2017年9月22日金曜日

特別電源所在県科学技術振興事業補助事業評価報告書?


 一昨日だったか、Googleニュースを見たら、次の単語が

目に入りました。 


 〈特別電源所在県科学技術振興事業補助事業評価報告書〉


 目にした瞬間、「へぇ~!?」と声が出て、笑ってしまいま

した。数えたら24文字あるのですが、これで一つの名詞で

す。こんなに長い漢字の単語を見たのは、おそらく初めてだ

ったので、ビックリしてしまったんです。本気で「もしかし

て、冗談?」とも思いましたが、文部科学省のHPに載せら

れた、公式の「おしらせ」です。(これが何かを知りたい方

は、文部科学省のHPをご覧下さい)

 完全に “漢文” ですが、これって単語ですよね? 文じゃな

いですよね?

 「官僚言葉」と言うと、ちょっと意地が悪いとは思いま

す。文面・・・じゃないか。言面(!)を見ると、こうなら

ざるを得ないと思われるので・・。しかし、これはもう冗談

のレベルです。これを見た私の感想は、

 「世の中は、こんなに込み入ってしまってるんだ・・」

でした。


 「特別な電源が所在する県に対する科学技術の振興事業を

補助する事業の評価についての報告書」ということなんです

が・・・。(アカン! 笑ってしまう!)

 何のことかは分かりませんが、自治体と研究者・団体と文

部科学省との間で(企業や監査委員会なんかも絡むのかも)

かなり面倒なやりとりが行われて来た、と想像されます。


 昨日、「この世界では、さまざまな “世の中” が絡み合っ

ている」といったことを書きましたが、日本の中だけを見て

も、「もはや冗談としか思えないほど “世の中” は込み入っ

ている」 ということを、この「一つの単語」が表している

と思うのです。


 文明と文化が進んで、利便性や安全性が高まり、価値が多

様化して娯楽が増えるなど、プラス(に見える)の面がある

一方で、それに伴う面倒も比例して増えている。「“人類の

進歩” などと言われるものは、結局プラス・マイナス ゼロ

なんだろうなぁ」と思う。資源の消費の速さを考えると、マ

イナスの方が大きい様な気にもなるけれど・・。


 とは言うものの、私の様な一般人が、仏教や老荘思想や脳

科学・心理学・物理学・歴史や考古学やら、さまざまな専門

分野の知見を聞きかじって、こんなブログを物して嬉しがっ

ていられるのも、文明と文化が進んだおかげです。

 だ ・ け ・ ど。

 なんだかんだと、世の中あまりにも面倒過ぎませんか !?

 「こんな世の中になって欲しい」と思ったことも、頼んだ

ことも無いですからね。


 しかし、まぁ、愚痴を言っても仕方がないですね。


 《 通常、「込み入る」と「深刻」になり

   「深刻さ」からは「不幸」が発生する

   「幸福」で居たければ、

   「込み入らない “智慧”」が求められる 》


〈特別電源所在県科学技術振興事業補助事業評価報告書〉
  

 この言葉を見て、笑ってしまうという事は、この世の中を

笑ってしまえるという事でもあるので、人間の引き起こす面

倒なドタバタも、喜劇だと笑って、機嫌良く過ごすのが賢明

ですね。


(そんなこと言いながら、このブログの内容も、たいが

 い込み入ってるよね。しゃぁないね。笑ってしまおう!)

 
 

「教育」ではなく、「教⇔育」。


 先日、テレビで 山川宗玄 という臨済宗の老師の話を聴い

たんですけど、その中で “教育” という言葉について、山川

さんがこういう事を仰ってたんです。


 「“教育” という言葉は、『教え、育む』と書きますけ

ど、わたしは『育むことを、教える』と言っているんです」



 これを聴いた時、「はぁ~。なるほど・・・」と思いまし

たね。

 「教え、育む」だと、外から付け加えるのだけど、「育む

ことを、教える」となると、「もともと持っているものを自

分で育てる要領を、教える」ということになりますから、人

にとって大切なものは、もともと備わっているということに

なります。

 私なりに解釈すると、

 「自分の中を観なさいよ」

 と仰ってるんですね。

 まず、“自分” というものを(人間とはどういうものかと

いったことを)、ちゃんと押さえておかないと、世界との関

わりの中で問題ばっかり起きるだろうと。


 「“自分” というものを、ちゃんと押さえていない」とい

うのは、“片足で爪先立ちして生活する” 様なもので、あっ

ちこっちでふらついて、人にぶつかったり、もたれ掛ったり

して、ひっきりなしにトラブルを起こすのは必至です。

 “自分” というものの、人との関わりでは無い在り方をよ

く観て、観察して、理解して、大切にするのだと。

 その上で世界と関わるのが、ものの順序というものでしょ

うね。

 ところが、わたしたちは「教え、育む」教育をされて、

「一丁あがり!」、と世の中に放り込まれてしまう。

 世界中、みんながみんな “爪先立ち” でふらふらの状態だ

から、世の中が落ち着くわけがない。

 いったい何を「教え」、いったい何を「育んで」いるの

か?


