2017年7月16日日曜日

フンコロガシにあこがれる?


 「砂漠」「ピラミッド」と続いたので、今日は “スカラ

ベ”(フンコロガシ) の話でもしましょう・・・、といって

も、エジプトのスカラベのことはよく知らないので、日本の

スカラベ  つまり、糞虫のことを。(ズルですね)


 以前、山で昼ごはんを食べていた時に、赤いセンチコガネ

が飛んできて、私の足にとまりました。

 センチコガネというのは、日本に居る糞虫の一種で、哺乳

類の糞を食べて育つ虫です。センチコガネという名の通り、

カブトムシやカナブンなどと同じ、コガネムシの仲間の甲虫

ですが、メタリックな光沢を持つ、たいへん綺麗な虫です。


 この時は、丁度おにぎりを食べていて、足の上にとまった

センチコガネを見ながら、手に取ろうか、止めとこうか、し

ばし考えていました。なにせ相手は糞虫です。どこかで、何

かの糞の上を、這い回ったり、頭を突っ込んだりしてきたは

ずですし、その後、手(脚)を洗って来たとも思えません。

そして、私の手にはおにぎりが・・・。


 しかし、センチコガネが向こうから訪ねて来てくれたので

す。例え、食事中であったとしても、この美しい虫を手に取

らずにはおれません。捕まえて、しばらく、しげしげと眺め

ました。

 糞虫とはいえ、彼らは身体を清潔にするように心掛けてい

るので、糞などはどこにもついていません。見た目は、きれ

いです・・・。(きっと、私の手の方が細菌だらけでしょ

う)

 でも、ほんとに綺麗な虫です。

 派手さはないですが、その深い金属光沢は見事です。アル

ミに、赤紫の焼き付け塗装を施したような輝き・・・。この

虫のからだは、糞から作られているのです。眺めていて、改

めて驚いてしまいます。「この世界は、なんと不思議なんだ

ろう・・・」。


 実のところ、わたしたちのからだも、間接的に糞を食べる

ことで作られています。

 植物が無ければ、わたしたちは食べ物にありつけないわけ

ですが、その植物が養分とするのは、他の生物の排泄物です

から、わたしたちは間接的に糞を食べているわけです。


 センチコガネの様な生き物を見ていると、どうしても「美

しさ」とか「汚さ」とか、「清潔」とか「不潔」といったこ

との意味を考えずにいられません。

 「感染症」というものは、人間だけに限らず、ほとんどの

生物にとって大きな問題です。「清潔さ」という感覚は、感

染症の危険を避ける為に必要で、「清潔さ」に気を配ること

を疎かには出来ません。が、しかし、わたしたち日本人の

「清潔」に対するこだわり方は・・・。ビョーキですね。


 日本人の「清潔」は、感染症を避ける目的を遥かに通り越

して、病的です。ここでも、“手段” が “目的" にすり替わっ

ています。歯ブラシの柄や髪をとかす櫛、小学生の使う下敷

きが “抗菌” であることに、どんな意味があるのでしょう?

 もはや、感染症を怖れているのではなく、“菌” や “ウイ

ルス” という「他者」を、とにかく排除したいだけです。


 「他者」を排除したがっているのは、わたしたちの “エ

ゴ” です。“エゴ” が自身を守る為に、たとえ目に見えない 

“菌” であっても、素性の知れないものなどと関わりを持つ

ことを嫌がっているわけです。


 「別にそれでいいじゃないか。素性の知れないものと関わ

らない方が、安全だ」


 確かに、そうではあるんですが、わたしたちはすぐに度を

越すのです。


 自分の身体の常在菌を殺してしまって、かえって病気にな

ったり、病気という「他者」を排除したいが為に、不必要な

治療をしたり、過剰に薬を飲んだりするのです。「治療」や

「薬」も本来は「他者」であることは忘れて。


 こういった時には、“エゴ” は身体の立場を無視していま

す。「身体のことなど、どうでもいい」といった状況です。


 「とにかく、気に入らない奴は排除する! その為には、

手段は選ばない!」


 “エゴ” にとっては、自分の身体さえ「他者」です。

 病気をしたり、老いぼれたり、トイレを我慢出来なかった

りする厄介者なのです。


 人は古来から、自分の身体を「厄介だな」と思ってきまし

たが、文明が進んで、さまざまな事をコントロール出来る様

になって、自分の身体の「厄介さ」をさらに強く感じだした

様です。

 アタマはバカですから、“エゴ” 優先の生き方が、身体を

苦しめることが分かれないのです。“身体” が滅んでしまえ

ば、アタマも道連れになるのに・・・。


 逆から見れば、《 “身体” にとって “エゴ” はとてつもな

「厄介者」です 》何が正しいかもよく知らないくせに、

「あれやこれや」「なんだかんだ」と、分かったように命令

を下して、“身体” を支配下に置こうとするのですから。

 生半可な軍事知識しか無い指揮官が、戦場で部下を動かし

たら・・・。

 わたしたちの “エゴ(アタマ)” は、常に指揮官気取りで 

“身体” に指図します。それだけにとどまらず、他人も世界

さえも支配したがります。


 「でも、ほんとのウイルスは、お前(エゴ)だよ」


 “身体” は、いつもそう言ってはいるのでしょう。大

抵、“エゴ” には聞こえませんが。


 「消えて無くなれ」とまでは言いませんが、“エゴ” には

もっともっとおとなしくしてもらう方が、人は健全に生きら

れるでしょうね。そうすれば、センチコガネの様に、わたし

たちも輝きを放つことが出来るのかも知れません。





2017年7月15日土曜日

ピラミッドを寝かせてみれば。 弱肉強食?


 「食物連鎖のピラミッド」って、見たこと有りますよね?

