2018年3月7日水曜日
犯罪者の責任・・・
女子マラソンの有名選手だった女性が、万引きの再犯で逮
捕されたというニュースが、数日前に流された。
「クレプトマニア」といわれる、精神疾患の可能性が高い
だろうと報じられている。
一種の依存症と考えていいのだろうが、その行為が、〈被
害者のいる犯罪〉に直結しているので、問題が大きい。
前に書いた事があるけれど、犯罪者になるつもりで生まれ
て来る人間はいない。
何かの依存症になるつもりで生まれて来る人間もいない。
不幸を感じたくて生まれて来る人間もいない。
誰だって、スムーズに、問題なく、しあわせに生きたいだ
ろう。しかし、生きて行く間に、どこかでボタンの掛け違い
が起きる。自分がしあわせでいられる生き方と、ズレが出て
くる。そのズレが、時には社会不適応を引き起こし、犯罪行
為を起こすまでになってしまう。
そういった人に対して、私は「自己責任」の一言で片づけ
る気にはなれない。『人には自由意志は無い』という立場の
人間ですからね。
「クレプトマニア」のようなものに限らず、犯罪全般が
「病気」だと思う。
少なくとも、罪を犯したその時は、“法律を守れるだけの
倫理観を喪失している状態” なのだ。
「犯行当時『心神耗弱』であったか」が問われることがあ
るが、それを言えば、どんな犯罪者でも「犯行当時は『心神
耗弱』」に決まってる。その時は、犯罪を抑制できるだけの
倫理観が無くなってるんだから・・・。
サイコパス傾向の強い犯罪者の場合とか、重罪や悪質性の
強い犯罪の場合は別として、犯罪者に与えられるべきは、罰
よりも、治療とサポートだろう。単に、罰を与えるだけで
は、また罪を犯す可能性が高く、本人にとっても社会にとっ
ても、プラスにならない。
「犯罪者になろう」と思って生まれて来る人間はいない。
そんな人生、誰も望まない。
本人の責任ではない。
私はなにも「無罪放免にしろ」と言うのではない。
社会には法律があり、秩序は必要だ。それを乱す者をその
ままにしておくわけにはいかない。“罪” を償わないわけに
はいかない。特に〈被害者のいる犯罪〉は。
けれど、その人間全体を否定する事には異議を唱える。
「犯罪者になろう」と思って生まれて来る人間はいない。
それが例えサイコパスでも、凶悪なテロリストでも、罪を
犯した責任は本人に有るが、そうなった責任は本人には無
い。
法の定めるところに則って、「死刑相当」であるならば、
死刑にされても仕方がない。本人がその責めを負わなくては
ならない。けれど、そうなった責任は本人には無い。
倫理観のかけらも無く、罪悪感も持たず、反省もしない。
その様な人間であっても、何の後悔もしない人間でも、そ
の魂がそれを望んだとは思えない。
人として最低最悪。人でなし。畜生にも劣る。
そんな人間であっても、人の心を持たない人間であって
も、その魂はそんな自分になりたいとは、思わなかったろ
う。
いったい誰が、そんな人間になりたくて生まれて来るだろ
う?
もしかしたら、私がそんな人間に生まれていたかもしれな
い。もしかしたら、これから私がそうなるかも知れない。
自分や自分の大事な人間が、凶悪犯罪の被害者になるかも
知れない。
その時、私は恨むだろう。犯人を憎むだろう。けれど、私
が犯人を裁くことは出来ない。
その犯人は、私にならなかった〈別の私〉だろうから。
件のマラソン選手や、そのような境遇に在る人たち。
“「立ち直りたい」と願っている、罪を犯した人” たち
が、安らぎを持てるようになることを、祈る。
私に出来るのは、そんなことしかない・・・。
2018年3月6日火曜日
人は、なぜ喋る?
人というものは、よく喋ります。放っておけば、人生の半
分以上を喋ることに費やすのではないでしょうか。
そんなにエネルギーを使って、どんな話をしているかとい
えば、世間話と・・・・、・・・ほとんど世間話ですね。
世間話といっても、ここでは政治・経済・エンタメ・スポ
ーツ・仕事・遊び・人の悪口などをひとまとめにして言って
います。(「ひとまとめ」といっても、世間話の半分以上は
“人の悪口” ですが)
なんだって人はこんなに喋るのか?