 “世の中” が「教え、育んで」いるのは、当然 “世の中の

在り方” と “世の中の維持の仕方” です。それ以外の事を

「教え、育む」理由が無い。“世の中” にとって大事な事は 

“世の中” だけです。人間は “世の中” の為に存在していま

す。(世の中にとっては・・・ということですが)

 しかも、国、民族、地域、業界など、それぞれの人の集ま

りの数だけ、違う“世の中” があって、それらがさまざまに

絡み合い、重なり合いながら、相容れない価値観による対立

や利害の衝突や上下関係を生み出していますから、落ち着く

わけなどありません。

 そんな “世の中” が落ち着く為には、すべての “世の中” 

に共通する普遍的な価値観といったものが必要です。

 すべての “世の中” に共通の存在は人間ですから、「人間

とは何か?」「人間は、どうあるべきか?」という根本的な

理解・理念を人々が持つことだけが、“世の中” を落ち着か

せることが出来ます。その為には、「各人が持つ “人本来の

在り方” を育む」ことを教えるのが、唯一有効な方法だろう

と思います。

 けれど、そんな事は可能か?


 100% 無理でしょう。

 もしも今日から、世界の半分の国が、それを教育の根本に

据えたとしても、それが広まって“世の中” が落ち着くの

に、千年はかかるでしょうね。

 そんな、誇大妄想はさっさと捨てることにしましょう。

 “世の中”  のことは放っておいて、わたしたちがそれぞれ

自分の為に、自分を育むことにしましょう。


 “世の中” に揺さぶられて、自分を見失わないように。

 “世の中” に形作られて、自分じゃない “何か” にならない

ように。

 “世の中” との関わりで生まれた “自分” を、〈自分〉と信

じてしまわないように・・・。

 まず、〈自分〉の中に、〈人〉を再発見しなければなりま

せん。いえ、改めて〈人〉に成らなくてはなりません。


 「大人(おとな)」ではなく、「大人(たいじん)」とい

う言葉がありますね。“優れた人物” “完成した人” といった

意味でしょう。そして、「成人」というのは「おとなに成

る」ことですが、「改めて〈人〉に成って、大人(たいじ

ん)と成る」ことこそ「成人」なのでしょう。


 わたしたちは、「自分を育むことを教わり」成人しなけれ

ばなりません。

 改めて〈人〉に成って、〈自分〉をつかみ直して、しっか

りと地に足をつけて生きなければなりません。



 自分をしあわせにしてやらなければなりません。

 “世の中” (浮世)で、浮かれたバカ騒ぎをしたりしてい

るうちに、命は尽きます。この次は、ありません。

 今ある、この命でしあわせになるしかありません。

 そして、私かあなたの一人でも「成人」出来たら、その分

だけでも周りの “世の中” に良い影響を与えるでしょうか

ら、“世の中” の為にもなるでしょう。
 

 「育むべきもの」「育まなければならないもの」は、わた

したちの中にあると信じていいと思います。


 「育むこと」を教えてくれる、素晴しい師に出会えれ

ば、それに勝る幸運はないのですが・・・。

 



2017年9月21日木曜日

夢と希望は必要か?


 「夢と希望は必要か?」


 “夢” については、別に必要ないですね。特に “夢” を持た

ずに生きている人は沢山います。「夢を持つ」というのは、

近代になって、(化石燃料のおかげで)社会に余裕が生まれ

て来て可能になった “娯楽” の一種じゃないでしょうか? そ

れに、場合によっては、 “夢” を持つことで人の生き方が窮

屈になる様な気もしますから、「夢を持つ」ことをもてはや

すのは、どうも考えが浅い様に思います。(ケンカ売ってる

なぁ~。ヤバイかなぁ・・。まあ、いいか。)



 “希望” は、必要かどうかというより、持たずにおれない

でしょう。

 病気になったら「治りたい」と願うだろうし、仕事は上手

く行って欲しいと思うし、子供が生まれたら「しあわせに生

きて欲しい」と望むでしょう。人はごく自然に “希望” を持

って生きて行きます。いや、“希望” を持たずして生きては

行けないでしょう。



 と、ここまで来て「忘れてた!」と思ったのですが、“夢”

と “希望” は何が違うのかということを、検証しなければな

りませんでした。唐突ですが、何が違うのでしょう?



