2019年1月13日日曜日

小春日和。世界はしあわせで出来ている。




 今日はよく晴れて、陽射しがとても暖かい。

 玄関先のビオラやチロリアンデージーに何匹ものハナアブ

が来ている。嬉しい。気分が良い。


 長く務めた会社がブラック企業化してしまい、やむなく一

昨年退職し、再就職したが収入は激減。もともとお金には縁

が無い方だが、今はほんとうに余裕が無い。まぁ、生活は出

来るが・・。


 日本人の平均的な考え方からすれば、私は贅沢なことは全

然してこなかった。“中の下” あたりの暮らしぶりだったろ

う。今は “下の上” ぐらいだろうか?

 それで不満はなかったし、根が貧乏性で、「高級」な所へ

行ったりすると変なストレスを感じてしまうので、そういう

シチュエーションはなるべく避けて生きて来た。それに加え

て、仏教や老荘思想に興味を持ったこともあって、“「高

級」であること” を喜ぶ人間を見ると、「幼稚だな」と思

う。ただの負け惜しみかもしれないが。


 二十代の頃から、花や木やコケなどに目が向くようになっ

て、やがてしょっちゅう山へ出かけるようになり、鳥やら虫

やらにも愛着を覚え始めて、自然全般へと興味は拡がった。

 気が付けばいつのまにか、誰も存在さえ気付かないような

道端の草を見て嬉しくなるようになったし、先述のビオラの

ような、自分で植えた花の “美しさの不思議” に喜びを感じ

るし、今日のような暖かな陽射しには、しみじみと感動する

人間になっていた。


 自分は、社会的には決して恵まれた方ではなかっただろう

し(かといって、それほど酷い目に会ったわけでもない)、

それを自力で何とかする能力も根性も持ち合わせていなかっ

た。それなりに辛い思いはあったけれど、そのことに恨みつ

らみは持たなかった。

 「これが自分だからしょうがない」という “諦観” みたい

なものを持ち合わせていられたのは良かったと思う。

 何より、道端の雑草(あまり使いたくない言葉だ)を見て

楽しめるような人間になれたことは、本当に幸運だと思う。

「本当の幸運」だとも思う。

 社会生活の上では、“泣く泣く暮らしている” といった感

じもあるけれど、「自分ほどしあわせな人間もいない」とも

思う。(もしかすると精神疾患だろうか?)


