2017年8月6日日曜日

「疑い」という “地獄”

 
 政治家や官僚の不正疑惑とか、芸能人の不倫疑惑だとか、

毎日の様にマスコミが騒ぎ立てる。

 わたしたちも日常的に、友人・知人が「自分の事を嫌って

いるんじゃないか」とか、「子供が知らないところで悪さを

しているんじゃないか」とか考える。

 ヒマを持て余すと、「アメリカ政府は、地球に宇宙人が居

る事を隠している」やら「世界はフリーメイソンによって、

支配されている」やら、言い出す。

 人間は、何故、こんなに疑うことが好きなんだろう?




 まあ、無理もない部分もある。

 世の中は、“嘘” と “隠し事” に満ち満ちていますからね。

 人を信じて、何度となく酷い目に合いながら育つのですか

ら、疑う事が習い性になって不思議じゃない。

 とはいうものの、ちょっと度が過ぎちゃいませんか?

 状況によっては、疑う事にメリットがある場合もあるでし

ょうが、今の世の中を見ていると、疑う事によって個人にも

社会にもデメリットをもたらしている事の方が多い様に感じ

る。「疑う事の恐ろしさ」というものを、もう少し意識して

おかなければいけないんじゃない?
 

 「疑い」というものは、とても恐ろしい。

 「疑い」は地獄を生み出す。

 《 地獄のほとんどは、「疑い」によって出来ている 》

 と言っても間違ってはいないでしょう。
 

 何が、それほど恐ろしいか?

 その一つに、疑う方も疑われる方も「一度芽生えた “疑

い” を、完全に消し去ることは、不可能に近い」ということ

があります。特に、人間関係の中での「疑い」は、まず消す

ことは出来ないばかりか、何十年でもくすぶり続け、下手を

すれば、さらに大きくなってしまいます。


 最近、「チカンの冤罪」を怖れる男性が増えている様です

が、あれなんかも、満員電車の中で「チカン」の疑いを掛け

られた時、その疑いを晴らすことの困難さを考えると身の毛

がよだつからでしょう。


 もう一つは、「疑い」の中から、不安・怒り・嫉妬といっ

た、ネガティブな感情が次々と生まれて来ることです。

 「疑い」から、喜びや安らぎが生まれる可能性はゼロで

す。疑った瞬間に、人は不幸へ真っ逆さまに落ちてゆく。



 とはいうものの、何ひとつ「疑い」を持たない人が生き延

びて行くことは、たぶん不可能でしょう。先にも書きました

が、世の中は “嘘” と “隠し事” に満ちています。何も疑わ

ない人がスンナリ生きて行ける程、世の中は “品行方正” に

は出来ていない。「疑わなければ地獄に落とされる」かも知

れない。

 「疑えば地獄に落ちる」

 「疑わなければ地獄に落とされる」
 

 「じゃぁ、どうしろと言うんだ」
 

 「信じなければいい」と思います。



 「おい。ふざけてんのか」

 という文句が飛んで来そうですが、こんな風に書くのは仔

細あってのことです。


 どんな仔細があるのかというと、“疑う”=”信じない” で

は無いと考えているからです。

 “信じない” は、”疑う” と “信じる” の間にある、ニュー

トラルなものだと思っているのです。
 

 人が「疑う」時、その人は自分を信じています。

 “自分” を、“自分の考え” を、「正しい」と思えばこそ人

を「疑う」事が出来ます。人を「疑う」より前に、自分を

「信じる」「正しい者とする」からこそ、「疑い」を持てま

す。


 その自信は何処からくるのでしょう?

 なに故、自分に自信が持てるのでしょう?
 

 別に、自分に自信があるから人を疑うのでは有りません

ね。むしろ自分に自信が無いからこそ、人を疑います。

 人を疑う事で、「自分はその逆の立場の人間だ」と思える

し、自分が “自分の信じたい側の人間” だと、自分自身と

周囲に示すことが出来る。人を「疑う」事は、自分を正当化

する為の詐術、あるいは幼稚な自己保身でしかありません。


 《 勘ぐりは下衆 》とは以前書きました。



 「疑う」事は、人を不幸にします。でも、人として様々な

危険から身を守る為には「疑う」事も必要です。


 ということで、「信じない」様にしましょうというわけで

すが、「他人を信じない」という事ではありません。「他人

も自分も信じない」様にするのです。


 人は皆出来損ないです。嘘つきです。隙あらば欲望に負け

ます(隙だらけです)。自分が大事です。ろくなもんじゃあ

りません。他人を信じられないのに、なぜ自分は信じること

が出来るんですか?

 そもそも自分が疑わしいのに、それを棚に上げて他人を疑

う資格があるのでしょうか?


