2025年7月3日木曜日

禅とは

 
 
 今日、鈴木大拙の言葉を抜粋した動画がヒントになって、
 
やっと「禅」とは何かということが自分なりに分かった。
 
 
 以前から「禅」を端的に表す言葉を思いつかなかった。
 
 「禅は宗教ではない。禅は哲学でもない。禅とは何か?」
 
 そういう風に思っていたけれど、今日決着がついたように
 
思う。
 
 
 宗教は「生き方を教えるもの」で、哲学は「生き方を考え
 
るもの」だろう。では「禅」とは何か? 「禅」とは「在り
 
方を確かめるもの」だろう。
 
 「自分というものは“どう在る”のが本当なのだろう?」
 
 それを確かめながら、
 
 「自分の本質の在り方を妨げないように命を過ごすこと」
 
 そのような“在り方”を参究し、伝えてゆく営みだろう。

 
 「どう在るか?」
 
 それを徹底すれば「どう生きるか?」は考える必要も教え
 
てもらう必要もない。在り方によって、生き方は自ずと形作
 
られるから。それも、自分の本質に則った形で。
 
 
 宗教は「生き方を教えるもの」、哲学は「生き方を考える
 
もの」という定義には多少の異論もあるだろうけど、概ねそ
 
のように考えておいて問題はないだろう(ただ、それらと
 
「禅」を明確に区別することは無理があるとは思うけれど、
 
ここでは便宜的に分けておきたいと思う)。
 
 
 宗教も哲学も、どちらも「自分は何処へ向かい、何をすべ
 
きか」という、生き方のメソッドのように扱われているだろ
 
う。禅もそのような扱いを受けている。「禅を学んで落ち着
 
きを持ち、仕事の成果を上げよう」とか「禅の修行・体験を
 
通して、人間的に成長しよう」などと、禅を利用しようと考
 
える。けれどそれは的外れだ。
 
 
 禅は何ももたらさない。それどころか人が普通に持ってい
 
るものさえ奪い取り、人をむき出しにしてしまう。しかし、
 
だからこそ、そこに本質が現れる。
 
 
 余計なものを何もまとわず、センシティブで無防備な自分
 
が現れる。そしてその自分で在ることがもたらすものを知る
 
ことになる。それを一つの例えで言えば、「なんだ生きてる
 
じゃないか」という気楽さだろう。
 
 
 自分の本質(人というものの本質でもある)に則して生き
 
ると、社会からは奇異な目で見られたり批判されるかもしれ
 
ない。けれど人として、自分として生まれて来て、社会に則
 
して生きるよりは、自分に則して生きるほうが本来的でしあ
 
わせであるだろうことはあきらかだろう。
 
 とはいうものの、これまで何度も書いたように、わたした
 
ちは社会と関わらなければ生きては行けない。社会から完全
 
に離脱することはできない。けれど、自分の本質に則って
 
れば、社会との自分らしい関わり方が、自ずと無理なく決
 
まってゆく。そして「社会をたしなむように生きる」ことに
 
なる。気楽になる。
 
 
 「結跏趺坐して、公案に取り組み、厳粛に規律正しい生活
 
を営み・・・」
 
 そんな必要は無い。それは、昔の人たちが“在り方”を探
 
求しようと苦闘して来た中で、各々が成功した方法を後の人
 
たちがメソッドとして固めただけのものだ。
 
 もちろん、成功した前例があるのだからそれがダメなわけ
 
ではない。けれど「そうするもの」でもない。ひとりひとり
 
にそれぞれの「禅」がある。 
 
 
 私なら「禅」に取り組む人にはこう勧めたい。
 
 
 「いつ・どのようなときでも、常に自分の中に在る『穏や
 
かさと気軽さ』を感じていようとすること」
 
 (『穏やかさ気軽さ』を作ろうとはしないこと)
 
 
 それが「禅」のすべてだと思う。
 
 形・やり方にこだわらず、肩の力を抜いて、もったいぶら
 
ずに過ごすこと。それだけのことだろう。

 
 禅の開祖 菩提達磨は禅の真髄を問われて答えた。
 
 「そんなもの、なんにもないよ」 
 
 無数の真摯な人々の格闘の末に、千数百年かけて「禅」は
 
ようやく始まりの姿に戻ろうとしているのかもしれない。
 
 
 「なんでもないよ。気楽にやろう」
 
 
 千数百年の間、格闘してきた人々がいたからこそ、私のよ
 
うな者がこんなことを言える。これまで格闘してきた人たち
 
に感謝 🙏
 
 
 
  
 
 

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