2025年7月31日木曜日

パラレルワールドの私に

 
 
 天文学とか量子力学とかスピリチュアルとかに色々とトン
 
デモ系の話があるけど、その中で私が一番下らないと思うの
 
がパラレルワールドの存在というやつ。
 
 
 パラレルワールドが在るとして、それがなんだというの
 
か?似たような別の世界が在るとしたって、そんなものこの

世界と関係ないじゃないか。その世界にも自分が生きていよ
 
うが、それはその世界の自分であって、この自分が生きてい
 
るのはこの世界なんだから。
 
 
 あまりに下らないので、パラレルワールドの話をちゃんと
 
聞いたりしたことがなくて分からないけど、なんか、今の世
 
界が苦しかったりしたら「意識を変えれば別の世界の自分と
 
して生きられる」みたいな話もあるようだ。
 
 仮にそうできるとして、置いていかれた元の世界の自分
 
は、そこでその続きを生きてゆくだろうけど、置き去りにさ
 
れた自分のことをどう思っているのだろうか?自分さえ良け
 
れば、自分なんてどうでもいいのだろうか? 
 
 この世界に生きている自分を、より良く生きさせてあげる
 
べきではないのか?

 
 私にとってのパラレルワールドは、例えば、あなたが生き
 
ているあなたの世界です。
 
 私の奥さんが生きている彼女の世界です。
 
 三軒先の女子高生が生きているその子の世界です。
 
 トム・クルーズが生きている彼の世界です。
 
 プーチンの生きているプーチンの世界です。
 
 チンギス・ハーンの生きているハーンの世界です。
 
 お釈迦様の生きているお釈迦様の世界です。 
 
 百年後に生きている誰かの世界です。
 
 深海で生きているダイオウグソクムシの世界です。
 
 セミの世界です。
 
 細菌の世界です。
 
 
 すべての存在が、それぞれにその世界(自分の世界)に
 
在って、それが無限に重なり合っている。無数のパラレル
 
ワールドが時空を越えて重なっているもの。それが世界で
 
す。
 
 
 他の世界に目配せをせず、無限の世界の中で、自分の世界
 
を慈しんで生きる。
 
 自分の世界を嫌い、冒涜することが自分の世界を醜悪なも
 
のにしてしまう。自分の世界を愛せるのは自分だけなんだか
 
ら。

 
 「波動」がどうとか言うけど、「波動」というものがある
 
とすれば、自分が自分の世界を愛することで、別の誰かとし

て生きている自分に「良い波動」が伝わることだろう。
 
 
 パラレルワールド?
 
 自分を愛さない人間は、どの世界で生きたって自分を愛さ
 
ないだろう。
 
 
 自分の世界はここにしかない。
 
 自分はここにしかいない。
 
 
 それを受け入れない者は、すべての世界で居場所を失うだ
 
ろう。
 
 
 
 
 
 

 

2025年7月29日火曜日

架空の人

 
 
