2025年7月16日水曜日

自分に帰る

 
 
 最近よく目につく話題で、若い子や子どもたちが、打たれ
 
弱く、無気力になってきているというのがある。
 
  私はそういう世代と接点が無いので実感はないが、退職
 
代行という職業が成立したり、不登校が35万人とかいう話を
 
聞いてると、「そうなんだろうな」と思う。
 
 
 小さい頃から家の中で遊んで、学校の他にいろいろな習い
 
事でも忙しくて人と関わる経験が少ない為に、人との関係が
 
上手く持てないからではないかとかいう。そういう解説を聞
 
くと「まぁ、そうなんだろうな」とは思うけど、もっと根本
 
的に、今の若い人たちにとって、既製の世の中のお話しが訴
 
求力を持っていないのだろうと思う。
 
 
 車に乗らない、出世しようと思わない、金持ちになろうと
 
思わない、人間関係がわずらわしい・・・。
 
 そういう在り方が、単に「お金が無いから」とか「能力不
 
足で人生あきらめてる」とかいうことだけではなくて、20世
 
紀に作られた世の中のお話し(サクセスストーリーなど)が
 
「言っても、それひとつの“お話し”だよね」と若い子たち
 
の多くに気付かれてしまったんじゃないか?
 
 
 自分たちの上の世代の右往左往を知っているので、これま
 
でみんなが「価値がある」としてきたことの無理くりさ加減
 
や、価値の裏側にある面倒なことが見えてしまって、「そん
 
なのプラマイゼロか、下手したら大損だろ?」と感じるの
 
で、やる気なんて出ないし、ヤバけりゃすぐ逃げるというこ
 
とになっているのだろう。それならば、結構なことだと私は
 
思う。
 
 こんなブログを書いているような人間だから、自分の考え
 
に引き寄せてそう見てしまうだけかもしれないけれど、積極
 
的に社会に参加しない、参加しても嫌ならすぐ身を引くとい
 
うのは、人として健全だ。
 
 やる気が無いのは個人の側のせいではなくて、世の中のお
 
話しに魅力がなくなったせいだろう。

 
 その、世の中の魅力の無さが、単に「今の世の中のお話し
 
に魅力が無い」のか「世の中は“お話しでしかない”から魅
 
力が無い」のかでは大きく違うが、「世の中は“お話しでし
 
かない”」と知ってしまった人が多いのではないかと思う   
 
私の希望的観測でしかないのかもしれないが。
 
 
 そういう世代がこれから世の中の中心を占めるようになる
 
と、大きな時代の転換を迎えるかもしれない。私が理想的だ
 
と思うのは、縛りのゆるい世の中になることだけど、秩序が
 
乱れて世の中が機能不全を起こすだけかもしれないし、外国
 
に食い物にされてしまうかもしれない(外国人に・・ではな
 
いよ)。  
 
 一番いただけないのは、不満足の揺れ戻しで、ナチスが台
 
頭したように負のエネルギーがお祭りを起こしてしまうこと
 
だけども、さて、どうなるのやら。

 
 もちろん私がどうこうできる話ではないので、横目で見て
 
いるだけだが、世の中に魅力を感じない若い子たちが、ため
 
息をついたりしらけたりしているだけではなくて、「世の中
 
のお話しは放っておいて、自分に帰ってくれればなぁ」と思
 
う。
 
 よくある「どこかへ出かけたり何かに没頭して日常を忘れ
 
る」とかいうのじゃなくて、「世の中のお話しの外にある、
 
人としての本当の日常を愛おしんでくれたらなぁ」と。
 
 
 
 
 
 

2025年7月12日土曜日

まま

 
 