人が喋る理由は、三つあると思います。
一、溜まったものを「捨てる」為。
一、持っているものを「与える」為。
一、自分の位置を「探る」為。
「捨てる」
生きていると、心理的なゴミ(ストレスなど)が溜まりま
すから、それを捨てる為に喋ります。その際、話し相手は
“ゴミ箱” として扱われています。
「与える」
教育・連絡など、情報を与える為に喋ります。
楽しみを与える為にも喋ります。明石家さんまが喋るのは
その為ですが、その中には「捨てる」も混ざっているかもし
れません。(あと、“病気” も・・。“さんちゃん” は好きで
すが)
さらには、想いやムードなどを与える(伝える)こともあ
ります。喜び・悲しみ・温かさ・怒り・・・など。
「探る」
世の中での自分の位置を知る為に、喋ります。
自分の話に、まわりからどんな反応が返って来るかで、自
分の居る場所を知ろうとします。コウモリやイルカの「エコ
ーロケーション」のようなものですね。実のところ、人が喋
る理由の八割ぐらいは、この為だろうと思います。
わたしたちが喋る事のほとんどが「世間話」なのは、「世
間」の中での自分の立ち位置を、知る為だからです。
コウモリやイルカは、自分の発した「音」の反響を受ける
ことで自分の位置を知りますが、わたしたちは、喋った
「話」の扱われ方で、「世間」での自分の位置を知ろうとし
ます。
ですから、誰かに話しかけても、何の反応も返してもらえ
なかったら、わたしたちは非常に不安になります。自分の位
置が分からなくなるからです。
そういう場合は、まるで迷路の中に入れられたようなもの
ですから、早くその環境から逃れようとします。誰しも経験
することですね。
人が、四六時中喋っているのは、世の中で迷子にならない
ようにする為ですが、実際には、みんな世の中で迷っている
ように見えませんか?
迷っていますよね。
そして、お喋りな人ほど、酷く迷ってると見た方がよいで
しょう。(喋らない人が、迷ってないとは限りませんが)
一時、世の中で「上手いこと行っている」時は、迷ってる
ようには見えなかったりしますが、そう見えてるだけで、実
は迷っていたりします。
迷わないように、一生懸命喋って、自分の位置を確かめて
いるのに、なぜ迷ってしまうのか?
考えれば当然の事ですが、自分の位置が確定していないか
ら、わたしたちは喋ります。誰もがみんな、お互いに自分の
位置が確定していないのに、お互いの反応を頼りにするので
すから、いつまで経っても誰一人位置が確定する事はありま
せん。
一時、「上手いこと行っている」時があるのは、自分の所
属する集団の中の約束事が、結構しっかりとしているという
だけで、羅針盤(古い?)・・・、GPS機器の壊れた大型
客船に乗っていて、乗客と乗組員はその事を知らないという
ような事です。カルト宗教とか、景気の良い職種とか、「今
だけ」、「その中だけ」のことです。
普通はそれしかやり方を知らないので、人は喋ることで自
分を安定させようとしますが、基準にならない “お互い” を
頼っている限り、いつまでたっても迷い続けるだけです。
その上、自分のことは棚に上げて、「お前がしっかりして
ないから、こちらまで迷うんだ(酷い目に合うんだ)!」と
いがみ合いが始まります。
「喋ってもダメなんだから、黙れば?」と思います。
人は、役に立たないのに喋り過ぎです。
「捨てる為」に喋るのだって、“喋り合う” ことで溜まる
ストレスを「捨てる」のです。
捨てられた方は “ゴミ箱” 扱いですから、ストレスが溜ま
ります。そして、別の “ゴミ箱” に自分のストレスを捨てま
す。
そうやって、果てしない “お喋りの悪循環” が続くので
す。
「やっぱり、黙ったら?」そう思いますね。
昔から、《雄弁は銀、沈黙は金》と言います。
《 沈黙の中にだけ、しあわせがある 》
そういうことで、ひとまず本日は黙る事にしましょう。
2018年3月5日月曜日
“命の循環”
昨日、ブログを書いている内に、結構重要なことがでてき
てしまった。
「〈死〉の側から〈生〉を見る」などということは、いま
まで思った事がなかったし、「〈死〉が “命の循環” のベー
スで、そこから〈生〉が現れて、〈死〉に返って行く」なん
ていう発想も持ったことがなかった。それが、急に出て来た
のです。
まったく突然に出て来た言葉だったけれど、その元になる
考えはあった。