 ピラミッド型の図の頂点にライオンが居て、その下にシマ

ウマとかガゼルなんかが居て、さらに下に草原の草の絵が描

いてあったりするやつです。


 あれと、全く同じ形で、会社とか官僚とか軍隊とか、あら

ゆる組織がピラミッド型の図で表わされますが、「もういい

加減に辞めたら?」と、この頃思っています。

 組織を辞めるのでは無いですよ、「組織をピラミッド型で

考えるのを辞めたら?」ということなんです。
 

 ああいうピラミッド型の図を見ると、例えば、会社なら頂

点が社長で、「社長が一番偉い」という捉え方をしがちです

し、官僚なら事務次官がトップであると見ます。

 でも、こういう見方は事実に即していないと思うんです

よ。


 《 食物連鎖のピラミッドを立てて考えるから

   ヒエラルキーが生まれる

   これを寝かせて考えなくてはならない

   事実、食物連鎖は

   地球上にほぼ水平に広がっている 》


 実際の食物連鎖を考えると、立てたピラミッド型より、寝

かせた同心円で考えた方が、本質に合っているだろうと思い

ます。

 円の中心にライオンが居て、その周りにシマウマが・・、

といった感じで。(実際はもっともっと複雑ですが)


 なんでこんな話を始めたかというと、本当は生物の世界に

も、人間の社会や組織にも、“トップ” というものは存在し

ないからです。ですが、あのピラミッド型を見せられると、

頂点にいる者が強大な力を持っている様に思ってしまうんで

す。でも、本当は違います。

 確かに、全体を取りまとめたり、大きな影響をもたらす者

は居ます。しかし、それは役割分担であつて、「偉い」とか

「強い」とかいうものではないのです。

 ピラミッド型では “トップ” に位置づけられる者が、平面

の同心円では “要(かなめ)” といった位置づけになりま

す。それはそれで、大きな意味を持つポジションですが、

「上」ではないのです。


 自然界の食物連鎖も、人間の社会も、さまざまな関係性の

サークルが、無限に複雑に重なり合って地球上に広がつてい

ます。その中では、その世界の変化によって、しょっちゅ

う、あちらこちらに “空き” が出来ます。その時、その “空

き” の形(求められる性質)に合っていて、尚且つ最も近く

に居る者が、そこに収まることになりますが、それは「トッ

プに立つ」とか、「○○を従える」ということではなく、

「そういう役割だ」という事です。


 「弱肉強食」という言葉がありますね。

 あれは、「強い者が、弱い者の肉を食う」という事です

が、逆の見方だって出来るのです。

 ライオンは、シマウマが居なければ、食べる物が無くて死

んでしまいます。(他の草食動物とかは居ないことにして)

 シマウマは、ライオンが居なくても生きて行けます。(ほ

んとは、そう単純でもない様ですが)

 ライオンはシマウマに依存している訳ですが、シマウマは

ライオンに依存してはいません。

 どっちが、強いんですか?


 企業を考えてみましょう。

 現場の従業員が、ある程度の人数辞めたり、休んだりした

ら、仕事はたちまちストップしてしまいます。

 社長が、突然死んだり、病気で入院しても、仕事に根本的

な影響は出ません。

 どっちが、偉いんですか?


 もちろん、社長は必要です。そのポジションは大事です。

 でも、「上」に居るのではないのです。せいぜい、「中

心」に居るのです。


 わたしたちは、これまでに、あのピラミッド型の図をさん

ざん見せられてきて、“トップ” “ダウン” のイメージを深く

植え付けられてしまっています。「お殿様と平民」「総理大

臣と国民」「CEOとパートタイム」とか。(CEOって何?

日本にそんな言葉要るのかよ?カッコイイ気がするだけでし

ょ)

 でも、あの図はウソです。

 ウソと言って悪ければ、間違いです。
 

 わたしたち人間は、地べたで生きているので、俯瞰して物

事を見るのが苦手なのでしょう。だから、ついあんなピラミ

ッド型を立ててしまったのでしょう。


 ピラミッドは寝かしましょう。

 そして、それぞれは、それぞれの状況に応じた役割分担で

あって、「階層など無い」のだと知りましょう。


 岡林信康さんの、「山谷ブルース」という歌に(古いです

が・・)

 ひとは 山谷を 悪く言う

 だけど 俺たち居なくなりゃ 

 ビルも ビルも道路も出来ゃしねぇ

 世間恨んで なんになる

という一節が有りますが、当時も今も、この詞は「底辺の人

間が居て、世の中を支えている」といった捉え方をされるだ

ろうと思います。でも、「底辺に居る」のではないのです。

すべての人間が平面に広がっていて、それぞれの関係が集約

される点が、あちらこちらにあるということです。


 ピラミッド型で組織を捉えて、ヒエラルキーを保持するの

は、軍事組織だけでいいと思います。それ以外の組織では、

上位の者による、横暴や搾取を生むだけです。


 ピラミッドを寝かせても、実際の組織の形は変わりません

が、人々が平面的な関係として組織を捉える様になれば、物

の見方が、かなり良い方へ変わるように思うのです。



 話は変わりますが、「ジュラ紀・白亜紀には、恐竜が地上

を支配していた」とか、「現在は、人間が地球を支配してい

る」とかいう言い方が、テレビや本でもよくありますね。あ

れ、気に入らないんですよね。


 べつに、「恐竜が支配していた」わけでないし、「人間が

支配している」わけでもない。「ちょっと、目立ってる」だ

けでしょ。

 当時は、「恐竜が目立つ様な役割だった」。今は「人間が

目立つ役割をしている」だけです。

 「人間が支配している? 笑わせてくれるよ!」と、他の

生き物たちは思ってるんじゃないでしょうか。


 自分たちがどうしたら良いのかも分からずに、右往左往し

て、国や民族の間で騙し合ったり、いがみ合ったり、戦争し

たり。妄想してムダな事ばっかりに資源を浪費して、世界中

にゴミの山を築いている。

 「それで、地球を支配してるだって? 

