2026年2月1日日曜日

成功の秘訣

 
 
 このブログには似つかわしくないタイトルですが、
 
世の中の人は意外と〈成功の秘訣〉を知らないような
 
ので書いてみようと思います。
 
 
 〈成功の秘訣〉は単純です。
 
 「本気でやること」
 
 それに尽きます。
 
 
 ダイエットに何度も失敗する人がいますね。あと禁
 
煙とか禁酒とかいろいろありますが、ああいう失敗の
 
原因は決まってます。本気じゃないからです。もちろ
 
ん仕事などでもそうです。 
 
 人というものは、本気になるとそのことにのめり込
 
みます。他のことなんかそっちのけでそれに注力し、
 
それが生活の中心になってしまうものです。
 
 「◯◯ダイエットで上手くいかなかった・・」
 
 本気の人はそんな戯言など口にしません。それがダ
 
メなら次の手を打ち、目的を達成するまでやり続けま
 
す。本気とはそういうことです。
 
 
 「依存症になっている人もいて、そういう人はまた
 
違う」という意見もあるのでしょうが、依存症が考え
 
られるなら、そういう方面の専門家を訪ねて指導を仰
 
ぐというアプローチもするでしょう。本気とはそうい
 
うことで、とにかく目標を達成するまで引き下がりは
 
しません。
 
 「〇〇したい」というのが、意識の表面のつじつま
 
合わせでしかない人に成功はありません。そういう人
 
は、自分の本当の望みが分かっていないか、なんらか
 
の深層心理の働きで、自分の本当の望みから目をそら
 
す為に、気乗りのしない目的を掲げてお茶を濁して
 
いるのです。
 
 
 では本気になれることをどうやって見つけるか?
 
 やりたいことに本気になるにはどうすればいいか?
 
 
 その方法はありません。
 
 本気になれることに出会うとか、何かに本気になれ
 
るかどうかは運です。自分でどうこうできることでは
 
ありません。また自分が本気になれることが、必ずし
 
も自分にとって良いこととは限りません。破滅の道を
 
突っ走ることになるかもしれません(破滅も一種の成
 
功かもしれませんね)。本気になれることを探そうと
 
する人は、社会に化かされてるんですよ。
 
 
 このブログらしくなってきましたね。
 
 ホントに成功する人は、目標を持ち、成功しような
 
どと思いません。おのずと何かをやり続けてしまうも
 
のです。自分が「本気」であることにも気付きません
 
し、「成功」なんて言葉が出る幕はありません。その
 
おかげで「失敗」もありません。ただやっているだけ
 
なので、何が起きても「失敗」にならない。上手くい
 
かなくても、単に「停滞」や「つまづき」でしかあり
 
ません。
 
 
 本当に「成功」と言えることは、「気が付いたら面
 
白いことになっていた」ということでしょう。
 
 たとえ自分の「本気」が“徹底的にぐうたらでいる
 
こと”であったとしても、そこにそこはかとなく面白
 
い気分が漂っているのなら、それは「成功」と言える
 
かもしれません。
 
 
 「成功? 何それ?」
 
 そんな意識で生きられるなら、その人生は成功で
 
しょう。
 
 〈成功の秘訣〉は「成功なんて知ったこっちゃな
 
い」という無頓着さを持つことでもあるでしょうけ
 
ど、それを持てるかも運ですしね。
 
 
 この一文が誰かにとっての“そういう運”になるの
 
なら、このブログとしては成功でしょうね。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2026年1月31日土曜日

なぜ私はひとりでいるか?

 
 
