「一年の計は元旦にあり」という。
私には「計」なんか無い。
昔っから無い。
「今年は何回ほどスキーに行こうか」などと考えていたぐ
らいで、そんなもの「計」でもなんでもない。今は、「九月
に種を蒔いて芽を出しているアヤメを、いつ頃鉢に植えよう
か」などと考える程度のことしかない。人生の目的や希望の
ようなものは持たない。なんとなく、ぼんやりと、「こうい
う方向へ行きたいなぁ」という思いがあるぐらいだ。
何かを成し遂げようとか、何者かになろうとかいう、“自
己実現” といった言葉であらわされる様な想いを持ったこと
はない。私の想いはそういう方向を向くことがないまま、今
日まで来た。
それは私の性格上の理由によるのだろうけれど、それと同
時に “自己実現” とかそれに類する言葉や、そういった言葉
を使う人たちに違和感を感じて来たという事もある(それも
私の性格によるのだけれど)。
“自己実現” というと、一般的には自らのセルフイメージ
に何かを付け足して、本来あるべき自分を完成させることの
ように思っているだろう。要するに「何かに成る」ことだと考
えている。
けれど、“自己実現” というからには、自分にならなけれ
ばいけないはずだ。「何か」になってしまったら、それは自己
ではない。
本来あるべき自分にまとわりついて自分を隠しているもの
を取り除くことで、実の自己を現すことが、“自己実現” だ
ろう。“自己実現” とは、本当は引き算で達成されるもの
だ。
「 “自己実現” は引き算だ」というのなら、“自己実現” す
ると人は小さくなってしまうのかというと、そうでもない。
自分にまとわりつき、自分を抑圧し、押し潰していたもの
が取り除かれることによって、人は大きくなる。
わたしたちは誰しもが、本来の自分とは相容れない余計な
ものを “自分の一部” だと思い込み、抱え込んでいる。そう
やって、間違ったセルフイメージに拠って社会の中で生き、
さらに余計なものを「必要だ」と信じて抱え込む。そして、
「自己実現できた!」と思った時には、自分ではない “誰
か” になってしまっていて、抱えたものに押し潰されてしま
ったりする(よくあることです)。間違ったセルフイメージ
を持ったが故の悲劇ですね。
わたしたちは誰でもセルフイメージを持っていますが、セ
ルフイメージというものが、わたしたちをしあわせにするこ
とはありません。人は正確なセルフイメージを持ち得ないか
らです。セルフイメージというものは、常に本当の自分とは
ずれている(ときには全く違う)ので、それを基準にして生
きれば自分を見失うこと必至です。そうじゃないですか?
それともあなたは、自分が正確なセルフイメージを持てると
思いますか?
不可能なんですよ。
それに、他者に対しても、正確なイメージを持つ事は出来
ません。
その人のすべてを知ることは出来ないし、自分なりのバイ
アスが係った見方しか出来ません。
そもそも、物事をイメージで見る(認識する)ことが間違
っているのです。この世の中の問題のすべてはそれが原因だ
と言ってもいい。
そして怖ろしいことに、人は物事をイメージで見ることし
か出来ません。つまり、本当の物事は見えないのです。わた
したちの〈アタマ〉は、人それぞれ、その人の思考や感情の
フィルターを通してでしか物事を認識し得ない。そして、わ
たしたちのものの見方・認識が完全になる事はないので、常
に問題を生み出します。
もちろん、ごく単純なことは分かりますよ、頭の上に岩が
落ちて来たら、逃げなきゃヤバイとかね。そんなことは、イ
メージ以前に “本能的” に判断できます。逆に、そういった
単純なことにさえ、イメージがかぶさって来ると判断ミスを
しかねません。実際、現代の日本などでは、そういった本能
的で反射的な判断が出来なくて、ケガをしたり死んだりする
人は増えている様に思いますね(個人の感想です)。
わたしたちはイメージでしか、ものを見ることが出来ませ
ん。
イメージという形にまとめなければ、物事を認識できませ
ん。
イメージにしなければ、物事は茫洋としていて、思考に組
み入れることが出来ないのです。
お釈迦さまは、その、人間の問題点を指摘して、『正見』
が必要だと言いました。
けれど、人間に『正見』など出来るのでしょうか?
