2018年3月8日木曜日
「祈る」
昨日のブログの最後の方に、「祈る」という言葉を使っ
た。3月11日も近いので、今日は「祈る」という事について
書いてみたい。
「祈る」という言葉は、たいていの場合「願う」というこ
とと、取り違えて使われているだろう。
日本人なら、神社仏閣で手を合わせて、自分の「願い」が
叶うようにと「祈る」。けれどそれは “お願い” であって、
「祈り」ではない。
去年、伊勢神宮について書いた時に、「神宮では “お願
い” をしてはいけないとされている」ことを書いたけれど、
その事からも「祈り」と「願い」が違うものだと分かる。
けれどその違いは区別しにくい。
「祈り」も、やはり “願い” ではあるからだ。じゃあ何が
ちがうのか?
私が思うに、「祈り」には “願い” というよりも、もっと
強い “乞う想い” が込められていると共に、それと相反する
“諦め” ・ “放棄” や、“感謝” がないまぜになっている。
極端に言えば、自身の〈存在〉を、より大きな《存在》に
投げ出すような想い、というものだろう。
私は、初詣で神社に参る時は、人並みに “お願い” をする
けれど、お寺や仏壇に手を合わせる時は、“お願い” はしな
い。なにがしか「祈る」。
けれども、決まった『祈りの言葉』は持っていなかった。
時には「ナムアミダブツ」と唱えてみたり、時には「世の
中が平和に落ち着いていますように」と呟いてみたり。
何にしろ、しっくりとする言葉が無かった。
「ナムアミダブツ」でもいいんだけれど、私は真宗の信者
ではないし、何かが違う。
お寺や仏壇や神社でだけではなく、いつでもどこでも相応
しい、自分なりの『祈りの言葉』が欲しかった。
自分が “今・在る” ことへの、畏怖と感謝の言葉が・・。
そして、自分なりに一応納得できる、それに相応しい言葉
が、この前生まれたので、「祈り」の形の例として書いてみ
たい。
【 すべての事に、“その事” としての祝福を 】
「祝福」といっても、“神の祝福を・・” ということじゃ
ないですよ。“その事” が “その事” 自身を、「祝福」するん
です。それが私なりの「祈り」です。
もちろん “その事” の中には、あなたも私も入っていま
す。スズメも、バラも、石ころも、太陽も、砂粒も。笑う事
も、泣く事も、生まれる事も、死ぬ事も。
こんなことを思うようになったのは、単に、年のせいなの
かも知れません。「年の功」なのか、「年の業」なのか。
何にせよ、「祈る」というより、「祈らされている」とい
う感が強いですけどね。
「祈る」なんて事を扱うと、「宗教臭く」なるのは避けら
れませんね。私の感覚では、ちょっと違うんですけどね。
(ちなみに、広辞苑で【祈る】を引いたところ、〈祈るこ
と〉とありました・・・。まぁ、辞書という性格上、仕方が
ないんでしょうねぇ。この手のことに踏み込むと、抜き差し
ならない事になってしまうと・・)
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