山を築けば、何処かにその分の穴が出来ます。

それだけならプラスマイナス、ゼロですが、「山を築

く」という労力が、何処かにマイナスを生んでいるは

ずなので、全体ではマイナスになります。

 さらに、築いた山を崩れないように維持するという

労働が派生します。


 わたしたちが、無から有を生み出すことが出来るの

なら、人為によって幸福になることも出来るでしょう

が、わたしたちに出来るのは「右から左へ物を動かす

こと」でしかありません。いずれは無に帰すムダな行

為でしかありませんし、それが人為的であればある程

ムダさ加減も増します。


 そしてわたしたちは人為の極地へ行こうとしていま

す。人間のレベルを超えたAIを生み出そうと躍起で

す。 

 AIは、人為のまださらに先です。

 そして、AIの生み出すものは、その機能と意味によ

って、人間の「意図しない」、いえ「意図できない」

ものです。人間がそれに対処出来るかどうか定かでは

ありせん。そのこと(シンギュラリティ)を心配して

いる科学者も多くいるようです。

 わたしたちのアタマは、人為の生み出す問題を人為

によって解決できず、人為に人為を重ねて、問題を自

らの手に負えないレベルにしてしまい、[超人為]に

なんとかさせようとしているようです。
 

 別にAIを引き合いに出さずとも、「規則」「法律」

などの[超人為]でも、問題解決の為に作ったものに

縛られ、新たな問題を生み出すのは普通です。

 そのままにしておいた方が良いことを、考え過ぎて

いじるから、余計な手間が増えてしまう。

 素直に生まれて、素直に生きて、素直に死んだらい

いのだろうと思うけれど、わたしたちのアタマはそれ

じゃ気に入らないらしい。


 けれど、初めに書いた通り、わたしたちは右から左

へものを動かすだけです。

 子供が、車のオモチャを「ブーブー」と左右に動か

すのと本質的な違いはない。


 AIを生み出して、すべてをそれに任せる夢が叶った

ら、人類は、めでたく保育器の中で「バ〜ブ〜」と寝

ていられるのだろう。





2018年3月13日火曜日

「愛」とは何か?


 「ついに来たか」という感じで、「愛とはなにか?」とい

うことです。

 前回の最後に《愛とは、絶対の「許し」。絶対の「肯

定」》としましたが、それを、こう例えてみたいんです。

 “「愛」とは、エゴの世界に空いたブラックホールのよう

なもの” だと。



 もちろんここで言う〈愛〉は、「恋愛」や「母の愛」とい

った〈執着〉のことではありません。《絶対の「許し」。絶

対の「肯定」》なんですが、それがなぜ「ブラックホール」

なのか?


 世の中は、人々の〈エゴ〉が集まって作られていて、その

空間は〈エゴ〉による「否定」と「要求」で満たされていま

す。そこに〈愛〉が在ると、どう作用するか?


 エゴが「否定」し、「要求」する存在であるのに対し、

〈愛〉は「肯定」し、「求めない」存在です。エゴとは完全

に相反するものです。

 「肯定」し、「求めない」存在とは、ある意味 “無反応” 