 “夢” も “希望” も、「望み」ということです。一緒だと言

ってもいいのだと思います。ですが、世間での言葉の使われ

方から私が受ける印象では、“夢” にはエゴがたっぷり滲み

込んでいる気がします。対して、“希望” にはせいぜい半分

ぐらいしかエゴは滲み込んでいない様に思います。(あくま

でも個人の感想です  便利な言葉だなぁ)



 何故、そんな風に思うのかというと、“夢” という言葉が

使われるのは、仕事や遊びなどで高いレベルの事を達成した

いといった時で、「生活する」ということからは離れていま

す。

 一方で “希望” の根底にあるのは、「日常が平穏に過ぎて

欲しい」、「辛さ・苦しさを味わいたくない」という、人間

として当然の想いです。「仕事が上手く行く様に・・」と願

うのも、トラブルを避けたいという事であって、平穏を望む

思いです。(ここに、「仕事の発展」という様な望みが入っ

て来ると、“夢” にシフトして行くことになります)

 「平穏を望む」というのは、自然な生存欲求から来るもの

ですから、“希望” にはエゴの影響はそれはほど強くはない

でしょう。しかし “夢” には大抵、エゴのエネルギーが満ち

ています。(ガンジーやマーチン・ルーサー・キングの様な

「エゴではない夢」を持つ人は、ごく稀です。これらの人が

持つ “夢” は、「誓願」とか「祈り」と呼ぶ方が相応しいで

しょう)

 “夢” という言葉で語られるのは、ほとんどの場合「個人

の欲」です。(以前にも書いたなぁ。「I have a no   
 
dream」(2017/4 )という回も、合わせてお読み下さ

い)



 という事で、“夢” と “希望” に区別がつきました。

 “夢” は不要です。

 “希望” は、必要でも不要でもなく、「あるものはしょう

がない」という感じでしょうか。

 そして、「夢と希望は良いものか?」ということなんです

けれども、「“夢” は不要」という事になったので、「良

い」も「悪い」もありません。“夢” には、お引取り頂きま

す。さようなら。


 では、「希望は良いものか?」ということですが、「良

い」というよりも、やはり「必要なもの」という位置づけに

止まるんじゃないでしょうか?

 「良い・悪い」ではなく、中立的なものでしょう。

 “希望を持たずして生きては行けない” と書きましたが、

「食べる物が欲しい」「寒さをしのぎたい」「痛みを取り除

きたい」といった思いを持たなければ、人は生きては来れな

かったでしょう。ですから、そういった生存欲求のレベルか

ら大きく外れなければ、“希望” に異議を立てる必要はな

い。

 けれど、そこにエゴの影響が濃く表れて、生存欲求が “快

感欲求” とでも言う様なものになって来た時には、問題を起

こし始めるでしょうから、「悪い」ということになるでしょ

うね。その見極めは難しいですが。


 “夢は持つな! 希望と語り合え”
  
 そんな感じでしょうか。
             

 “夢” の立場が無くなりました。

 ナムアミダブツ、ナムアミダブツ・・・・。

 迷わず、往生して下さい。



 何気なく、面白がって「ナムアミダブツ」と書いたんです

が、“南無阿弥陀仏” って、「(夢といったような)自分の

勝手な考えは持たずに、阿弥陀仏にすべてお任せします」と

宣言する言葉ですから、ここに書くのにピッタリなんですね

ぇ・・・。あら、まあ・・。


 “夢” には、往生してもらいましょう。

 それが、わたしたちの “往生の道” ですね。

 そして、本当に持つべき “夢” ですね。


 《 人として持つべき “夢” は

       「“夢” を持たないこと」である 》

 

 (こういう結論になりました。悪気はないのですが・・)
  



 

 
 

2017年9月20日水曜日

あなたの望みは叶わない。


 地球上のありとあらゆる所で、人間がなんだかんだといろ

んな事をしています。

 中には、首を傾げたくなったり、目を背けたくなったり、

失笑してしまうような事もたくさんあるわけですが、何の為

にみんなが右往左往しているかというと、結局 “機嫌良くな

りたい” わけですね。

 金があったら機嫌良くなれる人は、金儲けにいそしむ訳だ

し、未来の事が分かれば安心できると思う人は、占いに通っ

たりする。



 金が手に入って機嫌が悪くなる人は、まず居ないだろうか

ら、まぁ、それでいいんだけれど、金は公共物だから、自分

の所に集め過ぎると、どうしても他人との間に問題を起こし

て、不機嫌を生みやすい。

 占いによって未来の事を知っても、「“占いによって未来

を知った後” の未来」は知り得ないので、結局どうにもなら

ない。



 人がやっている “機嫌良くなる為の活動” は、たいていは

自分の置かれている状況を、自分の気の済む様に変える努力

です。それが叶わない場合は、自分の置かれている状況に自

分を合わせる事で、問題をなくして、安定しようとします。



 もうひとつ、“自分のものの見方を変える” という方法が

あるのですが、こちらはあまり流行りません。

 自己啓発セミナーとか、宗教関係のお話はこちらの系統

で、そこそこ需要はありますが、結果的に自分に都合のいい

話をつまみ食いして、周りの状況を変える為のツールに使う

ことが多いようです。


 そりゃそうなんです。

 みんな “自分が生きる為” に生きているのですから、自分

の方が変わるのはイヤです。自分が変わってしまったら、

“自分” が生きてることになりません。だから、“自分” では

なく、“周り” を変えたい。

 “周り” を “自分” の気が済む様に変えて、機嫌良くなりた

い。

 ですが、「機嫌良くなる」ということは、「機嫌良くない

自分」から、「機嫌のよい自分」に変わる事ですから、そこ

で “自分” は変わってしまっています。

 “自分” を変えたくないから、“周り” を変えたのに、結局

“自分” は変わってしまった。変わりたくなかったのでは?



