2019年1月19日土曜日

不幸な人もしあわせならば・・・。


 不幸な人もしあわせだったら世の中はどうなるだろう?

 不幸な人が、「わたしは不幸だけれど、それはそれとし

て・・」という感じで、自身の “いま在る” ことをしあわせ

だと思えるのなら、世の中はどうなるだろう?

 世の中の幸・不幸が、人にとって二次的なものだと考えら

れるようになったら、世界はどうなるだろう?

 幸福の追求だとか夢の実現だとか称して、エゴにそそのか

されるままに個人の欲望を満たすことが、単なる “お話” に

過ぎないと誰もが思うようになったら、世界はどうなるだろ

う?


 人が意欲を無くして、世界は停滞するだろうか?

 停滞するだろうね。今よりもずっとずっと。そしてまとも

になるだろうね。

 人は今よりもずっとずっと落ち着いて暮らすだろう。だっ

て、何があってもしあわせなんだから。


 「何かを成さなければ、ある条件を満たさなければしあわ

せではない」と誰もが思い込んで、自分がそうある為にみん

ながお互いに牽制しあう。そんな世界に暮らしていれば、出

塁したランナーの様に、いつも浮き足立って、前のめりで、

神経をとがらせていなければならない。


 わたしたちは、ゲームに参加しなければならないと思い込

まされている。

 気付いたらバットを持たされていて、今さら抜けられない

と思い込む(実際、まず抜けられないけどね)。「勝った。

負けた」と一喜一憂する。それがこの世の中の現実だとして

も、それはゲームです。お遊びです。オマケです。生きるこ

との本質ではない。

 人がお互いに、そのゲームの価値を高く思いたがって、思

い込んで、あたかもそれが生きることそのものの値打ちであ

るかのように振る舞い合う。



 それなりに喜んでいらっしゃる人の気持ちに水を差すの

は、けっして褒められたことではないので、誰もそんなこと

は言いませんが(私だって言いませんが)、オリンピックで

金メダルを獲って喜んでいるアスリートに「それがなんなん

ですか?」と言ったら、殺されるほど恨まれることでしょ

う。それは言わないという暗黙の了解を破る事になりますか

らね。寅さんじゃないですが「それを言っちゃあ、お終い

よ!」ということです。“お話” がぶち壊しです。でも、ほ

んとは「それがなんなんですか?」というのが真実です。


 人は、なんでもなくていいんです。

 人生は、なんでもなくていいんです。

 世の中は、人生は、“お話” です。

 病気や災害でさえ “お話” です(そう思うのはとてもとて

も難しいですけどね)。

 生きることの本質を忘れて 、“お話” に必死になり過ぎる

から、かえって人の苦しみは増大する。



 苦労して苦労して苦労して・・、やっと手に入れた金メダ

ル。

 苦労して苦労して苦労して・・、やっと手に入れた社会的

成功。
 

 喜びよりも、苦労の方が数千倍多いだろうと思いますが、

コスパが悪すぎるのでは?

 そんなことに首を突っ込まずに、のんびりしてたら良かっ

たのでは?


 こういうことを言うと、「苦労して、がんばってこそ、そ

こに人間の成長があるのだ!何もしないで怠けていると、人

間はダメになってしまう!」と言って怒り出す人も多いでし

ょう。でも、その考えがすでに “お話” です。

 なぜなら、そこでの “人間の成長” は、「世の中の評価に

おける成長」だからです。世の中の “お話” です。世の中で

褒めてもらえるということでしかありません。

 (ホントに、「これを言っちゃあ、お終い」だな。悪気は

無いんだけどね)