 人間のエゴを除けば、世界は驚きと美しさと温かさで満ち

ている。

 自然の厳しさ・非情さも、驚きとして受け入れることもで

きる(できないこともある)。

 喜ぶべきことを喜べている自分がいることに、本当に感謝

する。

 こういう想いを持ったまま、この先も死ぬまで過ごせるか

どうかは分からない。そう在りたいとは思っても、自分も変

わって行く。


 ずいぶん昔に、こう思うようになった。 


 《 しあわせでない人はこの世にいない

   しあわせでないものがこの世に存在したことはない 》


 ただ、自分のエゴのおしゃべりや、まわりのエゴのバカ騒

ぎに気を取られて気付けないだけなんだとね。
 

 ほんのわずかな時間でもエゴを黙らせることが出来れば、

その瞬間は世界のまるごとを感じられる歓喜の瞬間になる。

 そして気付く。それが世界の本質だと。それが命の本質だ

と。


 エゴはしあわせを感じる事ができません。

 エゴにできるのは「しあわせだ」と思い込む事と、脳内麻

薬でハイになる事を「しあわせだ」と勘違いする事だけで

す。

 しあわせはエゴの外にある。

 “くらべない心” と共にある。

 いつでもどこにでもある。

 世界にはしあわせだけがある。


 私もあなたも、頭のてっぺんから足の爪の先までしあわせ

で出来ている。

 水虫だって、癌細胞だってしあわせで出来ている。

 ゴキブリだって、クジラだってしあわせで出来ている。

 テロリストの身体だって、カラシニコフだってしあわせで

出来ている。

 ウイルスだって、プルトニウムだってしあわせで出来てい

る。

 “不幸な人” だって、しあわせなんだ。不幸を感じるのは

エゴだけだから。


 人は、ずっとずっと勘違いをし続けている。

 行きがかり上しかたがない部分もあるけれど、お付き合い

をしてあげなければいけない事情もあるけれど、本当は不幸

にしている義務はありません。

 世界はしあわせで出来ている。



2019年1月12日土曜日

「わかりたくない」のです



 ブログを始めて、まる二年が経った。



 このブログに書いている話はわかりにくい。

 わかりにくいどころか、「わからない」と言われても “ごも

っともです” と思う。なにせ、言葉で説明しづらいことや、

言葉で説明できないことを説明しようとしているんだから、

わかりにくくて当たり前だ(などと言って自分の文章力の無

さをごまかしているのかもしれない)。まったく独りよがり

で、無意味だと思われたりもするだろう。


 けれども、人が何かを説明されて「わかった」と思っても、

説明した側とされた側のアタマの中のものが同じかどうかは

わからない。怪しいものです。人は聞きたいことだけ聞いて

いるし、わかることしか聞き取れないものだから、「わかっ

た」なんて思うこと自体が、間違いかもしれない。


 それじゃあ、みんな何もわからないで動いているのかとい

えばそうでもない。言葉での約束事の上ではわかり会える。

「1+1=2」というような取り決めの上ではね。でもそこから

少しでも外れてくると、もうわからなくなる。

 考えてみれば、「説明する」ということは、新しく約束事を

作ろうとする行為なんですね。

 さらに言えば、「話す」ということ自体が、新しく約束事を

作ろうとする行為ですね。

 「行為」と言えば聞こえが良いけれど、むしろ「あがき」と言

う方が正解でしょう。エゴのあがきです。


 わたしたちは自分のまわりの環境を自分の都合の良いよう

に整えたい。それは人間だけではありません。他の生物だっ

て自分のまわりの環境を都合の良いように整えようとしま

す。巣を整えたり、寝床を整えたり、細菌ですら分泌物をだ

して自分を守ろうとする。人間も生物として当然そうする。

けれど、人間の場合はそれだけにとどまらない。そこにエゴ

が介入してくる。介入で済めばまだしも、エゴが生物として

の都合を無視してすべてをコントロールしようとする。わた

したちが話して、説明しようとするのは、自分のまわりの環

境を自分の都合の良いように整えたいからです。


 前に、「人がしゃべるのは自分の位置を確認したいから

だ」ということを書きましたが(『人は、なぜ喋る?』

2018/3)、そうやって自分の位置を確認した後、自分の理

屈で周囲を固めて、自分の立っている場所を安定したものに

する為に、自分の立ち方(考え)を周囲に了解させようとし

ます。説明し、納得させようとするわけです。まわりが自分

の考えを了解してくれれば安心ですよね?

