玄関先のビオラやチロリアンデージーに何匹ものハナアブ
が来ている。嬉しい。気分が良い。
長く務めた会社がブラック企業化してしまい、やむなく一
昨年退職し、再就職したが収入は激減。もともとお金には縁
が無い方だが、今はほんとうに余裕が無い。まぁ、生活は出
来るが・・。
日本人の平均的な考え方からすれば、私は贅沢なことは全
然してこなかった。“中の下” あたりの暮らしぶりだったろ
う。今は “下の上” ぐらいだろうか?
それで不満はなかったし、根が貧乏性で、「高級」な所へ
行ったりすると変なストレスを感じてしまうので、そういう
シチュエーションはなるべく避けて生きて来た。それに加え
て、仏教や老荘思想に興味を持ったこともあって、“「高
級」であること” を喜ぶ人間を見ると、「幼稚だな」と思
う。ただの負け惜しみかもしれないが。
二十代の頃から、花や木やコケなどに目が向くようになっ
て、やがてしょっちゅう山へ出かけるようになり、鳥やら虫
やらにも愛着を覚え始めて、自然全般へと興味は拡がった。
気が付けばいつのまにか、誰も存在さえ気付かないような
道端の草を見て嬉しくなるようになったし、先述のビオラの
ような、自分で植えた花の “美しさの不思議” に喜びを感じ
るし、今日のような暖かな陽射しには、しみじみと感動する
人間になっていた。
自分は、社会的には決して恵まれた方ではなかっただろう
し(かといって、それほど酷い目に会ったわけでもない)、
それを自力で何とかする能力も根性も持ち合わせていなかっ
た。それなりに辛い思いはあったけれど、そのことに恨みつ
らみは持たなかった。
「これが自分だからしょうがない」という “諦観” みたい
なものを持ち合わせていられたのは良かったと思う。
何より、道端の雑草(あまり使いたくない言葉だ)を見て
楽しめるような人間になれたことは、本当に幸運だと思う。
「本当の幸運」だとも思う。
社会生活の上では、“泣く泣く暮らしている” といった感
じもあるけれど、「自分ほどしあわせな人間もいない」とも
思う。(もしかすると精神疾患だろうか?)
人間のエゴを除けば、世界は驚きと美しさと温かさで満ち
ている。
自然の厳しさ・非情さも、驚きとして受け入れることもで
きる(できないこともある)。
喜ぶべきことを喜べている自分がいることに、本当に感謝
する。
こういう想いを持ったまま、この先も死ぬまで過ごせるか
どうかは分からない。そう在りたいとは思っても、自分も変
わって行く。
ずいぶん昔に、こう思うようになった。
《 しあわせでない人はこの世にいない
しあわせでないものがこの世に存在したことはない 》
ただ、自分のエゴのおしゃべりや、まわりのエゴのバカ騒
ぎに気を取られて気付けないだけなんだとね。
ほんのわずかな時間でもエゴを黙らせることが出来れば、
その瞬間は世界のまるごとを感じられる歓喜の瞬間になる。
そして気付く。それが世界の本質だと。それが命の本質だ
と。
エゴはしあわせを感じる事ができません。
エゴにできるのは「しあわせだ」と思い込む事と、脳内麻
薬でハイになる事を「しあわせだ」と勘違いする事だけで
す。
しあわせはエゴの外にある。
“くらべない心” と共にある。
いつでもどこにでもある。
世界にはしあわせだけがある。
私もあなたも、頭のてっぺんから足の爪の先までしあわせ
で出来ている。
で出来ている。
水虫だって、癌細胞だってしあわせで出来ている。
ゴキブリだって、クジラだってしあわせで出来ている。
テロリストの身体だって、カラシニコフだってしあわせで
出来ている。
ウイルスだって、プルトニウムだってしあわせで出来てい
る。
“不幸な人” だって、しあわせなんだ。不幸を感じるのは
エゴだけだから。
人は、ずっとずっと勘違いをし続けている。
行きがかり上しかたがない部分もあるけれど、お付き合い
をしてあげなければいけない事情もあるけれど、本当は不幸
にしている義務はありません。
世界はしあわせで出来ている。
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