 「お互いに出来損ないだよね」

 そういう腹の括り方をしていれば、「人を疑う」なんて面

倒臭くてやってられません。結果、不安・怒り・嫉妬といっ

たイヤな思いから距離を置くことが出来ます。さらに、「信

じない」ことが物を考える基本であれば、考えなしに動いて

騙されたり、ケガをしたりする事が減ります。何よりも、人

が可愛く見えてきます。(自分も含めて)人を許せるように

なります  お互いにろくなもんじゃないんですから。 


 そして、人とその世の中が気楽に見られるようになりま

す。

 人は出来損ないですから、人がやってる “世の中” も出来

損ないで当たり前です。ちょっとやそっと馬鹿な事があった

ところで驚くに足りません。(かなりバカな事でも、苦笑い

して溜め息ついて「やれやれ」と・・・)
 

 「じゃぁ、『何も信じるな』と?」



 いいえ。信じたい時は信じていいです。

 ただし自分の為にではなく、「思いやりの意味」で・・。

 (疲れたので、続きはこの次に)




2017年8月1日火曜日

輪廻という「愚」


 毎日、暑くて暑くて、パソコンに向かう気になれずに、し

ばらくブログを書いていませんでした。

 パソコンって、熱いでしょ? あまり触る気になりませ

ん。でも、まあそろそろブログを書こうかなと。



 この前、「輪廻」の話を書きました。「私には関係ない」

とか「魂が生まれ変わったりしない」とか書いたわけです

が、ああいう事を書くと、科学的でない事は信用しない人間

の様に思われるでしょう。まぁ、そうなんですが、その一方

で、人に話したら「あたまがおかしい」「何を言ってるのか

理解出来ない」と思われそうな事も考えています。で、ずい

ぶんと迷ったんですが、今回は私なりの「輪廻」の話を書い

てみます。



 最初に言っておきたいのは、「あなたは私で、私はあなた

だ」ということです。

 いきなりヤバイですが、その理由はおいおい明らかになり

ます。



 随分と前の話ですが、ある日こんなことを考えていたんで

す。

 「もしも、自分ではなく、他の人に生まれていたらどうな

っていたんだろう?」

 ありがちな考えですよね。誰でも時々は考える事だと思い

ます。

 自分より幸せそうな人と較べて羨ましく思ったり、自分よ

り不幸そうな人と較べて「よかった」と思ったり。私もそん

な風に考える事が多かったんですが、この時はそれまでと違

いました。



 「もしも、自分がキムタクに生まれていたら?」(その頃

は、キムタクの絶頂期でした)

 「そうしたら、キムタクの身体を持って、キムタクに生ま

れて来るんだから、それは俺じゃなくて、やっぱりキムタク

だな。逆に、キムタクが俺に生まれていたら、それはキムタ

クではなく、俺だな」

 「ということは、俺がキムタクに生まれているとしても、

キムタク本人にはそんな事分からないまま、キムタクとして

生きているわけだから、〈 あそこに生きているキムタクは

俺だ 〉ということも “有り” だな」



 分かってもらえます? このニュアンス?

 やっぱり、分かりません?

 なんども、読み返してみて下さい。きっと、分かって来る

と思うんですが。



 前に、一緒に働いていた女性に、この話をしました。その

人は双子の妹なので、私はこんな風に説明しました。

 「あなたが、お姉さんに生まれて、お姉さんがあなたに生

まれていても、別に不思議じゃないでしょ?」

 そう言うと彼女は、「それ、分かる!分かる!」と頷いて

いました。

 たまたま、“自分” だから〈自分〉だけど、“あっち” だっ

たら〈あっち〉なんだと。



 分かります?

 分からないかも知れませんが、先へ進みます。



 「あそこに生きているキムタクは俺だ」と思った私は、さ

らにこう考えました。

 「だったら、俺がマイケル ジャクソンでもイイわけだ」

 「だとしたら、自分が吉永小百合だと言うこともできる」

 「もっと言うと、ヒトラーも徳川家康もコロンブスもケネ

ディも歌川広重も、今、アフリカの何処かで飢えて死にかか

ってる赤ん坊も、広島の原爆で殺されてしまった小学生の女

の子も、今朝うちの前を学校へ歩いて行った男の子も、幼な

じみのアイツも、窓の外のスズメもハチも、電信柱も瓦も石

ころも、みんな俺かも知れない。いや、みんな俺なんだ。」

 そう思った瞬間。私の中に、宇宙のすべてが “〈宇宙とい

う大きなひとつの魂〉のそれぞれの現れ” であるという、大

きなイメージが生まれました。その、始まりから終わりまで

の宇宙のすべてが・・・、

 「ぜ~んぶ、自分だったんだ。 過去から未来まで、全

部!」



 この、イメージというかビジョンは、今もって変わってい

ません。それで、何がどうなるわけでもありませんし、それ

ぞれが、それぞれを、それぞれに生きるだけだという事に変

わりはありません。けれど、あれ以来こんな風に思います。

 「キムタクは、俺の代わりにキムタクをやっている。ご苦

労さん」

 「浅原彰晃は、俺の代わりに浅原彰晃をやっている。大変

だな(俺はやりたくない役回りだという意味です)。ご苦労

さん」

 「零戦でアメリカの軍艦に突っ込んで行った若者たちは、

俺の代わりに突っ込んだんだし、あれはあの時の俺だっ

た・・・。広島に原爆を落としたエノラ ゲイの乗り組み員

も、俺だったんだ・・・。」

 「今、数千メートルの海の底の暗闇で、小さな有機物のか

けらを食べているエビも、俺なんだな・・・」

 そんな風に思うと、すべての人や物に対して、得も言われ

ぬ愛しさや、そうあらなければならない事の悲しさを感じま

す。(でも、すぐにアタマが邪魔しますけどね。私、ただの

人ですから)



 ついて来られていますか?