 「自分の望む様に変わったんだから、それでイイじゃない

か。望まない変わり方をしたくないだけだ」



 そうです、人は “自分” も “周り” も望む様に変えたいん

です。

 でも「“周り”を変えよう」と働きかける時、その “「働き

かける」自分” は、どの “自分” でしょうか?

 周りの状況に不足を感じて、「なんとかしよう」と動き始

めた瞬間に、もう、さっきまでの “自分” じゃない。

 その時点で、もう、状況に変えられてしまっています。 

「なんとかしよう」としている自分は、“自分” で望んだ自

分じゃない。


 《 わたしたちは、“状況の奴隷” です

      “自分” を保持し続ける事は出来ません 》
 

 企業の経営者がビジネスで大成功を収めたら、その経営者

の望みが叶ったと思われますし、本人もそう思うでしょう。

 けれど、ビジネスというものは、市場の求めに応じなけれ

ば成功することはありませんから、彼が成功したのは「市場

の望み」に合わせたからです。望みを叶えたのは、“市場” 

の方です。

 「市場の望みを叶えるのが、自分の望みだ」という思いが

彼にあったのなら、いわゆるWinWin(日本には、「お互い

様」というゆかしい言葉があるんですけどね・・・)という

ことで、まぁ結構なことですが、現実には「自分が市場を操

作して、自分が成功させた」と考える者が多いんじゃないで

しょうか。


 では、自分の国を自由に操れる「独裁者」なら、自分の望

み通りに出来るのでしょうか?

 例え独裁者であっても、自分一人では何も出来ません。

 取り巻きの実力者の意向を無視すれば、「自分の望み通

り」にするどころか、クーデターを起こされて殺されかねま

せん。


 この世の誰一人として、「自分の望み」を叶えられる人は

いません。

 望みが叶っている様に見えても、それは、その人を取り巻

く状況が、たまたま肯定出来るものだというだけです。(ま

ぁ、ラッキーなことですが)


 ウサイン ボルトがいなければ、次の実力者が「世界最

速」として脚光を浴びていたのでしょう?

  早く生まれすぎた天才は首を刎ねられたりもするでしょ

う?

 「時世時節(ときよじせつ)」という言葉がありますが、

何事も「めぐりあわせ」です。


 《 個人の力は

      “出来事の要素のひとつ” に過ぎません 》


 起きていれば眠くなる、眠っていても目が覚める。

 シワも出来る、白髪も出る。

 病気になる、物忘れをする。

 必死になってそれに抗って、自分が自分の望まない変わり

方をしないようにする。その「抗う」事が、「すでに自分の

望んでいない(予定していない)変化」です。


 その様に、周りの状況も、自分自身の身体と意識の状態

も、「望んでいない変化」を遂げて行くし、望み通りになっ

たところで、その状況は一時しか続きません。それで機嫌良

くいられるでしょうか?


 なんだか「夢も希望も無い話」になりましたが、「夢と希

望」は必要なんでしょうか?


 恐ろしいことを言ってますね。

 でも、考えてみてもいいんじゃないでしょうか?

 「夢と希望は必要か?」と。

 「夢と希望は良いものなのか?」と・・・。


                 次回へ、つづく。











2017年9月18日月曜日

やっぱり、アタマが悪い。


 《 頭が悪さをすることを、「アタマが悪い」という 》



 それをメインテーマにして、理解してもらい難いであろう

ことを、口から出まかせに書き綴って来て、今回で百回目に

なります。

 もっと早くネタ切れになりそうな気がしていたのだけれ

ど、意外と続けて行けそうです。

 とは言っても、書いてる事は基本的に同じ様なことで、そ

ういう意味では、すでにネタ切れしてますが・・。



 「アタマが悪い!アタマが悪い!」と言い続けて、「アタ

マ」を目の敵にしているのですが、そう考えているのが私の

「アタマ」な訳ですから、自分で自分の足をすくってるよう

な形であって、どうしても説得力に欠ける。

 詐欺師が『詐欺に引っかからない方法』というDVDでも

勧めているようなもので、胡散臭いことこの上ない。

 わたしたちの「アタマが悪い」ことは間違いないのだけれ

ど、「アタマ」にも、少しは為になる余地がある。「考え過

ぎない様に “考える”」ことは出来ますし、「不愉快になる

事は考えない様に “考える”」ことも出来ます。そうやっ

て、「アタマの悪さ」から「自分」を守る上で、誰かの役に

立つかも知れないし、私自身への戒めにもなるので、このブ

ログを続けているわけです。

 しかし、私が書いていることを理解して、さらには「面白

い」とか「気が楽になった」とか思ってくれる人がいるので

しょうか?


