2025年5月23日金曜日

時間の散歩

 
 
 わたしたちは、あれやこれやと迷う。
 
 道に迷う。外食で何を食べようかと迷う。どの製品を買お
 
うかと迷う。「選択肢が多すぎると選べなくなる」という認
 
知科学の研究もあるけど、選択肢があるからこそ迷う。
 
 "選択肢”とは何かと言えば、"自分の希望・満足を叶える
 
ための策”ということだろう。わたしたちは希望を叶え、満
 
足しようとして迷う。
 
 
 道に迷うのは目的地があるからで、散歩してれば迷わな
 
い。方向音痴で家に帰れないとかなら別だけど、「帰らなく
 
てもいいや」と思えば(!)それも迷ってることにはならな
 
い。
 
 
 わたしたちがあれやこれやと人生で迷うのは、目的を持
 
ち、それを達成することで満足を得ようと思うから。
 
 散歩するように生活している人は迷わない。
 
 散歩するように生きている人は迷わない。 
 
 人生というのものは、散歩するように楽しむことができる
 
ものだと思うけれど、ものごころ付いたときからそういう風
 
に思えないように育てられる。親(大人)は、子供が迷うよ
 
うに教える。まるでそれが良いことであるかのように。

 
 「わたしは時間を散歩してるのだ」
 
 そんな気分で人生を過ごせば迷いは無い。
 
 出会うことそれぞれに「へぇ〜、こんなことが有るんだ」
 
「あっ!こういうのも有りなんだ・・」みたいに楽しめるだ
 
ろう。
 
 けれども、普通はそういうようにはならない。なぜかとい
 
えば、散歩で目にするものは自分のものではないから、所有
 
欲が満たせない。アタマは自分のものにしてこそ満足するの
 
で、眺めるだけなんて暇つぶしにしかならないというように
 
思っている。所有欲と言われるのもは、いったい何なんだろ
 
うか?
 
 
 いまは、誰も彼もがそこら中でちょっとしたものにでもス
 
マホを向け、写真に収める。写真に撮ることで、意識の上で
 
は「自分のもの」になるからだろう。しかし、なんだってア
 
タマはなんでもかんでも「自分のもの」にしたいのか?
 
 
 「持っている」「持つ」という行為は、「持つ」というこ
 
とをする主体が有ってこそ成立する。わたしたちのアタマは
 
「持つ」ことによって、〈自分〉というもの(主体)が存在
 
していると確認したいのだろう。しかし、いつもいつも確認
 
したくなることこそが、〈自分〉というものは実は存在して
 
いないことを示している。存在していないというのが言い過
 
ぎなら、約束事でしかないと言おうか。
 
 どう表現するかはともかく、〈自分〉というものは曖昧な
 
ものです。思考で固めていなければぼやけてしまう。だから
 
こそ、アタマは四六時中考えることを止められない。そして
 
何かを手にしようとする。
 
 
 目的を定め、目にしたものを手に入れ、そうしながら時間
 
を過ごした先に、たどり着くのは死です。どうにかこうにか
 
保ち続けてきた〈自分〉も消え去る・・・もともと無いから
 
です。 

 
 散歩するように生きる。
 
 〈自分〉というもの、〈自分の人生〉というものも、景
 
色・体験の一つだと眺める。
 
 普通にわたしたちが街を散歩するような気楽さで、人生を
 
眺めることもできる。人生というものは、そうやって過ぎて
 
ゆかせ、眺めるものだというのが、人が生きることの楽しみ
 
なんじゃないのだろうか?