「〈命〉というのは、〈空間〉のことではないか?」とい
うものです。
もちろん、ここで言う〈命〉とは、個体の命ではないし、
生物だけを指しているのでもない。無生物をも含めた 〈“存
在” する力〉とでも言うようなものです。
お釈迦さまが明けの明星を見て悟った時、「有情非情同時
成道」と言った。そして『涅槃経』には「山川草木悉皆成
仏」と。
どちらも「存在する〈すべて〉は仏である」ということと
捉えておいて良いと思うけれど、それなら「仏とは、〈空
間〉だろう」と思っても、あながち間違いとも言えまい。
「有情非情~」「山川草木~」という言葉を知ったのは、
もう30年ほども昔のことだけれど、「仏とは、〈空間〉だ
ろう」などと思いだしたのは最近のことで、これもブログを
書いている功徳でしょう。
そして、〈仏〉=〈空間〉という考えは、〈仏〉=《意
識》(“エゴを持たない意識”) になり、《意識》=〈命〉
と進み、昨日、あの様な文章を書かせた。
〈仏〉=《意識》=〈命〉=〈空間〉=〈タオ〉
=〈“存在” する力〉=〈霊性〉・・・
(他にも〈神〉とか「宇宙意識」とか・・・私は使わな
いけど)
そんな感じに、なんとなく自分の中でイメージがまとまっ
て来て、さらにこんな事を考えるようになっていました。
「〈空間〉そのものが〈命〉で、各々の空間をシャボン玉
のように、物質で区切ったのが “それぞれの命” であり、そ
の中で特に生物を〈生命〉と呼ぶ」と。
そこから昨日の話になった様なので、さらに、こう言わな
ければならない。
〈空間〉=〈死〉。
〈仏〉=〈死〉と。
日本では、死ねば「仏さん」になるわけですしね。辻褄は
合う。
もう一度書かなければいけない気がします。
〈仏〉=《意識》=〈命〉=〈空間〉=〈タオ〉
=〈“存在” する力〉=〈霊性〉=〈死〉・・・
(他にも〈神〉とか「宇宙意識」とか・・・もういいか)
どうも、個々の〈生〉
というものが、二次的なものになってしまいました。
「二次的」と言うと、価値の低いものの様なイメージにな
りますが、〈“存在” する力〉は〈存在〉を必要とします。
〈存在〉が無ければ、〈“存在“ する力〉の存在しようがあ
りません。二つは、不可分です。
〈生〉によってわたしたちは迷い、苦しむけれど、ただ
〈生〉のみによって "〈命〉を生きる” ことが出来るようで
す。
わたしたちは〈生〉の中で、〈“存在” する力〉に「浸
り」、「喜ぶ」為に、〈死〉から押し出されて来るのかも
知れませんね。
(なんか、えらいこと書いちゃってるなぁ・・・。
分かりにくいだろうなぁ・・。
何かの「信者」とか「スピリチュアル系」とか
思われたくないんだけどなぁ・・・。
「いまさら・・・」って思われるよなぁ・・・)
2018年3月4日日曜日
3.11 “命の循環”
3月11日が近付いて来て、東日本大震災関係の話がテレビ
に出るようになってきた。
さっきも、家族がみんな亡くなって自分ひとり残った人
が、話をしていた。
簡単に言ってしまえば「冥福を祈る」といったことで、
「天国でみんな一緒だから淋しくないよね」ということを話
されていたんだけれど、それを見た私は、「いやいや、向こ
うの方があなたを心配してるでしょう。だって、向こうの方
が家族が揃ってるんだから」と思ってしまったのでした。
「つらいのは、亡くなった家族より、ひとり残ったあなた
の方でしょ? 優しさを贈るより、家族に甘えた方がいいん
じゃないですか」・・・。
わたしたちは「生きている」ので、どうしても「生きてい
ること」に絶対的な価値を置いてしまいます。〈死〉をマイ
ナスの価値として見てしまいます。
けれど、死の理由や状況がどうであれ、〈生〉を受けた限
りは〈死〉は訪れます。〈生〉の価値を絶対視するだけに
とどまっているのではなく、〈死〉の側から〈生〉を想うこ
とも必要なのではないか。
この世界では、途切れることなく〈生〉と〈死〉が繰り返
されています。わたしたちはそれを〈生〉の側から見ていま
すが、この〈生〉と〈死〉のサイクルが、もしも〈死〉をベ
ースとするものであったら、〈死〉を怖れ、忌むことは愚か
なことになってしまいます。
「〈死〉がベース」というのは、例えて言えば “リンゴの
樹の、「リンゴの実」が〈生〉で、「樹」が〈死〉” だと考
えるということです。
主体が〈死〉であり、「樹」にあたるとしたら?
