道元の有名な言葉に、《生を明らめ死を明らむるは、仏家
一大事の因縁なり》という言葉がある。
私はこの言葉を「生と死の真実を知ることが、もっとも大
切なのだ」と受け取って来たのだけれど、昨日突然、「単純
に、『生きることも死ぬことも諦めろ』ということだ、と捉
えていいのだ」と思った。
本質的な受け止め方が変わった訳ではないが、今の自分に
はその方がしっくり来るし、より深く意識の中に入った気が
した。
『生きることも死ぬことも諦めろ』ということは、「すべ
てを諦めろ」ということになる。「すべて」とは、要するに
〈自分〉ということだ。
自分の物は何も無い。
自分の物は何も無いのに、自分の物だと思って動かそうと
するから大事になってしまう。
人は、他の生き物と変わらず、宇宙のエネルギー循環の中
を動かされているのにもかかわらず、アタマが勝手に “それ
以上の存在” だと思って〈自分〉を生きようとしてしまう。
それがあらゆる苦しみの原因だと。
わたしたちは、生まれてしまった。生きさせられてしま
い、そして死ぬ。必ず死ぬ。
以前『チェット・ベイカーの絶望』という話を書いた時、
《完全な勝利と、完全な敗北は人を同じ所に連れて行く》と
書いた。
わたしたちは、自分の意志で生まれて来たわけではない。
わたしたちは、自分の意志とは関係なく死なねばならな
い
〈自分〉というものは、スタートも終わりも〈自分〉のも
のではない。わたしたちは “完全に敗北している” のだ。
それを「明らめろ」と。
それを「認めろ」と・・。
道元の言葉はそう諭している。
「仏家一大事の因縁」
〈自分〉の敗北を認めた時。
〈自分〉から手を離した時。
そこが「仏の家」(“仏家” は仏教徒という意味だけど)
であることを知る。
「わたしは、始めから終わりまで救われているのだ」と。
「世界は、隅から隅まで救われているんだ」と。
仏教に限らず、世界には人を救いへ導く言葉が数多く遺さ
れている。
それらは、単に知識・情報としてではなく、人の意識の中
で触媒として働く。意識を変容させる。
化学反応の触媒が、温度・圧力・反応させる物質の濃度、
などで効果が変わる様に、“触媒としての言葉” も反応する
意識の状況によって、変容の度合いが変わる。
十年前に何とも思わなかった言葉を改めて聴いた時に、深
い省察を得たりする。(特別な言葉に限らず、言葉でない場
合もある)
もしも、すべての状況が完全に整った時に、絶妙のタイミ
ングで最適の言葉を聴いたら・・。エゴは粉々に砕けて雲散
霧消する。「生」も「死」も意識から消えてしまい、〈思
考〉の無い《意識》だけがそこに在る。
『生も死も諦めろ』
《 わたしたちは、始めから終わりまで敗北している 》
敗北しているから、戦わなくていい。
一体、何と戦っているのか?
完全な敗北は、完全な勝利となる。
わたしたちの世界は、不完全な敗北と不完全な勝利に満ち
ている。つまり「あきらめが悪い」のだ。
話がひと回りしたようだ。
《生を明らめ死を明むるは、仏家一大事の因縁なり》
今回は私の中で、以前とは違う触媒反応を起こしたよう
です。
でもまだ、意識の中には反応しきれていないエゴがブクブ
クと有害なガスを発生させている・・・。
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