  おまえらホント。アタマ悪いよ!」

 私が他の生き物なら、そう言います。


 人間は、他の生き物たちと上手に関係を作れず、地球の上

であちこち転げまわって、他のものを壊したり殺したりし

て、ジタバタ・ドタバタしているばっかり。

 もうそろそろ、どうにか出来ないもんでしょうか・・・。



 

2017年7月11日火曜日

ブラック企業という “砂漠”


 今日、近所の公園のケヤキに、キクラゲが生えているのを

見つけた。低い所なら採って帰るところなんだけど、残念な

がら4mぐらいの高さで、木も細くて登れないので諦めたん

ですが、ふと、このキクラゲがこのケヤキに辿り着くまでの

事を想像し、そこから考えが膨らんでいきました。



 街中の公園で、キクラゲを見つけることはあまり無いの

で、この近くに元になるキクラゲがあるのでは無さそうで

す。であれば、このキクラゲの胞子は少し離れた所から飛ん

で来て、このケヤキに辿り着いたのでしょう。

 このキクラゲに限ったことでは無く、キノコやカビなどの

あらゆる菌類の胞子は、数限りなく空気中を漂っています。

 その中で、キクラゲの胞子が、何年か前にこのケヤキに偶

然辿り着いたところ、枯れていて自分の生育条件に合った枝

だったので、成長を続け、りっぱなキノコになったのでしょ

う。つまり、自分に合った職場に巡り合ったのです。

 このケヤキの枝には、他にも沢山のキノコの胞子が辿り着

いた事でしょう。その中には、シイタケやシメジやツキヨタ

ケや、ヒラタケやマツタケも有ったかも知れませんが、その

中で最もこのケヤキに適していたのが、キクラゲだった。

 どんな生物も植物も、自分に合ったところでなければ、生

き続けられません。最低条件が整っていれば、そこで生き始

めはしますが、成長し続けられる条件が足りなくなれば、結

局死んでしまいます。

 枝先に並んでいるキクラゲを見上げて、「人間も一緒だな

ぁ」と思いました。


 気が付いたら世の中を漂っていて、辿り着いた所で生き始


めるのだけれど、そこが自分に最適の場所かどうかは分から

ない。最初は良くても、環境が激変してしまえば生きられな

い。

 人間は自分の意志で移動することが出来るので、少し状況

が違いますが、やはりそれも表面的なことに過ぎず、本質的

には同じ事でしょう。

 状況の変化によって、移動を余儀なくされたりするのを

“運” と言って差し支えないでしょうが、自ら動くのもやは

り “運” です。

 今までいた所から「移動しよう」と思うのは、自分の外側

の状況が変化したか、自分の内側の状況が変化したかのどち

らかですが、その状況の変化は自分の意志によるものではあ

りません。「移動しよう」という意識の変化を、“意識” に

よって生み出せるわけがありません。「『移動しよう』とい

う意識の変化を生み出そう」という意識を生み出す “意識” 

は、どこから来るのか・・? 無限遡求です。GAME OVER.


