《 門松は冥土の旅の一里塚
めでたくもありめでたくもなし 》
ひねくれてて、メンドウな人間が言うセリフですが、この
ブログの新年の書き出しにはふさわしいでしょう。
この言葉は有名な一休さんの句ですが、実は後年の偽作だ
そうです。一里塚というものは、江戸時代にできたもので、
一休さんの頃には無かったそうですから。
いかにも一休さんが言いそうなことですが、こういった作
り話が一休さんのイメージを作り上げただけで、本当の一休
さんは、そんなにひねくれてメンドウ臭い人ではなかったん
じゃないかと思います。
「淫乱は天然」なんて言葉を残したりしてて、自然体で素直
な人だったんだろうと。ただ、人並み外れて素直だと、それ
はひねくれていることになってしまいますが・・・。
現代では、明けましておめでとうと言いながら、べつにめ
でたいことがあるとも思っていないでしょうが、昭和の始め
ごろまでは、結構本気でめでたいと思ったんじゃないかなと
思う。
昔は衛生状態が悪くて、赤痢なんかで死ぬ子供が多かった
だろうし、大人が結核で死んだりも多かった。今よりも日本
人の人口あたりの死亡者数はずっと多くて寿命も短かったの
で、家族がみんな一年無事に過ごせたら、本当にめでたかっ
ただろう。
はじめの句は、正月だからと浮かれている気分に冷や水を
浴びせるものですが、「めでたくもあり、めでたくもなし」と
いうことは、特別じゃないということです。好意的に捉えれ
ば、「正月も他の時も変わらない。だったら、常に正月のよ
うな気持ちでいてもいい」ともいえます。
毎日、「今日も生きている」ということの感慨を胸に、日々
を愛でる。毎日、めでたい・・・、なんて・・・。
そんな能天気なことは言ってられないのが、わたしたちの
日常ですが、正月のような能天気さをもっと日常に散りばめ
ても、本当は罪にはならないでしょう。
「本当は」と書いたのは、この日本の世間では、日ごろか
ら能天気でいる人間は良く思われない節があるからです(遠
慮した表現ですね)。
太平洋戦争中に、『贅沢は敵だ!』とか「国家の非常時に
へらへら笑っているとは何事か!」とかいった風潮が世の中
を支配していたわけですが、それの風潮が未だに残ってるよ
うに思います。
戦争に負けて、その挫折感を払拭する為に経済戦争をやっ
て、一時は勝利を味わってまた挫折して、その後もなんとか
挫折感を払拭したいと、日本人は戦い続けているんじゃない
だろうか? 意識はしてなくてもね。
なにも、みんながそう思っているというわけではなくて、
そういう無意識を抱えている人間が、他の者を巻き込んで日
常を「非常時」にしているんじゃないんだろうかと思う。
仕事だと言われると逆らえないとか、非実際的でわけの分
からない校則がいっぱいあったりするのは、戦争中に深刻な
顔をしていない者を、「非国民め!」と吊し上げた “真面目
な人たち” の亡霊が、この国を未だに彷徨っているのでしょ
う(“亡霊” というのは比喩ですよ。念のため)。
「安心安全」だとか言って、徹底的にコントロールしたが
るのは、日本が高度に「都市化」(©養老孟司)したからだ
けでなく、日本人の無意識に、まだ挫折感が滓のように残っ
ているのだろうという気がする。お祓いをした方が良いと思
うな。そうしないと、ヘラヘラ笑っていると何処からか「ふ
ざけるな!」という罵声が飛んで来そうです。実際、有名人
がしあわせそうにしてるだけで「炎上」したりするよね。
どんな風に「お祓い」をすると、亡霊は消えるんでしょ
う?
「消える」というか、成仏させてあげないといけないんで
すが、亡霊たちは何に縛られ、何を呪っているのでしょう?
亡霊たちは、「何か特別なことが人生になければ、人生は
失敗だ」と思っているのだと、私は思いますね。そして、自
分の人生には特別なことが無いという挫折感に囚われ、その
挫折感に縛られているので、“日常” を非常時のように扱っ
て、特別なもののように感じたいんじゃないのかな? なん
でもないのにね・・。
で、正月のような特別な時でもないのに能天気にしてる人
間を見ると、亡霊に憑依されている人間が不機嫌になってく
る・・・。
というわけで、いつも機嫌良くしてたり、普段からあまり
能天気にしてると祟られてしまうので、何事も控え目にとい
うことになる。
などと、思いつきを書き並べていますが、アメリカ人なん
かがイヤホンで音楽を聴きながら仕事をしているのを見てい
ると、今の日本人の真面目さは異常だと思う。私が社会人に
なった頃は、職場でラジオを聴きながら仕事してたからね
(あの頃は経済戦争に勝ってた時代だな・・)。
あっちが正しいとは言わないけれど、今の日本人は固すぎ
る。カチコチです。カチコチなのが標準になっている。人間
的な余裕が無さすぎ。少なくとも、他人にそれを求めちゃい
けない。やっぱり、何かに憑りつかれていると思う。
何かを「特別」と見做したい欲求が人には有る。
でも「特別」は、わたしたちのエゴがでっち上げる「お
話」です。本当は「特別」なことなど何も無い。
わたしたちは、自分が生きている「意味」だとか「価値」
だとかを感じられないので、何かを「特別」だと思う事で、
自分の人生に価値を持たせたいだけです。人間の活動の殆ど
がその為です。「特別な何か」を、自分の人生に組み入れよ
うと必死になっている。けれど、それはムダな努力です。
本当は、正月を特別扱いする必要もない。実際、正月
早々、原宿で男が車を暴走させたり、火事が起きたりしてい
る。正月だってお休みしてくれない。それに、異常と思われ
ることが日々起っている事が日常じゃないですか? 本当は
特別でもなんでもない。
《 毎日が 冥土の旅の一里塚 》
であると同時に、
《 毎日が 命の旅の目的地 》
でもあるでしょう。
であると同時に、
《 毎日が 命の旅の目的地 》
でもあるでしょう。
今日生き延びた。今生きている。
生きていることは、たどり着いているということ。
めでたいことです。「特別」なことは必要ないはずです。
と、こんな事を言っているのが、何か「特別」にしたい欲
求の表れかも知れません。
自分の足元をすくわれそうなので、これぐらいで止めにし
ときましょう。
というわけで、人並みに
「あけましておめでとうございます」
(正月から “メンドクセー人間” だと、ちょっと反省)
生きていることは、たどり着いているということ。
めでたいことです。「特別」なことは必要ないはずです。
と、こんな事を言っているのが、何か「特別」にしたい欲
求の表れかも知れません。
自分の足元をすくわれそうなので、これぐらいで止めにし
ときましょう。
というわけで、人並みに
「あけましておめでとうございます」
(正月から “メンドクセー人間” だと、ちょっと反省)
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