 わたしたちが、話し、説明するのは、自分の為の “地盤改

良工事” のようなものです。


 これらは人間本来の働きではなくて、エゴの働きです。

 エゴはわたしたちの不安から生まれ、その明確な存在理由

も持たないので、エゴ自体が不安定なものです。なので、エ

ゴが求めるのは常に “自身の安定” です。その為にはなりふ

り構いません。時として、身体(命)まで投げ打ちます。自

爆テロなどはその典型ですね。


 エゴは、そのままでは安定出来ない存在です。そしてエゴ

は「思考」によって存在していますから、言葉によって自分

を世界に位置付け、その足元を固めたいのです。だから、隙

あらば自分の立場で他人を説得しようとします。

 その話がたとえ世界の平和であろうが、環境問題であろう

が、好きなスポーツのことであろうが違いはありません。人

が自分の考えを話し、誰かに理解されようとか、説得しよう

とするのは(大袈裟な事ではなく、「靴の脱ぎ方」のような

些細なことまで)、エゴが安心したいからです。このブログ

だって例外ではありません。


 話す方は自分の都合で話しているし、聞く方も自分の都合

で聞いているだけなので、わたしたち人間の「話し」という

ものは、ほとんどの場合、理解し合えないままに終わりま

す。

 こんなことを言うと悲しくなってしまうかもしれません

が、わたしたちは人と話をしても「わかったつもりになって

いる」だけでしかありません。


 本当に「わかる」、「わかり合える」という事は、そうそ

う起こることではありません。起ったとしても、それは言葉

で直接「わかる」のではなくて、言葉をきっかけに感覚で

「わかる」のですね。そして、その「わかる」ことはエゴと

は関係のないことです。


 普通、「わかった」という時は、エゴの打算によるもので

す。

 誰も、他人のエゴの都合なんてわかるつもりはありませ

ん。そんなものをわかったら、自分のエゴの立場が制限され

てしまいます。せいぜい、相手のエゴの都合と自分のエゴの

都合の利害関係が一致する時に、「同じだね」という事にす

るだけです。都合が良ければ「手を打つ」だけの話です。

「わかり合った」わけではありません。


 人の話が本当に「わかる」というのは、自分を変えてしま

う出来事です。

 その時までの自分のエゴに、“風穴” が空くことです。

 その “風穴” から、人は本来の自分を一瞥します。

 世界の本当の姿を一瞥します。

 時には(運が良ければ)、その一瞥がその人の生き方を支

配してしまいます。

 「本来の自分」、「本当の世界」を希求することが、生き

ることの中心になってしまうのです。私が、そうです。
 

 私が辿っている道が正しいのかどうかは、私にはわかりま

せん。

 右往左往し、袋小路に迷い込んだり、ドブにハマったりし

ているのは間違いないでしょうが、「方向は間違っていない

だろう」と思っています。もし、それも間違っていたら、人

生の最後に『残念でした!』と書かれた立札を目にして、

「ああ・・・・」と力のないため息をついて終わるだけのこ

とです。


 私の事はともかく、「わかる」ということは、そのように

“身体” というか “心” の働きによるものであって、言葉によ

ってエゴが得られることではありません。

 エゴに可能なことは、どこまでいっても「わかったつも

り」でしかありません。「わからせたつもり」でしかありま

せん。だって、エゴは自分の都合の範囲内のことしかわかり

たくないからです。自分に “風穴” を空けるようなことは受

け入れません。そのようなことは理解できない(理解しな

い)仕組みになっています。

 自分に都合の悪いことを聞かされると、「納得のいく説明

をしろ!」と説明を求めますが、もともと自分は納得する気

はありませんから、何を聞いても「それじゃぁ説明になって

いない!」と突っぱね、「説明できないこと」は「必要ないこ

と」、「間違ったこと」という判断を下して、自分を守りま

す。

 エゴがやっているのはそういうことですが、当のエゴはそ

んなこと考えもせず、自分の立場をわからせようとして、他

のエゴとの間で「わからせ合い」を繰り広げます。

 親子、兄弟、恋人同士、仕事関係、宗教対宗教、国と

国・・・。世界のすべての揉め事はそれによります。

 「どうにかならないものか・・・」と思いますが、どうに

もなりそうにありませんね。


 どうにもならないのに決まっているのに、「このブログを

読んだ人のエゴに、小さな ”風穴” を開けられないものだろ

うか」と思ってこんな事を書いています。


 それなりに落ち着いている人に無用な揺さぶりを掛けるの

は、単に迷惑なだけかもしれませんが、こんな話を何とな

でも「わかってしまう」としたら、それもご縁です。幸か

幸か知りませんが、ご縁を大切にしていただければと思う次

第です。



 (・・・という話ですが、これも自分の足元を固めようと

る、私のエゴの「あがき」でしかないのでしょうか? 笑

ておくしかないですね・・・。ところで、この話わかりま

した?)



 


 

2019年1月7日月曜日

ヒューマニズムが人類を滅ぼす~『ホモ・デウス』の仕事は~




 『ヒューマニズムが人類を滅ぼす』というテーマを、以前

に書いたような気がしていたのですが、「書いていなかった

のかな?」と今考えている。

 もう三百件以上も書いて来たので、記憶が曖昧になってき

ているのです。頭にメモリーチップでも埋め込めばいいのか

も。


 昨日、NHK-BSで『サピエンス全史』と『ホモ・デウ

ス』という本の特集番組を観ていたら、「〈人間至上主義〉

とテクノロジーが結びつき、世界を統御するための〈データ

至上主義〉が進んだ結果、〈人間至上主義〉が意味を失い、

データで世界を管理するはずだった人間の方が、データとし

テクノロジーに管理されてしまうことになるかも知れな

い」という話で締めくくられていた。(分かりにくくてゴメ

ンナサイ)


 そのように進む可能性は高いと思うね。人間は手段と目的

を取り違えることが得意だし、目的意識が肥大化し、一人歩

きを始めてしまうのはよくあることで、「気が付いたらとん

でもない所に来ていた」というのはザラです。それに、人間

の目的は大抵人間の本質とは関係ない事だから、目的が地球

規模に巨大化し実体化すれば、目的の持ち主だったはずの人

間自身が排除されてしまうことになるのは想像に難くない。


 「ヒューマニズムが人類を滅ぼす」というのは何故かとい

うと、ヒューマニズムとはエゴイズムだからです。そして、

エゴとは人間の自己イメージであって、本当の自分ではな

い。ヒューマニズムが進むと、その言葉の意味とは裏腹に、

人間の本質が阻害されて行くのです。それが行き着くところ

まで行き着けば、〈人類滅亡〉ということになるのは当然で

す。


 人間はエゴを生かし強める為に、さまざまな学問や科学・

テクノロジーを使ってきました。今や、エゴをAIの中に組

み込み、エゴの支配力を飛躍的に高めようとしていますが、

エゴという “思考のシステム” にとって、その生みの親であ

る人間は眼中にありません。

 人間の肉体や情緒や、そこから生まれる価値感などは、エ

ゴにとっては尊重する対象ではなく、利用するものでしかあ

りません。

 AI という実体を与えられ、エゴが人間のアタマの外で強

大な力を持つ者として自立してしまえば、人間は無用になる

でしょう。


 とはいえ、もしも仮に人間が滅ぼされたとして、そのあと

実体化したエゴ(AI)はどうするのでしょう?