 いる。と、思っています。

 誰一人として理解してくれないことを、延々と言い続ける

人間は、精神病院に入れられてしまいますし、それを行動に

移せば、刑務所に入らなければならなくなるでしょう。

 幸いにも、私は塀の外でパソコンに向かっています。

 こういった考えを持ちながら生きて来ましたが、人から特

に非難されることも無く過ごしてきました。(あまり、おお

っぴらにしてこなかったということもありますが・・・)

 時には、話をしていると、深く納得してくれたり、「目か

らウロコが落ちた」といった驚きを見せてくれたり、自分の

苦しさの理由に思い当たって泣く人もいました。

 ですから、行き詰まりを感じている様な人には、けっこう

共感を持ってもらえる自信はあります。ただ、多くはないで

しょうね。私が言っていることは、まず、社会的な自分を否

定することから始まりますから、恐怖感や不快感を伴いま

す。

 「行き詰まりを感じている」としても、あまり程度の酷く

ない行き詰まりなら、自分を否定することの恐怖感が大きく

て、私の話に対する共感より、不快感の方が勝ってしまうで

しょう。一方、「生きているのが辛い・・」という様な強い

行き詰まりを感じている人ならば、「はっ」と、目を開かせ

る言葉が、このブログに一つぐらいはあるでしょう。なぜな

ら、「行き詰まり」というものを感じさせるのは、「脳の中

に浸潤して来た “社会”」だけで、それ以外のものがわたし

たちに「行き詰まり」を感じさせることはありません。

 私は一貫して、“社会” と “わたしたちの中の社会” を否定

しているので、「“社会” に取り囲まれて行き詰ってる人」

にとって、このブログの話は “社会” という壁を壊すツール

には成るはずだからです。


 わたしたちの脳(意識)の中に、“社会” はありとあらゆ

る形で浸み渡っていて、手を変え品を変えては、わたしたち

を “社会” の道具にしようと誘導します。そして、その根は

とても深い。

 ですから、そんな “社会” に対抗する為には、あの手この

手と策を講じなければなりません。


 伝えにくい話を、馴染みにくい言葉を使って、拙い表現に

自分でも何を言っているのか分からなくなりながらも、ああ

だ・こうだと書き続けているのは、「アタマを大人しくさせ

るのに使えるものは、何でも使っちゃえ!」とヤケクソにな

って面白がっているからです。「数打ちゃぁ、当たるだろ

う」という物量作戦とも言えますね。


 人によっては、たった一言が決定的な一撃となって、その

人の中の “社会” を木端微塵にしてしまうかも知れません。

 別の人にとっては、ある言葉が “社会という壁” に小さな

穴を開ける役に立って、少し明かりを得られるかも知れませ

ん。

 ある人からすれば、「何言ってんのかワカンナイ。バカじ

ゃねえの?」と思われて終りでしょう。(こちらの方が、圧

倒的多数でしょうね。「文章として分かり難い」という、私

の能力の問題もありますし)

 どんな受け取り方をされるか?それはケースバイケース、

時の運、ご縁、であって、私の与り知らぬところです。


 以前のブログでも書きましたが、私は自分が何故こんな事

をしているのか分かりません。

 考えても、思い浮かぶことは、表面的な理由でしかありま

せん。

 自分が望んでいるのか、望まれているのか? 

   自分の為になるのか、誰かの為になるのか、何にもならな

いのか?
 

 自分にとって正しいことが、他人にとっても正しいとは限

らない。でも、人は誰も、自分にとっての “正しさ” に依っ

て生きて行く他はない。

 それで、“人生、おおむね御機嫌” で過ごせたら、「ラッ

キー!」って、手を叩いて終れる。

 “人生、なんだかんだと不機嫌” に過ごしたら、「ちくし

ょー、しくじった」と取り返しのつかない涙を流して終わら

なければならない。

 どちらにしても、その時その時の自分の「正しさ」にすが

って、わたしたちは生きて行く。


 私は、最後に「ラッキー!」と言いたくて、誰かにも言っ

てもらいたくて、「アタマが悪い」と言い続ける。


 ( ホントに「ラッキー!」と言えるのだろうか・・?

     まぁ、そういうことにしておこう )



 《 「勝った者が、最後に笑う」のではなく

   「最後に笑っちゃえば、勝ち!」でしょ!  