 世の中で評価される事というのは、「“お話” でしかな

い」ということをよくよく心得ておかないと、本当に「不幸

だなぁ」と言いたくなることが起ります。
 


 若い人は知らないでしょうが、前の東京オリンピックの男

子マラソンで、銅メダルを獲った円谷幸吉という人がいま

す。

 円谷さんはこのことで一躍ヒーローになりましたが、その

数年後に、プレッシャーに押し潰されるかたちで自ら命を絶

ちました。

 世の中が膨らました “お話” から抜け出すことが出来なく

て、自身の命のエネルギーを吸い取られてしまったような事

だったのしょう。


 社会的成功や、誰かの感動のエピソードや、アスリートの

達成感、スターの華やかさ、金持ちの優雅さ・・・。

 そういった良い(とタグ付けされた) “お話” だけではな

くて、ヒトラーの語った事や、大国の掲げる大義名分や、巨

大企業のCEOが「夢」と称する “強欲” のようなものもやは

り “お話” ですが、そのような “お話” の暗い部分とのバラ

ンスを取る為に、世の中は感動話を求めます(とてもバラン

スが取れるとは思えないんですが)。

 それは、人が “お話” のもたらす「暗黒面」を直視してし

まって、 “お話” 自体を「良くないもの」と思わないように

する、エゴの策略です。エゴは “お話” の中でしか存在でき

ませんから、あるあゆる手段で “お話” を守ろうとするので

す。



 私は、悪気があってこんなことを言っているのではありま

せんよ。それが人間の真実だから、それを語っているだけで

す。人としての本当のしあわせは「そこには無い」と思って

いるだけです。


 だってね、さっき書きましたが、金メダルを獲ったアスリ

ートに「それがなんなんですか?」と言ったら、間違いなく

その人は不愉快になって、傷付いて、一生わだかまりを持ち

続けることになるでしょう。そう思うでしょう?

 どこかの誰かの「それがなんなんですか?」のたった一言

で、台無しになってしまうような事は、そもそもその程度の

ことだということですよ。そういうことにしておきたいだけ

ですよ。


 本人だけではなくて、その “お話” に加わって一緒に酔い

たい人たちが、お互いにその “お話” の価値を担保し合う。

 自分のしていること、望んでいること、自分が愛着を持っ

ていることを「価値あることと思い込む」という約束事をみ

んな(関係者)で守る。

 そうやって守っているものが何かというと、結局、エゴの

満足でしかない。


 「エゴを守って何が悪い」という考えもあるのでしょう

が、そういう人はエゴを守る為に犠牲にしているものが、時

として非常に大きなものになることに目が向いていないんで

す。自身が自身に強いている犠牲の大きさにも、周りに及ぼ

す悪影響にも気付けない。エゴに惑わされ、支配され、無用

な活動にエネルギーを費やしていることに気付けない。

 「“苦しみ” は喜びを得る為に必要なことであり、尊いこ

とでもある」という思考のすり替えを、エゴが “お話” の中

に忍ばせるので、「苦しむことは必要だ」と多くの人が思い

込む。そして、そういう風に教育されて人は育つ。けれどそ

れは、そういう “お話” です。

 その “お話” の為に、本質的なしあわせを見失ってしま

う・・・。


 私は、社会の “お話” を100%捨てろとは言いません。言

えません。それは人間にとって「必要悪」であって、避けが

たいものだと思いますから、それに関わったっていい。関わ

らざるを得ない。でもそれは、生きることの本質ではないと

いうことを、いつも気付いていなければいけない。それが無

くったって、変わるのは “気分” だけでしかないということ

を知っていなければいけないと思うんです。


 “お話” を楽しむ分にはいい。

 “お話” を上手に利用して、生活の快適さを少し増やすの

もいい。

 けれど、“お話” が主体になってしまえば、自分の命はど

こかへ行ってしまう・・。

 生きることが、“お話” に乗っ取られてしまう・・・。

 人はエゴの乗り物に成り下がってしまう・・・・。


 エゴに自分を乗っ取られて、成り下がって、さらに下がっ

て行くと、そこには地獄がある。エゴに乗っ取られた当人

は、「自分は上がって行っている」と感じるのですが・・。


 わたしたちが母親のお腹から出て来た時には、“お話” な

んて何も知りません。そのまま “お話” なんて何も知らない

まま数年を生きて行きます。

 ずっとずっと昔なら、その後に教えられる “お話” もそん

なに大袈裟で面倒なものではなかったでしょう。でも、今で

は “お話” はとても念が入って複雑で、その現実との乖離は

バカバカしいと言うしかないほど大きい。


 “お話” は、絵本の中に有ったらそれでいいのです。その

程度のものなのです。

 絵本を現実と思い込んでしまうのが、わたしたち人間で

す。

 絵本の中にあるものは、“絵本の中のしあわせ” です。

 ほんとうのしあわせは、絵本を読んでもらっている、ベッ

ドの中の自分なのです。


 ただそこに居て、命の温かさを感じ、安らいでいる事が本

当のしあわせだと思うのですが、こんな話は、当然ながら世

の中ではすこぶる受けが悪い。こんな話をすると世の中から

憎まれます。

 「アンタ。それを言っちゃあお終いよ(怒)!」



 いいかげんに「お終い」にした方が良いと思うから言って

るんですけどねぇ。




 

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