 もともと、エゴは人間の「不安感・欠損感」を埋める為に

生まれ、人間の肉体と情緒からエネルギーを与えられてきた

ものです。人間が滅び、その肉体が無くなれば「不安感・欠

損感」を埋めるという目的は無くなり、存在の意味を失いま

す。

 そして、情緒を持たないエゴは、「統御」のために「統

御」するというルーティーンを永遠に繰り返すだけの存在に

なるでしょう。それはただの物質循環に過ぎません。


 さらに、もし仮に AI が情緒を持ったとしたら、それは 

AI が「不安感・欠損感」を持ったことと同義です。

 人間を滅ぼした AI が人間に変わって、この地球の上で苦

悩の日々を送ることになるでしょうね。可哀相に・・、気の

毒な AI ・・・。エゴがエゴである限り、機械の身体を手に

入れようが、迷いの世界を輪廻し続けるのです・・・。



 この先、人間に何が待っているのか知りません。

 何が起ろうが、結局わたしたちが居るのは、今 このから

だの中だということにかわりはありません。人類としても、

個人としてもね。







2019年1月6日日曜日

止まれ! Ⅱ~無目的志向~



 止まること。


 この、異常に動きまくる世の中で、人としてあるべき姿

保つためにはそれしかない。

 本当にしあわせでいたいならばそれしかない。


 物理的に止まってみてもいい。

 心理的に止まってみてもいい。

 とにかく止まってみること。

 止めてみること。


 自分に返るために、座禅とかマインドフルネスとかさまざ

まな瞑想とかが注目されていますが、ああいうものは、要す

るに「思考」に誘導されて起こる物理的・心理的動きを止

める為のメソッドです。

 ああいった方法で訓練していくうちに、日常の中でも、

「思考」に誘導されて余計な動きをする割合が減ってゆくの

でしょう。ペースダウンさせることが出来るようになった

り、ブレーキを掛けられるようになったりして、それまでと

は違う物事の受け取り方が出来るようになってくる。


 とてもいいことだと思いますが、座禅や瞑想なんかを改ま

ってやるのは性に合わないとか、そのような機会がないとい

う人もいます(私がそうです)。そういう人は、ふと思いだ

した時に、日常の中の動きを止めてみればいい。



 洗濯物を干している最中に、「止める」ということをふと

思いだしたら、すぐ手を止めてしばらく動かないでいる。

 コンビニへ何かを買いに歩いている時に、「止める」とい

うことをふと思いだしたら、その場で立ち止まってみる。

 そして、自分の中の感覚に目を向けて、よく観察する。


 実際にやってみると分かりますが、何か目的があって動い

ている時に、理由もなくそれを「止める」というのは結構

からが要ります。すごくやりづらくて、一瞬不快感を感じま

す。

 ですが、そのあと、普段は感じられない感覚が湧き起って

来ます。

 言葉にしづらいですが、「止まってるほうが “本当” だ

な」という気付きとでも言えばいいでしょうか。


 普段わたしたちは大なり小なり「目的」を持って動いてい

ますが、「目的」というものは、生きる上でさほど重要では

ないということに気付いてしまうのです。ちょっと大袈裟か

もしれませんが、そういうことです。


 どんなに重要な「目的」があっても、自分でそれを「止め

る」ことは出来ます。けれど、自分で心臓を「止める」こと

は出来ませんね(「自分の心臓をとめること」が目的の人も

いますが、それはまた違う話です)。

 生きることにおいて「目的」というものは、ひとつふたつ

ステージの低いことです。


 ですが、わたしたちはほとんどすべての時間、「目的」に

目を奪われ、「目的」に向かって動き続けています。「目

的」を果たすことだけが「目的」になっています。それしか

見えないのです。その為、「目的」が有ろうが無かろうが存

在しているものを見失ってしまいます。〈命〉です。

 ここで言う〈命〉とは、「命を大切に・・」とか「死んで

はいけない」といった次元のことではなくて、生も死も含め

た “存在の現れ” といったことですけどね。


 「目的」を持つと、自分の外に目が向きます。たとえその

「目的」が自身の健康だとしても、その時目が向いているの

は、今の実際の自分ではなくて、“あるべき健康な自分” と

いうイメージの方です。そのイメージは今の自分の “外” に

あります。今の実際の自分は眼中に無くなってしまって、当

然、おろそかされてしまいます。生きることの立ち位置が自

分の外に置かれるようになってしまうのです。

 そうなると、自分を生きているのではなくて、「目的」を

生きていることになりますね。自分を生きなくていいのでし

ょうか?