“死ぬこと” は、「実」が落ち、土に返って「樹」に戻る
ことと、同じようなものだとしたら?
〈生〉の中に居るわたしたちには、それを確かめる術は
ありませんが、そうだとしても不思議ではありません。
地球上の物質の内、「生命」として存在している量の方が
圧倒的に少ないのは明らかです。そして「生命」は死ぬと、
物質(無生物)になり、物質から、また「生命」が生まれま
す。どう見ても、「生命」より、そのベースである「物質
(無生物)」の方が多いですから、「〈生〉と〈死〉のサイ
クルは、〈死〉がベースになっていると考えた方が良いので
はないんだろうか?」とも思えて来ます。
思うだけで、確かめられないことですよ。でも、そういう
見方だって出来るのです。〈死〉の側から〈生〉を考える事
も必要でしょう。
「考える」と言ったところで、〈死〉の側には立てません
が、少なくとも〈死〉をマイナスと捉えず、ニュートラルな
ものとして保留しておく事ぐらいは出来るでしょう。
〈生〉がステージだとしたら、〈死〉を「降板」という風
に見ないで、〈死〉は幕間の「控室」ぐらいに思えばいいん
じゃないでしょうか。
次の出番では、違う役柄になっていますが、またステージ
に立ちます。「役柄が変わる」ことをエゴは嫌いますが、
「生命」と「物質」の循環を見ると、そうなっています。
実は、〈死〉を恐れているのは〈エゴ〉なんですね。
わたしたちは、生物的な〈死〉を怖れているのではなく
て、わたしたちの〈エゴ〉が、その「役柄」が終ることを怖
れている様です。
〈生〉そのものは物を考えませんから、〈死〉を恐れるこ
とはないはずです。物を考えるのは〈エゴ〉ですから、
〈死〉を恐れ、厭うのも当然〈エゴ〉ということになります
ね。
そう考えると、どのような形であれ、〈死〉にこだわり過
ぎる人は、「エゴの強い人」ということになります。
「家族の死を悼んでる人を、“エゴイスト” だとでも言う
のか!」
そういう御叱りを受けそうですが、「そう」です。
私もあなたも誰も彼も、人間ですから、身近な人の死はこ
たえます。平静ではいられません。でも、人は皆、死ぬので
す。命あるものは死ぬのです。その「必ずあるもの」を否定
しても仕方がない。その、置かれた状況がどんなに耐えがた
く思えても・・・。
「死ぬ者」、「残る者」それぞれの姿は違っても、どちら
も〈死〉と〈生〉の “命の循環” の中にあることに違いは無
い。
〈死〉や〈生〉にこだわる人
ているのです。「自分の都合」に“命の循環” を合わさせよ
うとしているのですから、「エゴイスト」ですね。
「大切な人の〈死〉を悼む」
「〈死〉は自分の大切な人に起きた悲劇だ」
そういう想いは、“命の循環” の中で、自身を〈エゴ〉と
いうカプセルに閉じ込めてしまい、かえって「大切な人」と
の繋がりを断ってしまうのではないでしょうか?
