2024年12月7日土曜日

出来ない人ですか?

 
 
 このブログは、社会で上手くやってゆけない人、つまり社会
 
的能力の低い人が自己肯定して、少し気安く生きられるヒント
 
になるようなことを書いています(そのつもりです)。決して
 
「社会的能力を高めて生き易く・・・」という方向性は無く、
 
あくまで「社会的能力が低いままでも生き易く・・・」という
 
立場です。
 
 なぜ「社会的能力を高めて・・・」という方向を探らないの
 
か?
 
 それは人の普遍性が持っている力・豊かさにこそ、人として
 
のしあわせがあると私が思っているからです。 
 
 
 社会的能力と言っても、身体的なもの、知的なもの、情緒的
 
なものがありますね。健康・体力・計算力・理解力・観察力・
 
共感力・語彙力・話力・・・などなど。
 
 それらの能力のどれらが、またどの程度が求められるかは、
 
その社会、時代によって変わりますから、ある能力が高くても
 
それが求められていない社会・時代では役に立ちません。そこ
 
のところは運になってくるわけです。
 
  それから重要なことに、どの社会にも出来る人と出来ない人
 
が必ず一定の割合で生まれてしまうので、出来ない人のための 
 
“在り方” が必要になって来るのです。 
 
 
 どのような能力であれ、人の集まりである社会の中ではすべ
 
ては比較によって優劣が付けられます。
 

  これは正規分布のグ

ラフですが、人の集ま
 
りでそれぞれの能力の
 
違いを調べると必ず正
 
規分布します。
 
 高さが人数で、横が
 
能力値。左が能力が低
 
くて右が高いとしますが、社会は人の集まりで維持されるので
 
すから、どうしても中央値付近の人数の多い能力レベルが標準
 
として形作られます。その結果、どうしても左側の人たちは
 
「出来ない人」になってしまいます。
 
 
 総合的に「出来ない」人もいれば、ある能力が著しく低い為
 
に、そのボトルネック効果のせいで酷い社会不適応を起こすこ
 
ともあります。どのような社会であれ、人を比較し、それを元
 
に機能させる社会である限り、「出来ない人」を生み出さざる
 
を得ません。結果的にどの社会でも、社会で上手くやれなくて
 
苦しむ人が必ずいます(上手くやれる人が苦しんでいない保証
 
もないのですが、そちらの人のことは後で触れます)。そうい
 
う人たちに社会で上手くやれと言っても、無理なことは無理で
 
す。なので、社会的能力とは関係のない、人として普遍的な部
 
分に目を向けなくては救いがありません。
 
 
 というわけで私はいつも社会を批判し、「負け組」と言われ
 
てしまうような人に向けて思いを綴るわけです。社会で上手く
 
やれない人は社会から外れかけているか、すでに外れてしまっ
 
ているわけで、だからこそ社会の外に目を向けやすい。言いか
 
えれば、良いポジションに居るのです。
 
 
 人の、そして世界の持つ普遍性あるいは不変性に目を向ける
 
ことで、自身の絶対性や全能性を理解できたら、社会で上手く
 
やれないことが、「それはそれ」と思えるようになり、気安さ
 
が生まれて来る・・・。
 
 
 人は比較する世界にいる限り、何らかの部分で自己否定感を
 
持たざるを得ません。社会的能力が高くてとても上手く生きて
 
いる人でも、比較することをやめられなければ必ず苦しみま
 
す。そのような人も、人の普遍性、人の本質に意識の中心を据
 
えなければ救いはない。そして、その救いは上手くやれる人で
 
も上手くやれない人でも等価です。比較の外にあるのですから
 
ね。
 
 
 社会で生きて行かざるを得ないわたしたちですから、社会で
 
上手くやれないのは辛い。けれど「それはそれ」として生きら
 
れる境涯が在るのです。
 
 以前も書いたように思いますが、人の本当のしあわせ(安ら
 
ぎ)は社会の外に在るのですから。 
 
 
 
 

2024年12月6日金曜日

最も優しい人は

 
 