    というか、「勝ち」も「負け」も

         “そう思うだけ” のことだから 》 




   
   
 

2017年9月16日土曜日

家(うち)へお帰り


 井上陽水のデビューアルバムである『断絶』の中に、「家

(うち)へお帰り」という曲があります。
 

  子供が道で泣いてる 叱られて

  汚した服は 涙で濡れている

  さあ 泣かないで 家へお帰り

  夕焼けに さよなら言って お帰り


  さあ 泣かないで 家へお帰り

  今日の日は すべてがこれで 終わった


 私の世代なら既視感を抱くような、優しく、ノスタルジッ

クな小品ですが、こんな光景はもう目にしませんね。

 夕暮れの道端や公園で子供がひとりで泣いてたら、「虐待

か!?」という見方をされそうです。

 「あぁ。昭和だったんだなぁ」

などと、感傷に耽ってみるのもいいのかも・・・。


 今は、なによりも「安心・安全」が第一。

 「子供が泣くようなことは、どんな些細なことであろう

と、あってはならない! たとえ親であろうと、子供を泣か

すなど許されることではない!」

 そんな “見えない横断幕” が、街の中に掲げられている様

な気がします。が、この件には深入りせずに先へ参ります。


 街の中で子供は泣いていませんが、家の中で子供は泣いて

いる様です。

 虐待の事だけを指して言っているのではありません。涙を

流さずに “泣いている” 子供たちが、結構いるのだろうと。

 当の本人さえ、自分が “泣いている” ことを気付かず、自

分が “悲しい” ことさえ分からず、心の置き場を失くして傷

付いている子供たちが大勢いるだろうと。

 「隠された悲しみ」を抱えた、「悲しむ事を許されない」

子供たちが、“大人” という〈社会〉からの圧力に胸を詰ま

らせていることだろう。


 考え過ぎかも知れません。

 でも、この頃、小学生がずいぶんとしっかりした、大人の

ような意見を言うのを耳にすることが多くて、何やら不穏な

ものを感じてしまう。


 「効果的な教育がなされて、子供が早く賢くなっていい

ね!」などとは、思わない。

 「そんなに早く大人になっちゃって、どうするの? いっ

たい、いつ、子供をヤルの?」という想いが湧いてきてしま

う。


 “生きられるはずだったであろう子供としての時間” は、

何処へ行った?

 “生まれ出るのを待っていたであろうナイーブな感覚とエ

ネルギー” はどうした?


 「子供らしさ」と言えば陳腐に過ぎるけれど、数万年もの

間、ほとんど変わらなかったであろう子供の在り方が、数十

年で急激に変わってしまうことは、人の成長に影響を与えず

に措かないだろう。


 子供の身体の成長にさまざまな栄養が必要な様に、子供の

心の成長には、理屈ではない体験や感動が必要だろう。ロジ

カルな栄養ばかりを詰め込んでいては、バランスのとれた奥

行きのある人間にはなれないだろうし、子供にある種の「飢

餓感」を持たせてしまうのではないだろうか。そしてその

「飢餓感」は、意識されない “悲しみ” と “怒り” となっ

て、心の中に根を張ってしまうだろうと思う。

 そしていつか、その「飢餓感」は外に向けられるだろう。

得られてしかるべきだったものを、得られなかった事の “復

讐” として。


 それが、どの様な形で現われるのかは知らない。

 ケースバイケースだろうし、周りの人間は、何故そんな事

が起ったのか理解出来ないだろう。そして本人にも理由は分

からない。「意識されない “悲しみ” と “怒り” 」が理由な

のだから。ただ、けっして喜ばしい事ではないことは、間違

いない。
 

 では、どうすべきか?
 

 そんな世の中にしちゃったんだから、今さらどうしようも

ない。

 ただ、「ぼくらはみんな “考え過ぎ” なんだよ」と言える

だけ。

 家(うち)へ帰らなくちゃいけないんでしょう。

 
 「アタマ」と遊び過ぎて、迷子になっちゃったんですよ。

人間は。家(うち)へ帰りましょう。子供になって。

 「家(うち)」は何処にあるのか?

 「家(うち)」って何なのか?
 

 私はこう考えています。


 《 わたしが、わたしのマイホーム 》

 どこに居たってね。


 「アタマ」から、「わたし」へ帰るのです。世の中に溜め

息が出る様な時には。

 「アタマ」に、「じゃぁね!」と手を振って、自分の中へ

帰って行く。そこには、どこよりも落ち着けて、安心でき

る、「わたし」という家がある。


  さぁ 泣かないで家へお帰り

  今日の日は すべてがこれで終わった


 じゃぁね。バイバイ。



2017年9月15日金曜日

いつまで遊んでるの!


 儲かる仕事って何だと思いますか?
 