 
 NHK の『欲望の会社論』という番組を見ていて、「会社と
 
は法人である。法人とは法律上、人とみなしたもの」という
 
解説を聞きながら、ふと思った。
 
 「組織(一つの社会活動システム)を“人”と仮定するこ
 
とができるのは、そもそも“人”というものが法人と同じよ
 
うに架空のものだからじゃないか?」

 
 普通“法人”は具体的に存在していないが、“人”は存在
 
していると考える。けれど、考えてみると“人”も“法
 
人”と同じく社会の約束事であって、実態があるわけではな
 
い。
 
 
 死刑というものがあったり、外国では犯罪者がその場で射
 
殺されたりするのは、その犯罪者が法を守らないからだけれ
 
ど、それが物語ることは、社会が“人”とみなしているのは
 
「法の規定の中にある人間」だということ。社会の中では、
 
わたしたちは社会の約束事の中でのみ存在できる架空の人
 
だ。〈架空の自分〉が社会でなにを成し遂げようとも、〈実
 
態の自分〉にはなにも関係ない。

 
 わたしたちは社会の中に生まれてくる。そして社会の中で
 
生きるために、社会に了解される〈架空の自分〉を身にまと
 
う。
 
 それは仕方がないことだ。そうしなければ社会から排除さ
 
れて生きられなくなるから。けれども、常に〈実態の自分〉
 
を忘れてはならない。〈架空の自分〉に全振りした人は、怯
 
えて暮らすことになる。社会の物語は常に変わるから。
 
 
 〈実態の自分〉は怯えることがない。
 
 病気・老い・死・・・。それらの避けられないものに怯え
 
ると思われるかもしれないが、病気・老い・死・・などが怖
 
いのは、それらを「忌むべきもの」という社会のお話しにと
 
らわれているからで、〈実態の自分〉はそれらを怖れたりし
 
ない。
 
 
 社会に全振りしている人は「自分たちこそが実態を生きて
 
いるのであって、社会を架空だなんて言う人間こそ、宗教や
 
スピリチュアルみたいなアホな夢に酔ってるんだ」と言うだ
 
ろう。
 
 それは分かる。そう言われるのは仕方がない。その溝が埋
 
まることはないだろうし、「こちらに来い」などと言う気も
 
ない。お互いにそれぞれのさだめを生きるだけだ。どうぞお
 
気の済むようにと思う。
 
 
 ただ、そいういう人が自分の生きる世界で気が済んでいる
 
のだろうか? 社会の中での勝者も敗者も、物語に揺さぶら
 
れ続けるのではないだろうか? 
 
 まぁ、その揺れや刺激が楽しいのかもしれないが、私はそ
 
ういうのは御免です。だから〈架空の自分〉は最低限にして
 
おきたい。 
 
 
 「法」というのが社会の法律ではなくて、仏法の「法」で
 
あるならば、私は〈法人〉として生きたいが・・・。
 
 
 
 
 

2025年7月22日火曜日

はざまで生きる

 
 
 こんなブログを書いている人間でも、コロナの時のように
 
あまりにもおかしなことが起きていると、社会のことに首を
 
突っ込んで考える。社会は必要悪であるとはいえ、必要なの
 
だから仕方がない。私も社会人の端くれだし。
 
 そういうことで、前回・前々回は選挙絡みのことを書いた
 
けれど、やはりそういうのは私にとっては寄り道だ。本当は
 
構わない方がいいのだけど、そうなるとさっさと棺桶に入っ
 
た方がいいという話になる。
 
 
 ゲーテが言っている。
 
 
 もはや愛しもせねば迷いもせぬものは
 
 さっさと埋葬してもらうがいい

 
 ゲーテの言う通りだと思う。人が苦労しようが恵まれよう
 
が、死のうが生きようがなんとも思わないのなら、もう生き
 
ている必要がない。さっさと墓に入ればいい、生きてるのは
 
ムダだ。
 
 
 私は世の中や人生に振り回されてジタバタしたくはないけ
 
れど、達観し切って氷のようになるのも違うと思う。自分の
 
中で何かがそう教える。
 
 
 世の中のことはすべて“お話し”にすぎない。命の本質は
 
“お話し”の外にある。
 
 けれど完全に外に出てしまっては間違う。“お話し”と外
 
のはざまでバランスを取ることに、生きていることの喜び・
 
面白さがあると感じる。
 
 
 人が人間らしく怒っているのなら、自分も一緒にムカつい
 
てやらねばいけない。
 
 人が人間らしく悲しんでいるのなら、自分も一緒に泣いて
 
あげなければいけない。
 
 人が人間らしく喜んでいるのなら、自分も一緒に喜んであ
 
げなければいけない。
 
 ただし、怒りや悲しみ喜びに酔ってはならない。心を開き
 
ながら距離を取るという離れ業をこなさなければ、“お話
 
し”に飲み込まれてしまう。
 
 
 とんでもない贅沢を言っているのだと自覚している。けれ
 
ど、それがこの世に生まれてきた醍醐味だと思うし、この世
 
の中に対する真の貢献だとも思う。
 
 
 俳優が演技をする時。音楽家が楽器をかなで、歌手が歌を
 
歌う時。自分の表現に、酔いながら覚めていなければ感動を
 
生み出せない。生きていることも同じだろう。
 
 
 