 なんだかわからないタイトルですけど、「このまま」とか
 
「素っぴんのまま」とか言うときの「まま」のことです。
 
 
 量子力学とかスピリチュアルなんかの話の中で「意識だけ
 
が存在する」とか「本当は現実など無い」とか語られること
 
が多いんですけど、昨夜そういうことを考えていて、「『あ
 
る』とか『ない』とか言ってしまうと、もうそれだけでズレ
 
てるだろうなぁ」と思ったんですね。それで、「『ある』で
 
も『ない』でもないのはどういうことだろう」と探っていて
 
たどり着いたのが「まま」だったのです。
 
 
 「あるがまま」と言っても「無いがまま」と言っても、
 
「ある」「無い」という“限定”が最後に引っかかってしま
 
う。ならば「あるがまま」「無いがまま」の「ある」「無
 
い」を無くして、「『まま』だけならどうだ」と思ったんで
 
す。
 
 
 「まま」という言葉を説明するのは難しい。いろいろ考え
 
た末に出てきたのは【手を加えない】ということでした。
 
 
 「ある」ことにも「無い」ことにも手を加えない。
 
 運命にも人生にも手を加えない。
 
 ただただ「まま」の「まま」を辿って生きてゆく。
 
 
 「南無阿弥陀仏」の「南無」は、「すべてを任せてしま
 
う」という意味だから「まま」と同じでしょうけど、あまり
 
にも長く「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」という言葉
 
の中で使われてきたので、「南無」とだけ口にしても、どう
 
しても「阿弥陀仏」や「妙法蓮華経」がチラつく。
 
 
 「仏に会っては仏を殺し」と言ったお坊さんがいました
 
が、それは「すべての縛りから放たれて自由無碍になるため
 
には、仏さえ邪魔だ」ということで、その言葉に従えば「阿
 
弥陀仏」も「妙法蓮華経」も邪魔なのです。だから目の端に
 
でもチラつかないようにしたい。
 
 その点「まま」は手垢が付いていない。「南無」と同じこ
 
とですが、余計なものが何も付いてこないので良い。
 
 
 落ち着いて、自分の中にある「空っぽの意識の部分」を感
 
じながら、「まま・・・」とつぶやいてみる・・・。 
 
 すると、自分と自分を取り巻く世界が「まま」になる。
 
「まま」のままになる。
 
 何も欠けておらず何も余分なものもなく、何にも制限され
 
ていない、その・まま・の「在ること」が感じられる。
 
 
 過去も「まま」のまま。 
 
 いまも「まま」のまま。
 
 未来も「まま」のまま。
 
 自分も「まま」のまま。
 
 世界も「まま」のまま。
 
 生命も「まま」のまま。
 
 死も 「まま」のまま。
 
 しあわせも不しあわせも「まま」のまま。
 
 
 わたしたちは、自由なまま。
 
 
 
 まま
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2025年7月10日木曜日

笑ってやれ

 
 