 ついて来られなくても、あなたのせいではありません。

 今、「あなたは、あなた」ですから、私ではありませんか

ら。こんな話、共感も理解も出来なくても、それはそれで良

いわけです。



 今、あなたはあなたを生きている。

 今、私は私を生きている。

 でも、今、パソコンのキーボードを叩いているこの私は、 

“私に生まれた、あなた” かもしれませんよ。
 

 私にとっての「輪廻」とは、「宇宙」という〈ひとつの

魂〉の中を、「自分」という意識が、無限に「自分」を探し

続けている事です。

 「“愚か” だから輪廻する」というより、「“輪廻するこ

と” が愚か」なんです。

 「『自分』は無いのだ」と「自分」を諦めた時、人は輪廻

から解き放たれて、宇宙という〈自分〉に返るのでしょう。
 

 「あの自分」でも「この自分」でもないのだと。

 「自分」の「分」が余計なんだ、分けてはいけないんだと

知ること。

 分けられないんだと知ること。


 「そんなこと言うけど、『自分』はここに有るじゃない

か」

 そう言われるかもしれません。

 確かに、形として「自分」はここにいますし、「自分」と

いう意識もありますから、わたしたちは「自分」を生きま

す。ですが、その「自分」の存在意義は分からないでしょ?

 だから「自分」であることに不安を憶えてしまう。その不

安を消したいが為に、何か「自分」に価値をもたそうとする

のですが、「自分」に価値を与えたりすることは出来ませ

ん。人の約束事の中に、“絶対的な価値” はありませんから

(しょせん約束事です)。そして「自分」に価値を与えよう

とするほど、“命” に目が向かなくなってしまいます。 


 仏教の中に、「帰命」という言葉がありますが、「命に帰

る」と書くわけです。

 “大きな命” の中にあって、「自分」という妄想に凝り固

まっているその場所から、元の “命” に「帰れ」ということ

で、「帰命」と書くのでしょう。  「帰る」といっても、

もともとその中にいるわけですが。
 

 どれほど「自分」を生かそうと力を注いでも、「自分」を

守る為に強くなろうとしても、「自分自身」を認める為に誇

れるモノを手にいれても、一時満足感を得ることが出来るだ

けで、結局は徒労に終わります。「自分」という意識

は約束事に過ぎず、実態は有りませんし、身体もしばらくの

間かたちを保っているだけですから、いずれ「何の為に生き

て来たのだ」という虚無感に襲われることになります。


 ですから、生まれてしまった以上仕方がないので「自分」

にお付き合いして、「ただ、自分を生きる」程度にしておく

のが賢明だろうと思うのです。


 「自分はおまけ」

 「人生はおまけ」

 大の大人が「おまけ」に必死になっているのは、みっとも

ない。みっともない以前に、本筋からずれている。

 他にしなければならない事があるでしょうと。


 こういう「頭がおかしい」と思われかねない事を書いて、

私は何がしたいというのでしょう?
 

 戦争・犯罪・資源の浪費と環境破壊・精神疾患・物理的ま

た化学的な要因による病気・搾取による富の偏在と差別。

 こういった事はすべて、人間が「自分」に不安を感じ、

「自分」という幻想を維持しよう・強固にしようとする為に

生まれて来ます。

 ですから人間が、《「自分という意識」は “幻想” に過ぎ

ない。「自分の肉体」も “物質循環の一時的な状態” でしか

ない 》と自身を意識すれば、世の中もちょっとぐらいマシ

になるんじゃないかと。まあ、そんな独り言です。


 いろいろなメディアでよくあるのが、「成功の条件」やら

「成功の秘訣」やらを、“成功した人に訊く” という企画で

すが、「成功」って何ですか?

 100年ぐらい前の日本の片隅で、農家に生まれて農家に育

って、生まれた土地から出ることもなく、百姓をやって50

歳ぐらいで人生を終えた人達なんかが沢山居たはずですが、

それは「成功」ですか?「失敗」ですか? 「成功」も「失

敗」も関係ないでしょ。


 仕事で、遊びで、“生きる事の本質” とは関係ない事に血

道を上げて、資源とエネルギーをムダ使いしながら、お互い

に慰め合い、いがみ合う・・・。それが、数千年にわたって

人間がして来た事です。それで、少しばかり優位に立つと、

「成功した」などと言う。子供のする事です。(子供に失礼

かもしれない)


 「生まれて来たから、ただ、しばらくの間生きる 」

 それだけの事なんだから、それに安住していれば良い。

 ちょっとばかりは楽しませてもらいながら。

 出来れば「自分」を忘れて、〈命〉に遊びながら、遊ばれ

ながら・・ただ生きる。その方が、ほんとは幸せだろうと。



 以上で、今回のお話は終わりです。

 「頭がおかしい」でしょうか?