 覚めながら泣き、笑いながら冷静で、落ち着きながら怒
 
る・・・。
 
 
 そんなのは、それこそお芝居だと思われるかもしれないけ
 
れど、そうじゃない。世の中の“お話し”と命の本質に気付
 
いて生きれば、自ずからそうなる。そこに、えも言われぬ喜
 
びがある。  






2025年7月21日月曜日

雨乞いのあと

 
 
 朝からテレビで参議院選挙の結果を見ながら気が付いた。
 
 「あっ!なんだ。これ待遇改善の労使交渉じゃないか」
 
と。
 
 与党(政府)が企業側で野党が労働組合側だというこで、
 
もっぱら賃上げ要求をやってるんだと。
 
 
 若い人は知らないだろうけど、日本でも昭和の頃はストで
 
よく電車が止まったりした。「政治が労使交渉なら、国民も
 
政府や政党相手にストをすればいいんじゃない?」 などと
 
思ったりする。
 
 今は SNS で考えが広く共有できるんだから、20〜40
 
代の人たちが中心になって、「消費税を廃止しないんなら、
 
俺達は働かねぇ」と日本中であらゆる職種の人たちが一斉に
 
仕事を休むとか・・・。
 
 他にどんな事が可能なのか、それで国が良くなるのか悪く
 
なるのか知らないけれどね。

 
 政治はつまるところ富の分配の話なので、やってることは
 
企業経営と労使交渉と大した違いはない。日本でガチの労使
 
交渉が行われなくなったことと、この30年間の政治はリン
 
クしてるんだろうなぁ。政治自体がデフレなんだろう。
 
 で、その政治にもとうとう揺れ戻しが来ているようだ。
 
 
 「白い紙に名前を書いて箱に入れたら、世の中が良くなる
 
なんて、雨乞いすれば雨が降るというのと同じだ」と言った
 
のは養老孟司先生だが、今回それぞれの思惑で投票した有権
 
者も当選者も、その思惑が実現して世の中が良くなるなんて
 
思わない方がいい。単に邪魔が入るからということではなく
 
て、望みが叶って「世の中が望んだ方へ変わった」という状
 
況が、新たな問題を浮かび上がらせることになるので、結局
 
のところ不満・不安がなくなることはない。
 
 
 「それじゃぁ不満があっても黙っていろというのか!」
 
と、真面目な人は言うだろうが、その真面目さが曲者だと思
 
う。
 
 人の求める心にはキリがない。真面目な人ほどキリがなく
 
求める。それは世の中に大きな問題を生む。
 
 
 既得権益者の求める心にも、自分(搾取される側)の求め
 
る心にも振り回されないために、遊び心が必要だ。遊び心が
 
あれば、世の中がどんなに出来損ないでも、どうにかこうに
 
か自分のバランスを失わずにいられるだろうし、遊び心を持
 
たずに世の中を変えようとすると、それはかなりおぞましい
 
結果をもたらすことだろう。 
 
 
 「選挙は雨乞い」
 
 そんなノリで、「運が良ければ雨が降る(暮らしが良くな
 
る)」ような意識で関わるのがいいのだろうと思う。
 
 人が社会をコントロールできると思ったら大間違い。
 
 なにしろ社会は、わたしたちの出来損ないのアタマが寄り
 
集まってできているんですからね。面白がってしまうにしく
 
はない。
 
 
 不真面目なブログで恐縮です・・・。 







2025年7月19日土曜日

選挙で何が変わるのか?

 
 
 明日は参議院選挙の投票日で、自公が大敗するだろうとい
 
う見方が大勢を占めてる。まぁそうなるだろうと思うけど、
 
何事も蓋を開けてみなければわからないのは世の常ですね。
 
どうなるんでしょうね?
 