 私は生まれてこの方お金に縁がない。40代の頃は行きがか
 
り上かなり働いたので少し余裕はあったけれど、やっと人並
 
みに近付いた程度で、贅沢はできなかった。そしてまた、現
 
在はお金の余裕はない。それも当然で、私はお金を稼ぐこと
 
に一所懸命になれない。ある程度お金を稼げて少し余裕がで
 
きれば、それ以上稼ぐことに時間と労力を使うのはしんどく
 
感じてしまう。
 
 結構な割合で、人は何かしたいことをするための資金とし
 
てお金を稼ごうとするけれど、私はしたいことが有っても、
 
それが頑張ってお金を稼がなければできないことなら「別に
 
しなくてもいいか」と思ってしまう。面倒くさい方が先に
 
立ってしまう。
 
 したいことの為にいま我慢するぐらいなら、したいことは
 
諦めていまを尊重するのが私の性に合う。
 
 
 こういう考えは「負け犬根性」なのだろう。でもそれが性
 
分で、それなりに面白く生きてこられたので、自分では後悔
 
などしない。他の誰かと比べて自分の生き方に低評価を付け
 
る義理はない。世の中の基準なんかに合わせるのは、自分に
 
失礼だと思っている。
 
 
 こういうことを言えば、きっと誰かが言う。
 
 「そんなの負け惜しみだろう」 
 
 人の口に戸は立てられないので仕方がない。言わせておく
 
しかない。
 
 誰が何を言おうが、自分がどんな目に遭おうが、自分は自
 
分を生きるしかない。どんな人生であれ、人生というのは
 
「どうやって笑うか」がすべてだろう。
 
 
 世の中のお話しの中で上手にやることで笑おうとする者は
 
そうすればよい。私の場合は、世の中のお話しの中では笑え
 
そうもなかったので、世の中の外で笑うすべを探った。そし
 
てその方針はほぼ成功したらしい。私は、個人的に成功し
 
た。
 
 
 こういう「個人的な成功」を公にすると、先に書いたよう
 
に必ず誰かが「負け惜しみだ」と圧をかけてくる。
 
 「知ったことか」と思う。自分ももういい歳なので、そう
 
いう輩に構っているほど、こちらの人生は残っていない。そ
 
んなひまとエネルギーがあれば、自分の成功を味わうことに
 
使う。
 
 
 自分の在り方に満足している者は、他の個人の満足の仕方
 
を批判したりはしないものだ。そんなもの人それぞれで関係
 
ないんだから。
 
 人が他人の満足の仕方を批判するのは、自分の在り方に満
 
足出来ていなくて、自分の在り方に自信が無く、不安だから
 
だ。
 
 
 と、こんなことを私が書いているのも、自分の在り方に自
 
信が無いせいかもしれない。語るに落ちるという、情けない
 
姿をさらしてしまっている可能性も否定できない・・・が、
 
その情けなさも笑ってしまえばそれで済む。
 
 
 世の中の端っこで出たり入ったり、自分の中心でふらふら
 
しながら、そんな自分を笑ってしまう。
 
 やっぱり、人生というのは「どうやって笑うか」がすべて
 
だろう。






2025年7月7日月曜日

「役に立つこと」は、わたしたちの役に立つか?

 
 
 ひねくれたタイトルですけど、このブログではこういうの
 
はよくあります。こういう物言いをしたくなるのは、世の中
 
の出来事に対して、私が違和感を感じるときですが、ネット
 
でもテレビでも職場でも学校でも、四六時中「役に立つ」と
 
いうことが望まれます。そういう常識に対して、私はなにや
 
ら不快なものを感じてしまうんですね。
 
 
 例えば「生物の多様性を守らなければならない」という主
 
張をする人が必ずといって口にするのが、「植物から未知の
 
薬の成分が発見されたり、生き物のからだの構造から新しい
 
発見がされて、それが革新的な素材を生むことにつながった
 
りする。そのために多様性を守らなければいけない」という
 
理屈。
 
 こういうのを聞くたびに私はつっこんでしまう。「役に立
 
たないのは滅んでいいんだね」と。

 
 私の言い草はあげ足取りではあるけれど、なぜそういうこ
 
とを言いたくなるかというと、「『役に立つから』という理
 
由を付けなければ社会に受け入れてもらえない」という雰囲
 
気があって、「多様性を守ろう」という人に世の中がそれを
 
感じさせているのが気に入らないからなんですね。
 
 「いろんな生き物がいるほうが面白いでしょ?」みたいに
 
言わせてもらえないのがいまの世の中というもので、その風
 
潮がくだらないなと感じる。
 
 
 いったい何が「役に立つ」のか?
 
 何か「役に立つ物」とか「役に立つこと」が生まれると、
 
それが活かされる事柄のフェーズが変わる。今までのやり方
 
が淘汰され状況が次のステージへ進むことになります。それ
 
はある面から見れば進歩・改良・創造と言えますが、裏から
 
見れば停止・改悪・破壊でしょう。エアコンが普及したおか
 
げで体温調整機能が衰えたとか、便利な機械が導入されて人
 
が仕事を失うとか。
 
 エントロピーの法則により、秩序が生まれると別のところ
 
にその分の無秩序が生まれてしまう。「役に立つもの」が生
 
まれると、その裏側で「役に立たないもの」が生まれてしま
 
う。社会がこれだけ豊かになっても、社会が人を幸福にして
 
いないのはそういうことでしょう。世界は一見良くなるよう
 
に見えても、ただエネルギーを消費し続けながらゴミの山を
 
作っているだけです。「役に立つ」と言いながら、ひと時の
 
興奮を得るだけです。
 
 人は満足することが大の苦手ですから、すぐに物足りなく
 
なるのです。はて、「役に立つこと」は一体何の役に立った
 
のでしょう?
 
 
 こんなことを聞かされると「いや、そんなことばかりじゃ
 
ない。本当に役に立つこともある」という人が必ずいるもの
 
です。例えば「ガンの絶対的な治療法が出来た」というよう
 
なことなら、本当に役に立つと多くの人が思うでしょう。け
 
れど、ガンで人が死ななくなったとして、それで人が満足す
 
るでしょうか?ガンの脅威は無くなっても人は何らかの形で
 
死にます。脅威・不安の対象が変わるだけ。では、人が誰も
 
死ななくなったら?それは果たして幸福なことなんでしょう
 
か?永遠に生きて何をするのでしょうか?
 
