2025年7月22日火曜日

はざまで生きる

 
 
 こんなブログを書いている人間でも、コロナの時のように
 
あまりにもおかしなことが起きていると、社会のことに首を
 
突っ込んで考える。社会は必要悪であるとはいえ、必要なの
 
だから仕方がない。私も社会人の端くれだし。
 
 そういうことで、前回・前々回は選挙絡みのことを書いた
 
けれど、やはりそういうのは私にとっては寄り道だ。本当は
 
構わない方がいいのだけど、そうなるとさっさと棺桶に入っ
 
た方がいいという話になる。
 
 
 ゲーテが言っている。
 
 
 もはや愛しもせねば迷いもせぬものは
 
 さっさと埋葬してもらうがいい

 
 ゲーテの言う通りだと思う。人が苦労しようが恵まれよう
 
が、死のうが生きようがなんとも思わないのなら、もう生き
 
ている必要がない。さっさと墓に入ればいい、生きてるのは
 
ムダだ。
 
 
 私は世の中や人生に振り回されてジタバタしたくはないけ
 
れど、達観し切って氷のようになるのも違うと思う。自分の
 
中で何かがそう教える。
 
 
 世の中のことはすべて“お話し”にすぎない。命の本質は
 
“お話し”の外にある。
 
 けれど完全に外に出てしまっては間違う。“お話し”と外
 
のはざまでバランスを取ることに、生きていることの喜び・
 
面白さがあると感じる。
 
 
 人が人間らしく怒っているのなら、自分も一緒にムカつい
 
てやらねばいけない。
 
 人が人間らしく悲しんでいるのなら、自分も一緒に泣いて
 
あげなければいけない。
 
 人が人間らしく喜んでいるのなら、自分も一緒に喜んであ
 
げなければいけない。
 
 ただし、怒りや悲しみ喜びに酔ってはならない。心を開き
 
ながら距離を取るという離れ業をこなさなければ、“お話
 
し”に飲み込まれてしまう。
 
 
 とんでもない贅沢を言っているのだと自覚している。けれ
 
ど、それがこの世に生まれてきた醍醐味だと思うし、この世
 
の中に対する真の貢献だとも思う。
 
 
 俳優が演技をする時。音楽家が楽器をかなで、歌手が歌を
 
歌う時。自分の表現に、酔いながら覚めていなければ感動を
 
生み出せない。生きていることも同じだろう。
 
 
 
 覚めながら泣き、笑いながら冷静で、落ち着きながら怒
 
る・・・。
 
 
 そんなのは、それこそお芝居だと思われるかもしれないけ
 
れど、そうじゃない。世の中の“お話し”と命の本質に気付
 
いて生きれば、自ずからそうなる。そこに、えも言われぬ喜
 
びがある。  






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