な存在です。「否定」されても抗わず、「要求」されても抗

わない(暴力に対してだけは抗います。暴力は存在に対する

『絶対否定』だからです)。それは、他者からの反応によっ

自分の存在をたしかめているエゴにとって、恐るべき存在

す。自分からの働きかけが、すべて虚空に消えてしまい。

自身の存在が不確かにされてしまうからです。

 そのように、エゴにとって〈愛〉はブラックホールのよう

に働きます。


 〈愛〉がそばに在り、エゴがそれに関わると、関わった分

だけエゴの一部は失われます。すると、エゴが失われた分だ

け、その陰に隠れていた、その人本来のものである〈愛〉

が、表に現れて来ます。〈愛〉はすべてのものの “本質” と

して、どこにでも在るものだからです。

 目的を持たないが故に自ら働きかけることは無く、目的を

持たないが故にあらゆるものも拒まない。

 それは白紙の存在であり、空間そのものの在り方で

す。だから「どこにでも在る」のです。


 エゴを持つ事を刷り込まれ、エゴに依って生きることに馴

らされ、エゴの世界で否定し合い、要求し合う毎日に苦悩し

つつ、それより他に「やり方」を知らない・・・。

 そんな存在であるわたしたちが、時折〈愛〉に触れる時、

“「やる」こと” の息苦しさから開放され、安らぎを覚えま

す。〈愛〉は無条件で止まっているからです。エゴが無けれ

ば、わたしたちの意識は止まるからです。安らぐことは、意

識の停止ですからね。


 エゴは「やりたがり」です。

 動いていなければ、自分の存在を確かめられません。

 ですが、〈世界〉は実際には完結しています。そこに人が

付け加えるべきものなど、本当はありません。地球上に人間

が現れる遥か前から生物は生き続けていて、人間はつい先日

加わったばかりの新参者ですが、人間が現れる前の地球は不

完全だったのでしょうか? 人間が居ようが居まいが、〈世

界〉は完全です。そこに人が付け加えるべきものも、付け加

えられることも有りません。人はただ、引っ掻き回してるだ

けです。


 「やりたがり」で、「やらずにおれない存在」であるエゴ

には、“やる理由” が必要なので、まず「否定」します。

 「世界は完全じゃない!」と。

 世界が完全なら、“やる理由” が無いからです。エゴが

「否定したがる」のはその為です。そしてやる必要のないこ

とをして、世界を引っ掻き回し、ゴタゴタを創りだし、自分

で疲れます。


 そもそも、エゴには “存在理由” がありません。

 “存在理由” のないものが、なぜ生まれてしまったのか?

知る由もありませんが、それ故、エゴは “存在理由” を求め

ます。エゴの衝動、エゴの動機は、“存在理由” を明らかに

することです。

 が、それは永久に叶いません。「無い」ものはどうしよう

もありません。「無い」ものは「無い」のです。


 わたしたちには “存在理由” がありません。

 だから「理由も無くしあわせ」でいる必要があるのです。

 そして《しあわせになるのに理由はいらない 》ことに気

付くことが必要なのです。


 「理由も無くしあわせ」な存在は、〈愛〉そのものです。


 それはエゴに害されることが無く、却ってそれに触れるエ

ゴを消してしまうものです。


 〈愛〉とは、エゴ以外の “世界そのもの” です。



2018年3月9日金曜日

“瓶入り手紙” に詰めた「愛」


 「オーストラリアで、132年前の “瓶入り手紙” がみつか

った」というニュース。

 すぐに思った。「私のブログも同じ様なもんだなぁ」と。


 このブログなんか、インターネットの大海の中では、無い

に等しい。

 にもかかわらず、時々はフタを開けて読んでくれる人がい

る。本当に「奇跡のようだなぁ」と思う。

 読んでくれてありがとうございます。

 そうやって「なんだこりゃぁ?」と興味を引かれて拾い上

げ、読んでくれる人が「おっ。けっこう〈お宝〉じゃな

い!」と感じてもらえたら、それはお互いに素晴らしいこと

ですが、・・・・どうなんでしょうねぇ。「気持ち悪

ぅ・・・」と思われて、投げ捨てられかねないような

ものですからねぇ。

 それでもまぁ、好きで書いてるんだし、私にとっては「正

しい」ことですから、気に入る人が読んでくれればいいだけ

の話です。


 にしても、今回発見された “手紙” は、海流の調査などの

研究用だそうで、そのあたりはちょっと興を削がれますね。

“私信” だったら、もっと盛り上がる事でしょう。

 その点、このブログは、ほぼ “瓶入りの私信” です

ね。

「無人島に流れ着いた一人の男が、島での驚きと、その

美しさを誰かに伝えようと、思いの丈を綴って流れに放し

た・・・」という・・。(カッコ良く言い過ぎ・・)


 「何が美しいんだか分からないけど、驚きはするよ。わけ

の分からなさに」


 そういう人も当然いるでしょう。「正しさ」は人の数だけ

あるのだから。(〈真理〉は一つだけれど  その言葉の意

味において)