 自分では、「おかしくない」と思っています。それどころ

か、この話を「おかしい」と思う方が、「アタマがおかし

い」と思っています。

 「アタマ」には気を付けて下さい。


 《 「正しい」とは、

     「そういうことにしておけば気が済む」

                        ということである 》


 ということです。




 
 
 

2017年7月21日金曜日

亡霊のまま、生きて死ぬ


 死から生へ、生から死へ。

 輪廻を信じる人は、どのくらい居るのでしょうか?

 私は、輪廻を信じていませんが、生物学的には、ある個体

が死ぬと、そのからだは分解されて、次の生物の一部になる

わけですから、それを輪廻と呼んでもいいのかなと思いま

す。

 しかし、ある個体の魂が、そのまま別の個体の魂になると

いうのは、経験したことも確かめたこともないので、私には

無関係な話です。輪廻というストーリーを自分の人生に取り

込むことで、何かしらの満足を得られる人は、それでいいと

思いますが、私には必要ないというだけです。


 ところが、人と話していると、ときどき輪廻の話を持ち出

されることがあります。女性の場合が多いですが、否定する

のも面倒ですし、当人はそれで良しとしているんですから、

わざわざ困らせる義理も無いので、たいていはやり過ごしま

す。ですが、どうしても、言いたいことを言わずにいるとフ

ラストレーションが溜まります。なので、今までに溜まった

フラストレーションを、ここで吐き出しておこうと思いま

す。



 輪廻の話をする人の中に、「子供は、自分で親を選んで生

まれて来る」と言う人がいるんですが、このタイプと関わる

のが一番溜まります

 「じゃあ、親の文句を言ったり、自分の人生について愚痴

を言ったり、拗ねたりする奴が、そこら中にいるのはどうい

う事なんだ? “自分で選んで生まれて” おいて、なんで不足

があるんだ?」と、すぐに言いたくなるのを、“グッ” と抑

えなければならないので、すごく溜まります。自分で選んだ

人生なら、「なんで?」なんて言葉が口から出る余地は無

いはずなんですが・・・。

 「いえ。選んだ親が良くなかったんです」

 という言い逃れも有りそうですが、「自分で選んだんだか

ら、文句を言うなよ」って話です。

 わたしたちは、「生まれて来ること」も「生きること」も

「死んで行くこと」も選べません。



 「選んで生まれ変わる」というのでは無く、「ただ、生ま

れ変わる」という輪廻を言う人もいます。ですが、前世を憶

えていないのであれば、本当に生まれ変わったのだとして

も、何の意味もありません。前世の人は、“以前どこかで生

きていた別の人” でしかありません。

 また、前世の記憶をそのまま持っているのであれば、そん

なの生まれ変わった事になりません。

 そんな輪廻を信じて、それが一体何なのか? 