 
 ほんの何十年。せいぜい百年だけれど、時間を散歩するよ
 
うに過ごす・・・。生きるということの本質はそういうこと
 
だろう。

 
 
 
 
 

2025年5月22日木曜日

愚に生きる

 
 
 
 テレビで四国遍路の番組を観ていたら、一番の難所と言わ
 
れる山道にお遍路さんを励ます言葉が書かれていて、その中
 
に「愚に生きる」というのが有った。
 
 
 「愚」というのは、「計算しない」「損得勘定をしない」
 
ということだろう。
 
 長い遍路を歩き続けて、お寺を参るだけ。「こんなにしん
 
どい思いをして、これが何になるのだろう・・」という思い
 
が浮かんでくるだろうことを見越して、「愚に生きる」と一
 
声掛ける。
 
 「損得勘定をやめて」「何になるのかなんて計算せずに」
 
と促す。
 
 
 四国遍路をしようなどという人は、単に興味本位だった
 
り、マラソンをするような気持ちの人もいるだろうけど、な
 
にがしかの迷いや悩みを抱えていて、遍路をすればそこから
 
抜け出す糸口がつかめるかもしれないという思いを持つ人が
 
多いことだろう。「愚に生きる」というのは、遍路の真髄を
 
突いた言葉なんじゃないだろうか。

 
 
 「こんなことをしていていいのか?」
 
 「このままだとどうなるのか?」
 
 そんな風にいろいろと考えてしまい、現状を肯定できず、
 
自分の進む道に確証が持てず、過去の自分の行いはまずかっ
 
たのではないかとか、まずいことをしたとか・・・。そのよ
 
うに人は苦悩する。
 
 特に大きな悩みや迷いでなくとも、人は誰も大なり小なり
 
そういうものを抱えているものだけど、迷い・悩みというも
 
のは、あれやこれやと計算をすることで生まれてくるものだ
 
ろう。だから、ただ歩く。
 
 目指す場所が有るとはいえ、ただ寺に参るだけで、なんに
 
もならない。日常を離れて、なんにもならないことをひたす
 
ら続けること。
 
 お寺に行って「パワースポットでエネルギーをもらう」と
 
か「心を浄化する」などと考える者もいるのだろうけど、そ
 
ういう人が遍路をしても、それこそなんにもならないだろ
 
う。
 
 無意味なことをただ続ける。
 
 無意味なことをただ続けているその時も、自分は生きてい
 
る。
 
 意味がなくても人は生きている。生き続けている。
 
 ただ歩く。ただ生きる。
 
 あれこれと計算するアタマの右往左往を置き去りにする。
 
 自分は本来ただ生きているだけなんだということに気付
 
く。
 
 その気付きが人を開放する。
 
 だから「愚に生きる」。
 
 
 そもそも、生まれて来て死んで行くのだから、生きている
 
ことはなんにもならないのに、損得勘定を考えることを刷り
 
込まれて、「上手にやれば、なにかになる」と思わされてい
 
る。その固定観念が人を苦悩させる。

 
 なんになるかなんて考えずに、とにかく遍路道を歩いてい
 
ると、山道の湿気を肌が感じる。風が頬をなでる、髪をとか
 
す。鳥の声が聞こえる。里を歩けば、人が声を掛ける。饅頭
 
をくれる。そういう体験は、人が生きてゆくことを端的に示
 
している。それだけのことで、そういうものだし、それでい
 
いのだ。
 
 大層なお話を刷り込まれて、利口に生きようとすることが
 
人を迷わせる。度がすぎれば、自分自身や世の中に害を成す
 
(それが一見して害に見えなくても)。
 
 
 どこのどなたが書いたものかは知らないけれど、遍路道に
 
「愚に生きる」と記したのは、その人の実体験からなんだろ
 
うなぁ。






2025年5月12日月曜日

さしあたり····

 
 