 当然ながら、生きていればさまざまな「目的」を持ちま

す。それは人に限ったことでもありません。

 サケが川に上って来る頃には、ヒグマは川へ向かいます。

 マリアナ海溝の深海で生まれたウナギの稚魚は、日本の川

を目指します。

 どんな命にも「目的」はありますが、人間の「目的」には

あまりにも余計なものがからみついていて、「生きる」とい

うことの本質から逸脱しているのです。余計な荷物を背負っ

ていると言ってもいいでしょう。


 人間の「目的」は必要不可欠なものではありません。よく

ても必要悪といったところでしょう。ですが、人はまったく

「目的」を持たずに生きて行くことは出来ませんから、日常

的な「目的」を持つのは仕方がない。でもそれは必要悪だと

知っていること。「目的」主体の日々に嵌まり込み過ぎない

こと。「目的」よりも大きな自分というものが確かに在るの

だということを気付いていなければ、わたしたちは生き損ね

る。


 それを確認する為に、ときどき止めてみる。


 からだの動きを止めてみる。

 アタマの動きを止めてみる。

 そして、それが絶対必要な事ではないことを実感してみ

る。


 止まれ!


 本当に止まることが出来たら、そこには本当の自分がい

る。

 本当の世界が見える。

 本当のしあわせを知る。


 ちょっと止まってみませんか?  今。


 いち、に、のさん!

 止まれ!



















































2019年1月5日土曜日

「アタマが悪い」のは確かだけれど・・・




 アタマが悪い。

 わたしたちのアタマは本当に悪い。

 自分の身の廻りで起こる出来事を見ていても、ニュースを

見ても、自分が考えたりしでかしたりすることを見ていて

も、本当にアタマは悪い・・・。


 世界中でアタマが悪さをして、バカな事が際限なく繰り返

される。誰もそれを止められない。止めようとしてアタマを

使うので、さらに酷いことになったりする。

 どうにもならないことは分かっている。分かっているつも

りでいる。それでも、ため息が出たり、絶望感を覚えたり、

怒りに身体が震えたりすることを止められない出来事を見聞

きする・・・。


 ほんとにどうにかならないものだろうか・・・。

 どうにもならないね・・・。


 人は止むに止まれず生きている。

 世界は止むに止まれず動いて行く。


 誰にもコントロールできない。

 誰もコントロールしていない。

 ただ単に、すべてが、それがあるように移ろって行くだ

け・・・。

 わたしたちの〈アタマ〉が悪さをすることも、その移ろい

の中にある・・・。


 いったいどうなるのだろう?

 人は何処へ行くのだろう?

 人はしあわせになれるのだろうか?

 人は、人を超えて、本当に人になれるだろうか?

 人であることを、完全に受け入れられる時が来るのだろう

か?

 ・・・涙が出そうになる・・・。


 私個人の問題ではない。

 私はどうせ “出来損ない” だ。あと何十年かしたら、確実

にこの世から去っているし、もしかしたら、私自身のことは

自分で片を付けられるかも知れない。自分はそれで満足出来

るかもしれない。けれど、この世界には私が関わった人も大

勢いるし、関わった事が無い人たちも同じ人間だ。その人間

たちが、真に人間として、人間として真に安らいで「生きる

こと」を受け入れられる時が来て欲しい。


 改めて考えてみれば、〈アタマ〉に悪気はない。

 〈アタマ〉は、「生きている」という状況が理解不能で、

パニックをおこしているだけだ。


 苦悩し、困り果てているのは、本当は〈アタマ〉の方なん

だ・・・。

 人は、〈アタマ〉の暴走やごまかしに振り回され、囚わ

れ、時には命さえ失うけれど・・・、その振る舞いは決して

褒められたものではないけれど・・・、だからこそわたした

ちは、怯えて猜疑心に囚われ、卑屈になったり攻撃的になっ

たりしている〈アタマ〉を、なだめて安心させてやるべきな

んだろう。


 わたしたちは、“自分の愚かさ” を、“自分の卑しさ” 