 うちには奥さんがいるけれど、私は基本的にひとり
 
で過ごしています(仲はとても良いですよ)。引きこ
 
もりとかではないし、人と関わりたくないのでもない
 
けれど、ひとりでいることが自分にとって一番自然な
 
のでそうなってしまう。
 
 世の中には「ひとりは淋しい」「ひとりで居る人は
 
強い」「ひとりになるのは勇気が要る」とか言う人も
 
いるけれど、私は強さや勇気があるからひとりで居る
 
のではありません。そうせざるを得ないからひとりに
 
なります。性質的に、社会的であること(他律的な人
 
間関係を維持すること)の負担の大きさをごまかせな
 
いのです。
 
 そういう風に生きていると、結果的に社会を外側か
 
ら眺めることになり、中の人が気付けないことが分か
 
るので、中の人とは違った感覚や思考の傾向が出てき
 
ます。要するに、へそ曲がり・ひねくれ者・変人とい
 
うことになりますが、自分としては素直で真っ当な人
 
間だと思っています。社会にどっぷり浸かれる方が人
 
として異常だと感じます。
 
 
 そういう“社会にどっぷりな人”のことを、余語翠
 
巖老師は「人間の手垢をまともにやっている人」と表
 
現していました。社会の価値観・やり方などは人間の
 
本質的なものではなく、手垢のようなものだというわ
 
けです。
 
 
 社会の物事には手垢が付いている。物事の本来性を
 
手垢で汚してしまっているけれど、社会にどっぷりな
 
人はその手垢を価値だと疑わず、手垢を誇りさえす
 
る。汚れを身と心に纏っているのを、仏教では「染汚
 
(ぜんな・ぜんお)」という。
 
 別に社会的な価値が汚れだということではなくて、
 
価値というものに絶対性があると思いこんで、それに
 
考えや生き方が左右されてしまうことが汚れです。時
 
と場所によって変わってしまうようなものに囚われて
 
あるべき自分や生きることの本質を見失っては、生き
 
損ねる。
 
 
 社会というものは社会のために有るので、そこにど
 
っぷり浸かっていては、自分を見失い、しあわせに生
 
きられない。なので、真摯にしあわせを求めると、人
 
は社会から距離を置かざるを得なくなる。ひとりにな
 
る。
 
 じゃぁ、社会から距離を置いている私はしあわせな
 
のかと言うと・・・しあわせです。「自分のような者
 
がこんなにしあわせでいいのか?」とかたじけなく感
 
じるぐらいです。もちろん、社会の側から見れば「か
 
つかつで、しみったれてるやん」と鼻で笑われるよう
 
な姿でしょうけど、自分の人生です。自分が満足でき
 
れば問題ありませんし、これは絶対に失うことのない
 
しあわせです。
 
 
 しあわせだからひとりでいるのか?
 
 ひとりでいるからしあわせなのか?
 
 たぶんそれは同時でしょう。同時に相関相補してい
 
る。
 
 もしも、しあわせが社会との関わりの中にあるのな
 
ら、ひとりで居る人がしあわせであることは有り得な
 
いことになりますが、そんなはずがない。一つの命と
 
して、自分ひとりで生きていてしあわせでないはずが
 
ない。ひとりでしあわせ・・・それが命の基本である
 
はずです。むしろ、他者と関わることで、そのしあわ
 
せを見失いがちになる。
 
 
 他者と関わるのなら、まず自分が“ひとりのしあわ
 
”を確かめ、しあわせでいる状態で関わるのが望ま
 
しい。そうしなければ、自分と誰かでしあわせを汚し
 
合うことになってしまう。
 
 
 人は、まずひとりであるべきです。そうしてしあわ
 
せであるべきです。そうあって初めて、誰かと関わる
 
ことに喜びが生まれるでしょう。しみじみとした喜び
 
が。 

 
 
 
 

 

2026年1月24日土曜日

自分を置き去りに

 
 
 
 《 自由とは何もしたいことがないこと 》というよ
 
うな話を以前書いた。そのときには「身体的な欲求な
 
どは別だ」という断りも書いたと思うけど、その話を
 
一言で言える言葉が不意に浮かんだ。
 
 
 《 自由とは、アタマに誘導されないこと 》
 
 
 社会と関わらずには生きられないわたしたちは、社
 
会の影響で四六時中アタマに誘導されて思考し、行動
 
する。そしてそれを「自分の意志によってしている」
 
とまで思う。自分の意志でやっているのだから、自由
 
に思考し、行動していると自認するけれど、それは完
 
全にアタマに化かされている状態だ。
 
 
 このブログを書き始めた当初に書いたように、“自
 
意識”というのは社会が脳に浸潤してきたものだ。わ
 
たしたちの頭に浸透し、わたしたちの思考と感情を社
 
会的な方向へ誘導する。
 
 それは誰かが企んだものではない。
 
 人間関係の規模が大きくなると必然的に社会が発生
 
する。社会は人に有益な効果を生むので、人々は社会
 
を維持しようと、無意識に「社会は価値あるものであ
 
る」とお互いにの意識に刷り込み合う。それは社会の
 
規模がごく小さければ  コミュニティと呼ばれるよ
 
うな規模なら  良いことであるけど、ある規模を越
 
えると社会の有益さが個人の負担に見合わないものに
 
なる。それはどのような社会でも避けられない。社会
 
が持つ本質的な性質によってそうなるしかない。
 
 
 現代のような巨大な社会では、個人の負担はまった
 
く割に合わないとしか思えないけれど、わたしたちは
 
アタマに誘導されるので、その「割の合わなさ」に気
 
付きにくいようになっている。
 
 
 無神経な人間は、社会の誘導のままに、社会のシス
 
テムに暴力的ともいえる適応をして他者を侵害する。
 
 
 センシティブな人間や社会的能力の低い者は、自身
 
が社会の誘導によって傷ついているということを自覚
 
できないままに疲弊してゆく。
 
 
 前者はいわゆる“勝ち組”で、後者は“負け組”と
 
いうことになるけれど、どちらも社会に誘導されて自
 
分を置き去りにしていることに変わりはなく、表面的
 
(社会的)な幸・不幸の区別が有るとしても、そこに
 
人としての本当の自由は無く、しあわせも無い。
 
 
 こういうことを言うと「負け惜しみだ」と誰かが言
 
う。私にはその発想がアタマ(社会)の誘導によるも
 
のだと分かっているので、「不自由な人だな」と思う
 
だけだ。
 
 
 自分の中から湧いてくる欲求が、アタマの誘導によ
 
るものなのか、人としての本質からの求めなのか?
 