お釈迦さまには出来たのでしょうか?
そんなこと私には分かりませんが、こうは思います。『正
見』というよりは『離見』とでも言った方がいいのではない
かと。
「正しく見る」というよりは、「見ることを離れる」、あ
るいは「離れて見る」といった感覚が必要なんではないだろ
うかと・・・。言い換えると「見たものに意味付けをしな
い」ということなんですけども。
見たものに意味付けをせず、こちらから働きかけたりそれ
を判断したりせずにいると、いずれ対象の方が動いて行きま
す。そして、対象が動いて単純な判断領域に入って来るまで
待って、そこで初めて対処するという在り方です。物事が単
純になるまで待っていればいいということです。
例えば、いつも他人の文句を言っている人が、こっちを見
ながらひそひそ話をしていると、わたしたちは「わたしに何
か文句でもあるのだろうか?」などとすぐイメージをふくら
ませますが、それは想像でしかありません。けれど、大抵の
人はこの時点でイメージの作り出す問題を抱え込んで、重苦
しい気分になってしまいますね。イメージの中では、憶測が
無限にふくらんで、物事がどこまでも複雑になってしまいま
すからね。
だからそうではなくて、本当にその人がこちらに文句があ
るのなら、そしてそれが重要なことならば、やがて実際に言
って来ることでしょう。そうでないなら、それは気にする必
要のない事ですし、実際に何か言われたら、それに対応すれ
ばいいだけですから単純です。もし、言われた内容が複雑な
らば、こちらからそれに意味付けせずにいると、相手の方が
「分からそう」として、単純化してくれます。そうして、で
きるだけ単純になったところで、対処すれば済みます。
これはあくまで例えですが、物事は、おおむねその様に展
開するものです。勝手な意味付けをして(イメージを持っ
て)関わると、物事はこじれたり、おかしな展開を見せてさ
らに人を悩ませるものです。
これまでに、私が何かした時に、人から「イメージが違
う!」と言われることが何度もありましたが、そういう時に
私は「ひとをイメージで見るんじゃねぇ!生で見ろ!」など
と心の中でつぶやいていました。「勝手にイメージなんか持
つな!」と。
とはいえ、自分に対しても他人に対しても出来事に対して
も、人はイメージを持たずに関わる事は出来ません。ですか
ら「自分が持つイメージは、必ず本当の事とはズレている」
という意識を持っておく方が、問題を生み出したり、問題を
大きくしたりしないで済むだろうと思いますね。
“自己実現” という、〈理想の自分のイメージ〉に自分を
合わせるという作業も、「本当にそれでいいのか?」という
疑いを持ってかからないと、この世で迷子になってしまいか
ねません。「自分は何処へ行ったの?」と・・。
セルフイメージの強固な人ほど、“自己実現” とか “自分探
し” なんてことに必死になるんだと思いますよ。やればやる
ほど、自分を見失うことになると思いますけどね。
誰もが、セルフイメージを自分だと思ってるし、他人のこ
ともイメージでしか見ていない。
本当に触れ合う前に、分かった気になってしまう・・・。
とんでもなく恐ろしい間違いですね。「誤解」と「曲解」が
幾重にも重なり合って、本当の事がまったく見えなくなって
しまいます。
人が、イメージの不確かさと、それを作り上げる〈アタ
マ〉の身勝手さに注意を払うようにならない限り、個人にも
社会にも平安が来ることはないでしょうね。
イメージを持ち、そのイメージに拠って、考え、行動して
行くことほど怖ろしいことはない。たぶんそれは〈死〉より
も怖ろしいことでしょう・・・。
「一年の計は元旦にあり」・・・・。
それならば、“イメージを信頼しないようにする” という
のはどうでしょう?。
それが今年の「計」なら、実現する値打ちがありそうに思
いますが・・・。
私には「計」なんか無い。
昔っから無い。
「今年は何回ほどスキーに行こうか」などと考えていたぐ
らいで、そんなもの「計」でもなんでもない。今は、「九月
