2025年8月13日水曜日

問答無用

 
 
 前回書いた『楽観的人生』というのを読み返してい
 
て「ああ、そうか」と気付いたことがあった。
 
 「命は問答無用だな」と。
 
 
 これまでに何度も何度も書いてきているけれど、わ
 
たしたちは世の中で「お話し」を生きている。人生と
 
いうのは「お話し」を生きることだ。「お話し」だか
 
ら、そこにはなんだかんだと問答が行われる。単に
 
しゃべることだけではなく、自分の立場と自分以外の
 
人の立場や、環境とのやり取りが言葉を介して(思考
 
を使って)行われる。自分自身とのやり取りもする。
 
人生は問答をつなぎ合わせる運動のようなものだ。
 
 
 それに対して、命は問答無用だ。
 
 問答無用でこの世に産み出される。
 
 問答無用で世の中に押し込まれる。
 
 問答無用で苦しみを感じさせられる。
 
 問答無用の死が待っている。
 
 
 「お話し」を生きているわたしたちは「問答無用」
 
が許せない。「説明はないのか!」と怒りを覚える。
 
無力感や恐怖を感じるので、なるべく「お話し」から
 
出ないようにする。
 
 「お話し」の中にいれば一応わけは分かるので、わ
 
けが分からないという「不毛」に関わらなくて済む。
 
が、「お話し」の中はありとあらゆる問答が溢れて
 
る。「問い」と「答え」に振り回され続けて終わるこ
 
とがない。終わるときは「死」だ。最終回答は問答無
 
用の「死」なんだから、すべての問答も「不毛」だろ
 
う。
 
 
 どうせ不毛なら、問答無用の「命」の方を選んでも
 
いい。問答無用に産み出されてきたのだから、後付け
 
の問答など後回しでもいいはずだ。 
 
 なにせ「命」は問答無用だから、問答に振り回され
 
ることがない。それは魅力的なことではないだろう
 
か?
 
 問答無用がわたしたちの本質のはずだ。
 
 問答無用がわたしたちの実態であり、世界の実態
 
だ。
 
 
 考えるのを止めたら、その瞬間に「人生」も「世の
 
中」も何処かへ行ってしまうけれど、「命」はここに
 
在る。気絶していたって生きている。
 
 「お話し」の中に生きていると「命」に敬意を払う
 
のを忘れてしまう。「お話し」を続ける為だけに
 
「命」を利用しようとし始める。「命」を生きずに
 
「お話し」を生きることになる。

 
 「それでもいいじゃないか」
 
 そう考える人の方が多いだろう。
 
 でも、たぶんそういう人は人生の終わりに「自分の
 
人生はなんだったのか?・・」という思いに囚われる
 
だろう。だって、問答の連なりの果てに現れるのは、
 
問答無用の「死」なのだから、問答を生きてきただけ
 
の人には受け止めようが無い。
 
 
 「問答は無用か😌」
 
 そうして、気負わずに問答無用の「命」を感じなが
 
ら生きるのは、問答無用で産み出されたわたしたちに
 
とって、筋の通った在り方だと思う。





2025年8月1日金曜日

楽観的人生

 
 