 実は、儲かる仕事って “遊び” なんですよ。

 「“遊び” が儲かる」というより、“遊び” でしか儲けられ

ないんです。儲かる仕事って、“遊び” だけなんです。その

上に、儲ける事自体が “遊び” になってる事がほとんどで

す。

 ここで言う “遊び” は「余分」という意味ですね。“グリ

コのおまけ” の “おまけ” の部分です。

 言い方を変えれば「付加価値」になります。

 「無くてもいいものだけど、あったら楽しいかなぁ」

 といった感じのものです。



 ノーブランドのお米とコシヒカリでは、コシヒカリが圧倒

的に高いですよね。確かにコシヒカリは美味しいんでしょう

が、ノーブランドのお米もまずいわけじゃない。普通に美味

しい。けれど、その少しの味の差が儲けになるのですね。

 この「差」の事を、私は “遊び” と言っているんです。

 米の味の差を楽しんでいるのですから、それは「娯楽」で

すよね。「娯楽」、つまり “遊び” なんです。

 そうやって世の中を見渡すと、「金儲けはすべて “遊び” 

の部分で行われているのだな」ということが分かります。



 スポーツはわたしたちの暮らしにとって、直接的には役に

立ちません。 

 音楽も、芝居も、小説も、絵画も、写真も、YouTube

も、ほとんどは実用性の無い「娯楽」です。

 テーブルが大理石であろうが、ベニヤ板であろうが、食事

は出来ます。そこに飾る花も腹の足しにはなりませんし、美

しく盛り付けられた「仔羊の白トリュフ添え香草焼き・アン

ダルシア風」も、おかあちゃんが作った「豚のしょうが焼

き」も、次の日にはウンコになって下水処理場へと送られて

行きます。(ホントに、身も蓋も無い事言うよねぇ・・)
 

 人は、本来必要のないものである “遊び” に金を掛け、

“遊び” の為に儲けようとしますから、余らせた金をそこに

注ぎ込みます。それ故に、“遊び” の中を莫大な金が動き回

ります。“遊び” に関わらなければ、金は儲かりません。


 このことは、高額の報酬を得ている人間の職業や、大儲け

している企業の業種を考えれば分かります。

 みんな、その時代その時代の “遊び” や “贅沢” に関わる

ものです。(プロ野球のオーナー企業の変遷を見ると、その

時なにが「娯楽」として人気があったかが分かります)



 一方で、人の暮らしに必要な物を地道に作って、それが

「必要十分」なレベルであっても、「必要十分でしかなかっ

たら」全然金になりません。「必要十分」な物には「必要な

分」の金しか払われません。

 「必要以上」の物であって初めて、「必要以上」の金が支

払われます。でも「必要以上」は「不必要」なはずなのに、

何故「必要以上」の金が支払われるのでしょう? 不思議で

すねぇ?

 「絶対に必要な物」を、「必要十分」なクオリティで作っ

て社会を支えている人こそ、“充分に” 報酬を得るべきだと

思うのですけど、何故か世の中は「別に無くてもいい物」に

法外な金を出すのですね。どうなっているのでしょう?
 

 「絶対に必要な物」を作る人や、「絶対に必要な事」をす

る人が居なければ、世の中は立ち行かなくなるのに、その様

な仕事には最低限の対価しか支払われない。

 人の「アタマ」って、おかしいと思いませんか?


 「必要最低限の物」には、「必要最低限の対価」。


 確かに筋は通っています。

 ですが、「必要最低限の物」は「絶対に必要な物」です。

 そして、「必要以上の物」は本来「不必要な物」です。

 どちらが、人間にとって大切かは言うまでもない。

 東日本大震災の被災地で、まず求められた物は、水・食

料・雨風と寒さをしのぐ為の場所・燃料などですが、あの時

に「ビールと寿司とホテルとIHヒーターとガソリンスタン

ドを用意してくれ!」なんて、誰かが言ったでしょうか?

 凍える体育館の屋根の下で、給水車の配る水に、炊き出し

のおにぎり一個に、がれきの焚火の温かさに、感謝の涙を流

した人たちが大勢いたはずです。

 ところが災害を経験した人は、大抵次の様なことを言いま

す。

 「被災した直後は、水道から水が出るという事だけで嬉し

かった。でも、生活が落ち着いて来ると、また当たり前と感

じる様になってしまった・・・」


 わたしたちは生活に少しでもゆとりがあると、すぐに「絶

対必要な物」に「最低限の物」というラベルを貼ります。こ

の性分は何なんでしょうか?


 わたしたちの “遊び” を求める気持ちには、油断も隙もあ

りません。

 ほんの十円のお金、ほんの10分の時間でも余裕があれ

ば、何か気分を紛らわせる事に廻そうとします。何故、そこ

まで人は “遊び” を必要とするのでしょうか?

 どうやら、人は「絶対必要な物」だけでは生きられない様

に見えます。けれど、そうなると ”遊び” も「絶対必要な

物」の中に入ってしまいます。分けたつもりだったのに、ど

ういうことでしょう。
 

 それを必要としている「主体」が違うのですね。

 “遊び” を必要とするのは、われわれの「アタマ」で、そ

れ以外の物を必要としているのは「身体」です。

 「身体」は別に “遊び” なんか求めていないのに、「アタ

マ」が「“遊び” が無ければ生きて行けない!」と叫びだす

のですね。何故「アタマ」には “遊び” が必要なんでしょ

う?