を、“自分の禍々しさ” を、“自分の不完全さ” を抱きしめて

あげるべきなんだろう。

 人が持つ “それら” を、世界ごと抱きしめるべきなんだろ

う。

 そうであるしかないのだから、それで「OK!」と言うし

かない・・・。


 混乱し、迷子になっている〈アタマ〉を抱きしめ、手を取

って家に連れて帰り、優しく寝かしつけることが出た

時・・、自分という “我が家” がはじめて安らぎに包まれる

のだろう・・・。



2019年1月4日金曜日

イメージが怖ろしい




 「一年の計は元旦にあり」という。



 私には「計」なんか無い。

 昔っから無い。


 「今年は何回ほどスキーに行こうか」などと考えていたぐ

らいで、そんなもの「計」でもなんでもない。今は、「九月

に種を蒔いて芽を出しているアヤメを、いつ頃鉢に植えよう

か」などと考える程度のことしかない。人生の目的や希望の

ようなものは持たない。なんとなく、ぼんやりと、「こうい

う方向へ行きたいなぁ」という思いがあるぐらいだ。



 何かを成し遂げようとか、何者かになろうとかいう、“自

己実現” といった言葉であらわされる様な想いを持ったこと

はない。私の想いはそういう方向を向くことがないまま、今

日まで来た。

 それは私の性格上の理由によるのだろうけれど、それと同

時に “自己実現” とかそれに類する言葉や、そういった言葉

を使う人たちに違和感を感じて来たという事もある(それも

私の性格によるのだけれど)。



 “自己実現” というと、一般的には自らのセルフイメージ

に何かを付け足して、本来あるべき自分を完成させることの

ように思っているだろう。要するに「何かに成る」ことだと考

えている。

 けれど、“自己実現” というからには、自分にならなけれ

ばいけないはずだ。「何か」になってしまったら、それは自己

ではない。

 本来あるべき自分にまとわりついて自分を隠しているもの

を取り除くことで、実の自己を現すことが、“自己実現” だ

ろう。“自己実現” とは、本当は引き算で達成されるもの

だ。

 「 “自己実現” は引き算だ」というのなら、“自己実現” す

ると人は小さくなってしまうのかというと、そうでもない。

 自分にまとわりつき、自分を抑圧し、押し潰していたもの

が取り除かれることによって、人は大きくなる。



 わたしたちは誰しもが、本来の自分とは相容れない余計な

ものを “自分の一部” だと思い込み、抱え込んでいる。そう

やって、間違ったセルフイメージに拠って社会の中で生き、

さらに余計なものを「必要だ」と信じて抱え込む。そして、

「自己実現できた!」と思った時には、自分ではない “誰

か” になってしまっていて、抱えたものに押し潰されてしま

ったりする(よくあることです)。間違ったセルフイメージ

を持ったが故の悲劇ですね。



 わたしたちは誰でもセルフイメージを持っていますが、セ

ルフイメージというものが、わたしたちをしあわせにするこ

とはありません。人は正確なセルフイメージを持ち得ないか

らです。セルフイメージというものは、常に本当の自分とは

ずれている(ときには全く違う)ので、それを基準にして生

きれば自分を見失うこと必至です。そうじゃないですか? 

それともあなたは、自分が正確なセルフイメージを持てると

思いますか?

 不可能なんですよ。

 それに、他者に対しても、正確なイメージを持つ事は出来

ません。

 その人のすべてを知ることは出来ないし、自分なりのバイ

アスが係った見方しか出来ません。

 そもそも、物事をイメージで見る(認識する)ことが間違

っているのです。この世の中の問題のすべてはそれが原因だ

と言ってもいい。



 そして怖ろしいことに、人は物事をイメージで見ることし

か出来ません。つまり、本当の物事は見えないのです。わた

したちの〈アタマ〉は、人それぞれ、その人の思考や感情の

フィルターを通してでしか物事を認識し得ない。そして、わ

たしたちのものの見方・認識が完全になる事はないので、常

に問題を生み出します。



 もちろん、ごく単純なことは分かりますよ、頭の上に岩が

落ちて来たら、逃げなきゃヤバイとかね。そんなことは、イ

メージ以前に “本能的” に判断できます。逆に、そういった

単純なことにさえ、イメージがかぶさって来ると判断ミスを

しかねません。実際、現代の日本などでは、そういった本能

的で反射的な判断が出来なくて、ケガをしたり死んだりする

人は増えている様に思いますね(個人の感想です)。



 わたしたちはイメージでしか、ものを見ることが出来ませ

ん。

 イメージという形にまとめなければ、物事を認識できませ

ん。

 イメージにしなければ、物事は茫洋としていて、思考に組

み入れることが出来ないのです。

 お釈迦さまは、その、人間の問題点を指摘して、『正見』

が必要だと言いました。

 けれど、人間に『正見』など出来るのでしょうか?

 お釈迦さまには出来たのでしょうか?