 人間も、自分の意志で移動するのではありません。わたし

たちも、あのキクラゲと変わりません。この世界を漂い、た

またま辿り着いた所に自分の仕事があれば、とにかくそこで

働き、暮らして行きます。

 今、「自分の仕事」と書きましたが、キクラゲがケヤキの

枯れ枝で生きることは、「仕事」です。

 彼は、「ケヤキの枯れ枝を分解する」という仕事に巡り合

い、自分の性質にピッタリだったその仕事を、まっとうしよ

うとしているのです。

 立派な子実体(キノコ)をいくつも作っているという事

が、この仕事が彼にピッタリだったという証明です。

 世界中を無数の胞子や細菌やウイルスが、またタンポポや

柳のように風に乗る植物の種が、さらには昆虫や鳥たちが自

分の仕事に巡り合うまで空を巡っています。もしも、自分の

仕事に巡り合わなければ、それぞれが ”個体の死" を迎えま

す。

「今回は、自分の仕事は無かったな。じゃぁ、さよなら!」

そんな感じでしょう。

 彼らの場合、その個体の性質は死ぬまで変わりませんが、

わたしたち人間は寿命が長く、身体だけでなく、頭の中身も

変化するので、その性質が変わります。その為、その性質の

変化に合わせて仕事も変えなければならなくなります。です

から、「今回は、自分の仕事は無かったな」で終らず、次の

場所へと移動しなければなりません。面倒ですね。


 キノコたちの場合、その仕事場の自分に適した分だけ働い

たら終りですが、人間は自分に適した分が無くなっても、そ

こに居続けようとすることがよくあります。

 仕事が無いという事は、環境が合っていないという事でも

ありますから、そこに居続ければ死んでしまいます。ところ

が、人間は ”学習” という事が出来ますから、環境に合わせ

て自分を変えようとします。それが適応能力の範囲内であれ

ば、万々歳で「成長した!」ということになるわけです。

 でもね、その「成長」は結局のところ、元々の自分の性質

の範囲に止まっているのです。自分の能力の範囲内とも言え

ます。「どんな事でも学習すれば出来る」わけではないです

よね。当たり前です。人それぞれ資質と、その発展させられ

る限界は決まっています(その限界がどこかは、誰にも分

かりませんが)。ウサイン・ボルトと同じ訓練をしても、同

身体を持っていなければ、あのタイムを出す事は出来な

い。誰にだって理解出来ることです。

 ところが、これがもっと一般的なレベルの事になると、

「やれば出来る」と言い出すのです。

 「やれば出来るんじゃないかな?」というのが、理性的な

判断だと思うのですが、事が “一般的な” ことなので、自分

からも周りからも、「出来て当たり前」という同調圧力がか

かって来ます。これが鬱陶しいんですよね。諸悪の根源の一

つです。


 ブラック企業の経営者の理屈がこれです。

 「やれば出来る」

 「出来て当たり前」

 「出来ない奴は無能」

 私に言わせれば、その者の資質に見合った質と量の仕事を

与えて、最大限の結果を得る様にするのが経営者・管理者の

仕事です。

 この場合の「結果」とは、「目標の達成と意欲の継続」で

すが、ブラック企業の経営者や無能な管理者は、「目標の達

成」だけを見て、「意欲の継続」を見ません。その結果、意

欲の無い人間は、良い仕事は出来ませんから、その企業のパ

フォーマンスは徐々に落ちて来ざるを得ません。

 無能なのは、経営者の方です。


 砂漠に苗を植えて、「さっさと、実を付けろ!」と言う様

なもので、バカの極致です。

 ところが困ったことに、その “苗” が、その砂漠で実を付

けようとするのです、「自分に能力が無いと、思われたくな

い!」とか思って。どうせ、「枯れたら、次のを植えりゃい

い」としか思われていないのに・・・。


 人間は自分で移動できるんですから、「ここは、砂漠だ」

と気付いたら、さっさと他の所へ移ればいいんですが・・。

 「他へ行ってもいいんだよ」という追い風が、あまり吹か

ないんですよね、この国では特に。


 結果、一つ二つ実を付けたり、時には一つの実も付けない

まま枯れてしまつたり、引き抜かれて捨てられたりしてしま

う。


 砂漠からは逃げなきゃダメ!

 砂漠には近付いちゃダメ!

 ほとんどの人間にとって、そこは生きる場所ではない!


 わたしたちは、キノコの胞子やタンポポの種の様に、辿り

着いたところでそのまま消えてしまっても「まぁ、そんなこ

とは普通だ」なんて思えないでしょ?

 キノコの胞子には数十億、タンポポの種にも数百の分身が

居るけれど、わたしたちには分身が居ません。

 この身一つだから、ほんとに大切にしなければいけませ

ん。(人として)無能で強欲な連中の “自分の中の砂漠の緑

化事業” に付き合って、命を吸い取られる様な事があっては

なりません。喜ぶのはそいつらだけで、“世の中の砂漠の緑

化” にはなりません。わたしたちが、蒼々とした葉を広げる

ことが出来なければ、世の中に ”緑” が拡がることはないの

ですから。


 「公園のキクラゲ」から始めた話が、「ブラック企業のバ

カ経営者」の話になるとは思いませんでした。

 わたしたちの「アタマ」は悪いのですが、その中にはとて

つもなく「アタマが悪い」奴が、結構います。

 ホントーに、気を付けて下さいね。

 特に、若い人はね。

 (このブログが「砂漠に吹く風」になることを願いつつ)






2017年7月8日土曜日

九州の大雨に考える。


 九州北部で酷い水害が起きました。

 あれだけの量の雨では、土地の保水力も河川の排水能力も

遥かに越えてしまっていて、土砂崩れや川の氾濫は必至だろ

う。十数人の犠牲者がでている様だし、多くの家が壊れ、流

され、インフラが被害を受け、住民の方々は先の事が何も考

えられない状態だろうと思う。

 気の毒だと心から思うが、目の前の問題を、淡々と一つず

つ片付けて行くしかない。

 災害の時は特にそうだけど、生きるという事自体が、そう

いう事だと思う。あせらずに、ひとつひとつの出来事を柔ら

かく受け止めていってもらえたらな、と願います。


 今回の様な災害が起こると、すぐ「防災インフラの整備は

出来ていたのか?」というような事を言い出す人がいるもの

ですが、今回の雨量を受けて、無事でいられる所は無いでし

ょう。人為で対抗できるレベルを遥かに超えている。

 これ程の雨に対抗しようと思えば、「住みたいところに住

むこと」が大きく制限されたり、景観や環境を壊し、普段の

生活に不便が生じる様な防災設備を造るようなことになるで

しょうね。


 現代に住むわたしたちは、生活の利便性を高めるために、

様々に手を加えて土地を大きく改変し、大きなインフラのネ

ットワークを作り上げている。もちろん、いろいろな災害に

対する対応策を取っているけれど、ひとたびその想定を越え

てしまうと、融通が利きにくく、完全な復旧にかなりの時間

が掛かってしまう。


 今回、大きな被害が出ている日田市には、何度か行った事

がありますが、美しい渓谷の有るところで、車で通り抜けて

行くだけでも、水に恵まれている所だと分かります。それ

は、裏を返せば、水の災害が起り易いという事でもありま

す。

 どんなところでも、土地の恵みと危険は表裏一体です。

いことだけを受け取ることは出来ません。


 山というものは、地震に伴う地殻の隆起と、火山活動によ

って造られます。そして、雨と風によって風化し削られてゆ

きます。もしも、雨風による風化が無かったら(山崩れが無

かったら)山は無限に高くなり続けますし、扇状地などの平

坦地が出来ないために、人が住める場所は極端に少なくなり

ます。また、山から流れた土砂や有機物が、海の環境を多様

にして生物を育み、人はその恩恵も受けている。火山噴火、

地震、大雨など、災害がわたしたちを苦しめる一方、住む場

所を生み出し、土地を肥沃にするなど、過去の災害がわたし

たちが暮らす為のベースになっています。

 わたしたちは、災害に命を奪われたり、暮らしの基盤を破

壊されたりして苦悩するわけですが、災害がもたらすものに

よって暮らして行けるとも言えます。


 災害に遭うことは、大変だし、辛い事です。しかし、日本

に住んでいると、大抵の人が一生の内に一度ぐらいは何らか

の災害に遭う事でしょう。それは、気候風土のもたらす恵み

とバーターです。(運が良ければ、“恵み” だけいただけま

すが)
 

