NHK の『欲望の会社論』という番組を見ていて、「会社と
は法人である。法人とは法律上、人とみなしたもの」という
解説を聞きながら、ふと思った。
「組織(一つの社会活動システム)を“人”と仮定するこ
とができるのは、そもそも“人”というものが法人と同じよ
うに架空のものだからじゃないか?」
普通“法人”は具体的に存在していないが、“人”は存在
していると考える。けれど、考えてみると“人”も“法
人”と同じく社会の約束事であって、実態があるわけではな
い。
死刑というものがあったり、外国では犯罪者がその場で射
殺されたりするのは、その犯罪者が法を守らないからだけれ
ど、それが物語ることは、社会が“人”とみなしているのは
「法の規定の中にある人間」だということ。社会の中では、
わたしたちは社会の約束事の中でのみ存在できる架空の人
だ。〈架空の自分〉が社会でなにを成し遂げようとも、〈実
態の自分〉にはなにも関係ない。
わたしたちは社会の中に生まれてくる。そして社会の中で
生きるために、社会に了解される〈架空の自分〉を身にまと
う。
それは仕方がないことだ。そうしなければ社会から排除さ
れて生きられなくなるから。けれども、常に〈実態の自分〉
を忘れてはならない。〈架空の自分〉に全振りした人は、怯
えて暮らすことになる。社会の物語は常に変わるから。
〈実態の自分〉は怯えることがない。
病気・老い・死・・・。それらの避けられないものに怯え
ると思われるかもしれないが、病気・老い・死・・などが怖
いのは、それらを「忌むべきもの」という社会のお話しにと
らわれているからで、〈実態の自分〉はそれらを怖れたりし
ない。
社会に全振りしている人は「自分たちこそが実態を生きて
いるのであって、社会を架空だなんて言う人間こそ、宗教や
スピリチュアルみたいなアホな夢に酔ってるんだ」と言うだ
ろう。
それは分かる。そう言われるのは仕方がない。その溝が埋
まることはないだろうし、「こちらに来い」などと言う気も
ない。お互いにそれぞれのさだめを生きるだけだ。どうぞお
気の済むようにと思う。
ただ、そいういう人が自分の生きる世界で気が済んでいる
のだろうか? 社会の中での勝者も敗者も、物語に揺さぶら
れ続けるのではないだろうか?
まぁ、その揺れや刺激が楽しいのかもしれないが、私はそ
ういうのは御免です。だから〈架空の自分〉は最低限にして
おきたい。
「法」というのが社会の法律ではなくて、仏法の「法」で
あるならば、私は〈法人〉として生きたいが・・・。
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