 そんなこと私には分かりませんが、こうは思います。『正

見』というよりは『離見』とでも言った方がいいのではない

かと。

 「正しく見る」というよりは、「見ることを離れる」、あ

るいは「離れて見る」といった感覚が必要なんではないだろ

うかと・・・。言い換えると「見たものに意味付けをしな

い」ということなんですけども。



 見たものに意味付けをせず、こちらから働きかけたりそれ

を判断したりせずにいると、いずれ対象の方が動いて行きま

す。そして、対象が動いて単純な判断領域に入って来るまで

待って、そこで初めて対処するという在り方です。物事が単

純になるまで待っていればいいということです。



 例えば、いつも他人の文句を言っている人が、こっちを見

ながらひそひそ話をしていると、わたしたちは「わたしに何

か文句でもあるのだろうか?」などとすぐイメージをふくら

ませますが、それは想像でしかありません。けれど、大抵の

人はこの時点でイメージの作り出す問題を抱え込んで、重苦

しい気分になってしまいますね。イメージの中では、憶測が

無限にふくらんで、物事がどこまでも複雑になってしまいま

すからね。

 だからそうではなくて、本当にその人がこちらに文句があ

るのなら、そしてそれが重要なことならば、やがて実際に言

って来ることでしょう。そうでないなら、それは気にする必

要のない事ですし、実際に何か言われたら、それに対応すれ

ばいいだけですから単純です。もし、言われた内容が複雑な

らば、こちらからそれに意味付けせずにいると、相手の方が

「分からそう」として、単純化してくれます。そうして、で

きるだけ単純になったところで、対処すれば済みます。

 これはあくまで例えですが、物事は、おおむねその様に展

開するものです。勝手な意味付けをして(イメージを持っ

て)関わると、物事はこじれたり、おかしな展開を見せてさ

らに人を悩ませるものです。



 これまでに、私が何かした時に、人から「イメージが違

う!」と言われることが何度もありましたが、そういう時に

私は「ひとをイメージで見るんじゃねぇ!生で見ろ!」など

と心の中でつぶやいていました。「勝手にイメージなんか持

つな!」と。



 とはいえ、自分に対しても他人に対しても出来事に対して

も、人はイメージを持たずに関わる事は出来ません。ですか

ら「自分が持つイメージは、必ず本当の事とはズレている」

という意識を持っておく方が、問題を生み出したり、問題を

大きくしたりしないで済むだろうと思いますね。



 “自己実現” という、〈理想の自分のイメージ〉に自分を

合わせるという作業も、「本当にそれでいいのか?」という

疑いを持ってかからないと、この世で迷子になってしまいか

ねません。「自分は何処へ行ったの?」と・・。

 セルフイメージの強固な人ほど、“自己実現” とか “自分探

し” なんてことに必死になるんだと思いますよ。やればやる

ほど、自分を見失うことになると思いますけどね。


 誰もが、セルフイメージを自分だと思ってるし、他人のこ

ともイメージでしか見ていない。

 本当に触れ合う前に、分かった気になってしまう・・・。

とんでもなく恐ろしい間違いですね。「誤解」と「曲解」が

幾重にも重なり合って、本当の事がまったく見えなくなって

しまいます。


 人が、イメージの不確かさと、それを作り上げる〈アタ

マ〉の身勝手さに注意を払うようにならない限り、個人にも

社会にも平安が来ることはないでしょうね。


 イメージを持ち、そのイメージに拠って、考え、行動して

行くことほど怖ろしいことはない。たぶんそれは〈死〉より

も怖ろしいことでしょう・・・。


 「一年の計は元旦にあり」・・・・。


 それならば、“イメージを信頼しないようにする”  という

のはどうでしょう?。

 それが今年の「計」なら、実現する値打ちがありそうに思

ますが・・・。







2019年1月2日水曜日

門松は冥土の旅の一里塚(詠み人知らず)