 これまでにも何度か書いたように思うけれど、このブログ
 
は社会でイイ思いをする為に直接的にはなんの役にも立たな
 
い。むしろ却って邪魔になるかもしれないぐらいだ。けれ
 
ど、上手くすれば間接的には役に立つだろう。
 
 社会の価値観を深刻に捉えないようになり、気楽に社会に
 
関わることでプレッシャーが軽減されて社会の中で良いパ
 
フォーマンスが発揮できる可能性はある。まぁ、そんなこと
 
があったとしても副産物・オマケ であって、このブログの
 
目的ではないけれど。

 
 このブログをたまたま目にして、「もう少し読んでみよ
 
う」と思う人は、人生や社会の中で深刻な気分を感じさせら
 
れてしまっているか、以前にそういうことがあった人だと思
 
われる。まぁ、そんなことを言えばそれは人類ほぼ全員とい
 
うことになるけど、全員がこのブログを読んでみようと思う
 
はずがない。読もうと思う人は少数派だ。では読もうと思わ
 
ない人はどういう人かというと、「深刻さが、人生の価値を
 
逆説的に証明している」と無意識に思っている人だ。
 
 「人生の価値は重い。だからこそ、少し何かが欠けただけ
 
でこんなにつらい・・・」そんな風に思っている。
 
 でも本当は違う。人生に価値はないからこそ、深刻にし
 
て価値があると思い込もうとしているだけだ。そして、無意
 
識のどこかでそれに気が付いている。それは、“深刻ぶる演
 
技”と“自分の本心が持つ感覚を誤魔化す”という、二重の
 
自己欺瞞として自分を苦しめてしまう。
 
 
 もしそういうタイプの人がたまたまこれを読んでいるな
 
ら、怖いだろうけど自分の心の底を覗いてもらいたいと願
 
う。
 
 「自身で、元からそれに気付いているでしょ?」
 
 違いますか?


 ほとんどの人は気が付いているはずなんですよ。ただ、そ
 
れを直視する機会がなかった。そんな怖いこと、きっかけが
 
なければ誰もしませんからね。私の場合は随分昔にそういう
 
きっかけがあったので、こういうことばかり考えてきました
 
けどね。

 
 「人生はなんということもない」
 
 そう受け止めることは「人生は価値あるもので満たされる
 
べき大切なものだ」と刷り込まれてきたアタマには恐ろし
 
い。これまでのすべてが灰燼に帰すとでもいうような感覚を
 
覚えるだろう・・・。しかし、実際は違う。怖く思えるだけ
 
で、実際に人生の価値を軽く受けとめられたら、人生は気軽
 
に楽しめるものになる。本来の姿を現す。

 
 人生は楽観すべきもの。
 
 とはいえ、人生を「楽観」するのではない。
 
 人生を、「楽」を「観る」場にする。
 
 さまざまな出来事が伴っている「楽」を「観る」。
 
 それこそが、人生を価値あるものにする。
 
 
 縁あって生きている。人生の持つ「楽」に目を向けよう。
 
 それは、深刻さを脇にどければ、いつでもそこにある。









2025年7月31日木曜日

パラレルワールドの私に

 
 
 天文学とか量子力学とかスピリチュアルとかに色々とトン
 
デモ系の話があるけど、その中で私が一番下らないと思うの
 
がパラレルワールドの存在というやつ。
 
 
 パラレルワールドが在るとして、それがなんだというの
 
か?似たような別の世界が在るとしたって、そんなものこの

世界と関係ないじゃないか。その世界にも自分が生きていよ
 
うが、それはその世界の自分であって、この自分が生きてい
 
るのはこの世界なんだから。
 
 
 あまりに下らないので、パラレルワールドの話をちゃんと
 
聞いたりしたことがなくて分からないけど、なんか、今の世
 
界が苦しかったりしたら「意識を変えれば別の世界の自分と
 
して生きられる」みたいな話もあるようだ。
 
 仮にそうできるとして、置いていかれた元の世界の自分
 
は、そこでその続きを生きてゆくだろうけど、置き去りにさ
 
れた自分のことをどう思っているのだろうか?自分さえ良け
 
れば、自分なんてどうでもいいのだろうか? 
 
 この世界に生きている自分を、より良く生きさせてあげる
 
べきではないのか?