 とても特殊な人は除き、人は誰でも優しくされたいもので
 
す。自分自身も優しい人でありたいと望みます。なぜなら自分
 
に優しくしてくれる人は良い人だと感じるので、他人に優しけ
 
れば「自分は良い人だ」と思えるからです。
 
 「人は自他ともに優しくあるべきだ」と多くの人が考えてい
 
るはずです。なので優しくない人は「良くない人」で、問題の
 
ある人と評価されることになります。
 
  けれども、それは一般的なレベルの優しさの話で、最も優し
 
い人は少し違います。最も優しい人は、自分以外の人が優しく
 
なくても気にしません。
 
 
 こちらに優しくしてくれる人は、こちらの立場を推察し 、こ
 
ちらの為になるように自分に何ができるかを判断し、行動して
 
くれるわけですが、優しい人は、相手がそのような手間とエネ
 
ルギーを使うことに対して、感謝と共に申し訳ないという意識
 
を持ちます。自分に優しくしてくれることは、その人に余分な
 
エネルギーを使わせることだと認識しているので、人に優しさ
 
を求めません(もちろん優しさを拒んだりはしませんが)。 
 
「人は他の人に対して “気働き” をするべきだ」などとは思い
 
ません。それは人に余計な負担を強いることになるわけですか
 
ら、優しい人は「こちらに気が回らなくても普通だよな」ぐら
 
いに思うものです。
 
 そして、さらに優しい “最も優しい人” は他人が自分に無礼
 
だったり、自分に辛く当たられても問題にしません。その人は
 
とても優しいので「この人は人間関係に余裕が無いどころか、
 
不安を埋めようと必死なのだな。そのあたりを慮ってあげない
 
といけないな・・・」と思うからです。
 
 
 その “最も優しい人” からすれば、他人に優しさを求める人
 
は「いまいち優しくない」ということになります。だからと
 
いって他人に優しさを求める人を非難したりはしません。だっ
 
てその人は優しいですから「優しくされたいのは当たり前だも
 
のね」と認識しています。
 
 
 ”最も優しい人” はすべての人の立場・都合を受け入れます。
 
 “最も優しい人” はすべての人の不安・苦しみが無くなること
 
を望んでいます。
 
 ”最も優しい人” は自分へ優しさ示してくれた人に対してこう
 
思います。「あなたに人に優しくできるゆとりが有ることを嬉
 
しく思います」と。
 
 “最も優しい人” は「優しさ」が人の評価とは無関係に、優し
 
い人自身を直接豊かにすることを理解しています。
 
 
 
 「人が優しくなくても、あるいは冷酷でも、その人がその時
 
そのようであるのならば仕方がない。ただ、できれば優しく
 
なって欲しい。その人自身の為に」
 
 
 最も優しい人、優しさの権化のような人はそう思いながら生
 
きています。そういう人がどれほど実在するかは知りませんけ
 
どね。 
 
 
 
 
 
 

2024年12月3日火曜日

都市基準・命の基準

 
 
 この前「都市の中で人は情報伝達物質として都市に使われて
 
いるんじゃないか」という話を、まるで他人事のように書いた
 
けれど、私がそういうことから免れているわけでもない。あの
 
梅田を行き交う人たちに比べればかなり免れているだろうけ
 
ど、現代の日本の神戸という都市に住んでいるのだから、私
 
だって都市に使われてしまう。
 
 では田舎に住んでいる人は免れているかというと、そうでも
 
ないだろう。日本全体に都市的な約束事とシステムが張られて
 
ているので、「田舎に住んでいる」というだけでは免れない。
 
どこで暮らしているかより、何を基準に動いて(暮らして)い
 
るかが大きいだろう。
 
 
 都市に生きる人たちの評価を自分の行動基準にすると、まと
 
もに都市に使われてしまう。「自分は都市を利用してる」と考
 
える人間もいるのだろうけど、そう思っているだけだ。都市を
 
利用するためには都市の価値基準とシステムに合わせなければ
 
ならないから、利用しているつもりでいても取り込まれてしま
 
う。
 
 
 「自分は都市が好きだから、都市に取り込まれて利用されて
 
いるとしても、楽しいからそれで良い❤️」
 
 そんな人の方が圧倒的に多いかもしれない。それがその人の
 
さだめならそれでいいのだし、そうあるしかない。とはいえ私
 
はそういう人たちの行く末を案じてしまう・・・。
 
 
 いつまでそう思っていられるのか?
 
 それは自分の心の底からの想いなのか?
 
 ある日、自分が都市の道具として生きて来たことのもたらし
 
た結果に愕然としはしないか? 
 
  自分の基準。さらに言えば命の基準。そういうことを軽んじ
 
てしまっていはしないか? 
 
