2018年3月23日金曜日

絶対の善。絶対の悪。


 ネット上にあふれる言葉や、テレビの中で発せられる言

葉。

 その中には、それがまるで「絶対の善」であるかのように

して、語られるものが少なくない。

 そこにはすでに、間違いようの無い「正しさ」が有って、

それを語る者が、その「正しさ」を微塵も疑っていないとい

う場面に出くわして、何とも気持ちの悪い思いをすることが

ょっちゅうある。

 「考えてしゃべれよ」と毒づきたくなる。



 「絶対の善」

 「絶対の悪」

 そんなものは存在しない。

 善と悪は相対的なものだということは、少し考えれば誰に

でも分かることだけれど、もしも「絶対の善」というものが

存在したら、その「絶対の〈善性〉」ゆえに、その「善」は

またたくまに世界を覆いつくし、世界は「善」だけになって

しまうだろう。

 だって「絶対の善」なんだから、どんな抵抗も受けずに、

すべての「悪」を退け、あらゆるところに行き渡り、世界を

平和と幸福でつつんでしまうだろう。

 けれど、そんなことは起こったことが無い。

 「絶対の善」は存在しない。



 では「絶対の悪」はどうか?

 もしも「絶対の悪」が生まれたら、世界は滅びることだろ

う。しかし、もしかしたら「絶対の悪」が世界を覆い、それ

が唯一のドグマとなって世界は安定するのかも知れない。

(それがどんな「安定」なのかは想像できないが・・・)



 「絶対の善」も「絶対の悪」も存在し得ないがゆえに、世

界は今のように在り続けているし、これからも、そう在り続

けるだろう。



 なんの後ろめたさも気後れも無く、自らの発言を「善」と

し、他者の「悪」を非難する人間の多さには、本当に驚かさ

れる。

 ネット上で匿名で語る者はまだしも、テレビなどで大真面

目に「善」を振りかざす神経には、吐き気すら覚えることが

ある。ホントに気持ち悪い。

 “自らの「善」を疑わないこと” ほどの《悪》は無い。



 そういう単純なことすら分かっていない人間が、テレビの

キャスターやコメンテーターをしていたりするのが、とても

恐ろしい。

 メディアごとにそれぞれの「意見」があってもいい。

 ただし、それを伝える時は、それが「意見」であることを

明確にしなければならない。「意見」を、単なる「ひとつの

情報」に忍ばせてはならない。

 『それがメディアの義務である』というのは、単純な理想

に過ぎなくて、ほとんどのメディアは、自分に都合の良い

「意見」を流すだけでしかない。



 新聞・テレビは「話、三分の一」。

 週刊誌・インターネットは「話、十分の一~百分の一」。

 私は、その程度の「信用度」だと思って見ている。

 事実が「向こうから」伝わって来ることなんて、ほとんど

無いだろうと・・。

 伝わって来るのは、“事実の断片” であったり、“修飾され

た事実” であったりして、真に受けると酷い目に会いかねな

い。

 〈情報リテラシー〉などと言ったりするけれど、結局のと

ころ「まず疑えよ!」ということに過ぎない。

 情報を疑い、自分の〈アタマ〉を疑う。

 言う側も、聴く側も〈アタマ〉が悪いんだということを、

肝に銘じて生きて欲しいものです。
 

 何が「正しい」かなんて、誰も知ってるわけが無い。知り

得ない。

 「正しさ」なんて、ある限定された条件の中でしか成立し

ないものです。

 「1+1=2」

 「1+1」=「2」なのは、〈「1+1」=「2」という

ことにする〉という約束(条件)だからであって、「1+1

=2」という現実があるわけではない。

 この世界には、同じものは二つと存在しない。

 この世界に「1」というものが存在したとしたら、それは

一つしかないので、「1+1」という状況はあり得ない。せ

いぜい「1+1に近いもの」ということぐらいだ。


 「正しさ」という希望を述べるのはいい。

 ただ、“申し訳なさそうにやってもらいたい” と思うけれ

ど、“当然だとばかり” の人間がほとんどなので、ハッキリ

言って、「ムカつく!」(私の「意見」はね)。



 

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