 それから、これは余語 翠巌(よごす いがん)という曹洞

宗のお坊さんの言われていたことですが、「悪いことをする

と、虫とか牛とか “畜生” に生まれかわる。良いことをすれ

ば、人間に生まれ変わると言うが、牛に生まれた者は何をし

たら良いのだ? 牛にとっての “良いこと” とは一体何だ?」

 まったく、ごもっともです。たとえば、蚊に生まれたら人

の血を吸うわけですが、それは良いことでしょうか? 何を

すれば、再び人に生まれ変われるというのでしょう? たぶ

ん、蚊になってしまえば、それっきりになってしまうんじゃ

ないでしょうか。



 どこまで本当の話か知りませんが、時々「前世を憶えてい

る」と言う人が居るそうですね。

 物心付いたばかりなのに、聞いたこともない外国の言葉を

話す子供とか、遠く離れた面識の無い人の、家族しか知らな

いエピソードを語る子供とか。

 ああいうのが本当の話ならば、輪廻の可能性を示唆するの

かも知れませんが、「また人間に生まれ変わったところでそ

れでどうするの?」と思うだけで、今のところ私には無関係

です。



 私にとって〈輪廻〉とは、「“自分の「アタマ」が作り出

すストーリー” に惑わされて、世の中をあっちやこっちへと

彷徨い廻ること」です。

 仏教の中で語られる “輪廻の物語” は、その文学的なアナ

ロジーであり、時代によっては、道徳的な方便です。



 〈悟り〉であったり、〈涅槃〉や〈往生〉と言われる事

は、“自分の「アタマ」が作り出すストーリー” から自由に

なることで、“輪廻の循環(関連)” を断ち切ることです。

 「生まれ変わる」とは、自分の “世の中の見方” が、変わ

る事でしかありません。“見方” が変わるだけでは、いつま

でも「(この世界で)六道に輪廻する」だけです。

 「極楽浄土」に生まれたければ、「“見方” を越える」、

あるいは「“見方” を手放す」ことが、必要です。



 刑務所の中の世界に対して、“世間” のことを “娑婆” と言

います。そのように、わたしたちが生きている “世の

中”が、“娑婆” であり “六道” であり “現世” であり、その

中に “地獄” も有ります。



 「死んで生まれ変わる」というのは、「アタマ」が死ぬの

です。身体ではありません。「身体」が死んで、「アタマ」

が残っているなんて、まったく逆さまです。

 「身体が死んで、魂が生まれ変わること」は、ありませ

ん。

 あったとしても、「それで、どうした?」という程度のこ

とです。

 死ななくてはならないのは、“魂” などと呼んで後生大事

にしている「アタマ(エゴ)」であって、その時に初めて、

本当に〈魂〉とでも呼ぶべき、〈本来の自分〉が姿を現しま

す。「アタマ」という “でっち上げの魂” が、〈本来の自

分〉という本当の〈魂〉に生まれ変わります
 

 ちょっと仏教臭くなり過ぎました。

 いつになく、「断定的に言い過ぎたかな」とも思います。

 でも、これまでに書いてきた話を読んでもらえれば、理解

はしてもらえるだろうと思います。



 「人は、生まれ変わる」なんて考えは “妄想” です、“妄

想” と一緒になっている “魂”は、「妄想する魂(霊)」、

つまり “亡霊”です。  この世の亡霊のままでいるのは、悲し

い事だと思いますが・・・。



 (ゲーテの言葉を思い出しました。

  「死んで生きよ。この神秘にふれない限り

   いつでも人間は、ただ地上の悲しき客人過ぎない」

  これが、頭の中にあって、

  今日の話を書かせたようですね)





2017年7月19日水曜日

キノコの世界


 ゆうべ、NHKで「キノコの世界」という、科学ドキュメ

ンタリーを見ました。確か、BBCの制作だったと思います

が、この手の自然科学物を作らせたら、BBCの独壇場です

ね。ナショナル・ジオグラフィックやディスカバリーチャン

ネルも良い物を作りますが、映像の美しさ・見せ方では、や

はりBBCが一枚上でしょう。デビッド・アッテンボローさん

は、お元気なのでしょうか?


 番組の中でもその生態が詳しく描かれていましたが、キノ

コ(菌類)という生き物は、植物や動物のからだを、バラバ

ラに分解するのが主な “お仕事” です。

 植物は、太陽のエネルギーを使って炭酸ガスから有機物を

作り出す生命システムで、生物学では “生産者” と呼ばれま

すね。動物は、植物が作った有機物を取り込んで、物理的に

分解し、地球上に拡散するシステムです。“消費者” と呼ば

れますね。(消費する事より、有機物を拡散する事の方が重

要に思います。“拡散者” とした方が良いと思いますが)

 その、植物と動物のからだと、動物が物理的に分解した有

機物を、植物が再び利用できる形にまでバラバラに分解する

のが、菌類の仕事です。“分解者” と呼ばれますね。

 ここまでは、中学で習う事だと思います。「生物」の授業

が嫌いな人でなければ、ご存じの事です。


 さて、ここからが、昨日番組を見ていて思ったことなんで

すが、植物・動物・菌類ともに、それぞれの法則性・規則性

によってその形態を保っています。それぞれが、それぞれな

りの秩序を持っていて、その形態は “秩序の形” と言えま

す。

 太陽光線と炭酸ガスという “無秩序” を、植物がまとめ

て“秩序” を与え、動物はその形を変えて拡散する。

 そして、菌類はその “秩序” をもう一度 “無秩序” に戻す

役割を担っている。

 太古の昔から、植物・動物・菌類が協力して、太陽エネル

ギーを有機物という形に固定し、地球上に広く薄く分散させ

ている様ですね。

 菌類が分解しきれなかった(しきらなかった?のかも!)

大昔の有機物は、地下に格納されて、石炭・石油・天然ガス

として保管されてきた。

 地球環境の恒常性を保つ、見事なシステムですね。(人は

それを掘り出してしまいましたが。パンドラの箱を開けたの

でしょうか?)