 新年です。


 《 門松は冥土の旅の一里塚 

 めでたくもありめでたくもなし 》


 ひねくれてて、メンドウな人間が言うセリフですが、この

ブログの新年の書き出しにはふさわしいでしょう。
 

 この言葉は有名な一休さんの句ですが、実は後年の偽作だ

そうです。一里塚というものは、江戸時代にできたもので、

一休さんの頃には無かったそうですから。

 いかにも一休さんが言いそうなことですが、こういった作

り話が一休さんのイメージを作り上げただけで、本当の一休

さんは、そんなにひねくれてメンドウ臭い人ではなかったん

じゃないかと思います。

 「淫乱は天然」なんて言葉を残したりしてて、自然体で素直

な人だったんだろうと。ただ、人並み外れて素直だと、それ

はひねくれていることになってしまいますが・・・。



 現代では、明けましておめでとうと言いながら、べつにめ

でたいことがあるとも思っていないでしょうが、昭和の始め

ごろまでは、結構本気でめでたいと思ったんじゃないかなと

思う。

 昔は衛生状態が悪くて、赤痢なんかで死ぬ子供が多かった

だろうし、大人が結核で死んだりも多かった。今よりも日本

人の人口あたりの死亡者数はずっと多くて寿命も短かったの

で、家族がみんな一年無事に過ごせたら、本当にめでたかっ

ただろう。


 はじめの句は、正月だからと浮かれている気分に冷や水を

浴びせるものですが、「めでたくもあり、めでたくもなし」と

いうことは、特別じゃないということです。好意的に捉えれ

ば、「正月も他の時も変わらない。だったら、常に正月のよ

うな気持ちでいてもいい」ともいえます。

 毎日、「今日も生きている」ということの感慨を胸に、日々

を愛でる。毎日、めでたい・・・、なんて・・・。



 そんな能天気なことは言ってられないのが、わたしたちの

日常ですが、正月のような能天気さをもっと日常に散りばめ

ても、本当は罪にはならないでしょう。



 「本当は」と書いたのは、この日本の世間では、日ごろか

ら能天気でいる人間は良く思われない節があるからです(遠

慮した表現ですね)。

 太平洋戦争中に、『贅沢は敵だ!』とか「国家の非常時に

へらへら笑っているとは何事か!」とかいった風潮が世の中

を支配していたわけですが、それの風潮が未だに残ってるよ

うに思います。



 戦争に負けて、その挫折感を払拭する為に経済戦争をやっ

て、一時は勝利を味わってまた挫折して、その後もなんとか

挫折感を払拭したいと、日本人は戦い続けているんじゃない

だろうか? 意識はしてなくてもね。

 なにも、みんながそう思っているというわけではなくて、

そういう無意識を抱えている人間が、他の者を巻き込んで日

常を「非常時」にしているんじゃないんだろうかと思う。



 仕事だと言われると逆らえないとか、非実際的でわけの分

からない校則がいっぱいあったりするのは、戦争中に深刻な

顔をしていない者を、「非国民め!」と吊し上げた “真面目

な人たち” の亡霊が、この国を未だに彷徨っているのでしょ

う(“亡霊” というのは比喩ですよ。念のため)。

 「安心安全」だとか言って、徹底的にコントロールしたが

るのは、日本が高度に「都市化」(©養老孟司)したからだ

けでなく、日本人の無意識に、まだ挫折感が滓のように残っ

ているのだろうという気がする。お祓いをした方が良いと思

うな。そうしないと、ヘラヘラ笑っていると何処からか「ふ

ざけるな!」という罵声が飛んで来そうです。実際、有名人

がしあわせそうにしてるだけで「炎上」したりするよね。


 どんな風に「お祓い」をすると、亡霊は消えるんでしょ

う?

 「消える」というか、成仏させてあげないといけないんで

すが、亡霊たちは何に縛られ、何を呪っているのでしょう?



 亡霊たちは、「何か特別なことが人生になければ、人生は

失敗だ」と思っているのだと、私は思いますね。そして、自

分の人生には特別なことが無いという挫折感に囚われ、その

挫折感に縛られているので、“日常” を非常時のように扱っ

て、特別なもののように感じたいんじゃないのかな? なん

でもないのにね・・。

 で、正月のような特別な時でもないのに能天気にしてる人

間を見ると、亡霊に憑依されている人間が不機嫌になってく

る・・・。

 というわけで、いつも機嫌良くしてたり、普段からあまり

能天気にしてると祟られてしまうので、何事も控え目にとい

うことになる。



 などと、思いつきを書き並べていますが、アメリカ人なん

かがイヤホンで音楽を聴きながら仕事をしているのを見てい

ると、今の日本人の真面目さは異常だと思う。私が社会人に

なった頃は、職場でラジオを聴きながら仕事してたからね

(あの頃は経済戦争に勝ってた時代だな・・)。

 あっちが正しいとは言わないけれど、今の日本人は固すぎ

る。カチコチです。カチコチなのが標準になっている。人間

的な余裕が無さすぎ。少なくとも、他人にそれを求めちゃい

けない。やっぱり、何かに憑りつかれていると思う。



 何かを「特別」と見做したい欲求が人には有る。

 でも「特別」は、わたしたちのエゴがでっち上げる「お

話」です。本当は「特別」なことなど何も無い。

 わたしたちは、自分が生きている「意味」だとか「価値」

だとかを感じられないので、何かを「特別」だと思う事で、

自分の人生に価値を持たせたいだけです。人間の活動の殆ど

がその為です。「特別な何か」を、自分の人生に組み入れよ

うと必死になっている。けれど、それはムダな努力です。



 本当は、正月を特別扱いする必要もない。実際、正月

早々、原宿で男が車を暴走させたり、火事が起きたりしてい

る。正月だってお休みしてくれない。それに、異常と思われ

ることが日々起っている事が日常じゃないですか? 本当は

特別でもなんでもない。


 《 毎日が 冥土の旅の一里塚 》

 であると同時に、

 《 毎日が 命の旅の目的地 》

 でもあるでしょう。


 今日生き延びた。今生きている。

 生きていることは、たどり着いているということ。

 めでたいことです。「特別」なことは必要ないはずです。
 

 と、こんな事を言っているのが、何か「特別」にしたい欲

求の表れかも知れません。

 自分の足元をすくわれそうなので、これぐらいで止めにし

ときましょう。


 というわけで、人並みに
 

 「あけましておめでとうございます」



 (正月から “メンドクセー人間” だと、ちょっと反省)