いずれは自分も行く道です。
起きた〈死〉は、「亡くなった者」と、「残る者」、お互
いの為になるべく早く肯定した方が良いと思いますね。
「役柄」が変わり、「姿」も変わっても、同じステージか
同じ劇場の、同じ「熱気」の中に居るのだと・・・。
(今日は、なんだか「スピリチュアル」色の強い内容になっ
たような感じですが、アプローチは生物科学になってるはず
です。胡散臭いと思う前に、そのへんは確かめて下さいね)
「ムダ」を考える。『養老センセイと “まる” ~』
昨日、NHKの『養老センセイと “まる” 鎌倉に暮らす』と
いう番組を観ていた。
私が師と仰ぐ養老孟司センセイは(当然ながら、私は東大
医学部と縁もゆかりも無い。ただの一読者である)自著の中
で自嘲的に言う。
「本を書く人は、本を読む人の成れの果てである」と。
「読むこと」と「書くこと」に限らず、インプットが或る
量を越えたら、アウトプットに転ずるものである。
要するに、「溜まり過ぎたら溢れる」だけの事だろう。
私がこんなブログを書き出したのも、何十年も溜まったも
のが一杯になってしまった「成れの果て」なんでしょう。も
しかすると、「溢れた」のではなく、「壊れた」、「破裂し
た」ということかも知れない。中身の良し悪しなど無関係
に、出さざるを得ない状況になったんでしょうね。何にし
ろ、私の知ったこっちゃない。
人が「何かを言う」、「何かをする」。それは、自分の中
に入って来たものを、抱えきれなくなった時に起こる。
そこには、合理性など無いというのが本当でしょう。
何かを言ったり、したりすることは、たいてい社会の中で
ですから、誰もが合理性を装います。そうしなければ、まわ
りの人間から「狂気」、と見做されてしまいかねないですか
らね。例えば、『郵便配達夫 シュヴァルの理想宮』のよう
に。
![]() |
| 『郵便配達夫シュヴァルの理想宮』 |
『シュヴァルの理想宮』は、後年 “芸術” と見做されたり
しましたが、作ってる最中は「あたまがおかしい」とされて
いたことでしょう。
そういう扱いを受けない為に、わたしたちの行為は合理性
を後付けしたり、既成の社会性の枠の中に修める形で表に出
されます。「理由があるから出す」のではなくて、「出さず
にいられないから理由を付ける」のです。
命を守る為の本能的な行動といったものは、生物としての
「理由」があると言っていいでしょうが、その行動が文化的
であればあるほど、合理性は薄れて行きます。ただ、合理化
するだけです。
市民マラソンに二万人が集まって、一斉に42.195kmを
走る・・・。私から見れば、「狂気」です。「他にすること
あるだろう・・」と思います。
その二万人の中の「それまでに溜まってきた何か」が、
マラソン大会で走らせます。それが何かは当人達にもわから
ないはずです。そういう行為は、人間として普通のことです
が、そこに「意味」や「意義」や「正当性」なんかを後付け
することには、欺瞞を感じます。
『何だか知らないけど、面白いからやっちゃってます。資
源をムダにして、興味の無い人に迷惑かけてると思いますけ
ど、大目に見て下さ~い!』とか言ってもらえると、「お互
い様だからしょうがないよね。よしよし。」という気にもな
ろうものですが、そんなこと誰も言わない。うっかりする
と、自分が何か素晴らしいことをやってるように思ってる。
でも、人間のやることは、たいてい「狂気」ですよ。
わけも分からずやってるだけですよ。
止むに止まれずやってるだけですよ。
それを “文化の枠組み”
込んで、自分と周りを納得させてるだけの事です。
少し前に、沢木興道老師の言葉を載せましたが、沢木老師
はこんな言葉も残しています。
《「座禅して何になるか」
う問いが第一、中途半端じゃ。テレビが発明されて何
になった? おまえが生まれて何になった? 何か
になるものは一つもない。》
こういうのもあります。
《人間ぐらいなやましい動物はない。複雑なエサを食い
やがって、何をやっておるのかと思えばダンスでもや
りおる。 妙な科学なんか発明して水素爆弾やらミサ
イルやら、
(どちらも、『禅に聞け』大法輪閣 より)
それから、山本夏彦氏がこんなことを言ってます。
《 何用あって、月世界へ
わたしたち人間は、わけも分からず生きて、わけも分から
ずいろんな事をしている。その事を「自分たちは、わけもわ
からず、仕方なしにやってるんだ」と意識していれば、まだ
マシなんだろうと思うけれど、何か「意義」があるかの様に
装うものだから、余計にムダ事が増えてしまう。
まぁ、いずれはその「ムダ事」もろとも、人間が滅びる時
が来るのだろうから、それでも良いと言えば良いのだけれ
ど、現在進行形で、自分のやった「ムダ事」に自分で困って
るというのが人間です。ちょっと、考えてみた方がいいと思
いますがねぇ。「溜めない」ように・・。
番組の最後で、養老センセイがこんなことを言ってました
ね。
ということをふまえて
「猫も人間も大して変わんないんだから、アレ(猫)で
いいんですよ・・・」
(このブログも大目に見て下さい)
2018年3月2日金曜日
「何の為?」?
「何の為?」って、いきなり何でしょう?