 こういう事を考えると、いつも驚いてしまいますが、今回

特に思ったのが、“秩序” と “無秩序” の関係です。

 エントロピーの法則によって、“秩序” は “無秩序” になろ

うとするわけですが、“秩序” と “秩序” を組み合わせて、

“二次的な秩序”を作ることは出来ても、“秩序” から直接

の “秩序” を作ることは出来ない。必ず、一度 “無秩序” 

しなければ、違う “秩序” は作れないので、“秩序” が “無秩

序” になるのは、新たな “秩序” を作る為の準備のようにも

思えます。

 そして菌類は、“無秩序” を作る為の “秩序” なんだなと。


 要するに「壊さなければ、作れない」という単純な話なん

ですが、人間は「計画的な破壊」は当然容認しますが、「予

定外の破壊」は受け入れません。

 しかし、自然界には「破壊するための “秩序”」が存在す

る。「新たな秩序」を作る為の破壊が。

 家がシロアリに喰われて倒れるのは「予定外の破壊」です

が、自然からすれば、次の “秩序” への準備となる、秩序立

った行為です。

 自然は、ただ漫然と無秩序になって行くわけではない。


 “秩序” は「秩序立てて」“無秩序” を作り、“無秩序” か

らしか “秩序” は生まれない。「エントロピーは増大し続け

る」という法則は本当だろうか? 本当はこの世界の様態

を“秩序” と “無秩序” に分けてはいけないのではないだろう

か?

 「キノコの存在理由」といった事を考えていると、「“無

秩序” さえ、“秩序” の一部」と思えて来ます。

 “秩序”と “無秩序” を越えた、高次の〈秩序〉が在るよう

に思います。それを〈神〉と呼ぶつもりはありませんが、ヒ

ンドゥー教のシヴァ神(破壊と再生の神)をイメージしてし

まいます。


 破壊と再生。

 死と生。  

 それは、あくまで “個体” から見たものであって、世界の

中にあっては、さざ波の様なものでしかない。

 わたしたち人間は、破壊や死を怖れるけれど、それはエゴ

が世界から乖離したものであることを証明してしまっている

のでしょう。〈死〉は、個人にとっては「想定外」でしょう

が、〈世界〉にとっては、当たり前に「予定」に入っていま

す。

 「自分は、自分は・・・」と言い立てるその都度、わたし

たちは、人の世だけでなく〈世界〉そのものからも、はぐれ

て行くのでしょう、そう遠くない将来〈世界の秩序〉によっ

消えてゆくことを忘れて・・・。



 キノコが働く世界は、わたしたちにとっては「死後の世

界」です。

 あなたや私が死んだ時、浄土から舞い降りて来るのは、天

女ではなく、菌類の胞子かも知れませんよ。いや、生物学的

には、間違いなく胞子です。

 わたしたちは、ただ身をまかせるだけです。




2017年7月18日火曜日

ナット・キング・コールと「不寛容社会」


 今、ナット・キング・コールを聴きながら、PCに向かっ

ています。

 ナット・キング・コールは、言わずと知れた大スターです

が、若い人は知らないでしょうから、少し説明をしておきま

しょう。

 ナット・キング・コールは、アメリカのジャズシンガー

で、「スターダスト」「モナリザ」「L-O-V-E」などのヒッ

ト曲を持っています。日本のCMなどでも、いまだにその曲

が使われる大歌手で、誰でも一度はその歌声を耳にしたこと

があるでしょう。(これ以上の事は、“ググって” 下さい)