 「もういい加減に死なせてくれ!」人はそう言い始めるよ
 
うな気がします。
 
 
 「役に立つ」なんて、ものごとの一面です。その面を見て
 
いられるうちは愉快なことでしょうが、果たしてそれで逃げ
 
おおせる人生を送れるでしょうか
 
 
 現代は極度な功利主義・効率主義です。若い子が「タイパ
 
がイイ」とか言いますが、若いにしてもちょっと考えが浅す
 
ぎでしょう。あんな考え方で生きたら、一生しあわせとは無
 
縁です。タイパが大事なら、さっさと棺桶に入ればいいので
 
す。なのに「棺桶に入るのは嫌だ」というなら、それは幽霊
 
ですよ。
 
 
 役に立とうが立つまいが、そんなのほとんどは世の中のお
 
話しです。少なくとも「一面では良いことがある」という意
 
識でいないと後で代償を払うことになるでしょう。
 
 まぁ運良く他の誰かに代償を払わせることができるかもし
 
れませんけど、上品なことではないですし、本当のしあわせ
 
からは遠ざかるばかりでしょう。

 
 そりゃあ生活していると役に立つとか立たないとかを考え
 
る必要はありますが、生きる上では、役から外れたところに
 
意識を向ける方が、生きることに豊かさをもたらすと思いま
 
すね。






2025年7月3日木曜日

禅とは

 
 