 「災難に逢う時節には、災難に逢うがよろしく候」と、良

寛さんは言いましたが、被災地に行ってこんなことを言えば

殴られるでしょうね。でも、良寛さんの言葉は本当だと思い

ます。阪神淡路大震災の当日、私はこの言葉を思い出して、

気持ちが楽になりましたからね。


 “修行” という言葉がありますが、これは特別に何かをす

ることではありません。武道家や職人が技術を高めてゆくと

いった事もありますが、良寛さんのようなお坊さんにおいて

は、「生きて行く中で、日々の出来事を丁寧に受け止めてゆ

く態度を練る」と行った事で、さらに言えば、生きて行く事

そのものです。

 “修行” という言葉は “修めて行く” と書きます。

 日々起こる出来事を “修めて行く” のです。

 平凡な出来事も、大変な出来事も、わたしたちの日々の中

に、ただ起こって来ます。起った事は受け止めるしかありま

せん。起こったのですから。

 どんなに受け入れがたい出来事でも、起ってしまった以上

仕方が在りません。時間は戻せません。

 ただ、ひたすらに、ひたむきに「自分の中に、修めて行

く」。


 「日本人は、災害の時も取り乱したりしない」と、外国の

方が驚きますが、それは神道と仏教が、意識しない程深く日

本人の中に根付いているからでしょうね。(当たり前すぎて

意識もしないから、「自分たちは無宗教」だと思うのでしょ

うが、ほんとはどっぷり、神道・仏教なのでしょう)

 災害の展示場のようなこの国に永く暮らしてきたことが、

神道を生み、仏教を深く根付かせた理由なのでしょう。


 「仕方がない」という言い方は、“コントロール願望” が

強く、“効率信仰” の現代では否定的に扱われる言葉でしょ

う。でも、「仕方がない」事はいくらでもあるし、「仕方が

ない」という出来事の受け止め方は、人を安らかさに導く力

を持っています。

 「仕方がない」という言葉を否定する態度は、前向きだと

も言えますが、それ以上に傲慢で、強欲という毒をもってい

ます。


 「仕方がないことは、仕方がない」のです。

 起ってしまった事は、起ってしまったのです。その上で、

そこから、また今日が始まります。次の今を生きて、次の今

を修めて行きます(生きます)。
 

 平凡な日であっても、大変な日であっても、人が、今、こ

の時に出来ることは、僅かだし、一度に一つしか出来ないの

は同じです。

 ひとつひとつを、あせらず、丁寧に、修めて、歩んで行

く・・・。そこに、落ち着きと安らぎが生まれて来ると思い

ます。


 「明日は我が身」というのは、「あれは我が身」というこ

とでもあるでしょう。「他人事では無い」というのは、「自

分の事である」ということでしょう。

 「教訓にする」ということにとどまらず、寄り添う気持ち

が持てるのなら、それはお互いにとって幸運な事でしょう。



 


 

2017年7月5日水曜日

人間関係が壊れる喜びを知ろう!



 人間関係に悩む人は多いですね。


 と言うより、人の悩みはそればっかりなので、「わたした

ちの悩み・苦しみは、ほとんどが人間関係だ」と、以前に書

きました。それ以外は、病気やケガなどによる具体的な身体

の苦痛しかないと。(『自分でしあわせを探さなければなら

ない子供達の為にⅡ』 2017/4 )

 なぜ、そうなのか? ということについて、あらためて書

こうかなと。



 もしも、自分以外の人間がいなかったら、悩みというもの

は生まれるでしょうか?

 あなた一人で生きているとしたら、何か悩みを持つことが

あるでしょうか?

 答えは、「NO」です。

 一人で生きているとしたら、人間関係はありませんから、

当然人間関係の悩みはありません。しかし、人間以外のもの

との関わりは無くなりませんから、そこには様々な問題が起

こって来ます。それらは、衣・食・住に関わる事と、病気・

ケガ・老いに関係することです。


 衣・食・住・病気・ケガ・老い。

 これらのことは、“悩み” となるでしょうか?


 生きて行く為には、衣・食・住 を確保しなければなりま

せんが、自分一人であれば、世界中のどんな物も、誰の所有

でもありません。自分一人が、好きな様に手に取り、使い、

食べることが出来ます。なんの気兼ねも要りません。もちろ

ん、手に入れる為の労力は要りますが、それだけのことで

す。


 “病気・ケガ・老い” は悩みの種でしょうか?

 病気をしても、ケガをしても困るのは確かです。なんとか

しなければなりませんが、意識する事は、「ただ、ケガを治

す。病気を治す」ということだけで、「早く治して、仕事に

行かないと・・・」とか、「いつまでも寝込んでいては、家

族に迷惑をかける・・・」などということは考えません。仕

事も家族も無いのですから、そこにあるのは、“苦痛・不快”

という、身体的な問題だけです。

 さらに、“老い” ですが、自分の身体が老いて来ても、周

りに比較対象が居ません。自分が若かった時と較べることは

出来ますが、自分しか居ない状況で、人は “老い” を悩むで

しょうか? 私は、無いと思います。“老い” というものは、

やはり、周りに居る若い人と較べることで、悩みとなるのだ

と思います。

 歩くのが遅くても、力が弱くなっても、物覚えが悪くなっ

ても、自分一人なら、気兼ねなくマイペースでやれますか

ら。

 シワが増えても、シミが増えても、肉がたるんでも、頭が

ハゲても、誰にも会わなければどうでもいいことです。
 

 ケガも、病気も、老化も、生きて行く上で、様々な対応力

を低下させます。確かにそれは困ることですが、しか

し、“悩み” にはならないと思うんです。それらは、問題で

はありますが、“問題” に止まるだろうと思います。“悩み” 