 
 私にとってのパラレルワールドは、例えば、あなたが生き
 
ているあなたの世界です。
 
 私の奥さんが生きている彼女の世界です。
 
 三軒先の女子高生が生きているその子の世界です。
 
 トム・クルーズが生きている彼の世界です。
 
 プーチンの生きているプーチンの世界です。
 
 チンギス・ハーンの生きているハーンの世界です。
 
 お釈迦様の生きているお釈迦様の世界です。 
 
 百年後に生きている誰かの世界です。
 
 深海で生きているダイオウグソクムシの世界です。
 
 セミの世界です。
 
 細菌の世界です。
 
 
 すべての存在が、それぞれにその世界(自分の世界)に
 
在って、それが無限に重なり合っている。無数のパラレル
 
ワールドが時空を越えて重なっているもの。それが世界で
 
す。
 
 
 他の世界に目配せをせず、無限の世界の中で、自分の世界
 
を慈しんで生きる。
 
 自分の世界を嫌い、冒涜することが自分の世界を醜悪なも
 
のにしてしまう。自分の世界を愛せるのは自分だけなんだか
 
ら。

 
 「波動」がどうとか言うけど、「波動」というものがある
 
とすれば、自分が自分の世界を愛することで、別の誰かとし

て生きている自分に「良い波動」が伝わることだろう。
 
 
 パラレルワールド?
 
 自分を愛さない人間は、どの世界で生きたって自分を愛さ
 
ないだろう。
 
 
 自分の世界はここにしかない。
 
 自分はここにしかいない。
 
 
 それを受け入れない者は、すべての世界で居場所を失うだ
 
ろう。
 
 
 
 
 
 

 

2025年7月29日火曜日

架空の人

 
 
 
 NHK の『欲望の会社論』という番組を見ていて、「会社と
 
は法人である。法人とは法律上、人とみなしたもの」という
 
解説を聞きながら、ふと思った。
 
 「組織(一つの社会活動システム)を“人”と仮定するこ
 
とができるのは、そもそも“人”というものが法人と同じよ
 
うに架空のものだからじゃないか?」

 
 普通“法人”は具体的に存在していないが、“人”は存在
 
していると考える。けれど、考えてみると“人”も“法
 
人”と同じく社会の約束事であって、実態があるわけではな
 
い。
 
 
 死刑というものがあったり、外国では犯罪者がその場で射
 
殺されたりするのは、その犯罪者が法を守らないからだけれ
 
ど、それが物語ることは、社会が“人”とみなしているのは
 
「法の規定の中にある人間」だということ。社会の中では、
 
わたしたちは社会の約束事の中でのみ存在できる架空の人
 
だ。〈架空の自分〉が社会でなにを成し遂げようとも、〈実
 
態の自分〉にはなにも関係ない。

 
 わたしたちは社会の中に生まれてくる。そして社会の中で
 
生きるために、社会に了解される〈架空の自分〉を身にまと
 
う。
 
 それは仕方がないことだ。そうしなければ社会から排除さ
 
れて生きられなくなるから。けれども、常に〈実態の自分〉
 
を忘れてはならない。〈架空の自分〉に全振りした人は、怯
 
えて暮らすことになる。社会の物語は常に変わるから。
 
 
 〈実態の自分〉は怯えることがない。
 
 病気・老い・死・・・。それらの避けられないものに怯え
 
ると思われるかもしれないが、病気・老い・死・・などが怖
 
いのは、それらを「忌むべきもの」という社会のお話しにと
 
らわれているからで、〈実態の自分〉はそれらを怖れたりし
 
ない。
 
 
 社会に全振りしている人は「自分たちこそが実態を生きて
 
いるのであって、社会を架空だなんて言う人間こそ、宗教や
 
スピリチュアルみたいなアホな夢に酔ってるんだ」と言うだ
 
ろう。
 
 それは分かる。そう言われるのは仕方がない。その溝が埋
 
まることはないだろうし、「こちらに来い」などと言う気も
 
ない。お互いにそれぞれのさだめを生きるだけだ。どうぞお
 
気の済むようにと思う。
 
 
 ただ、そいういう人が自分の生きる世界で気が済んでいる
 
のだろうか? 社会の中での勝者も敗者も、物語に揺さぶら
 
れ続けるのではないだろうか? 
 