 このブログを書いていると「さしあたり」という言葉をよ
 
く使うように思う。「しばらくは」とか「ひとまず」なんか
 
もよく使っているんじゃないだろうか。ものごとに完璧は無
 
いし、この世は諸行無常だと思っているから、おのずとそう
 
いう言い回しになるのだろうけど、それに加えて「さしあた
 
り」という言葉の持つ感じが好きなんだろうなぁ。
 
 
 いい言葉だと思いませんか?「さしあたり」って。 
 
 人生設計なんてことを考えるような人や完璧主義者は「さ
 
しあたり」なんてイラっとくるような言葉なんでしょうけ
 
ど、世の中何が起こるか分からないのが本当なんだから、な
 
んでも「さしあたりこれでイケる」というのなら御の字なわ
 
けです。
 
 
 で、この「さしあたり」が行き詰まる頃に、次の「さしあ
 
たり」をでっち上げられたらさしあたりオーケーなわけで
 
す。そうやって「さしあたり」を繫いで行くのが人生という
 
ものでしょう。でも、その人生の局面々々を「さしあたり」
 
という意識でこなしてゆくのと、「一時しのぎで・・・」と
 
いう「ちゃんとできていない」というような意識で過ごすの
 
とでは気楽さがだいぶん違うでしょう。
 
 
 いまの社会は、「将来の見通しを立てる」とか、「万全の
 
準備をして」とか、そういう観念を強く刷り込んできますけ
 
ど、そんなこと無理でしょ?人生のある一面だけに限れば可
 
能かもしれないけれど、「思い通り出世してお金も貯められ
 
た・・・けど事故に遭って歩けなくなった」「自分が夢に描
 
いた立場になれた・・・けど、世の中が変わってしまって価
 
値がない」みたいなことが起こるわけです。諸行無常です。
 
だから「さしあたり」の方が世の中の実情に合っているわけ
 
です。変化することを前提なわけですから。
 
 
 夢や目標を持って、それが実現できたら安心・・・なんて
 
ことを誰もが漠然と信じてる・・・けれど、そういう人が本
 
当に安心する時は来ない。そういう人の安心は、条件付きの
 
安心だから。
 
 
 世界は諸行無常だから、「こうなったら安心」はこうなっ
 
ても長く続かない。「さしあたりイケるから、まぁ安心」と
 
いう小さな条件で納得できる方が現実に即してる。さらに言
 
えば無条件で安心してしまえれば、その安心は永遠に続く。
 
 
 破壊的な出来事にみまわれてそのままにしておくと出来事
 
に潰されてしまうから、さしあたりなんとかするしかないけ
 
ど、さしあたりなんとかできたら大したものですよ。
 
 自分の人生に条件を付けないで、「さしあたり」を繫いで
 
生きて行けるなら、それはとても良い人生だと私はさしあた
 
り思います。
 
 
 
 
 

2025年5月9日金曜日

線を引く

 
 