 
 当たり前だけど都市の外にも世界は在る。そして、都市の中
 
に住むわたしたちのアタマは都市につながっているだろうけれ
 
ど、身体は都市に直結しているわけではない。梅田の歩道橋の
 
上で、身体の求めにそのまま従ってウンコをすれすば、すぐさ
 
ま通報されるだろう。身体は都市の外にあるのだ。
 
 
 そういうことを顧みれば、都市の外の基準にも目を向けた方
 
が良さそうだと分かる。都市の基準だけで生きようとすれば、
 
少なくとも自分の半分がないがしろになってしまう。
 
 
 このブログの中で「ライフサイド」という言葉を何度か使っ
 
ているけれど、都市に暮らすとしても、命の側の基準を大事に
 
しなければ、自分を誤り、後悔することになるだろう。
 
 東京や大阪ほどではないにしろ、古くから政令指定都市であ
 
る神戸という都市で生まれ育った私は、いまそう思っている。
 
 
 

2024年12月2日月曜日

解決する

 
 
 どこでも、いつの時代でも、人は悩み苦しみを抱えて、それ
 
をなんとか解決しようとあがいている。
 
 
 個々の悩み苦しみはそれぞれで、表面上同じように見えたと
 
しても、その悩み苦しみの成立の過程も、ひとりひとりの性質
 
や状況なども違うので、個々に解決策を探るしかない。そうし
 
て幸運にも解決策に巡り合えた人は落ち着きを取り戻すことが
 
できる・・・が、果たしてその解決は決定的なものだろうか?
 
言葉を変えて言うのなら、その解決はその人の中にどれほど深
 
く作用するものだろうか?おそらくそういった解決は、遠から
 
ず別の悩み苦しみにかき消されてしまうことだろう。なぜそう
 
言えるかというと、そういった解決は対症療法で、人の意識が
 
持つ “悩み苦しみを生み出すシステム” には手つかずのままだ
 
ろうから。そこをどうにかしないことには、人は結局、ある苦
 
悩から別の苦悩へと渡り歩くしかない。わたしたちは “悩み苦
 
しみを生み出すシステム” をこそ解決しなければならない。
 
いったいどうするか?
 
 
 「解決」という言葉にヒントがある。「解く」のです。
 
  例えば、この “解” という文字を一画々々バラバラにするよ
 
うに。
 
 
 文字を一画々々バラバラにしてしまうと、当然意味を持たな
 
い線や点になるけれど、それと同じように自分の考え・価値観
 
を解いてゆく。 それができれば、どのような悩み苦しみも解か
 
れてしまう。けれど、そんなことができるのか? できます。 

 
  “悩み苦しみを生み出すシステム”とは何かというと、〈自分
 
や自分の人生は価値あるものだと思いたい〉というアタマの働
 
きです。その働き  不安からのものですが  が思考を使っ
 
て無理やり価値を作り上げ、「自分は価値がある」と安心しよ
 
うとするのですが、ものごとは変わって行く。自分も変わって
 
行く。
 
 ひとときその価値で自分をなぐさめることができても、状況
 
は変わり、その価値は価値を失う。それどころか、その価値
 
非難の対象になったりもする。そしてまた悩み苦しむことにな
 
る。なので “システム” 自体の働きを止めなければ終わらな
 
い。そのためには、考え・価値観を解かなくてはならない。そ
 
れらは、自分のアタマが不安から逃れようとしてまとめ上げ
 
た、お粗末な約束事に過ぎないと肚を括る。その約束事がどれ
 
ほど社会で称賛されるようなものでも、その価値は「アタマの
 
約束事に過ぎない」と徹底的に自分に言いきかせる。すると、
 
いままで自分が信じて来た(信じ込まされてきた)ものがバラ
 
バラに解けて行く・・・。 “悩み苦しみを生み出すシステム”
 
がほとんど機能を失う。
 
 そして、あらゆる悩み苦しみ(いわゆる “喜び” や “幸福” も
 
 道連れですが😅)が雲散霧消し、新たな悩み苦しみも形作ら
 
れるなくなる。で、どうなるか?
 
 わたしたちの本来の落ち着き・ゆとりが姿を現してくる。

 
 けれど、そんな状態でも人は生き続けるし、さまざまな出来
 
事が起きてくる。それはどうなのか?
 