 今日、鈴木大拙の言葉を抜粋した動画がヒントになって、
 
やっと「禅」とは何かということが自分なりに分かった。
 
 
 以前から「禅」を端的に表す言葉を思いつかなかった。
 
 「禅は宗教ではない。禅は哲学でもない。禅とは何か?」
 
 そういう風に思っていたけれど、今日決着がついたように
 
思う。
 
 
 宗教は「生き方を教えるもの」で、哲学は「生き方を考え
 
るもの」だろう。では「禅」とは何か? 「禅」とは「在り
 
方を確かめるもの」だろう。
 
 「自分というものは“どう在る”のが本当なのだろう?」
 
 それを確かめながら、
 
 「自分の本質の在り方を妨げないように命を過ごすこと」
 
 そのような“在り方”を参究し、伝えてゆく営みだろう。

 
 「どう在るか?」
 
 それを徹底すれば「どう生きるか?」は考える必要も教え
 
てもらう必要もない。在り方によって、生き方は自ずと形作
 
られるから。それも、自分の本質に則った形で。
 
 
 宗教は「生き方を教えるもの」、哲学は「生き方を考える
 
もの」という定義には多少の異論もあるだろうけど、概ねそ
 
のように考えておいて問題はないだろう(ただ、それらと
 
「禅」を明確に区別することは無理があるとは思うけれど、
 
ここでは便宜的に分けておきたいと思う)。
 
 
 宗教も哲学も、どちらも「自分は何処へ向かい、何をすべ
 
きか」という、生き方のメソッドのように扱われているだろ
 
う。禅もそのような扱いを受けている。「禅を学んで落ち着
 
きを持ち、仕事の成果を上げよう」とか「禅の修行・体験を
 
通して、人間的に成長しよう」などと、禅を利用しようと考
 
える。けれどそれは的外れだ。
 
 
 禅は何ももたらさない。それどころか人が普通に持ってい
 
るものさえ奪い取り、人をむき出しにしてしまう。しかし、
 
だからこそ、そこに本質が現れる。
 
 
 余計なものを何もまとわず、センシティブで無防備な自分
 
が現れる。そしてその自分で在ることがもたらすものを知る
 
ことになる。それを一つの例えで言えば、「なんだ生きてる
 
じゃないか」という気楽さだろう。
 
 
 自分の本質(人というものの本質でもある)に則して生き
 
ると、社会からは奇異な目で見られたり批判されるかもしれ
 
ない。けれど人として、自分として生まれて来て、社会に則
 
して生きるよりは、自分に則して生きるほうが本来的でしあ
 
わせであるだろうことはあきらかだろう。
 
 とはいうものの、これまで何度も書いたように、わたした
 
ちは社会と関わらなければ生きては行けない。社会から完全
 
に離脱することはできない。けれど、自分の本質に則って
 
れば、社会との自分らしい関わり方が、自ずと無理なく決
 
まってゆく。そして「社会をたしなむように生きる」ことに
 
なる。気楽になる。
 
 
 「結跏趺坐して、公案に取り組み、厳粛に規律正しい生活
 
を営み・・・」
 
 そんな必要は無い。それは、昔の人たちが“在り方”を探
 
求しようと苦闘して来た中で、各々が成功した方法を後の人
 
たちがメソッドとして固めただけのものだ。
 
 もちろん、成功した前例があるのだからそれがダメなわけ
 
ではない。けれど「そうするもの」でもない。ひとりひとり
 
にそれぞれの「禅」がある。 
 
 
 私なら「禅」に取り組む人にはこう勧めたい。
 
 
 「いつ・どのようなときでも、常に自分の中に在る『穏や
 
かさと気軽さ』を感じていようとすること」
 
 (『穏やかさ気軽さ』を作ろうとはしないこと)
 
 
 それが「禅」のすべてだと思う。
 
 形・やり方にこだわらず、肩の力を抜いて、もったいぶら
 
ずに過ごすこと。それだけのことだろう。

 
 禅の開祖 菩提達磨は禅の真髄を問われて答えた。
 
 「そんなもの、なんにもないよ」 
 
 無数の真摯な人々の格闘の末に、千数百年かけて「禅」は
 
ようやく始まりの姿に戻ろうとしているのかもしれない。
 
 
 「なんでもないよ。気楽にやろう」
 
 
 千数百年の間、格闘してきた人々がいたからこそ、私のよ
 
うな者がこんなことを言える。これまで格闘してきた人たち
 
に感謝 🙏
 
 
 
  
 
 

2025年6月30日月曜日

必須事項はない

 
 
 前回は「物事を深刻にとらない」というようなことを書い
 
たわけですが、「物事を深刻にとったっていいじゃないか」
 
という考えも当然あるわけです。私はそれは別に構わないと
 
思っています。あそこで書いたように、その刷り込みは生き
 
る上で必要だし、その刷り込みのおかげで、物事の価値を感
 
じて喜びにつながることも沢山ありますからね。そっちがお
 
望みならそれでいいのです。ただ、こう思います。
 
 「物事は必ず “負の価値” がセットなんだから、それも
 
文句を言わずに引き受けなければならないよ」と。
 
 いじわる言ってますね。そんな “清濁併せ呑む”みたい
 
なことだと、喜びを求める意味がないですからね。
 
 なので「生きることは素晴らしい」と言えば「死ぬことは
 
悲しい」となってしまいます。
 
 「生きることも死ぬことも素晴らしい」
 
 そんなことを言う人もいるかもしれませんが、多分自己欺
 
瞞ですね。嘘です。
 
 
 「生きることも死ぬことも・・・・(微笑)」
 
 そういう感じなら、私は信用しますけどね。

 
 「・・・・」の中に万感の想いが入っていると思います。
 
 「・・・・」の中にしみじみとした安らぎがあると思いま
 
す。
 
 
 「・・・・」は、思考では捉えられない実感です。
 
 「・・・・」は、人のストーリーからの開放です。 
 
 「・・・・」は、意味付けしない命です。
 
 
 《 人生はグリコのおまけのようなもの 》そう書いたのは
 
随分前ですが、おまけを宝物か、はたまた爆弾のように扱う
 
のはアタマがおかしい。おまけはおまけであって、必要欠く
 
べからざるものではない。人生に必須事項はない。独房に閉
 
じ込められたって、さしあたりは生きているんだから、人が
 
生きることは原則として空身(からみ=何も持たない)で 
 
OK なわけです。

 
 「・・・・」は生きることの原則である空身から湧き上が
 
る感覚です。原則だから誰でも分かっているはずのものです
 
が、世の中から刷り込まれ、手にしたものに惑わされて分か
 
らなくなってしまう。
 
 
 生まれた時から刷り込まれ続け、手にしてきたものをいま
 
さら捨てることも消すこともできはしません。「手放せ」と
 
か「空になれ」なんてムリなことです。そんなことをしたら
 
世の中で生きられません。けれど、身につけている服の下に
 
は裸の自分が常に在る。手にし、背負っているものをムキに
 
なって保ち続けようとすることをやめることはできる。
 
 世の中に必須のものは無い。代用が効くものばかりなの
 
に、わたしたちはつい深刻に考えて限定したものに囚われて
 
しまう。それが間違いだと気付ければ、空身の自分の感覚が
 
よみがえってくる。生きることの軽さに気がつく。







2025年6月23日月曜日

遊び心

 
 
 人が生きて行く上で最も大切なことは?
 