 わたしたちの脳の中で、生命を維持する為の基本的な活動

を受け持っているのは、大脳皮質以外の部分です。目や耳や

手を使って必要な物を手に入れる為には、大脳皮質もまった

く無関係では無いでしょうが、その活動の中心にあるのは、

“考えること” です。ですから、“考えなければ” 大脳皮質は

仕事にあぶれてしまうので、無理にでも、無駄でも、“考

え” ます。必要のない仕事をしてでも、存在価値を担保しよ

うとする管理職の様です。(本人はちゃんと仕事をしている

つもりでも、実は組織を引っ掻き回しているだけなのも、ソ

ックリですね)


 「大脳皮質」。つまり「アタマ」は考えずにいられませ

ん。使わない機械が錆び付いて動かなくなる様に、考え続け

なければ「アタマ」は働かなくなってしまいます。それを防

ぐ為に、「アタマ」は不要なことであろうが、狂ったことで

あろうが、とにかく考え続けます。それは大脳皮質の機能上

避けられないことなのでしょう。(それで、こんなブログな

んか書いている・・・まいっちゃうね・・)

 ところが、その為に困った問題が立ち起ります。

 大脳皮質の大部分は、生命維持に関わっていませんから、

「アタマ」が考えることは、“生命としての人” にとっては

不必要なことでしかないのです。冷たい言い方ですが、「ア

タマ」の考えることは基本的に “ムダ” なのです。

 言葉を変えれば、“余分” であり、「アタマ」(大脳皮

質)がやっていることは、ほぼ “遊び” です。

 極論を言えば、人類にとって大脳皮質は “ムダ” だったの

です。(今のところ・・・)


 わたしたちが「不必要な物」に大きな対価を支払うのは、

「アタマ」にとってはそちらの方が価値が有るということ

と、「対価」という考え自体が「アタマ」の作ったものだか

ら、「アタマ」の仕事(といっても “遊び” なんですけど)

に対して充当されるのですね。


 なんの因果か、わたしたちは進化の過程で「アタマ」を背

負いこんでしまいました。

 この「アタマ」は “ムダなことを考え続ける” のが機能的

な宿命です。ことがそれだけならば大した害も無いのです

が、考えたことを「アタマ」の中に持ち続けていると、負荷

的なフィードバックが掛かって、「アタマ」に障害が起きる

様なのです。それ故に、考えたことをアウトプットすること

を余儀なくされます。

 「ムダな考え」が「ムダな物(言動)」となって、外に出

されます。

 「ムダな物」が外に出されるとどうなるか?

 「ムダな物」とは、要するに “ゴミ” ですから、地球上に

物理的・心理的な「ゴミ問題」が発生します。


 わたしたちが、“遊び” にエネルギーを注ぎ込む為に、あ

りとあらゆる環境問題が発生します。CO2、PM2.5、酸性

雨、フロンガス、などの大気汚染の問題。森林破壊、土壌汚

染、海洋汚染、放射能汚染、適正に処分できない廃棄物。こ

れらはすべて「ゴミ問題」です。

 そして、宗教・思想・経済・差別などの “心理的な「ゴミ

問題」” 。

 時代が進むにつれ、これらの問題は大きくなるばかりで、

解決出来そうな気配はありません。まったく「アタマ」が痛

い話です。( ん? 「アタマ」の一人相撲ですね・・・)


 「アタマ」が痛いのですが、「アタマ」はわたしたちの身

体に作り付けになっているので、今さら撤去出来ません。

 「アタマ」が遊ぼうとするのを止めると、「アタマ」自体

に問題が起こりますから、わたしたちに出来るのは “「アタ

マ」が遊び過ぎない様にする” 事だけです。「アタマがする

事はムダ」というアラームを常に発するプログラムを、自身

にインプットして「アタマ」の暴走をコントロールしてゆく

しかないでしょう。


 それで、世界をどうこうすることは出来ませんが、個人的

には、ムダなゴタゴタを自分で作りだす頻度を減らせるでし

ょうから、世界の問題はさて置いて、自分だけはちょっと楽

になれるでしょう。


 世界中で行われている途方もない規模の経済活動(金儲

け)。その規模が、わたしたちがどれだけ “遊び” にエネル

ギーを費やしているかを表わしています。


 「遊びで儲けて、儲けて遊ぶ」


 それが何をもたらしているか、この先何をもたらすの

か? 

 人間にとって「幸福に生きる」ことは、そんな事なのか?


 「いつまで遊んでるの!」


と、怒ってくれるおかあさんは居ません。

 人類の日暮れは近付いているのかも知れない。

 家に帰らなくていいのかな?