オウム真理教の起こした「地下鉄サリン事件」から、今日
で23年だという。
先日は、これらの件で死刑が確定している元信者たちが、
拘置所から移送され、「死刑の執行が行われるのではない
か」という憶測が飛んでいる。それに対して、弁護士などか
ら成る団体が、「死刑の執行は、いまだにオウムの教えを信
仰している人間に、『死刑囚は《殉教者》』のイメージを持
たせることになる。彼らを死刑にせず、自分達の間違いを語
らせるべきだ」と、死刑に反対しているそうな。
「死刑」是か否か?
私はどちらでもいいと思っているけれど、以前にもこのブ
ログで書いた様に(『なぜ人を殺してはいけないか?』
2017/3)、執行するなら、起訴した検察か、死刑を望む事
件の関係者に執行させるべきだと考える。刑務官にさせるべ
きじゃあない。
「彼らを死刑にせず、自分達の間違いを語らせた方が良
い」という死刑反対派の主張に、私は懐疑的ですね。
彼らが、現在の信者(隠れオウム)に「自分たちは間違っ
ていた」と語ったところで、「言わされているんだ」、「拘
置されている間に洗脳され、あいつらは堕落した!」という
受け取り方をするだけで、信仰(?)を捨てない人間は沢山
いるだろうと思うから。
信者たちは、この社会の中で溺れ、浅原彰晃の幻影とドグ
マにしがみ付いているんだから、それに代わるものを用意し
てやらなければ、「それにしがみ付いてちゃダメだ!」と言
ったところで、手を離すことは無い。溺れちゃうもの・・。
「死刑囚の死刑を執行するかどうか」なんて、現在の信者
の信仰心に対してあまり関係ないだろうと思う。(死刑執行
にキレて、反社会性が強まる可能性は、まぁ、あるかもしれ
ないけど)
小手先の対応をしたところで、〈オウム的な人〉は無くな
らないと思う。社会の持つ、“非人間性” あるいは “人為性”
とでもいうものを弱めない限り、社会は〈オウム的な人〉を
生み続けるだろう。
わたしたちのエゴと、その「最大公約数」である、社会の
“善” は、そこに収まり切らない “人の持つ「何か」” を排除
する。けれど、人が社会を構成している限り、それは社会の
中に留まる。そして排除する力の限界に至ると、それは社会
の中心部になだれ込んで来る。
「社会というものは、人が本来持っているものを排除して
成立しているものだ」ということを常に認識して、排除した
もののケアを欠かさぬようにし、同時に「社会が絶対の
“善” ではない」ことを標榜しなければ、〈オウム的な人〉
に代表される「反社会的な存在」は、必ず生まれる。
社会の秩序をより高め、安定度の高い「安心で、安全な社
会」になればなるほど、秩序から外れているものの排除はき
つくなる。《安心安全原理主義》は、必然的に、その排除の
ゆえに『反・安心安全原理主義』を生んでしまう。(私の事
か・・、困るなぁ。テロを起こさないようにしなくちゃ)
存在しているものを無視し、臭いものにフタをしていれ
ば、いずれそれが表沙汰になるのは避けられないでしょう。
わたしたちは面倒なことが嫌いです。
面倒なことは排除したい。そりゃそうです。
でも、「在るものは、在る」。
消すことは出来ない。
であれば、排除するのではなく、折り合いを付けるしかな
い。排除しても消えて無くならない。
オウム真理教のしたことが、社会的に許されないのは当然
です。けれどそれは、社会が排除したり、取りこぼしたりし
たものが無秩序に積み上がり、必然的に崩れ落ちて来たとい
うことでしょう。
何のエクスキューズもなしに社会の周縁に押しやられた者
の怨念が、噴き出したという言い方も出来る。
社会は、それを嘲笑し、非難し、断罪して良しとするけれ
ども、もしもそれに社会と対抗し得る経済力や軍事力があっ
たなら、社会の方が潰されてしまう。そのことは歴史上何度
も繰り返されてきたことです。
人は、〈オウム的な人〉を「あいつは異常(おか)しい」
と排除するけれど、それは、わたしたちの中の隠された “部
分” です。わたしたちの中のそれが、いつ共振して動き出さ
ないとも限らない。
「自分はあんなバカじゃない」とタカをくくっていると、
気が付いたら、そっちの側に入って、社会に潰されそうにな
っているかも知れません。社会を潰そうとしているかもしれ
ません。
どんな出来事も、他人事で済ませられ続けるとは限りませ
ん。
わたしたちの中には、小さな他人が居るのですから。
わたしたちのエゴと、その「最大公約数」である、社会の
“善” は、そこに収まり切らない “人の持つ「何か」” を排除
する。けれど、人が社会を構成している限り、それは社会の
中に留まる。そして排除する力の限界に至ると、それは社会
の中心部になだれ込んで来る。
「社会というものは、人が本来持っているものを排除して
成立しているものだ」ということを常に認識して、排除した
もののケアを欠かさぬようにし、同時に「社会が絶対の
“善” ではない」ことを標榜しなければ、〈オウム的な人〉
に代表される「反社会的な存在」は、必ず生まれる。
社会の秩序をより高め、安定度の高い「安心で、安全な社
会」になればなるほど、秩序から外れているものの排除はき
つくなる。《安心安全原理主義》は、必然的に、その排除の
ゆえに『反・安心安全原理主義』を生んでしまう。(私の事
か・・、困るなぁ。テロを起こさないようにしなくちゃ)
存在しているものを無視し、臭いものにフタをしていれ
ば、いずれそれが表沙汰になるのは避けられないでしょう。
わたしたちは面倒なことが嫌いです。
面倒なことは排除したい。そりゃそうです。
でも、「在るものは、在る」。
消すことは出来ない。
であれば、排除するのではなく、折り合いを付けるしかな
い。排除しても消えて無くならない。
オウム真理教のしたことが、社会的に許されないのは当然
です。けれどそれは、社会が排除したり、取りこぼしたりし
たものが無秩序に積み上がり、必然的に崩れ落ちて来たとい
うことでしょう。
何のエクスキューズもなしに社会の周縁に押しやられた者
の怨念が、噴き出したという言い方も出来る。
社会は、それを嘲笑し、非難し、断罪して良しとするけれ
ども、もしもそれに社会と対抗し得る経済力や軍事力があっ
たなら、社会の方が潰されてしまう。そのことは歴史上何度
も繰り返されてきたことです。
人は、〈オウム的な人〉を「あいつは異常(おか)しい」
と排除するけれど、それは、わたしたちの中の隠された “部
分” です。わたしたちの中のそれが、いつ共振して動き出さ
ないとも限らない。
「自分はあんなバカじゃない」とタカをくくっていると、
気が付いたら、そっちの側に入って、社会に潰されそうにな
っているかも知れません。社会を潰そうとしているかもしれ
ません。
どんな出来事も、他人事で済ませられ続けるとは限りませ
ん。
わたしたちの中には、小さな他人が居るのですから。
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