 まぁ、その揺れや刺激が楽しいのかもしれないが、私はそ
 
ういうのは御免です。だから〈架空の自分〉は最低限にして
 
おきたい。 
 
 
 「法」というのが社会の法律ではなくて、仏法の「法」で
 
あるならば、私は〈法人〉として生きたいが・・・。
 
 
 
 
 

2025年7月22日火曜日

はざまで生きる

 
 
 こんなブログを書いている人間でも、コロナの時のように
 
あまりにもおかしなことが起きていると、社会のことに首を
 
突っ込んで考える。社会は必要悪であるとはいえ、必要なの
 
だから仕方がない。私も社会人の端くれだし。
 
 そういうことで、前回・前々回は選挙絡みのことを書いた
 
けれど、やはりそういうのは私にとっては寄り道だ。本当は
 
構わない方がいいのだけど、そうなるとさっさと棺桶に入っ
 
た方がいいという話になる。
 
 
 ゲーテが言っている。
 
 
 もはや愛しもせねば迷いもせぬものは
 
 さっさと埋葬してもらうがいい

 
 ゲーテの言う通りだと思う。人が苦労しようが恵まれよう
 
が、死のうが生きようがなんとも思わないのなら、もう生き
 
ている必要がない。さっさと墓に入ればいい、生きてるのは
 
ムダだ。
 
 
 私は世の中や人生に振り回されてジタバタしたくはないけ
 
れど、達観し切って氷のようになるのも違うと思う。自分の
 
中で何かがそう教える。
 
 
 世の中のことはすべて“お話し”にすぎない。命の本質は
 
“お話し”の外にある。
 
 けれど完全に外に出てしまっては間違う。“お話し”と外
 
のはざまでバランスを取ることに、生きていることの喜び・
 
面白さがあると感じる。
 
 
 人が人間らしく怒っているのなら、自分も一緒にムカつい
 
てやらねばいけない。
 
 人が人間らしく悲しんでいるのなら、自分も一緒に泣いて
 
あげなければいけない。
 
 人が人間らしく喜んでいるのなら、自分も一緒に喜んであ
 
げなければいけない。
 
 ただし、怒りや悲しみ喜びに酔ってはならない。心を開き
 
ながら距離を取るという離れ業をこなさなければ、“お話
 
し”に飲み込まれてしまう。
 
 
 とんでもない贅沢を言っているのだと自覚している。けれ
 
ど、それがこの世に生まれてきた醍醐味だと思うし、この世
 
の中に対する真の貢献だとも思う。
 
 
 俳優が演技をする時。音楽家が楽器をかなで、歌手が歌を
 
歌う時。自分の表現に、酔いながら覚めていなければ感動を
 
生み出せない。生きていることも同じだろう。
 
 
 
 覚めながら泣き、笑いながら冷静で、落ち着きながら怒
 
る・・・。
 
 
 そんなのは、それこそお芝居だと思われるかもしれないけ
 
れど、そうじゃない。世の中の“お話し”と命の本質に気付
 
いて生きれば、自ずからそうなる。そこに、えも言われぬ喜
 
びがある。  






2025年7月21日月曜日

雨乞いのあと

 
 
