2018年3月25日日曜日

「善い人」


 前回のタイトルは《絶対の善。絶対の悪。》

 しかし、そもそも「善」とは何か? 「悪」とは何か?

 広辞苑で【善】を引くと、「正しいこと」などと書いてあ

る・・・。このブログで取り上げる言葉で、私が辞書で調べ

るものは、辞書の製作者が「見て欲しくない」だろうという

言葉ばっかりだ。

 【善】なんて、どう定義すりゃいいのか?



 ・・・・(考え中)・・・・・・
 

 【善】とは、「生命を活かす働き」ということで、どうで

しょう?

 で、【悪】はその逆ということで、「生命を損なう働き」

ということであると・・・。



 ここで言う「生命を活かす」というのは、単に「死を遠ざ

ける」という事ではなくて、「その生命の在り様が、存分に

現れる」といった事を指しています。

 「それが、それである」という事。

 言い換えれば「生命をそのまま肯定する」という事。



 イスラム過激派にとっては、キリスト教徒を殺すことは

「善」。その事をキリスト教徒側から見れば「悪」。

 そんな立場の違いで変わってしまうものではなくて、あら

ゆる人間からしても変わらぬもの、それを〈善〉と呼びた

い。本当の〈善〉と。


 人は誰でも「善」を望み、「悪」を遠ざけたい。

 けれど普通、人は、本当の〈善〉を見い出せないので、

分にとっての「善」にしがみ付く。

 しかし、人が望む「善」は比較においての「善」なので、

人が「善」を見る時、その隣に必ず「悪」を見てしまう。そ

れゆえ、人が「善」に安住する事は出来ない。「善」は

「悪」を伴って来る。

 また、人は「悪」を遠ざけようとするけれど、「悪」を排

除する行為も、「悪」から逃げる行為も、「悪」を強く意識

することになってしまうので、かえって「悪」に関わってし

まい、怒りや不安をもたらす。

 どれほど「善」を望み「悪」を避けようとしても、その

「善」が比較においての「善」である限り、人は「悪」に苦

しめられることになる。


 「善」と「悪」の区別を持つ限り、本当の〈善〉に出会う

ことは無い。

 人は、区別し、比較することから逃れられないが、それに

囚われてしまうと、「善」と「悪」の循環の中で足掻くこと

になる。

 「善」や「悪」は、あくまでも社会で生活してゆく上での

便宜上の指標であって、人の幸福には直接の関係が無いのだ

ということを、しっかりと認識しておく必要がある。

 真に幸福で在る為には、本当の〈善〉に身を置かなければ

ならない。


 「それが、それである」ことの承認。

 「すべてが、存在として自分と変わりはない」という肯

定。

 すべての存在が、わたしたちの都合とは無関係に、それぞ

れに在る。その事実を、わたしたちはすぐに忘れてしまう。

 「自分が世界の中心ではない」

 「世界は自分の為に有るのではない」

 そんな明白な事実が納得できない。

 それと共に、「自分は〈世界以下の存在〉というわけでも

ない」という真実にも気付けない。


 わたしたちの「善」と「悪」は、“エゴのひとり遊び” 

と、それを拡げた “エゴのマスゲーム” のスコアボードに書

き付けられているに過ぎない。しかし、人はそれを見て一喜

一憂する。


 “遊び”・“ゲーム” 以前の存在として、自分が在り、世界

が在る。その「在ること」が〈善〉。

 社会の “ルール”・“約束事” 以前のものとして、すべては

在る。それを認めることが〈善〉。


 社会は「何をするか」、「どう在るか」を問う。

 「何」でも「どう」でもない。ただ「在る」。

 まず、その肯定から始まらなければ、わたしたちはエゴの

ゲームに巻き込まれて、スコアボードの「善・悪」に翻弄さ

れてしまう。


 世界には、「絶対の善」も「絶対の悪」も無い。

 それどころか「善」も「悪」も、カケラすら無い。

 この世界に存在するものの、「絶対性」を知ることこそが

〈善〉である。

 そして、それを知った「存在」が〈善〉である。


 「善い人」とは、「善・悪」の判断を保留する人のことだ

ろうと思う。




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