 そんなことをいちいち吟味することはできない。 
 
 宗教や哲学やスピリチュアルの教えなどでは、それ
 
を吟味して生きろというように言う・・・。 
 
 そんなこと無理ですよ。吟味しようとするのがアタ
 
マなんだから。
 
 
 私はこう勧めたい。
 
 * 人はアタマに誘導されるものだと、しっかりと認
 
   識すること
 
 * アタマの誘導から逃れることはできないと、肚を
 
   括ること
 
 * アタマの誘導も込みで、自分の欲求を面白がって
 
   しまうこと
 
 そうすることでアタマの誘導の縛りは解けてゆく。
 
 
 自分が自分を置き去りにしているのかどうか?
 
 自分のすることや社会の出来事を見て「クスッ」と
 
笑って、「ニヤリ」とできるのなら、まだ自分はここ
 
に居るでしょう。少なくとも、アタマに引きずり回さ
 
れてはいない。
 
 
 
 
 
 
 

2026年1月18日日曜日

無常を見ているのならば

 
 
 
 「諸行無常」
 
 この世界は一瞬も止まらない。すべてが変化してい
 
く。けれども、変化していくのを見ることができるの
 
は、その視点が変化することを免れているからだ。目
 
の水晶体や網膜がグニャグニャと波打ったりするのな
 
ら、何も見ることはできない。意識もそうだろう。
 
 
 「世界は変化し続ける。自分の心とからだも変化し
 
ていく」
 
 
 そう意識しているなら、その意識の本体は変化して
 
いかないものであるはずだ。つまりわたしたちの本質
 
は不変であり、絶対の安定を保っている。なので、こ
 
う表現してみる。
 
 
 「諸行無常 真心定常」
 
 (しょぎょうむじょう しんじんていじょう) 
 
 
 新しい仏教用語を作ってしまったけれど、何も遠慮は
 
いらない。2500年前から、仏教を学ぶ者が思い思いに
 
作って来たのが今に伝わる仏教用語なので、現代人が新
 
たに言葉を作ることを憚る必要は無い。
 
 
 この「真心(しんじん)」は、いわゆる「真心(ま
 
ごころ)」とは違う。「真心(まごころ)」は「良
 
心」や「本来あるべき心の働き」ということだけれ
 
ど、私が「真心(しんじん)」という言葉で定義した
 
のは、心の働きの起こる“場”のことだ。
 
 
 世界は動き続け変わり続け、それに連れて心も動き
 
続け変わり続けるけれど、それらを観ている“場”は
 
変わらない。これまでも映画のスクリーンなどに喩え
 
てきたことを仏教風に四文字熟語にしただけのこと。
 
 それだけのことだけれど、形が変われば使い勝手も
 
変わる。
 
 「わたしたちの意識の本体は映画のスクリーンのよ
 
うなもの」と言うのと、「真心定常」と言うのではか
 
なり違うので、受け取り方も違う。どちらがしっくり
 
くるかは人によるので、同じことをいろいろな表現で
 
表しておく意義は大きい。
 
 
 どちらにしろ、“わたしたちの本質は「無常」を観
 
ている「定常」の存在なのだ”という自覚を持てるな
 
らば、それで「安心(あんじん)」だ。どれほど心が
 
揺さぶられても、それを傍観していられるのだから。
 
(「あんじん」は仏教用語としての読み方です) 
 
 
 
 
 
 

2026年1月15日木曜日

徒然で草

 
 