 
 対処しなければならないことは次々に出てくるけれど、それ
 
まで問題になっていたことが問題にならなくなる。 
 
 「約束事だからそれに付き合うけれど、自分の本質・しあわ
 
せとは関係ないし・・・」という姿勢でいられるようになる。
 
 
 本当ですよ。価値を解いてしまえば、そこにはわたしたちの
 
本来の落ち着き・ゆとりが姿を現すのです。
 
 慣れていないので、「これがそうなの?」という感じがする
 
でしょうけど、雲散霧消してゆく価値の向こうにある “心の広
 
がり” に意識を落ち着けてゆけば分かりますよ。

 
 「信じろ」とは言いません。信仰ではないですからね。信じ
 
たりする必要はない。体感して感じてみれば分かることですか
 
ら。それが正解かどうかは各自が決めることです。私にとって
 
は正解なのです。そしてほぼ確実に、あなたにとっても正解と
 
なることでしょう。

 
 いまこの話を真に受ける必要も無いですが、もしも、自分の
 
悩み苦しみから抜け出すのがとても難しいと思うときに、思い
 
出したら試してみて下さい。落ち着き・ゆとりは、待ちくたび
 
れることなくあなたを待っていますから。
 
 



2024年12月1日日曜日

値踏みして・・・

 
 
 井上陽水のいかにも陽水らしい曲のひとつに『ミス・キャス
 
ト』というのがあります。打算的で妄想的で凡庸な主人公を描
 
くことで、人間一般のいやらしさ・怪しさ・いかがわしさを比
 
喩的に歌っている曲ですが、その詞の中に「友達を暗闇で値踏
 
みして 自分だけのしあわせに女を使う」という一節がありま
 
す。
 
 自分の為になるかどうか人を値踏みする・・・。そういう話
 
はそこらじゅうに転がっていますよね?
 
 婚活だとかあからさまですけど、「自分を高めてくれる人」
 
だったり「付き合うと得になる人」だったり、「どこかに自分
 
の為になる人はいないか?」 と人を値踏みする人間がとても多
 
いように感じるんですけどね。昔より多いかどうか知りません
 
が。

 
 人を値踏みする・・って、いやらしくないですか?ケチ臭い
 
話じゃないですか?そういう人間とは関わりたくないと思いま
 
せんか?
 
 けれど、そういう人間が普通にどこにでもいて、当人たちは
 
人を値踏みすることが自分のしあわせに繋がると本気で考えて
 
いる。得になる人間関係を持ちたいと・・・。いかがわしい世
 
の中だと思いませんか?

 
 本当に得になるのならそれも良いのでしょうが、人を値踏み
 
して、自分の役に立つと思える人と関係を持つことで得られる
 
ものとはなんでしょうか?
 
 値踏みして自分の計算通りに事が運んだとして、その結果は
 
自分の計算の範囲内。それを繰り返してどんどん自分の望みを
 
叶えて行けたとして、たどり着くのは今までの自分の延長線上
 
です。それはこれまで通りの自分を生きながらえさせる作業で
 
す。自分の社会的立場や、自分の暮らす環境は(当人にとって
 
は)良くなるのでしょうけど、自分自身はいままでのまま。自
 
分自身には何も得られてはいない。だって、サイボーグ化しな
 
ければ自分のからだに何も付け加えられないし、考えかたがい
 
ままでの延長ならば、精神的にも何も付け加わっていないわけ
 
ですからね。
 
 人を値踏みする人が考える「得」って、社会のストーリーの
 
中での評価です。自分自身には関係ない。
 
 
 「得しよう」とあれこれ計算して、ネズミが鼻をヒクヒクさ
 
せて食べ物を探すようにして生きる・・・。そういうの、私は
 
みっともないと思うんですがね。
 
 
 アタマはいろいろと「得した」と思ったりしますけど、“世
 
の中の自分” にとっては得することは有っても、本質的な自分
 
にとって得することなんて世の中にはありませんよ。
 
 
 しあわせは得るものではなくて、得られているものを味わう
 
ことにある。
 
 得るどころか逆に失い続けても、 得られているものが底を突
 
くことはない。むしろ、その底を突くことが無いものを味わう
 
ことで、わたしたちは心の余裕を持つことができる。
 
 その自分の心の変化は、自分の周りに影響して状況を変えて
 
行く。そして思いがけない喜び楽しみを生んだりもすることで
 
しょう。
 
 その計算外の思いがけないものに出会うときこそ、「得し
 
た」と言えるでしょうね。
 
 
 
 

2024年11月26日火曜日

情報伝達物質か・・・

 
 