になることはないでしょう。


 「いや、ケガしたり、病気したり、年老いて身体が上手く

動かなくなったら、悩むだろう」

 そんな気がするでしょうが、それは今、わたしたちが人に

囲まれ、たくさんの人間関係の中にあるから生まれて来る想

いです。自分一人だったら、一切の人間関係が無かったら、

人は「ただ生きるだけ」で、悩みはしないと思うのです。

 もちろん、そんな経験はしたこと有りませんし、経験した

人を見つけるのも難しいでしょうから、「絶対」とは言えま

せんが、自分で心理的なシミュレーションをすると、そうい

う結論になります。生きて行く事に対する “不安” はあって

も、“悩み” は無いだろうと。
 


 22年前の阪神淡路大震災の時。私は、住む所とほとんど

の家財を失いました。

 着の身着のままで、手元に僅かなお金が有るだけでした。

 そのお金も、震災直後ではほとんど役に立ちません。何も

売っていませんし、電車もバスもタクシーも動いていませ

ん。自分の身体ひとつでなんとかするしかない状況・・・。

 最低限の水分と食料、寒さをしのぐ為の物、トイレの問題

を何とかする様に考えて、動き、肉親や友人と連絡を取ろう

とする・・・。

 それらの事だけに集中して、発生からの三日間を過ごしま

した。

 その時、もちろん不安もあったのですが、それ以上に、そ

れまでの人生で持った事が無いような “充実感”を感じたの

です。

 ほとんど全てを失い、家族の安否も分からず、明日どうな

るかも分からないし、これから自分の人生がどうなって行く

のか想像もつかない・・・。

 そんな中にあって、感じた不思議な “充実感”。
 

 三日目の夜。身を案じて探しに来てくれた友人の車で、被

災地を離れました。

 風呂に入らせてもらい、食事を取り、ひとごこち就いて、

地震の現場を動き回っていた三日間の事を考えた時、自分が

充実感を感じていたことに気付きました。「あれは、いった

い何だろう?」。

 すぐに、答えが出ました。

 「ただ、今日を生きる」。その為だけに、頭と身体を使っ

ているという究極にシンプルな状況には、「アタマ」がしゃ

しゃり出る場面は無いのだと。

 「ただ、今日を生きる」という、人間の本質的な欲求だけ

に頭と身体を使っていた事で、「自分が生きている」「命が

生きている」という感覚が、ダイレクトに感じられたのだろ

うと。

 風呂に入り、頭を洗うと、足元を真っ黒な水が流れまし

た。身体を洗い、湯船に浸かると、体中にお湯が滲みまし

た。

 体中に小さなケガをしていて、髪の毛の中も身体中も、土

ぼこりでジャリジャリになっていたのです。しかし、風呂に

入るまで、身体の汚れも、ケガも全く気が付いていませんで

した。そんな事、取るに足らなかったのでしょう。

 非常事態で、アドレナリンや β‐エンドルフィンなんかが

頭の中に沢山出ていたのでしょうが、自分が普段アタマを悩

ませている事が、本質的には「取るに足りないこと」だと実

感した出来事でした。


 震災後、生活が落ち着いて来た頃に、「もう、物はいらな

いな」と思って、「最低限の物だけ持って暮らそう」という

気になったんですが・・・、あれから22年。気付くと、家

の中には “物” が溢れかえっています・・・。


 街の中で、人と関わりながら暮らしていると、ミニマルな

生活はなかなか難しいですね(でもまぁ、車も携帯も持って

いないし、現代の日本人としては、持ち物が少ないのではな

いかと思いますが)。人と関わっていると、どうしても較べ

る気持ちが湧いてきますし、社会的な不安や不満を持たせる

ような情報が、次から次へと入って来るので、“安心・安

全・満足” を求めて、どうしても余分な “物” や “事” に手

が出てしまいます。あれだけ、“物” と “事” の過剰さを思い

知ったのに・・・、社会に対する免疫はとても不安定です。



 〈社会(人間関係)〉が、わたしたちに “悩み” をもたら

す〈ウイルス〉であり、わたしたちの〈アタマ〉がそれを培

養する〈培地〉の役目を果たしています。そして、わたした

ちの〈アタマ〉で増殖した〈ウイルス〉は、再び〈社会〉へ

と吐き出され  しかも、変異して!  別の人間の〈アタ

マ〉へ入って行きます。

 わたしたちの意識が、自分の本質的な部分から離れ、〈ア

タマ〉にシフトしている間、わたしたちのエネルギーは〈ア

タマ〉に注がれ続け、〈ウイルス〉を増殖させて、“悩み” 