「何についての、『何の為?』」という疑問を持たれるか
も知れませんが、“何か” についてではなくて、「何の
為?」そのものの話を・・・。
わたしたちは何かにつけて、「何の為?」という疑問を持
ちます。
政治家が新しい法案を出せば、「何の為?」。
経営者が新しい決まりを作ったら、「何の為?」。
旦那が、変な物を買って来たら、「何の為?」。
仕事にやりがいを感じられなくなって来たら、「何の
為?」。
生きてる意味が分からなくなって来たら、「何の為?」。
有りがちですね。それぞれの深刻さこそ違え、わたしたち
は、しばしば「何の為?」と口にします。
「何の為?」と言うからには、あることについての理由が
分からないとか、正当性が認められない、納得がいかないと
感じているわけですが、そういう感慨は物事がスムーズに流
れている時は持ちませんね。流れを変えさせられる時に感じ
ます。
一方で、物事がスムーズに運んでいても、している事・す
べき事が無意味に思える時は、「何の為?」と思いますね。
それまであったはずの理由や、必然性が無くなったり、分か
らなくなった時・・・。
先に挙げた方は、自分のエゴを満足させることに邪魔が入
った時の反応ですね。
後に挙げた方は、エゴの見せるストーリーに疑問を感じた
時に起きる反応です。
先に挙げた方は、エゴの標準的な活動なので、わざわざ取
り上げるほどの事ではありませんが、後の方は人の心理状態
としては結構重要な局面です。
人は普段、なかなかエゴを疑ったりしないものです。いつ
もはエゴが意識の主導権を握っているので、自分のしている
ことそのものには、疑問を持たない様に仕組まれています。
ところが、心や身体があまりにも疲れてきたりすると(心
の疲れを自覚していない場合でも)、その声が自分に聞こえ
る程大きくなって来ます。
「こんなこと、必要か?」と・・・。
そこで、心と身体の声に耳を傾ければ良いのですが、すぐ
にエゴの監視に引っかかり、引き戻されます。その時にエゴ
がよく使うのは、“今までの行きがかり” です。
「今までよかったじゃないか!楽しかったじゃないか!」
「ここで辞めてしまったら、これまでの事が無駄になるじ
ゃないか!」とか言うのです。
それから、こんな風にも言います。
「そうか。じゃぁ、少し休もうか? これまで頑張って来
たものね。少し休むのも良い事だ。」
エゴは、自分を励ましてくれるのです。
そして、見事に逆境を乗り越えると人は満足します。
メデタシ、メデタシ・・・。で、済ませるような私ではあ
りませんね。
人は、本質的な逆境
いうような
必要か?」とか思ったりしないものです。必死ですから、そ
んな悠長なこと頭に浮かぶ余裕はありません。エゴより先
に、心と身体が何も言わずに行動を起こします。
仕事中に大きな地震が起きれば、仕事なんかそっちのけ
で、身を守ろうとします。
エゴが暴走し過ぎれば、鬱病になったり、胃潰瘍になった
りします。心と身体が無言のブレーキを掛けるのです。(そ
の時は「後手に回ってしまった」ということですが・・・)
「こんなこと、必要か?」という声が、自分の中に湧きあ
がる時は、“自分の中にウソがある” と見るべきです。そし
て、〈本来の自分〉の中で “黄色信号” が灯ってると考える
べきです。いや、警告でしょうか、「幅員減少」とか・・。
「そのまま突っ込むと事故るよ!」と言ってるんです。
警告にしたがって止まってしまわれることを、エゴは一番
恐れます。なぜなら、エゴは「活動」なくしては、存在でき
ないからです。
エゴはとにかく活動しようとします。理由は無いのです。
脳は停止することが出来ません。意味も無く動き続けます
が、その時にどうしても “言葉による活動”
生まれてしまいます。そして、脳は無秩序に思考することが
できないので、「思考する為の “意味”」を作りだします。
「活動理由」ですね。そうして生まれた「活動理由」が、実
際の人の活動として、アウトプットされてしまうのです。
わたしたちがやっている事のほとんどは、その様に、脳の
無意味な活動に “後付け” されたものであって、「何かの
為」ではないのです。その事は、自分がしている事の “本当
の理由” を、しつこく掘り下げて行けば分かります。どんな
事にも、決定的な理由など有りません。
せいぜい、命に直接関わる事に「生への衝動がある」と感
じるぐらいで、言葉に出来るようなものは無いと分かるはず
です。
だから、ひどく疲れた時など、〈思考〉が弱まった、ふと
した瞬間に〈本来の自分〉に返り、「何の為?」という疑問
が湧いてしまうのです。
世界中で、日々、ありとあらゆる無数の出来事が起る。
ほんの小さな日常の予定から、何百万人の賞賛を受けるよ
うな仕事や、何千万人を戦慄させる事件までもが、「◯◯の
為」という理由付けがされて、行われる。
それが、ただ単なる「脳のオーバーワーク」だなどとは、
誰も思いもしていない。
そこに注がれる膨大なエネルギーが、その分の環境破壊を
生んでいる事や、そこに使われる巨額の資金が、弱い立場の
人々を支える事にも使えた可能性などが、その脳裡をよぎる
ことは無い・・・。
あまりに身も蓋も無い話だけれど、言わせてもらう。
《 人のすることのほとんどは
貧乏ゆすりのようなものだ 》
それは〈思考の貧乏ゆすり〉とでも言うべきものですが、
タチの悪い事に、この「貧乏ゆすり」は伝染します。
そして、精神的にも物理的にも大きな影響力を持つ。
人にとって、世界にとって、本当に「為になる」事とは
「何か」?