 
 以前、「日本の政治は、左右ではなくて、中央と左右だ」
 
ということを書いたことがありますが、最近の政治を見てい
 
て、「あれでは不足だったな」と気付きました。「中央と左
 
右」だけではなくて、「中央と周囲」なんですね。
 
 
 思想的な「左右」と、経済的・地政学的な「前後」、さら
 
に自然環境なども加えた「周囲」をふまえて、いかに中央で
 
バランスをとるか? それが政府の仕事だということです
 
が、いまの政権は中央のピーク(立体的正規分布の中央)か
 
ら、あまりにもあからさまにずり落ちてしまった。というわ
 
けで「もう降りろ!」と怒っている国民の数が閾値を越えた
 
ようですね。
 
 
 自公政権とオールド野党のていたらくを見てると、「お前
 
らもう降りろ」というのは納得ですが、危惧することは有り
 
ます。
 
 社会の中で新しい勢力が台頭してしてくる場合、それを推
 
す人たちが観念的な暴徒になることも世の常だということ。
 
「これまで間違っていたことを変えるのがいいんだ!」とい
 
う観念に取り憑かれて、視野狭窄を起こすことがよくあるの
 
は歴史にあきらかです。選挙で変わるのは政権だけではあり
 
ません。政権を推す人々が、はからずも変わってしまい、社
 
会が却っておかしくなったりもする。
 
 
 ヒトラーもスターリンも、始めは真剣に国のことを考えて
 
いたことでしょう。支持者もそうでしょう。けれども人間は
 
手段と目的を取り違えるのが得意です。いつの間にか「国の
 
ため、国民のため」が「観念のため」になってしまって暴走
 
する。「観念(理想)のためには国民は二の次」になり、や
 
がて権力者が生まれて国民を喰い物にしはじめ、そして国民
 
は思う「なんでこうなった・・・」。自分たちが推したんだ
 
けどね。
 
 これから日本の政治状況が本当に大きく変わるとするな
 
ら、私はそれを懸念する。     
 
 まぁ、すぐにそういうことが起こるとは思いませんが、5
 
年後、10年後に、自由にものが言えない世の中になったと
 
しても驚きません。コロナのときに私たちはそれを目の当た
 
りにしましたよね? アタマは悪さをします。
 
 
 まぁ、先でどうなるかなんて誰もわかりませんし、今の政
 
権はロクでもないと私も思っています(当然、今の政権の方
 
が都合がいいという者もいる)。なので明日投票に行って、
 
結果を80%ぐらい「傍観者」の感じで見ていようと思いま
 
す。
 
 《 世の中はたしなむ程度にしておきましょう 》
 
 というのが私の生き方ですからね。
 
 
 
 
 
 
 

2025年7月16日水曜日

自分に帰る

 
 
 最近よく目につく話題で、若い子や子どもたちが、打たれ
 
弱く、無気力になってきているというのがある。
 
  私はそういう世代と接点が無いので実感はないが、退職
 
代行という職業が成立したり、不登校が35万人とかいう話を
 
聞いてると、「そうなんだろうな」と思う。
 
 
 小さい頃から家の中で遊んで、学校の他にいろいろな習い
 
事でも忙しくて人と関わる経験が少ない為に、人との関係が
 
上手く持てないからではないかとかいう。そういう解説を聞
 
くと「まぁ、そうなんだろうな」とは思うけど、もっと根本
 
的に、今の若い人たちにとって、既製の世の中のお話しが訴
 
求力を持っていないのだろうと思う。
 
 
 車に乗らない、出世しようと思わない、金持ちになろうと
 
思わない、人間関係がわずらわしい・・・。
 
 そういう在り方が、単に「お金が無いから」とか「能力不
 
足で人生あきらめてる」とかいうことだけではなくて、20世
 
紀に作られた世の中のお話し(サクセスストーリーなど)が
 
「言っても、それひとつの“お話し”だよね」と若い子たち
 
の多くに気付かれてしまったんじゃないか?
 
