2018年3月5日月曜日

“命の循環”


 昨日、ブログを書いている内に、結構重要なことがでてき

てしまった。

 「〈死〉の側から〈生〉を見る」などということは、いま

まで思った事がなかったし、「〈死〉が “命の循環” のベー

スで、そこから〈生〉が現れて、〈死〉に返って行く」なん

ていう発想も持ったことがなかった。それが、急に出て来た

のです


 まったく突然に出て来た言葉だったけれど、その元になる

考えはあった。

 「〈命〉というのは、〈空間〉のことではないか?」とい

うものです。

 もちろん、ここで言う〈命〉とは、個体の命ではないし、

生物だけを指しているのでもない。無生物をも含めた 〈“存

在” する力〉とでも言うようなものです。


 お釈迦さまが明けの明星を見て悟った時、「有情非情同時

成道」と言った。そして『涅槃経』には「山川草木悉皆成

仏」と。

 どちらも「存在する〈すべて〉は仏である」ということと

捉えておいて良いと思うけれど、それなら「仏とは、〈空

間〉だろう」と思っても、あながち間違いとも言えまい。


 「有情非情~」「山川草木~」という言葉を知ったのは、

もう30年ほども昔のことだけれど、「仏とは、〈空間〉

ろう」などと思いだしたのは最近のことで、これもブログを

書いている功徳でしょう。


 そして、〈仏〉=〈空間〉という考えは、〈仏〉=《意

識》(“エゴを持たない意識”) になり、《意識》=〈命〉

と進み、昨日、あの様な文章を書かせた。


 〈仏〉=《意識》=〈命〉=〈空間〉=〈タオ〉

  =〈“存在” する力〉=〈霊性〉・・・

 (他にも〈神〉とか「宇宙意識」とか・・・私は使わな

  いけど)


 そんな感じに、なんとなく自分の中でイメージがまとまっ

て来て、さらにこんな事を考えるようになっていました。

 「〈空間〉そのものが〈命〉で、各々の空間をシャボン玉

のように、物質で区切ったのが “それぞれの命” であり、そ

の中で特に生物を〈生命〉と呼ぶ」と。

 そこから昨日の話になった様なので、さらに、こう言わな

ければならない。

 〈空間〉=〈死〉。

 〈仏〉=〈死〉と。

 日本では、死ねば「仏さん」になるわけですしね。辻褄は

合う。


 もう一度書かなければいけない気がします。


 〈仏〉=《意識》=〈命〉=〈空間〉=〈タオ〉

  =〈“存在” する力〉=〈霊性〉=〈死〉・・・

 (他にも〈神〉とか「宇宙意識」とか・・・もういいか


 どうも、個々の〈生〉  あるいは〈存在〉・〈有〉  

というものが、二次的なものになってしまいました。

 「二次的」と言うと、価値の低いものの様なイメージにな

りますが、〈“存在” する力〉は〈存在〉を必要とします。

〈存在〉が無ければ、〈“存在“ する力〉の存在しようがあ

りません。二つは、不可分です。


 〈生〉によってわたしたちは迷い、苦しむけれど、ただ

〈生〉のみによって "〈命〉を生きる” ことが出来るようで

す。

 わたしたちは〈生〉の中で、〈“存在” する力〉に「浸

り」、「喜ぶ」為に、〈死〉から押し出されて来るのかも

知れませんね。


 (なんか、えらいこと書いちゃってるなぁ・・・。

  分かりにくいだろうなぁ・・。

  何かの「信者」とか「スピリチュアル系」とか

  思われたくないんだけどなぁ・・・。

  「いまさら・・・」って思われるよなぁ・・・)



 


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