という症状を悪化させます。

 もっとも、〈社会(人間関係)〉のすべてが “悩み” を引

き起こす〈ウイルス〉ではありません。

 その中には、わずかばかりですが〈アンチウイルス〉も存

在していて、わたしたちは運が良ければ、それを取り込んで

免疫を強化することが出来ます。釈迦や、老子、荘子、イエ

スやソクラテスやスピノザらの先賢達が残し、その価値を知

った多くの人々が守って来た《言葉》が、それです。


 〈アンチウイルス〉に出会い、取り込めるかは “運” に任

せるしかないのですが、“悩み” から解放されるには、それ

しかないと言っていいでしょう。

 このブログは、その “運” のひとつであると思っているの

ですが・・・、誇大妄想でしょうか・・・。




2017年7月2日日曜日

思い上がっちゃ、いけないよ

 「思い上がっちゃ、いけないよ」。


 なんか、寅さんが言いそうなセリフですね。


 「見上げたもんだよ、屋根屋のふんどし」。

 今なら、都心の高層ビルを見上げて言うかも知れません。

 「見上げたもんだよ、ビル屋の強欲。思い上がっちゃ、い

けないよ」(「強欲」じゃなぁ。なにかイイ言葉ないかな

ぁ)。


 寅さんはともかく、私は高層ビルなんかを見ると「思い上

がってるな」と思います。と同時に「病気だな。必死だな」

とも思います。べつに、あんな物にほとんど必要性は無い。

金をまわす為に、無理やり建てるわけでしょう。

 出来るだけ大きなビルを建てると、それにからんで多くの

金がまわる。

 多くの金がまわると、上前をハネる分も増えて、儲かる。

 「病気」でしょ? 「必死」でしょ?

 まぁ、人が「病気」でも知ったこっちゃないけど、あれど

うすんのよ? いずれは壊さなきゃいけないでしょ? 

   百年後に、誰が壊してくれるの? ちゃんと壊せるの?

 その費用を誰が出すの? 事業者も建築会社も政治家もそ

んな話してくれたことないよ? ホントにどうすんの?


 そんなこと考えると「思い上がり」というより、「人で

なし」だと言いたくなるね。必要もない額の金を稼ぐ為に、

とんでもない粗大ゴミを後の世代に押し付けて死んで行く。

 犯罪行為ですよ。法律より経済の方が力が強いから、見過

ごされてるけど、ロクでもないことしてると思いますね。


 人間、「思い上がる」と身体を無視して、放って行きます

からね。ブラック企業の経営者や管理者が、従業員という   

"身体” を忘れて好き放題するように。(自身の身体も忘れ

てるでしょうけどね。自分で何をしてるのか分かっていな

い)


 思い上がると、命と切れてしまう。

 では、生きているのは、何だ? 




 「思い上がる」というのは、アタマが主導権を握るという

ことです。そして、身体から搾取し続ける。生命力を吸い取

り続ける。(マトリックスですね)

 個人でも、社会でも同じことで、人(命)は放ったらかし

にされ、「思い」だけが幅を利かせるけれど、放ったらかさ

れた人が死んでしまえば、「思い」も当然消える。「いった

い、何してんの?」。

 その上に、粗大ゴミまで残されちゃあ、たまったもんじゃ

ない。


 渋谷のスクランブル交差点とか、梅田の歩道橋の上なんか

に、30分おきにメッセージを掲げたらイイと思うよ。


 「ちょっと落ち着いたら?」 


 何を怖れて、何を欲しがって走り回ってるの?


 ほんと?

 それ、ほんと? 

 ほんとに要るの?

 ほんとに怖れるべきことなの?

 誰が言ったの?

 他人が言ったの?

 自分の中の他人が言ったの?

 自分が言ったの? ほんとに?
 

 人がしあわせに生きるだけの事に、こんなに、こんなに、

こんなに、エネルギーは要らないし、動き回る必要も無い。

 「思い違って、思い上がって、思い込んで」振り回されて

るだけだよ。


 渋谷の街の中でも、立ち止まって見てみれば、樹の葉が風

に揺れてるだろうし、見上げると青空を雲が流れて行くだろ

うし、それは千年前とあまり変わらない光景。

 ところが、その空を遮ってどこまでも埋め尽くすビル群。

 そんな手の込んだ(手の込み過ぎた)大道具がなければや

っていけないなんて、ほんとは情けないことなんじゃない?

 とんでもなく、バカなんじゃない?


 「ちょっと落ち着いたら?」

 「思い上がっちゃ、いけないよ」


 ほんとにね。

 本気でね。

 「しあわせって、いったい何だろうか?」って、深く考え

みればいい。

 ほとんどの人が、「しあわせって何か?」って、しみじみ

と考えてみた事がないんでしょうよ。

 二十代ぐらいで、“しあわせについて” 考えるべきなんだ

ろうけど、考えないように躾けられてるんだろうね。

 あるいは、“しあわせについて”、 上っ面の概念を刷り込

れてるんだろうね。 だから、深く考えてみたりしない。


 「しあわせになるのに、理由はいらない」と書いたのは、

随分前になるけれど、自分でしあわせについて考えてみなけ

れば、何も始まらない。

 ”「しあわせになるのに、理由はいらない」理由”も書いた

けれど、世の中が見せる “しあわせ” を、疑いながらも信じ

ようとする自分に嫌気がささなければ、何も変わらない。

 
 一度、「アタマ」を脇にどけて、頭を使ってみよう。

 どこかの、誰かに、刷り込まれた “良いこと” は、ほんと

に「良い」のか?

 他のどこかの、他の誰かが差し出す “良いこと” も、ほん

とに「良い」のか?

 自分にとって、ホントに、ほんとに、本当に「良いこと」

は? 