 コールの魅力を一言で言えば、その「包容力のある歌声」

です。「父性」と言ってもいいでしょう。優しく包み込むよ

うな、温かさにあふれた歌声は、多くの人を魅了します。

 私が今さら言うまでもなく、そんなことはある年代以上の

音楽ファンには当たり前の事です。



 昔は(1970年代まででしょうか)アメリカだけでなく、

日本にもヨーロッパにも、「包容力」や「父性」を感じさせ

る歌手がいました。歌手だけではなく、俳優にも政治家にも

実業家(もしかして “死語” でしょうか?)にもいました。

 男性に求めるものの一つとして、「包容力」を挙げる女性

も沢山いましたが、今では「包容力」とか「父性」といった

ものは、世の中全体から絶えて久しい様に思います。



 アメリカで「父性」を感じさせる歌手といえば、サミー・

ディビス・Jrだとか、フランク・シナトラ、パット・ブー

ン、ルイ・アームストロングとかが思い浮かびます。俳優で

は、クラーク・ゲーブル、ジョン・ウェイン、ハンフリー・

ボガードとか。大統領でも、レーガン氏までは「父性」を感

じさせます。

 日本の歌手では、水原 弘、三波 春夫、フランク永井。俳

優なら、笠 智衆、志村 喬、千秋 実、市川 右太衛門、片岡 

千恵蔵とか、いくらでもいます。総理大臣では、中曽根さん

までは皆「父性」だったと思います。他には、松下 幸之

助、本田 宗一郎、黒澤 明、円谷 英二といった名前が浮かび

ます。実際に、周りから「おやじ」と呼ばれていた人もいま

すしね。

 日本の歌手や俳優で、「父性」を感じさせていた最後は、

晩年の坂本 九さんと、渡 哲也さんぐらいでしょう。(渡さ

んは、まだ死んでいませんから、「最後の父性」ということ

になるのでしょう)裕次郎さんや、高倉 建さん、渥美 清さ

んとかは「父性」とは違うんですよね。やっぱり、「おや

じ」ではなく、「兄貴」ですよね。

 「父性」が絶えたということは、要するに「大人の男がい

なくなった」という事です。


 話を、ナット・キング・コールに戻しますが、コールは黒

人ですから、当時、いくら大スターであったとしても、酷い

差別から無縁ではなかったでしょう。沢山の “理不尽” や 

“矛盾” に取り巻かれて生きていたはずです。また、日本で

もアメリカでも、上に挙げた様な人々は、第二次大戦を知っ

ている人達です。差別とは無縁だったとしても、世の中の 

“理不尽” を呑み込まざるを得ない時代を生きた人達です。

 「生きるという事は、綺麗ごとだけでは済まない。けれど

その中で、たとえ自分は泥水を飲んでも、綺麗ごとを捨てな

いんだ。」

 そういう気概が、「父性」とか「包容力」ではないんだろ

うか? 「やせ我慢」と言ってもいいんでしょう。



 「清濁併せ呑む」という度量の深さは、何処かに追いやら

れてしまって、「小さな辻褄合わせ」と、キレイではあるけ

れど「キレイなだけの綺麗ごと」ばかりになった様な気がし

ます。


 「昔は良かった」などと言うつもりはないんです。

 上に挙げたスターや著名人が、みんな素晴しい人だったと

も思っていません。あの時代に有って、今の時代に失われた

ものの一つが、あの人たちの姿に表れていたという事です。

 そして私が気になるのは、なぜ「父性」は消えたのか?と

いう事です。

 少なくとも、日本、アメリカからは消えたと思われます

し、ヨーロッパの主要国も「父性」は消えたか、薄れている

のだろうと思います。他の、イスラム圏、東南アジア、南米

などは、よく分かりません。(そもそも、何かのデータに基

づいて言っているのではありませんよ。私のイメージだけで

す。ご注意下さい)



 で、何故「父性」は消えたか?

 女性の社会進出と関係があるだろうな、と思います。

 「男が社会を動かし、金を稼いで、女は家庭をマネジメン

トする」という形が、女性の社会進出によって壊れた。それ

によって、「父性」の必要性が下がっていったのだろうと。



 「冷蔵庫・洗濯機・炊飯器が、日本から父性を消した」

 というのが、私の結論です。アメリカなら「冷蔵庫・洗濯

機・掃除機」となるのでしょうか?



 「何のことか分からない?」



 これらの家電の登場によって、女性(主に主婦)が劇的に

暇になったのです。

 その結果、何が起きたか?

 暇を持て余した女性たちは、次の事にエネルギーを向け始

めたんです。


 *子供を構う

 *社会活動をする

 *趣味を持つ

 *働いて、金を稼ぐ


 この事を、目ざとい商売人たちが放っておくわけがありま

せん。

 “子供の教育・娯楽”・“様々な趣味”の為のマーケットを作

り、その為の金を稼ぎたい女性を取り込んで、働かせ、さら

なる市場拡大の駒に使う。



 「女性が社会進出した」のではなくて、「女性が社会に誘

い出された」と見る方がよいと、私は思ってるんです。

 『男女雇用機会均等法』なんて、「猫の手を借りるわけに

はいかないので、もっと女が迷い込んで来るような罠を張っ

てくれ」という、経済界からの要請で作られたものだと思っ

ています。『男女使用機会均等法』と名称を変えるべきでし

ょう。

 「(経済的に)豊かな生活」とか、「自己実現」とかいう

言葉が、ほとんどの人にとっては、マインドコントロールの

常套句として作用し、男性だけでは足りず、女性までもが経

済というエンドレスゲームに引っ張り出されてしまったので

す。



 また、暇を持て余した母親が、子供の教育に強い関心を持

つようになり、その結果として、昼間家に居ない父親より

も、母親が子供の教育の主導権を握り、受験戦争が始まった

のに違いない。子供の塾通いの増加と「冷蔵庫・洗濯機・炊

飯器」の普及率と性能アップは、見事な相関関係にあるだろ

うと思います。(自分で調べる気はありません。興味のある

方は、ぜひ確かめて下さい)



 女性が自分で金を稼ぐようになり、子供の教育の主導権を

握り、“父親の絶対性” とでもいうものが、薄らいでしまっ

た。その上、女性に教育された男の子には、“おんな目線” 

の刷り込みがされているので、大人になっても「父性」など

持ちようがありません。

 かくして、「冷蔵庫」と「洗濯機」と「炊飯器」によっ

て、「父性」は滅んだのでした。



 私は何も、「父性の復活」を望んでいるのではありませ

ん。その様に時代が動いたのですから、それでいいのでしょ

う。ただ「本当にそれでいいのかな」と、思うんです。


 「父性」にも、良い面はあったでしょうし、悪い面もあつ

たでしょう。

 “「男尊女卑」の温床 ” といった部分は、否定出来ないで

しょうし、“おとこ目線” だけで世の中の物事を判断して、

それで良しとする傾向が強かったのも、否めないでしょう。

 一方で、清濁併せ呑む、「包容力」という良さがあったと

思います。



 長い長い間、男が社会を作り、動かしてきました。

 その社会の中では、闘争・騙し合い・駆け引きなど、ロク

でもない事がそこら中で行われ、それが良くない事だと分か

っていても、「長い目で見た時には、見過ごした方が良い時

がある」という経験則が、男には受け継がれてきたのでしょ

う。それが、「包容力」となった。



 『包容力のある女性』というフレーズを聞いたことがあり

ますか? まず使わないですよね。

 「包容力」は、男に対する形容詞です。

 「父性」に属するものの中で、「包容力」は残しておいた

方が良かったのではないでしょうか?
 