 いまから三十年以上前、私の働いていた職場に知的障害を
 
持つ人たちが職業体験に来た。職場の者たちは親切に対応し
 
て予定の日数を終えたのだけど、その人たちと仕事をしなが
 
ら、私はあることに気がついた。
 
 
 当時の職場にいた私より少し先輩の一人の女性は、いわば
 
頭が悪く、簡単な計算とかでも苦手だし、物覚えも悪いし、
 
少し感情的になりやすい面もあった。基本的に良い人なの
 
で、まわりから嫌われたりはしていなかったが、仕事ができ
 
ないことでバカにされたりすることはよくあった。
 
 先輩でもあるので、私はバカにしたりはしなかったけれ
 
ど、まわりからバカにされるのを見ても「まぁ、そうだな」
 
と思っていた。ところが、職業体験に来た先の人たちの扱わ
 
れ方を見たときに「この人たちとあの先輩と、どこで線引き
 
をするんだ?」と思ってしまった。
 
 
 あの職業体験に来た人たちは、仕事ができなくても親切に
 
扱われ、障害者として社会的なサポートも受けている。一方
 
あの先輩は、一応普通に仕事はできるけれど、ちょっとした
 
失敗をするたびにバカにされてしまうし、社会からのサポー
 
トも無い・・・。私は「これはなんだ?」と思った。そし
 
て、誰かの至らなさについて、ものが言えなくなってしまっ
 
た。
 
 
 あの障害を持つ人たちに配慮し、親切にするのなら、あの
 
先輩にも配慮し、親切であるのが筋だ。だってあの人たちの
 
間に線引きをすることはできないから。この気付きはその後
 
の私のものの見方に大きな影響を与えた。
 
 
 最近「境界知能」という言葉が使われるようになってき
 
た。この言葉がいつ頃から有るのか知らないけれど、そうい
 
う概念・認識が人々の意識に留められるのは良いことだ。と
 
はいうものの、今後もその境界にいる人たちが社会的配慮を
 
受けられることは望めないだろうなと思う。社会の中の個人
 
が配慮してくれることはあってもね。
 
 
 人の知能だけではなく、本来、世界のあらゆることは線引
 
きすることができない、分けられないものはたくさんある。
 
養老孟司先生が書かれていたが、解剖学的に言えば「口」だ
 
とか「指」だとか「心臓」だとかいうものは区別できない。
 
全部つながっていて、便宜的に分けているだけだと。身体以
 
外でもあらゆることがそうだ。
 
 
 人間が作り出した物は一応分けることができる。ネジはネ
 
ジで、コップはコップだ。でも自然のものは分けられない。
 
 スズメがウンコをする。確かにスズメとウンコは別だけれ
 
ど、ウンコとスズメは、自然の命のつながりのそれぞれの一
 
面だとも言える。それを分けて見るのは、わたしたちのアタ
 
マのクセによる。アタマは分けなければしようがないから。
 
 分けなければ「自分」が存在できなくなるから、アタマは
 
なんでもかんでも分けてしまう。特にその区別が自身の存在
 
意義を強く感じさせる事柄は分けずにいられない。分けなけ
 
れば自分の存在がぐらついてしまう。

 
 アタマにとって「境界知能」という曖昧なものはとても具
 
合が悪い。
 
 「自分は良い。あれは良くない」
 
 「自分は普通。あれは異常」
 
 「自分は賢い。あいつはバカ」
 
 そういうはっきりした区別をすることで、アタマは安定感
 
を得る。しかし境界が曖昧だと、自分が区別しておきたいこ
 
とが、自分の方へ侵食してきてしまう。「もしかして自分も
 
あれと同じ部分があるのか?・・・」と思わせられてしま
 
う。アタマは線を引きたい。線を引いて「自分は良い側だ」
 
と思いたい。
 
 人がアタマ中心でいる限り線引きはやめられない。そし
 
て、社会というものが人々のアタマの働きで作られ動いて
 
いる以上、社会の中の線引きもなくならない。「境界知能」
 
という言葉が広く世に知られたところで、そこに線を引けな
 
くなったとしても、代わりに何かの線引きをしてアタマは安
 
定を得ようとするだろう。
 
 
 アタマが安定を得られるのならそれで良いということもあ
 
るだろうけれど、その安定はすぐ揺らぐ。そもそも線を引け
 
ないところに無理やり線を引くのだから、そんなもの長続き
 
しない。だから世の中にいさかいは絶えない。ひとりの人間
 
の中でもしょっちゅう葛藤や苦悩が有るのは、無理に線を引
 
いているからだ。
 
 
 線を引かないと、はなはだ落ち着きが悪い。気持ちが悪
 
い。中途半端でスッキリしない。自分というものが曖昧にな
 
るから。けれど、曖昧でありながら、その曖昧な自分がここ
 
に存在しているという事実に目を向けることは、大事なこと
 
を気付かせる。
 
 線を引いて、区別しなければならない「自分」以前に、と
 
にかくここに自分が在る。説明も区別も無く自分が在る。
 
 アタマの右往左往に関係なく自分が在る。そこに落ち着け
 
ば、いさかいや葛藤や苦悩はよそ事になる。ましてや、自分
 
と他人を区別してバカにしたりなどという愚かさは出る幕が
 
無い。
 
 
 線を引くことが愚かさを生む。世界に苦しみを生む。




 

2025年3月22日土曜日

カルトの本質

 
 
 「地下鉄サリン事件」から30年ということで、テレビがい
 
ろいろと報道している。「カルトは怖い」と思わせる代表的な
 
出来事ではあるけれど、カルトとは何なのか?カルトはどのよ
 
うに怖いのか? 
 