 自分が見たものの「美しさ」だとか「驚き」だとか、まし

てや、精神的な「気付き」のようなものを、100%言葉に換

える事は不可能で、それでもなお、その一端でも伝えられな

いかと思って、人は苦心惨憺する。

 その「苦心惨憺」のさまを見せるだけでも、人によっては

“何か” を感じてくれたりする。道路工事の横を通りかかっ

た時に、穴を覗き込むように。

 その中に “何” を見るかは、そのタイミングと、その人の

見方次第。

 私の場合は、そんな開き直りで書いている。というか、そ

うするしかない。ただ「苦心惨憺」に想いを込めて・・・。


 で、“何” を伝えたいのかといえば、「お互い、ホントに

しあわせになろうよ」ということなんでしょう。

 その「しあわせ」の邪魔をしてるのが、お互いの〈アタ

マ〉だから、〈アタマ〉の “「邪魔さ」加減” や、〈アタ

マ〉の外にある「美しさ」「気持ちよさ」みたいなものを、

少しでも感じてもらいたいと・・・。


 そんなことがどこまで出来ているのか、本人には分からな

い。それこそ「気持ち悪ぅ・・」と思われるだけかも知れな

い。でも、もうこれだけ書いて来たんだから、いまさらどう

思われようが・・・。
 

「良かれ」と思って書いて行く。

 少なくとも、「愛」は込めている。

 それだけは確かだと言えます。「愛」を感じてもらえてる

でしょうか?


 そう、これまでまだ「愛」を定義していませんでした。

 しておきましょう。
 

 《 愛とは、絶対の「許し」。絶対の「肯定」。 》







2018年3月8日木曜日

「祈る」


 昨日のブログの最後の方に、「祈る」という言葉を使っ

た。3月11日も近いので、今日は「祈る」という事について

書いてみたい。



 「祈る」という言葉は、たいていの場合「願う」というこ

とと、取り違えて使われているだろう。

 日本人なら、神社仏閣で手を合わせて、自分の「願い」が

叶うようにと「祈る」。けれどそれは “お願い” であって、

「祈り」ではない。

 去年、伊勢神宮について書いた時に、「神宮では “お願

い” をしてはいけないとされている」ことを書いたけれど、

その事からも「祈り」と「願い」が違うものだと分かる。

 けれどその違いは区別しにくい。

 「祈り」も、やはり “願い” ではあるからだ。じゃあ何が

ちがうのか?
 

 私が思うに、「祈り」には “願い” というよりも、もっと

強い “乞う想い” が込められていると共に、それと相反する

“諦め” ・ “放棄” や、“感謝” がないまぜになっている。

 極端に言えば、自身の〈存在〉を、より大きな《存在》に

投げ出すような想い、というものだろう。


 私は、初詣で神社に参る時は、人並みに “お願い” をする

けれど、お寺や仏壇に手を合わせる時は、“お願い” はしな

い。なにがしか「祈る」。

 けれども、決まった『祈りの言葉』は持っていなかった。

 時には「ナムアミダブツ」と唱えてみたり、時には「世の

中が平和に落ち着いていますように」と呟いてみたり。

 何にしろ、しっくりとする言葉が無かった。

 「ナムアミダブツ」でもいいんだけれど、私は真宗の信者

ではないし、何かが違う。

 お寺や仏壇や神社でだけではなく、いつでもどこでも相応

しい、自分なりの『祈りの言葉』が欲しかった。

 自分が “今・在る” ことへの、畏怖と感謝の言葉が・・。


 そして、自分なりに一応納得できる、それに相応しい言葉

が、この前生まれたので、「祈り」の形の例として書いてみ

たい。


 【 すべての事に、“その事” としての祝福を 】


 「祝福」といっても、“神の祝福を・・” ということじゃ

ないですよ。“その事” が “その事” 自身を、「祝福」するん

です。それが私なりの「祈り」です。

 もちろん “その事” の中には、あなたも私も入っていま

す。スズメも、バラも、石ころも、太陽も、砂粒も。笑う事

も、泣く事も、生まれる事も、死ぬ事も。


 こんなことを思うようになったのは、単に、年のせいなの

かも知れません。「年の功」なのか、「年の業」なのか。

 何にせよ、「祈る」というより、「祈らされている」とい

う感が強いですけどね。


 「祈る」なんて事を扱うと、「宗教臭く」なるのは避けら

れませんね。私の感覚では、ちょっと違うんですけどね。


 (ちなみに、広辞苑で【祈る】を引いたところ、〈祈るこ

と〉とありました・・・。まぁ、辞書という性格上、仕方が

ないんでしょうねぇ。この手のことに踏み込むと、抜き差し

ならない事になってしまうと・・)