昨日、ブログを書いている内に、結構重要なことがでてき
てしまった。
「〈死〉の側から〈生〉を見る」などということは、いま
まで思った事がなかったし、「〈死〉が “命の循環” のベー
スで、そこから〈生〉が現れて、〈死〉に返って行く」なん
ていう発想も持ったことがなかった。それが、急に出て来た
のです。
まったく突然に出て来た言葉だったけれど、その元になる
考えはあった。
「〈命〉というのは、〈空間〉のことではないか?」とい
うものです。
もちろん、ここで言う〈命〉とは、個体の命ではないし、
生物だけを指しているのでもない。無生物をも含めた 〈“存
在” する力〉とでも言うようなものです。
お釈迦さまが明けの明星を見て悟った時、「有情非情同時
成道」と言った。そして『涅槃経』には「山川草木悉皆成
仏」と。
どちらも「存在する〈すべて〉は仏である」ということと
捉えておいて良いと思うけれど、それなら「仏とは、〈空
間〉だろう」と思っても、あながち間違いとも言えまい。
「有情非情~」「山川草木~」という言葉を知ったのは、
もう30年ほども昔のことだけれど、「仏とは、〈空間〉だ
ろう」などと思いだしたのは最近のことで、これもブログを
書いている功徳でしょう。
そして、〈仏〉=〈空間〉という考えは、〈仏〉=《意
識》(“エゴを持たない意識”) になり、《意識》=〈命〉
と進み、昨日、あの様な文章を書かせた。
〈仏〉=《意識》=〈命〉=〈空間〉=〈タオ〉
=〈“存在” する力〉=〈霊性〉・・・
(他にも〈神〉とか「宇宙意識」とか・・・私は使わな
いけど)
そんな感じに、なんとなく自分の中でイメージがまとまっ
て来て、さらにこんな事を考えるようになっていました。
「〈空間〉そのものが〈命〉で、各々の空間をシャボン玉
のように、物質で区切ったのが “それぞれの命” であり、そ
の中で特に生物を〈生命〉と呼ぶ」と。
そこから昨日の話になった様なので、さらに、こう言わな
ければならない。
〈空間〉=〈死〉。
〈仏〉=〈死〉と。
日本では、死ねば「仏さん」になるわけですしね。辻褄は
合う。
もう一度書かなければいけない気がします。
〈仏〉=《意識》=〈命〉=〈空間〉=〈タオ〉
=〈“存在” する力〉=〈霊性〉=〈死〉・・・
(他にも〈神〉とか「宇宙意識」とか・・・もういいか)
どうも、個々の〈生〉
というものが、二次的なものになってしまいました。
「二次的」と言うと、価値の低いものの様なイメージにな
りますが、〈“存在” する力〉は〈存在〉を必要とします。
〈存在〉が無ければ、〈“存在“ する力〉の存在しようがあ
りません。二つは、不可分です。
〈生〉によってわたしたちは迷い、苦しむけれど、ただ
〈生〉のみによって "〈命〉を生きる” ことが出来るようで
す。
わたしたちは〈生〉の中で、〈“存在” する力〉に「浸
り」、「喜ぶ」為に、〈死〉から押し出されて来るのかも
知れませんね。
(なんか、えらいこと書いちゃってるなぁ・・・。
分かりにくいだろうなぁ・・。
何かの「信者」とか「スピリチュアル系」とか
思われたくないんだけどなぁ・・・。
「いまさら・・・」って思われるよなぁ・・・)
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