 
 自分たちの上の世代の右往左往を知っているので、これま
 
でみんなが「価値がある」としてきたことの無理くりさ加減
 
や、価値の裏側にある面倒なことが見えてしまって、「そん
 
なのプラマイゼロか、下手したら大損だろ?」と感じるの
 
で、やる気なんて出ないし、ヤバけりゃすぐ逃げるというこ
 
とになっているのだろう。それならば、結構なことだと私は
 
思う。
 
 こんなブログを書いているような人間だから、自分の考え
 
に引き寄せてそう見てしまうだけかもしれないけれど、積極
 
的に社会に参加しない、参加しても嫌ならすぐ身を引くとい
 
うのは、人として健全だ。
 
 やる気が無いのは個人の側のせいではなくて、世の中のお
 
話しに魅力がなくなったせいだろう。

 
 その、世の中の魅力の無さが、単に「今の世の中のお話し
 
に魅力が無い」のか「世の中は“お話しでしかない”から魅
 
力が無い」のかでは大きく違うが、「世の中は“お話しでし
 
かない”」と知ってしまった人が多いのではないかと思う   
 
私の希望的観測でしかないのかもしれないが。
 
 
 そういう世代がこれから世の中の中心を占めるようになる
 
と、大きな時代の転換を迎えるかもしれない。私が理想的だ
 
と思うのは、縛りのゆるい世の中になることだけど、秩序が
 
乱れて世の中が機能不全を起こすだけかもしれないし、外国
 
に食い物にされてしまうかもしれない(外国人に・・ではな
 
いよ)。  
 
 一番いただけないのは、不満足の揺れ戻しで、ナチスが台
 
頭したように負のエネルギーがお祭りを起こしてしまうこと
 
だけども、さて、どうなるのやら。

 
 もちろん私がどうこうできる話ではないので、横目で見て
 
いるだけだが、世の中に魅力を感じない若い子たちが、ため
 
息をついたりしらけたりしているだけではなくて、「世の中
 
のお話しは放っておいて、自分に帰ってくれればなぁ」と思
 
う。
 
 よくある「どこかへ出かけたり何かに没頭して日常を忘れ
 
る」とかいうのじゃなくて、「世の中のお話しの外にある、
 
人としての本当の日常を愛おしんでくれたらなぁ」と。
 
 
 
 
 
 

2025年7月12日土曜日

まま

 
 
 なんだかわからないタイトルですけど、「このまま」とか
 
「素っぴんのまま」とか言うときの「まま」のことです。
 
 
 量子力学とかスピリチュアルなんかの話の中で「意識だけ
 
が存在する」とか「本当は現実など無い」とか語られること
 
が多いんですけど、昨夜そういうことを考えていて、「『あ
 
る』とか『ない』とか言ってしまうと、もうそれだけでズレ
 
てるだろうなぁ」と思ったんですね。それで、「『ある』で
 
も『ない』でもないのはどういうことだろう」と探っていて
 
たどり着いたのが「まま」だったのです。
 
 
 「あるがまま」と言っても「無いがまま」と言っても、
 
「ある」「無い」という“限定”が最後に引っかかってしま
 
う。ならば「あるがまま」「無いがまま」の「ある」「無
 
い」を無くして、「『まま』だけならどうだ」と思ったんで
 
す。
 
 
 「まま」という言葉を説明するのは難しい。いろいろ考え
 
た末に出てきたのは【手を加えない】ということでした。
 
 
 「ある」ことにも「無い」ことにも手を加えない。
 
 運命にも人生にも手を加えない。
 
 ただただ「まま」の「まま」を辿って生きてゆく。
 
 
 「南無阿弥陀仏」の「南無」は、「すべてを任せてしま
 
う」という意味だから「まま」と同じでしょうけど、あまり
 
にも長く「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」という言葉
 
の中で使われてきたので、「南無」とだけ口にしても、どう
 
しても「阿弥陀仏」や「妙法蓮華経」がチラつく。
 
 
 「仏に会っては仏を殺し」と言ったお坊さんがいました
 
が、それは「すべての縛りから放たれて自由無碍になるため
 
には、仏さえ邪魔だ」ということで、その言葉に従えば「阿
 
弥陀仏」も「妙法蓮華経」も邪魔なのです。だから目の端に
 
でもチラつかないようにしたい。
 
 その点「まま」は手垢が付いていない。「南無」と同じこ
 
とですが、余計なものが何も付いてこないので良い。
 
 
 落ち着いて、自分の中にある「空っぽの意識の部分」を感
 
じながら、「まま・・・」とつぶやいてみる・・・。 
 
 すると、自分と自分を取り巻く世界が「まま」になる。
 
「まま」のままになる。
 
 何も欠けておらず何も余分なものもなく、何にも制限され
 
ていない、その・まま・の「在ること」が感じられる。
 
 
 過去も「まま」のまま。 
 
 いまも「まま」のまま。
 
 未来も「まま」のまま。
 
 自分も「まま」のまま。
 
 世界も「まま」のまま。
 
 生命も「まま」のまま。
 
 死も 「まま」のまま。
 
 しあわせも不しあわせも「まま」のまま。
 
 
 わたしたちは、自由なまま。
 
 
 