に種を蒔いて芽を出しているアヤメを、いつ頃鉢に植えよう
か」などと考える程度のことしかない。人生の目的や希望の
ようなものは持たない。なんとなく、ぼんやりと、「こうい
う方向へ行きたいなぁ」という思いがあるぐらいだ。
何かを成し遂げようとか、何者かになろうとかいう、“自
己実現” といった言葉であらわされる様な想いを持ったこと
はない。私の想いはそういう方向を向くことがないまま、今
日まで来た。
それは私の性格上の理由によるのだろうけれど、それと同
時に “自己実現” とかそれに類する言葉や、そういった言葉
を使う人たちに違和感を感じて来たという事もある(それも
私の性格によるのだけれど)。
“自己実現” というと、一般的には自らのセルフイメージ
に何かを付け足して、本来あるべき自分を完成させることの
ように思っているだろう。要するに「何かに成る」ことだと考
えている。
けれど、“自己実現” というからには、自分にならなけれ
ばいけないはずだ。「何か」になってしまったら、それは自己
ではない。
本来あるべき自分にまとわりついて自分を隠しているもの
を取り除くことで、実の自己を現すことが、“自己実現” だ
ろう。“自己実現” とは、本当は引き算で達成されるもの
だ。
「 “自己実現” は引き算だ」というのなら、“自己実現” す
ると人は小さくなってしまうのかというと、そうでもない。
自分にまとわりつき、自分を抑圧し、押し潰していたもの
が取り除かれることによって、人は大きくなる。
わたしたちは誰しもが、本来の自分とは相容れない余計な
ものを “自分の一部” だと思い込み、抱え込んでいる。そう
やって、間違ったセルフイメージに拠って社会の中で生き、
さらに余計なものを「必要だ」と信じて抱え込む。そして、
「自己実現できた!」と思った時には、自分ではない “誰
か” になってしまっていて、抱えたものに押し潰されてしま
ったりする(よくあることです)。間違ったセルフイメージ
を持ったが故の悲劇ですね。
わたしたちは誰でもセルフイメージを持っていますが、セ
ルフイメージというものが、わたしたちをしあわせにするこ
とはありません。人は正確なセルフイメージを持ち得ないか
らです。セルフイメージというものは、常に本当の自分とは
ずれている(ときには全く違う)ので、それを基準にして生
きれば自分を見失うこと必至です。そうじゃないですか?
それともあなたは、自分が正確なセルフイメージを持てると
思いますか?
不可能なんですよ。
それに、他者に対しても、正確なイメージを持つ事は出来
ません。
その人のすべてを知ることは出来ないし、自分なりのバイ
アスが係った見方しか出来ません。
そもそも、物事をイメージで見る(認識する)ことが間違
っているのです。この世の中の問題のすべてはそれが原因だ
と言ってもいい。
そして怖ろしいことに、人は物事をイメージで見ることし
か出来ません。つまり、本当の物事は見えないのです。わた
したちの〈アタマ〉は、人それぞれ、その人の思考や感情の
フィルターを通してでしか物事を認識し得ない。そして、わ
たしたちのものの見方・認識が完全になる事はないので、常
に問題を生み出します。
もちろん、ごく単純なことは分かりますよ、頭の上に岩が
落ちて来たら、逃げなきゃヤバイとかね。そんなことは、イ
メージ以前に “本能的” に判断できます。逆に、そういった
単純なことにさえ、イメージがかぶさって来ると判断ミスを
しかねません。実際、現代の日本などでは、そういった本能
的で反射的な判断が出来なくて、ケガをしたり死んだりする
人は増えている様に思いますね(個人の感想です)。
わたしたちはイメージでしか、ものを見ることが出来ませ
ん。
イメージという形にまとめなければ、物事を認識できませ
ん。
イメージにしなければ、物事は茫洋としていて、思考に組
み入れることが出来ないのです。
お釈迦さまは、その、人間の問題点を指摘して、『正見』
が必要だと言いました。
けれど、人間に『正見』など出来るのでしょうか?