 
 今日、吉田兼好の『徒然草』についての動画を見て
 
いると、“兼好は世の中と関わらなくなって暇だから
 
頭に浮かぶことを書いたのが『徒然草』になった”と
 
解説していた。なんだ、このブログと同じじゃない
 
か。
 
 
 「徒然」というのは、暇で手持ち無沙汰ということ
 
だけど、「草」はなんなのか?ちょっと調べてみたけ
 
どわからなかった。ということで自分で考えてみる。 
 
 
 「正法眼蔵」に《花は愛惜(あいじゃく)に散り、
 
草は棄嫌(きけん)に生(お)うるのみ》という言葉
 
が有る。「嫌っても草は勝手に生えてくる」というこ
 
とを引き合いに出して、「諸行無常、この世界に人の
 
思惑なんて関係ない」ということを戒める言葉だけ
 
ど、兼好も「草」を「勝手に出てくるもの」という意
 
味合いで『徒然草』という題にしたのだろう。
 
 しかし、今は21世紀。ネットの世界で「草」といえ
 
ば「笑い」です。今回のタイトルのように「徒然で
 
草」と書けば、「暇ですることなくて笑ってる😄」と
 
いうことになる。
 
 
 このブログが『徒然草』みたいなものなら、「手持
 
ち無沙汰で笑うしかない」というより、「手持ち無沙
 
汰だから笑ってしまう」あるいは「手持ち無沙汰だか
 
らこそ笑える」という姿勢でいたい。
 
 
 わたしたちは目的意識を刷り込まれているので、手
 
持ち無沙汰を嫌う。退屈を恐れる。それが人間の本性
 
であるかのように思っているけれど、本当は違うだろ
 
う。人の本性は、することが無い状況に安らげるはず
 
だ。アタマが不安になるのであって、本当はすること
 
が無ければ「あ〜、気楽だ」と寝転んでいられるもの
 
だろう。
 
 
 「徒」というのは「いたずらに」で、「然」は「し
 
からしめる」だから、「わけもなくそのようになる」
 
という意味でもあって、そこには意志が無い。目的も
 
コントロールもないので、なんの気負いも生まれな
 
い。「徒然」は草だ。気楽に笑っていられるはずだ。
 
そのはずなのだが、わたしたちは「徒然」だと不安に
 
なったり、罪悪感さえ持つように刷り込まれているの
 
で「徒然」を排除しようとしてしまう。
 
 
 「徒然」は草だ。この次「徒然」が訪れたら、そこ
 
に生えてくる草に触れられるよう、心にスペースを
 
とっておこう。
 
 
 
 
 
 

2026年1月8日木曜日

丁寧に

 
 
 昨日、兄の葬儀を済ませてきた。
 
 
 「人が死んでも悲しくない」
 
 自分はそういう人間なのに、こんなに泣くことにな
 
るとは思いもしなかった。
 
 とうに崩壊した家族の中で、自分と兄はちゃんと家
 
族だったのだと分かった。 
 
 
 歳を取ると誰でも思うだろう。人生はあっという間
 
に終わるのだ。
 
 
 だから、なんでもない暮らしの中の、そのときその
 
ときを丁寧に過ぎさせる以外に、しあわせに生きる方
 
法はない。
  
 
 過去と未来に関わらせずに、いまを丁寧に扱って下
 
さい。本当に。
 
 
 
 

2026年1月4日日曜日

わかっていること

 
 
 さっき義姉から電話が掛かってきて、兄が亡くなっ
 
たそうだ。
 
  一昨年肺ガンの治療をして、その後また一度入院し
 
たあと、今回肺炎で入院していた。二日前に本人から
 
電話があって「そんなに大したことはないから、数日
 
で退院になるだろう」と笑っていたが、病状が急変し
 
たらしい。「大したことはない」と言いながら、本人
 
は「これはダメかも」という予感があって、めったに
 
連絡を取り合わない私に電話をしてきたのだろうと思
 
っている。
 
 
 七つ年上の兄は、父親を亡くした時にまだ幼かった
 
私を不憫に思ったようで、父親代わりとまではいかな
 
いが、可愛がってくれた。優しい兄だった。
 
 
 うちの奥さんは普通の人だから、知らせを受けて、
 
「人間わからないなぁ」と悲しんでくれたけれど、な
 
にもわからないことはない。誰でも死ぬ。
 
 兄自身も、一昨年に見舞いに行った時に「自分が死
 
ぬのは何も恐くない。ただ嫁さんと息子のために治療
 
してる」と言っていたし、その気持ちはよくわかる。
 
 世の中の標準からすると少し早いから、義姉さんと
 
息子のことを思えば無念さはあるだろうけれど、「仕
 
方がないな・・」と思っているのではないだろうか。
 
 
 これで私の親兄弟はいなくなった。「人が死んでも
 
悲しくない」という私でも、さすがに少し悲しいけれ
 
ど、私が兄を悲しがらせる側にならなかったのは、兄
 
への礼を尽くしたことになるのではないか。
 
 
 《 わたしたちは死から生まれてきた 》
 
 死は命の母体。ひと時の「生きる」を終えたら誰も
 
がみんな、死へ帰る。
 
 
 兄は言っているんじゃないだろうか。
 
 「お先に。お前たちはもうしばらく面倒な思いをし
 
ときな」
 
 
 それが私の勝手な妄想でもいいではないか。
 
 誰でも死ぬんだから、そういう態度で受け止めるの
 
がふさわしいだろう。
 
 
 兄貴、お疲れさん。いろいろありがとう。