 前々回、梅田から逃げ帰った話を書いたけれど、あの日ビル
 
の谷間の底で、私は脳みその溝の中に居るようなイメージを
 
持った。
 
 
 立ち並ぶ高層ビルのそれぞれの部屋は脳細胞のようなもの
 
で、そのすべてに人が居て、そこで物やら情報やらをあっちへ
 
やったりこっちへやったりしているだろう。部屋の中で、部屋
 
から部屋へ、ビルからビルへ、街から街へ・・・、仕事であれ
 
遊びであれ、人が情報を運ぶために蠢いている。(物も情報の
 
一種と捉えておいて下さいね)
 
 都市という脳みその中で、人が情報をやり取りしているよう
 
に思っているけれど、実は人が情報に使われているのではない
 
のか?都市の中で、人は情報を背負わされ、情報を運ばされて
 
いるのでは?人はもはや情報伝達物質に成り下がっているのか
 
もしれない・・・。ビルの谷間を行き交う人々を見て、そんな
 
イメージが湧いた。
 
 
 人は手段と目的を取り違えることを得意としているけれど、
 
人が生きる「手段」であるはずの “都市” と “社会” の中で、い
 
つの間にやら、人が “都市”と “社会” の「手段」になってしま
 
 っているらしい。
 
 
 そうそう、西岡たかしの『じゃんじゃん町ぶるうす』の中に
 
こんな歌詞があった。
 
 
  ちょいと歩いてごらん梅田のあたり
 
  地下街入れば地獄がみえるよ
 
  お天道様も質屋に放り込んでよ
 
  悪魔の光の下で みんなうろうろ うろうろ 
 
  ちょいと歩いてごらん梅田のあたり
 
 
 これはもう50年前の曲だけど、今の梅田は地上でさえ地下
 
(谷底)になった。そしてうろうろ うろうろ・・・。
 
 
 これまでにも書いたけれど、 地獄というものはわたしたちの
 
アタマが作る。わたしたちのアタマの中に地獄はある。わたし
 
たちのアタマの中に本当のしあわせは無い。
 
 アタマの中身を外に出したものである都市にしあわせは有る
 
か?そこは飾られ、偽装された地獄かもしれないね。
 
 そんな目線で都市を見てみるのも面白いかもしれない。
 
 
 ちょいと歩いてごらん梅田のあたり・・・・
 
 
 
 

2024年11月25日月曜日

欠くること無し、余ること無し

 
 
 タイトルの言葉は、いまから1400年ほど前に中国で書か
 
れた、『信心銘』という禅を代表する書物からの言葉です。元
 
は漢文なので「無欠無余」と書かれていて、それを日本語的に
 
送り仮名を付けて読んである。要するにこの世界の状態のこと
 
です。
 
 「何も欠けていない。何も余っていない」 
 
 そりゃそうですよね。〈エネルギー保存の法則〉です。在る
 
ものはすべてある。当たり前の話ですが、その当たり前をわざ
 
わざ書き残さなければいけなかったということと、それが今で
 
も読まれて人をして考えさせるというのは、わたしたちが当た
 
り前のことを分かっていないということですね。当たり前のこ
 
となのになぜ分からないのでしょう?
 
 
 「無欠無余」。言い換えれば「完全無欠」ですけど、わたし
 
たちのアタマはこの世界の完全無欠が気に入らないようです。
 
 「こんなの完全無欠じゃない! 😤」とアタマは異議を唱え
 
るのですね。自分の筋書きと違うからです。でも、私が世界
 
だったら言うでしょう。
 
 
 「オマエ何様のつもり?勝手に妄想して、勝手に不機嫌に
 
なってるだけだろうが。勝手にするのが好きなら、勝手に不幸
 
になっていればいい。こっちはすべてそろえてやってるぞ。こ
 
の大バカ者め!」
 
 
 アタマはバカです。アタマが出しゃばる限り、問題は絶えま
 
せん。問題とは自分を取り巻く状況に「欠け」と「余り」 を見
 
てしまうことで、それはアタマの得意技ですからね。
 
 
 世界は完全無欠。欠くること無し、余ること無し。
 
  アタマがバカなのも、そういう風にできているのだから、そ
 
れはそれで完全無欠の一部。 バカなりに可愛いという見方もで
 
きるでしょう。
 
 
 世界の完全無欠性に思いを馳せれば言葉を失う。だって、言
 
葉は分ける働きだから、完全無欠の中に言葉は入れない。
 
 言葉を失って、ただただ世界を感じ取るとき、わたしたちも
 
完全無欠の一部になっている・・・。
 
 
 「う~~~~~む・・・・」
 
 
 言葉の出る幕じゃない・・・・・・・・・