 まま
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2025年7月10日木曜日

笑ってやれ

 
 
 私は生まれてこの方お金に縁がない。40代の頃は行きがか
 
り上かなり働いたので少し余裕はあったけれど、やっと人並
 
みに近付いた程度で、贅沢はできなかった。そしてまた、現
 
在はお金の余裕はない。それも当然で、私はお金を稼ぐこと
 
に一所懸命になれない。ある程度お金を稼げて少し余裕がで
 
きれば、それ以上稼ぐことに時間と労力を使うのはしんどく
 
感じてしまう。
 
 結構な割合で、人は何かしたいことをするための資金とし
 
てお金を稼ごうとするけれど、私はしたいことが有っても、
 
それが頑張ってお金を稼がなければできないことなら「別に
 
しなくてもいいか」と思ってしまう。面倒くさい方が先に
 
立ってしまう。
 
 したいことの為にいま我慢するぐらいなら、したいことは
 
諦めていまを尊重するのが私の性に合う。
 
 
 こういう考えは「負け犬根性」なのだろう。でもそれが性
 
分で、それなりに面白く生きてこられたので、自分では後悔
 
などしない。他の誰かと比べて自分の生き方に低評価を付け
 
る義理はない。世の中の基準なんかに合わせるのは、自分に
 
失礼だと思っている。
 
 
 こういうことを言えば、きっと誰かが言う。
 
 「そんなの負け惜しみだろう」 
 
 人の口に戸は立てられないので仕方がない。言わせておく
 
しかない。
 
 誰が何を言おうが、自分がどんな目に遭おうが、自分は自
 
分を生きるしかない。どんな人生であれ、人生というのは
 
「どうやって笑うか」がすべてだろう。
 
 
 世の中のお話しの中で上手にやることで笑おうとする者は
 
そうすればよい。私の場合は、世の中のお話しの中では笑え
 
そうもなかったので、世の中の外で笑うすべを探った。そし
 
てその方針はほぼ成功したらしい。私は、個人的に成功し
 
た。
 
 
 こういう「個人的な成功」を公にすると、先に書いたよう
 
に必ず誰かが「負け惜しみだ」と圧をかけてくる。
 
 「知ったことか」と思う。自分ももういい歳なので、そう
 
いう輩に構っているほど、こちらの人生は残っていない。そ
 
んなひまとエネルギーがあれば、自分の成功を味わうことに
 
使う。
 
 
 自分の在り方に満足している者は、他の個人の満足の仕方
 
を批判したりはしないものだ。そんなもの人それぞれで関係
 
ないんだから。
 
 人が他人の満足の仕方を批判するのは、自分の在り方に満
 
足出来ていなくて、自分の在り方に自信が無く、不安だから
 
だ。
 
 
 と、こんなことを私が書いているのも、自分の在り方に自
 
信が無いせいかもしれない。語るに落ちるという、情けない
 
姿をさらしてしまっている可能性も否定できない・・・が、
 
その情けなさも笑ってしまえばそれで済む。
 
 
 世の中の端っこで出たり入ったり、自分の中心でふらふら
 
しながら、そんな自分を笑ってしまう。
 
 やっぱり、人生というのは「どうやって笑うか」がすべて
 
だろう。






2025年7月7日月曜日

「役に立つこと」は、わたしたちの役に立つか?