 
 私の考えるカルトとは、ある考えを中心に徒党を組んでいる
 
者ということです。極端に言ってしまえば、徒党を組んでいる
 
ものはすべてカルトだろうと思います。そしてカルトの怖さと
 
は、徒党の持つ力であって、その思想ではない。
 
 ヤバいことを考えているとしても、一人では大したことはで
 
きない。超天才ハッカーとかなら、ネットから重要なコンピュ
 
ーターに入り込んで一人でテロが起こせるだろうけど、そうい
 
うのは特殊な場合だし、一人なら「カルト」とは言わない。
 
「カルト」の本質は徒党です。
 
 
 私は昔から群れるのが苦手だし嫌いです。生理的に避けてし
 
まいます。「なかよしこよしは なんだか怪しい」(©井上陽
 
水)、と本能的とでも言うぐらいにそう感じる。群れること自
 
体が胡散臭いんです。
 
 
 人はなぜ群れたがるのか?
 
 なぜ群れなければならないのか?
 
 
 自分の考えを自分で疑っているからでしょうね。

 
 自分の考えを心底肯定できないので、他の人との間で共感し
 
合うことで、肯定し切れない部分を誤魔化したいのでしょう。
 
そして、その共感の数が多ければ多いほど自分の考えが確かに
 
感じられるので、群れを大きくしたくなる。けれど、いくら群
 
れが大きくても誤魔化しは誤魔化しでしかありません。そして
 
群れる者は自分を誤魔化していることを心のどこかで気付いて
 
いるので、常に不安を抱えています。群れている限り救いはあ
 
りません。 

 
 釈迦は言っていますよね。「犀の角のようにただ一人歩め」
 
と。
 
  群れたがるのは、自分を誤魔化しているということだか
 
ら、群れていると真実に気付くことができなくなる。逆に言
 
えば、群れないことで真実に気付く可能性が生まれる。
 
 
 仏教では、修行道場のことを「叢林(そうりん)」と言うそ
 
うです。「叢」というのは「くさむら」ということで、「叢
 
林」とは植物が密集して生えている様子。修行僧が沢山集まっ
 
ていることで、曲がらずに上に伸びるしかないという意味があ
 
るそうですが、そういうのは危ない面がありますね。下手をす
 
れば徒党になる。なんだか怪しい・・・。

 
 釈迦の周りには、釈迦を師と仰ぐ者が大勢いたでしょうが、
 
教団などは作らなかったし、達磨も弟子なんか持たなかった         
 
  (二祖・慧可は後継ではあるけれど、弟子とは言えないで
 
しょう)のは、人といると自分を誤魔化すようになることを深
 
く認識していたからでしょうね。
 
 
 群れる者たちは否定されるととても怒る。自分たちの考え・
 
感覚に確信が持ち切れていないので、ちょっと否定されただけ
 
でぐらついてしまうから。そして極端な場合オウム真理教のよ
 
うなことを仕出かす。一方、絶対的な納得をしている者は、他
 
者を必要とはしないし、どのように否定されても揺るがない。
 
 「犀の角」のように、ただ一人、ゆるがずに居る。
 
 自分の考えを信じたりしない。信じる必要がないから。
 
 (もっとも、その考え・感覚がただの妄想なら、精神病院に
 
いることになるでしょうけど ・・・)
 
 
 「なかよし」なのは良いことです。けれど「なかよしこよ
 
し」になるとなんだか怪しい。お互いの間の何かを、自分たち
 
の周りの何かを見ないようにしている。そこには思考停止・感
 
覚遮断による誤魔化しが潜んでいる。
 
 
 人の集まりがすべて怪しいわけではないけれど、群れる者は
 
怪しい。それは宗教に限らない。企業だろうと政党だろうとど
 
のような結社だろうとコミュニティだろうと、それが「群れ」
 
なら怪しい。
 
 
 単なる「人の集まり」と「群れ」はどう違うのか?
 