 自分自身の中の、“嘘のつけない自分に” 訊いてみる。

 ほんとうにしあわせなことって、“大袈裟” で “非凡” な事

ではないだろうと思うよ。


 しあわせに生きる事は、そんなに大層な事じゃない。

 というより、生きてること自体が、“しあわせ” と一体に

なってるんだと・・・。

 考えて、感じて、試してみて欲しいんですけどね。







伊勢神宮で、アタマを下げる。




 今年の三月に、伊勢神宮に行きました。


 小学校の修学旅行以来で、二度目の「お伊勢さん」だった

んですが、修学旅行の時はバスに酔ってしまい、最悪の状態

で伊勢神宮に着いたので、参拝したかどうかも含めて、なん

の記憶も残っていません。なので、実質的には今回が始めて

の参拝のようなものです。 

 初日に「外宮」を訪れ、一泊してから「内宮」に参りまし

た。

 神宮の中にある、いくつもの「宮」を回ったのですが、ど

この宮も、普段は神様など意識もしてなさそうな、若い子達

や外国人でいっぱい。日本人の高齢者より多いぐらいで、

面白かったですね。

 そんな人たちに混ざって、一つ一つの宮を回りながら、

「二礼・二拍手・一礼」を繰り返したんですが、その内に

「これは一体なんだろう?」と思い始めました。

 「神様」がそこに居られるわけですが、私たちには “そ

れ" が何かは、分かりません。ただひたすら、「神聖な」

(神様を「神聖な」というのも変ですが)「奉り」「敬うべ

き」ものとして、何度も何度も手を合わせ、頭を下げまし

た。
 「わけの分からないものに、頭を下げて回る」

 自分だけではなく、いつもは「神も仏も無い」生き方をし


ているであろう若い子や、おそらく違う信仰を持っている外

国の人までもが、わけも分からず頭を下げる。

 ホントに「おもしろいなぁ~」と思いました。


 わたしたちは、“すべて” ではないにしろ、さしあたって

は「わけが分かったつもり」で生きています。その中で、一

応の根拠を持って自分を立てて暮らしています。

 また、人に頭を下げる時にも、何らかの根拠があった場合

に、「相手に頭を下げてよい」として頭を下げます。

 しかし、伊勢神宮では誰もが「わけも分からず」頭を下げ

て回ります。(近所のお宮さんでも頭を下げますが、伊勢神

宮は「最高に格式が高い」わけなので、とてもじゃないが無

礼な振る舞いは出来ません。やはり、「わけも分からないま

ま」に・・・)


 みんなが「わけも分からないまま」、当然の事として頭を

下げる。「いったい何に? なんの為に?」。

 
 自分も頭を下げているうちに、最後にはこう思い始めまし

た。

 〈 何か分からないものに頭を下げ続けることで「この世

界は、自分には分かり得ないものに満ちている」、「自分と

いうものを立てる事は、怖る怖るすべきことである」という

謙虚さを、身体で覚えるのだ 〉と。


 普段のわたしたち、特に現代のわたしたちは、「分からな

い事」に取り囲まれて生きているのに、アタマにそそのかさ

れて「分かったような」顔をしている。そのアタマによる

「思い上がり」なり「錯覚」なりを、身体に分からせる。そ

の為に伊勢神宮や出雲大社に代表される「神社」というもの

がある。


 「“人” より前に、この世界はある」。それは当然、人の

力と理解(意味付け)をはるかに越え、抗しきれないものと

として存在する。その世界を「神様」と呼び、怖れを持って

接することで、身の程に合わせた、実際的な生き方から、は

み出さないようにするのだと。そのことを、日本人は古代か

ら、骨身に滲みて知っているのだろう。

「“神(自然)” をないがしろにすれば、身を滅ぼす」と。

 
 人は古代から、アタマ優位、アタマ主導の生き方をしてき

たのでしょう。そして、それによって何度も痛い目に合って

来たのでしょう。そのため人間以前からの存在を、「神様」

として畏れ敬う様になった。

 アタマ優位の害を知り、アタマを下げ(アタマの影響力を

下げる)、自分を立てない様にする。それによって、自然に

自分を生きられるようになるのでしょう。

 
 ところが、「神様」に頭を下げながら暮らしていても、い

つのまにか〈自分を「神」とする人間〉が出てくる。そこ


に、より良い暮らしを生み出すものが在るように思い、人々

は従うのだが、その度に大きな災厄を生み出して、人は我に

返り、あらためて「神様」に頭を下げる。

 その繰り返しを日本人は続けて来た様に思います。

 現代においては、“エネルギー”(化石燃料と電気)とそれ

が形を変えた “経済” が、「神」となっている様で、人々は

その前にひれ伏し、従います。それがより良いものをもたら

す様に見えるので・・・。


 何度もアタマに誤られながらも、その一方で「神様」を祀

り続けてきた日本人・・・。


 近頃、パワースポットが人気で、伊勢神宮はその中でも最

高のパワースポットとされるので、若い子達も訪れるのでし

ょうが、あの「宮」の前で、ほんとうに「アタマ」を下げた

のなら、パワーを得られるでしょう。それは、「神様」につ

ながっている自分の、本来持っていたパワーが、遮るものを

かれて出て来るのでしょうが・・・。


 若い子達や、外国人までが神宮に訪れて、「わけも分から

ず」頭を下げる。それは、「わけの分かったもの」がもたら

してくれた事が、決して本質的な幸福ではなかったと、みん

ながうっすらと感じ始めたからかも知れません。

 みんなが、そんなにハッキリと意識して、神宮を参るわけ

ではない。でも、その意識の底には「今の在り方は、何かお

かしい」という感覚があるのでは?


 「外宮」「内宮」ともに、「正宮」には『お願い事はせ

ず、ただ謙虚な気持ちでお参り下さい』とありました。

 ほんとに、ただアタマを下げるだけなのです。

 日本中に数知れないほど「神社」がありますが、その多く

は ”御利益” を謳います。ところが「神宮」は、御利益を求

めてはいけない。ただ、奉るだけ。


 『日本書紀』には、「神宮」のことが書かれているわけで

すが、実質的には「なにか分からない」まま、日本人は「神

宮」を守り続けて来たのです。

 「なにか分からない」ものに、ただただ頭を下げることを

二千年も続けて来た・・。これはもの凄い事だと思います。

 そして、日本人の智慧だと思います。


 「思い上がっちゃいけないよ」と。


(私は、特に “ナショナリスト” じゃないですよ。念のた

め)