虚心坦懐に想いを巡らせば、誰もが口をつぐむしかないで
しょう。
その問いに対して、いち早く口を開いたり、断言したりす
る者は、「正義のヒューマニスト」や「心優しいエコロジス
ト」だったり、単なるエゴの奴隷に過ぎないでしょう。
「何の為?」と真剣に自分に問う時。人は、深い虚しさと
悲しみを感じることを覚悟しなければならないけれど、それ
は “問わなければならない「問い」” です。
自分を見つける為に。
2018年3月1日木曜日
「そだねー」の効用
流行りに乗って恐縮ですが、「そだねー」を気に入ってし
まいました。
「そだねー」と言うと、お気楽な気分になれます。
そして、「そだねー」は肯定の言葉ですから、誰も彼もが
なんでもかんでも「そだねー」と言っていれば、世界は平和
になります・・・。「そだねー」。
しかし、世界は不平不満と反論と中傷と非難に満ちていま
す・・・。「やだねー」。
今まで何度も書きましたが、エゴの仕事は “否定するこ
と” ですから、「そだねー」とは反りが合わない。「そだね
ー」が受け入れられるのは、たまたまエゴとエゴの利害が合
致したときだけです。「だよねー」。(なにやら懐かしい気
が・・。「歴史は繰り返す」というやつか?)
エゴが得意とするのは、やはり「やだねー」です。
否定したその反作用で、自分を立てようとします。
エゴは文句を言うの大好き。
エゴは文句を言われるの大嫌い。
エゴは「自分は正しい」が、“正しい” と思ってる。
エゴはたとえ苦しんでも「自分は正しい」を放さない。
エゴは「自分が正しければ、死んでもいい」と思ってる。
「ジハードだ」。
「苦しい」なら、間違ってるに決まってるのに・・。
身体や心が「苦しい・・。お前、何か間違ってるよ・・」
と訴えかけても、エゴは耳を貸さない。
身体と心が話し合う「ホント、エゴには困ったもんだね」
「そだねー・・・」。
なので、エゴに対抗する為に、エゴが「やだねー」と言い
出す前に、やみくもでいいから「そだねー」を使っちゃう。
脈絡がなくても、文章的におかしくても、嫌でも使う。
「あなたはガンです」 「そだねー」
「この能無し!」 「そだねー」
「バーカ!」 「そだねー」
「死ね!」 「そだねー」
「住民税が未納です」 「そだねー」
「かきくけこ!」 「そだねー」
生きることの主導権をエゴに握らせるぐらいなら、この世
の中のことは、取るに足りません。
「病気になったら、悲しむ」
「バカにされたら、怒る」
「社会が無神経で面倒で機械的なら、ムッとする」
「無意味なことには、怪訝な顔をする」
そういった、社会の約束事の “条件付け” から自由になっ
て、自分本来の感覚を取り戻す。
自分というものは、本来、お気楽で、おおらかで、自由
なものだと、自分に思い出させる。
「そだねー」には、そんなパワーがある様に思います。
しあわせに近づく為に、私は「そだねー」をお勧めしま
す。
(流行りはすぐ廃れちゃうけどね)
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