お釈迦さまには出来たのでしょうか?
そんなこと私には分かりませんが、こうは思います。『正
見』というよりは『離見』とでも言った方がいいのではない
かと。
「正しく見る」というよりは、「見ることを離れる」、あ
るいは「離れて見る」といった感覚が必要なんではないだろ
うかと・・・。言い換えると「見たものに意味付けをしな
い」ということなんですけども。
見たものに意味付けをせず、こちらから働きかけたりそれ
を判断したりせずにいると、いずれ対象の方が動いて行きま
す。そして、対象が動いて単純な判断領域に入って来るまで
待って、そこで初めて対処するという在り方です。物事が単
純になるまで待っていればいいということです。
例えば、いつも他人の文句を言っている人が、こっちを見
ながらひそひそ話をしていると、わたしたちは「わたしに何
か文句でもあるのだろうか?」などとすぐイメージをふくら
ませますが、それは想像でしかありません。けれど、大抵の
人はこの時点でイメージの作り出す問題を抱え込んで、重苦
しい気分になってしまいますね。イメージの中では、憶測が
無限にふくらんで、物事がどこまでも複雑になってしまいま
すからね。
だからそうではなくて、本当にその人がこちらに文句があ
るのなら、そしてそれが重要なことならば、やがて実際に言
って来ることでしょう。そうでないなら、それは気にする必
要のない事ですし、実際に何か言われたら、それに対応すれ
ばいいだけですから単純です。もし、言われた内容が複雑な
らば、こちらからそれに意味付けせずにいると、相手の方が
「分からそう」として、単純化してくれます。そうして、で
きるだけ単純になったところで、対処すれば済みます。
これはあくまで例えですが、物事は、おおむねその様に展
開するものです。勝手な意味付けをして(イメージを持っ
て)関わると、物事はこじれたり、おかしな展開を見せてさ
らに人を悩ませるものです。
これまでに、私が何かした時に、人から「イメージが違
う!」と言われることが何度もありましたが、そういう時に
私は「ひとをイメージで見るんじゃねぇ!生で見ろ!」など
と心の中でつぶやいていました。「勝手にイメージなんか持
つな!」と。
とはいえ、自分に対しても他人に対しても出来事に対して
も、人はイメージを持たずに関わる事は出来ません。ですか
ら「自分が持つイメージは、必ず本当の事とはズレている」
という意識を持っておく方が、問題を生み出したり、問題を
大きくしたりしないで済むだろうと思いますね。
“自己実現” という、〈理想の自分のイメージ〉に自分を
合わせるという作業も、「本当にそれでいいのか?」という
疑いを持ってかからないと、この世で迷子になってしまいか
ねません。「自分は何処へ行ったの?」と・・。
セルフイメージの強固な人ほど、“自己実現” とか “自分探
し” なんてことに必死になるんだと思いますよ。やればやる
ほど、自分を見失うことになると思いますけどね。
誰もが、セルフイメージを自分だと思ってるし、他人のこ
ともイメージでしか見ていない。
本当に触れ合う前に、分かった気になってしまう・・・。
とんでもなく恐ろしい間違いですね。「誤解」と「曲解」が
幾重にも重なり合って、本当の事がまったく見えなくなって
しまいます。
人が、イメージの不確かさと、それを作り上げる〈アタ
マ〉の身勝手さに注意を払うようにならない限り、個人にも
社会にも平安が来ることはないでしょうね。
イメージを持ち、そのイメージに拠って、考え、行動して
行くことほど怖ろしいことはない。たぶんそれは〈死〉より
も怖ろしいことでしょう・・・。
「一年の計は元旦にあり」・・・・。
それならば、“イメージを信頼しないようにする” という
のはどうでしょう?。
それが今年の「計」なら、実現する値打ちがありそうに思
いますが・・・。
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