 「群れ」は個々の違いを認めない。 
 
 「犀の角」のように独り歩む人は、さまざまに違う人たちの
 
中で揺らぐことなく居られます。その人は違いを認められるか
 
らです。

 
 「違うね😊」と言って笑い合えるような関係こそが、
 
「なかよし」であり、健全でしょうね。
 
 なかよしこよしはなんだか怪しい🤔




   

2025年3月17日月曜日

宗教とは?

 

 

 宗教とは?

 
 このブログを始めた当初からこのことを書こうと思いなが
 
ら、なんとなく後回しになってきた。別に避けていたわけでも
 
ないので、自分で「なぜなんだろうなぁ」とは思うけれど、
 
まぁ面倒な話であることは確かですね。これからその面倒をこ
 
なしてゆきたいと思います。
 
 
 まず始めにやらなければと思うのが「仏教は宗教なのか?」 
 
ということです。もちろん仏教も宗教としての部分が大きい。
 
お経を上げ、仏像などを拝んでお祈りをし、ご利益を求め、戒
 
律も有るし、極楽や地獄などの話も有る。そういう部分は宗教
 
に違いない。けれども本来釈迦が教えたのは、精神分析や哲学
 
のような考察と観察から得た、世界というものと生きるという
 
ことについての気付きです。それを元に、人が苦悩から解放さ
 
れ、穏やかに生きるために個人がどういう心構えであるべきか
 
という事を語ったのであって、信仰を求めたのではない。それ
 
が本来の仏教ですが、後の人々が人間的な色付けをして宗教に
 
してしまった。なので、宗教ではあるけれども、宗教ではな
 
い。
 
 キリスト教もそうでしょう。イエスも、ただ自分の気付きを
 
語っただけで、後の人々がイエスを祀り上げて宗教にしてしま
 
った。
 
 他の宗教については私はよく分かりませんし、個々に深入り
 
したくもないので触れませんが、基本的に宗教というものは
 
「帰依し、信仰し、教えに従えばしあわせになれる(極楽・天
 
国に行ける)」という形です。要するに、ご利益を頂く為の活
 
動ですが、それは取引です。「帰依し、信仰し、教えに従うか
 
ら、良い目にあわせてください」ということですから。だから
 
「神との契約」という言葉なんかも使われるのですね。
 
 そういう風に捉えると、宗教とは社会的活動の原初的なもの
 
だと思います。「社会の中の人」として良くあろうとするもの
 
で、個人が生きることとは直接つながっていない。社会的な繋
 
がりの中でしあわせを得ようとする活動ですから、教団や宗教
 
的コミュニティとの関りが重要になるわけです。
 
 ということで、どのような社会であっても宗教が発生する。
 
宗教は社会の成立と不可分です。無宗教な人や社会もあると思
 
われるでしょうが、そういう人や社会は、科学・経済・ヒュー
 
マニズムなどを信仰しているのであって、それらも宗教です。
 
違うように装っていますがね。

 
 以前『信じる者に救いはない』(2023/10)という話を書
 
いていますが、宗教は信じることを求めるものであるので、宗
 
教は人を救わない。
 
 一見宗教ではない、科学・ヒューマニズムなどの思想・お金
 
なども、いくら信じてもそこに救いはない。ひと時の安心は得
 
られるかもしれませんが・・・。
 
 
 なので私は宗教的な話はしたくない。このブログでは仏教な
 
どの話をさんざん書いているわけですが、それらのことを信じ
 
て書いているのではありません。自分が知的に、あるいは感覚
 
的に「良い」と感じることを話題にしています。 
 
 
 とはいうものの、私も宗教的なこととは無縁ではありませ
 
ん。社会の中に生まれ、社会の中で生きているのですから、社
 
会的な部分の落ち着きを持つためには、宗教的な思考や感覚無
 
しではいられませんが、ご利益を求めて神や仏と取引する気は
 
ありません。それはあまりに不遜です。
 
 私が神や仏を拝むのは、この〈世界〉というものと自分が一
 
つのものであることを確認するための依り代としてです。信じ
 
る必要がないものの中で生きているということの気付きを見失
 
わないためです。(空や鳥やハエやゴミや地面だって拝んだり
 
します)