 遊び心でしょうね。
 
 
 あらゆることを深刻に取らない。
 
 クソ真面目にしない。
 
 面白がることを目的に、物事を捉える。
 
 
 「人生はゲーム」と言う人がいますが、遊び心と言っても
 
ゲーム感覚ということではない。ゲームにしてしまった瞬間
 
に、人はその中に入り込んでしまい、生きていることから外
 
れがちになる。遊んでいるつもりで、実はゲームに弄ばれて
 
いたりする。自分じゃなくて、ゲームの方に主導権を握られ
 
てしまう。
 
 遊び心というのは、ゲーム(目標達成に付随するその他
 
諸々のこと)ではなくて、「ハンドルのあそび」という言葉
 
が示すような、「物事にガチガチに関わらずに、少し引いた
 
ポジションで物事に関わる」というようなことです。そし
 
て、そこから物事を眺めて、面白がるという姿勢で生きると
 
いう態度。私はそれを「遊び心」と呼びます。
 
 
 わたしたちは物事を大げさに、深刻に、もったいぶるよう
 
に刷り込まれて育ちます。例外はありません。
 
 物事がすべて取るに足らないものだとなれば、社会は成り
 
立ちませんから、社会で生きざるを得ない以上、様々なこと
 
に意味付け・価値付けしないわけにはいきません。特に根本
 
的な意味付け・価値付けは「生死」についてです。「死のう
 
が生きようがどうでもいい」となれば、人は食べ物も着る物
 
も手に入れようとしないし、ケガや病気を治すこともしなく
 
なりますから。なので “大げさ・深刻・もったいぶる" と
 
いう刷り込みはしようがないのですね。 
 
 ですが、それがアダになって、人は苦悩の中を生きなくて
 
はならなくなります。大げさで深刻でもったいぶった物事が
 
損なわれると、それは大きな痛手になってしまいますから
 
ね。ですから、苦悩から逃れたければ、“大げさ・深刻・
 
もったいぶる" ということをやめればいいことになります。
 
そこで「遊び心」が必要です。
 
 物事にガチで関わらないことで、“大げさ・深刻・もった
 
いぶる” から離れられる。気軽に、気楽になれる。
 
 
 “大げさ・深刻・もったいぶる” をやめても、当然なが
 
ら自分は生きている。生きているなら “大げさ・深刻・
 
もったいぶる” は生きる上での必須事項ではないことが分
 
かる。
 
 人にとって最も深刻なことは「死」でしょうが、その深刻
 
さも刷り込みです。社会で生きる上では必要ですが、でも刷
 
り込まれたものです。すべての人が等しく経験することが深
 
刻だなんておかしな話で、「死」は深刻にならずに捉えるべ
 
きことです。すくなくとも社会に関わっていない個人の意識
  
の中では、気軽に受け止めるべきです。

 
 こういう考えが一般の人の目に入ると、雨あられと非難の
 
言葉が降り注ぐことでしょう。
 
 「死を気軽に受け止めろだと!」
 
 声を震わせてそう言う人の姿が目に浮かびます。 
 
けれど先に書いたように、「死」はすべての人が等しく経験
 
することです。それも唯一のことです。もっとも当たり前の
 
ことです。気軽に受け止めて当然じゃないでしょうか。
 
 
 その深刻さの総本山のような「死」が気軽なら、他の出来
 
事の気軽さなんて言うまでもありませんね。どのような物事
 
でも、遊び心で捉えることはできます。

 
 とはいえ “大げさ・深刻・もったいぶる” の刷り込みは
 
とても強い。私も死ぬのは少し怖いし、内の奥さんに死なれ
 
たら泣くことは間違いない。けれど、そうして深刻になって
 
しまう自分を気楽に見ていたい。自分の深刻さを笑ってしま
 
いたい。そういう自分のジタバタを面白がってしまいたい。
 
世の中のジタバタを気軽にながめていたい・・・。
 
 
 そういう在り方は世の中から非難を受け、面倒なことに巻
 
き込まれます。なので、独りで静かに笑っていようと思う。
 
あざ笑うとかではなくて、思いやりの心を持ちながら面白が
 
る・・・。
 
 「自分もみんなも、涙ぐましい存在なんだな」と面白がり
 
ながら。
 
 
 イスラエルがやってる戦争をどう見るか?
 
 面白がるのにも品は要るでしょうけどね。