昨日、NHKの『養老センセイと “まる” 鎌倉に暮らす』と
いう番組を観ていた。
私が師と仰ぐ養老孟司センセイは(当然ながら、私は東大
医学部と縁もゆかりも無い。ただの一読者である)自著の中
で自嘲的に言う。
「本を書く人は、本を読む人の成れの果てである」と。
「読むこと」と「書くこと」に限らず、インプットが或る
量を越えたら、アウトプットに転ずるものである。
要するに、「溜まり過ぎたら溢れる」だけの事だろう。
私がこんなブログを書き出したのも、何十年も溜まったも
のが一杯になってしまった「成れの果て」なんでしょう。も
しかすると、「溢れた」のではなく、「壊れた」、「破裂し
た」ということかも知れない。中身の良し悪しなど無関係
に、出さざるを得ない状況になったんでしょうね。何にし
ろ、私の知ったこっちゃない。
人が「何かを言う」、「何かをする」。それは、自分の中
に入って来たものを、抱えきれなくなった時に起こる。
そこには、合理性など無いというのが本当でしょう。
何かを言ったり、したりすることは、たいてい社会の中で
ですから、誰もが合理性を装います。そうしなければ、まわ
りの人間から「狂気」、と見做されてしまいかねないですか
らね。例えば、『郵便配達夫 シュヴァルの理想宮』のよう
に。
『郵便配達夫シュヴァルの理想宮』 |
『シュヴァルの理想宮』は、後年 “芸術” と見做されたり
しましたが、作ってる最中は「あたまがおかしい」とされて
いたことでしょう。
そういう扱いを受けない為に、わたしたちの行為は合理性
を後付けしたり、既成の社会性の枠の中に修める形で表に出
されます。「理由があるから出す」のではなくて、「出さず
にいられないから理由を付ける」のです。
命を守る為の本能的な行動といったものは、生物としての
「理由」があると言っていいでしょうが、その行動が文化的
であればあるほど、合理性は薄れて行きます。ただ、合理化
するだけです。
市民マラソンに二万人が集まって、一斉に42.195kmを
走る・・・。私から見れば、「狂気」です。「他にすること
あるだろう・・」と思います。
その二万人の中の「それまでに溜まってきた何か」が、
マラソン大会で走らせます。それが何かは当人達にもわから
ないはずです。そういう行為は、人間として普通のことです
が、そこに「意味」や「意義」や「正当性」なんかを後付け
することには、欺瞞を感じます。
『何だか知らないけど、面白いからやっちゃってます。資
源をムダにして、興味の無い人に迷惑かけてると思いますけ
ど、大目に見て下さ~い!』とか言ってもらえると、「お互
い様だからしょうがないよね。よしよし。」という気にもな
ろうものですが、そんなこと誰も言わない。うっかりする
と、自分が何か素晴らしいことをやってるように思ってる。
でも、人間のやることは、たいてい「狂気」ですよ。
わけも分からずやってるだけですよ。
止むに止まれずやってるだけですよ。
それを “文化の枠組み”
込んで、自分と周りを納得させてるだけの事です。
少し前に、沢木興道老師の言葉を載せましたが、沢木老師
はこんな言葉も残しています。
《「座禅して何になるか」
う問いが第一、中途半端じゃ。テレビが発明されて何
になった? おまえが生まれて何になった? 何か
になるものは一つもない。》
こういうのもあります。
《人間ぐらいなやましい動物はない。複雑なエサを食い
やがって、何をやっておるのかと思えばダンスでもや
りおる。 妙な科学なんか発明して水素爆弾やらミサ
イルやら、
(どちらも、『禅に聞け』大法輪閣 より)
それから、山本夏彦氏がこんなことを言ってます。
《 何用あって、月世界へ
わたしたち人間は、わけも分からず生きて、わけも分から
ずいろんな事をしている。その事を「自分たちは、わけもわ
からず、仕方なしにやってるんだ」と意識していれば、まだ
マシなんだろうと思うけれど、何か「意義」があるかの様に
装うものだから、余計にムダ事が増えてしまう。
まぁ、いずれはその「ムダ事」もろとも、人間が滅びる時
が来るのだろうから、それでも良いと言えば良いのだけれ
ど、現在進行形で、自分のやった「ムダ事」に自分で困って
るというのが人間です。ちょっと、考えてみた方がいいと思
いますがねぇ。「溜めない」ように・・。
番組の最後で、養老センセイがこんなことを言ってました
ね。
ということをふまえて
「猫も人間も大して変わんないんだから、アレ(猫)で
いいんですよ・・・」
(このブログも大目に見て下さい)
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