 
 社会で生きる上で、わたしたちに宗教は必要でしょう。それ
 
を否定する気はありません。ただ充分に気を付けないと宗教は
 
人を誤らせる。結局のところ、個人にとって宗教は関係のない
 
ものです。個人は宗教とは関係なく世界とつながっているので
 
すから。
 
 信じることをやめたとき、人は世界の真実を目にします。
 
 
 
 

2025年3月16日日曜日

何も理解していない

 
 
 わたしたちは言葉を使って世界のあらゆることを理解しよう
 
とします。例えば「リンゴの木は植物である」などと。しか
 
し、これは実のところ何も理解していない。さらに次の疑問が
 
表れるからです。「植物とは何か?」。
 
 「植物とは、空気や水から養分を得て生きてゆく生物」
 
 では「生物とは何か?」・・・
 
 長くなるので止めますが、このようにあと数回掘り下げる
 
と、「この世界とは何か?」というような究極の疑問が出て来
 
てしまいます。で、そこで行き詰まる。
 
 
 わたしたちは何も理解していない。何も理解できない。わた
 
したちが言葉を使ってできることは、表面的で一時的なつじつ
 
ま合わせだけ。むしろ表面的にでもつじつまが合うのなら良い
 
方で、つじつまが合わないままに途中で思考放棄して自分に都
 
合よく納得しようとするのが普通のやり方です。それなら、始
 
めから思考放棄した方が謙虚でずっと良い。偏見・こだわりが
 
無くて、視野が広がりますからね。
 
 でもまぁ、そういう上品な人はなかなかいないので、思考放
 
棄と思考放棄が絡まり合い、対立し合って、にっちもさっちも
 
行かないのが世の中というものです。その世の中を理解して思
 
考でなんとかしようとするのですから救いが無い。
 
 
 わたしたちは何一つ理解できない。
 
 わたしたちには何も解けない。
 
 そもそも世界を解くことはできない。
 
 世界はそういう性質のものではない。

 
 人が解きたがるのは「思考する」という病気を持っているか
 
らですが、思考しなければ生きれないという事情もあるので、
 
「思考する」ことが病気であると認識する人は多くない。けれ
 
ど「思考する」ことは、かなりの割合で人を死に導きもする病
 
気です。自分を追い詰めるだけでなく、他者をも死に至らしめ
 
もする。そういう「思考する」ことの害をすべての人がよく認
 
識するべきなのでしょうけど、社会がそれを良しとしないので
 
ほとんど語られることはない。
 
 「思考する」ことによって社会は動いて行くので、むしろ社
 
会は「思考することで良いことがもたらされる」という意識を
 
人に植え付ける。その上で、社会に大きな問題が起きても、そ
 
の責任は問題を起こした個人に転嫁されて「思考する」ことそ
 
のものの問題は語られない。
 
 
 社会が思考させ、思考が社会を作り、動かして行く。
 
 それは個人のしあわせには関係のない不毛な活動ですし、社
 
会はより複雑なものになって、人は生きづらくなるばかり。
 
 
 もちろん思考することなくしては人は生きられません。人の
 
本能は不完全ですからね。けれど、生きるためのものである
 
「思考」が人を死に導くのは本末転倒でしょう。
 
 
 
 〈 アタマは悪さをする 〉
 
 それがこのブログのメインテーマですが、本当にアタマは悪
 
い。本質的には何も理解できないのに、理解したと自らを暗示
 
に掛けて自分自身や関わる人や事を引っ掻き回す・・・。その
 
悪さだけは知っておくべきでしょう。自分と周りの安らぎを、
 
なるべく自分で乱さないために。