 
 
 ひねくれたタイトルですけど、このブログではこういうの
 
はよくあります。こういう物言いをしたくなるのは、世の中
 
の出来事に対して、私が違和感を感じるときですが、ネット
 
でもテレビでも職場でも学校でも、四六時中「役に立つ」と
 
いうことが望まれます。そういう常識に対して、私はなにや
 
ら不快なものを感じてしまうんですね。
 
 
 例えば「生物の多様性を守らなければならない」という主
 
張をする人が必ずといって口にするのが、「植物から未知の
 
薬の成分が発見されたり、生き物のからだの構造から新しい
 
発見がされて、それが革新的な素材を生むことにつながった
 
りする。そのために多様性を守らなければいけない」という
 
理屈。
 
 こういうのを聞くたびに私はつっこんでしまう。「役に立
 
たないのは滅んでいいんだね」と。

 
 私の言い草はあげ足取りではあるけれど、なぜそういうこ
 
とを言いたくなるかというと、「『役に立つから』という理
 
由を付けなければ社会に受け入れてもらえない」という雰囲
 
気があって、「多様性を守ろう」という人に世の中がそれを
 
感じさせているのが気に入らないからなんですね。
 
 「いろんな生き物がいるほうが面白いでしょ?」みたいに
 
言わせてもらえないのがいまの世の中というもので、その風
 
潮がくだらないなと感じる。
 
 
 いったい何が「役に立つ」のか?
 
 何か「役に立つ物」とか「役に立つこと」が生まれると、
 
それが活かされる事柄のフェーズが変わる。今までのやり方
 
が淘汰され状況が次のステージへ進むことになります。それ
 
はある面から見れば進歩・改良・創造と言えますが、裏から
 
見れば停止・改悪・破壊でしょう。エアコンが普及したおか
 
げで体温調整機能が衰えたとか、便利な機械が導入されて人
 
が仕事を失うとか。
 
 エントロピーの法則により、秩序が生まれると別のところ
 
にその分の無秩序が生まれてしまう。「役に立つもの」が生
 
まれると、その裏側で「役に立たないもの」が生まれてしま
 
う。社会がこれだけ豊かになっても、社会が人を幸福にして
 
いないのはそういうことでしょう。世界は一見良くなるよう
 
に見えても、ただエネルギーを消費し続けながらゴミの山を
 
作っているだけです。「役に立つ」と言いながら、ひと時の
 
興奮を得るだけです。
 
 人は満足することが大の苦手ですから、すぐに物足りなく
 
なるのです。はて、「役に立つこと」は一体何の役に立った
 
のでしょう?
 
 
 こんなことを聞かされると「いや、そんなことばかりじゃ
 
ない。本当に役に立つこともある」という人が必ずいるもの
 
です。例えば「ガンの絶対的な治療法が出来た」というよう
 
なことなら、本当に役に立つと多くの人が思うでしょう。け
 
れど、ガンで人が死ななくなったとして、それで人が満足す
 
るでしょうか?ガンの脅威は無くなっても人は何らかの形で
 
死にます。脅威・不安の対象が変わるだけ。では、人が誰も
 
死ななくなったら?それは果たして幸福なことなんでしょう
 
か?永遠に生きて何をするのでしょうか?
 
 「もういい加減に死なせてくれ!」人はそう言い始めるよ
 
うな気がします。
 
 
 「役に立つ」なんて、ものごとの一面です。その面を見て
 
いられるうちは愉快なことでしょうが、果たしてそれで逃げ
 
おおせる人生を送れるでしょうか
 
 
 現代は極度な功利主義・効率主義です。若い子が「タイパ
 
がイイ」とか言いますが、若いにしてもちょっと考えが浅す
 
ぎでしょう。あんな考え方で生きたら、一生しあわせとは無
 
縁です。タイパが大事なら、さっさと棺桶に入ればいいので
 
す。なのに「棺桶に入るのは嫌だ」というなら、それは幽霊
 
ですよ。
 
 
 役に立とうが立つまいが、そんなのほとんどは世の中のお
 
話しです。少なくとも「一面では良いことがある」という意
 
識でいないと後で代償を払うことになるでしょう。
 
 まぁ運良く他の誰かに代償を払わせることができるかもし
 
れませんけど、上品なことではないですし、本当のしあわせ
 
からは遠ざかるばかりでしょう。

 
 そりゃあ生活していると役に立つとか立たないとかを考え
 
る必要はありますが、生きる上では、役から外れたところに
 
意識を向ける方が、生きることに豊かさをもたらすと思いま
 
すね。