 女性には失礼ですが、長く社会を運営してきた〈男〉に

は、その経験上、「時を待つ」とか「見逃す」とかいった事

が「後で良い結果を生むことがある」、という知恵があっ

た。ところが女性は、長く、家庭やその周りのコミュニティ

の中で生きて来た為に、社会的な知恵を持ち合わせていなか

った。つまり、社会に慣れていなかった。(バカだと言って

いるのではありませんよ。単なる、経験不足ということで

す)


 ところが、急激に社会との関わりが強くなったために、家

族や小さなコミュニティの論理を、そのまま、社会的判断や

社会人を育てる為の教育に使ってしまったのでしょう。

 昨今言われる、「不寛容社会」というものは、社会から

「父性」が失われた結果かも知れません。



 怖いので、言い訳をしておきますが、「女性は不寛容だ」

と言っているわけではありませんよ。「きちんと、し過ぎ

る」「結果を早く求めすぎる」といった傾向があるというこ

とです。それが、女性が長い間分担してきた役割には、必要

なことだったのでしょう。でも、その性向は、社会にあって

は齟齬を生むものでもあった、ということです。(不寛容の

言い訳に気を取られて、「女性は怖い」と言ってしまっ

たし、言い訳にもなっていない気がする・・・、あぁ、怖

い・・・


 ・・・まだ、怖いので、応援を頼みたいと思います。

 山本夏彦さんは、次のように言っています。


 「婦人のなかの最も若く最も未熟なものを、警察官にする

  とどうなるか。正義の権化になる。権化になって何が悪

  いというだろうが悪いのである。」

               (やぶから棒 新潮文庫)


 《 人間は、それぞれに “いびつ” である

   決まった型に押し込むと死んでしまうことがある 》



 女が社会に進出し、男が「主夫」となって家庭に入るとい

う世の中になって来ました。その変化があまりに早かったの

で、お互いに慣れていなくて、様々な問題を起こしているの

でしょう。少しスピードダウンして、それぞれがその役割を

学び、なじむまで、待つことをした方が良いのではないでし

ょうか? その為に「父性」の中で、それをを代表する「包

容力」が必要だろうと思うのです。「待つこと」「大目に見

ること」といった、“やせ我慢” が。


  ボギー ボギー あんたの時代は良かった

 男のやせ我慢 粋に見えたよ       阿久 悠

        「カサブランカ ダンディ」  沢田 研二

 *ボギー=ハンフリー・ボガード
 


さすが、阿久 悠さんは時代をしっかり見ていたんですね

(この曲は1979年リリースです)。世の中が、“性急” で

“狭量” になって、“遊び” や “おおらかさ” が失われていっ

ているのを、敏感にキャッチしていたのでしょう。

 (「聞き分けの無い女の頬を ひとつ ふたつ張り倒して」

という歌詞ですからね。今、これを書いても、どこのレコー

ド会社も取り上げないでしょう。発表したら、即、炎上でし

ょうからね。ホント、余裕が無い。「阿久 悠さん あんた

の時代は良かった」)


 繰り返しますが、女性をバカにしているのではありませ

ん。

 家庭や小さなコミュニティが分裂して社会に取り込まれ、

まだまだ、その過程は進行中なのでしょう。

 男も女も子供も年寄りも、「功を急ぐ」あまり、事を荒立

ててしまっているように思えます。

 わたしたちには、やはり「父性」も必要だと思います。

 その、良いところを、もう一度振り返ってみる必要が生ま

れているのでは? 男と女が、一緒に社会を動かして行く為

に。


 ボギーのやせ我慢の意味を、その表情から感じ取り、ナッ

ト・キング・コールの歌声から、人間の悲しさと、それ故の

温かさを受け取る。
 
 
 「おとーさん、くさーい!」とか、

 「おとうさんの下着は、別に洗うの!」とか、

 時代にそそのかされて、「父性」を軽く見て馬鹿にし過ぎ

たのは、失敗だったのだと思いますよ。


 ナット・キング・コールの歌声は、本当に温かく、優し

い。

 少し気持ちをゆるめて、コールの歌をみんなが聴けば、

人々の不寛容さも、ちょっとほぐれるのでは?


 Smile though your heart is aching

   Smile even thought it's breaking

   When there are clouds in the sky

   You'll get by

   ・・・・・・・・・・・・・・  「Smile」