 朝からテレビで参議院選挙の結果を見ながら気が付いた。
 
 「あっ!なんだ。これ待遇改善の労使交渉じゃないか」
 
と。
 
 与党(政府)が企業側で野党が労働組合側だというこで、
 
もっぱら賃上げ要求をやってるんだと。
 
 
 若い人は知らないだろうけど、日本でも昭和の頃はストで
 
よく電車が止まったりした。「政治が労使交渉なら、国民も
 
政府や政党相手にストをすればいいんじゃない?」 などと
 
思ったりする。
 
 今は SNS で考えが広く共有できるんだから、20〜40
 
代の人たちが中心になって、「消費税を廃止しないんなら、
 
俺達は働かねぇ」と日本中であらゆる職種の人たちが一斉に
 
仕事を休むとか・・・。
 
 他にどんな事が可能なのか、それで国が良くなるのか悪く
 
なるのか知らないけれどね。

 
 政治はつまるところ富の分配の話なので、やってることは
 
企業経営と労使交渉と大した違いはない。日本でガチの労使
 
交渉が行われなくなったことと、この30年間の政治はリン
 
クしてるんだろうなぁ。政治自体がデフレなんだろう。
 
 で、その政治にもとうとう揺れ戻しが来ているようだ。
 
 
 「白い紙に名前を書いて箱に入れたら、世の中が良くなる
 
なんて、雨乞いすれば雨が降るというのと同じだ」と言った
 
のは養老孟司先生だが、今回それぞれの思惑で投票した有権
 
者も当選者も、その思惑が実現して世の中が良くなるなんて
 
思わない方がいい。単に邪魔が入るからということではなく
 
て、望みが叶って「世の中が望んだ方へ変わった」という状
 
況が、新たな問題を浮かび上がらせることになるので、結局
 
のところ不満・不安がなくなることはない。
 
 
 「それじゃぁ不満があっても黙っていろというのか!」
 
と、真面目な人は言うだろうが、その真面目さが曲者だと思
 
う。
 
 人の求める心にはキリがない。真面目な人ほどキリがなく
 
求める。それは世の中に大きな問題を生む。
 
 
 既得権益者の求める心にも、自分(搾取される側)の求め
 
る心にも振り回されないために、遊び心が必要だ。遊び心が
 
あれば、世の中がどんなに出来損ないでも、どうにかこうに
 
か自分のバランスを失わずにいられるだろうし、遊び心を持
 
たずに世の中を変えようとすると、それはかなりおぞましい
 
結果をもたらすことだろう。 
 
 
 「選挙は雨乞い」
 
 そんなノリで、「運が良ければ雨が降る(暮らしが良くな
 
る)」ような意識で関わるのがいいのだろうと思う。
 
 人が社会をコントロールできると思ったら大間違い。
 
 なにしろ社会は、わたしたちの出来損ないのアタマが寄り
 
集まってできているんですからね。面白がってしまうにしく
 
はない。
 
 
 不真面目なブログで恐縮です・・・。 







2025年7月19日土曜日

選挙で何が変わるのか?

 
 
 明日は参議院選挙の投票日で、自公が大敗するだろうとい
 
う見方が大勢を占めてる。まぁそうなるだろうと思うけど、
 
何事も蓋を開けてみなければわからないのは世の常ですね。
 
どうなるんでしょうね?
 
 
 以前、「日本の政治は、左右ではなくて、中央と左右だ」
 
ということを書いたことがありますが、最近の政治を見てい
 
て、「あれでは不足だったな」と気付きました。「中央と左
 
右」だけではなくて、「中央と周囲」なんですね。
 
 
 思想的な「左右」と、経済的・地政学的な「前後」、さら
 
に自然環境なども加えた「周囲」をふまえて、いかに中央で
 
バランスをとるか? それが政府の仕事だということです
 
が、いまの政権は中央のピーク(立体的正規分布の中央)か
 
ら、あまりにもあからさまにずり落ちてしまった。というわ
 
けで「もう降りろ!」と怒っている国民の数が閾値を越えた
 
ようですね。
 
 
 自公政権とオールド野党のていたらくを見てると、「お前
 
らもう降りろ」というのは納得ですが、危惧することは有り
 
ます。
 
 社会の中で新しい勢力が台頭してしてくる場合、それを推
 
す人たちが観念的な暴徒になることも世の常だということ。
 
「これまで間違っていたことを変えるのがいいんだ!」とい
 
う観念に取り憑かれて、視野狭窄を起こすことがよくあるの
 
は歴史にあきらかです。選挙で変わるのは政権だけではあり
 
ません。政権を推す人々が、はからずも変わってしまい、社
 
会が却っておかしくなったりもする。
 
 
 ヒトラーもスターリンも、始めは真剣に国のことを考えて
 
いたことでしょう。支持者もそうでしょう。けれども人間は
 
手段と目的を取り違えるのが得意です。いつの間にか「国の
 
ため、国民のため」が「観念のため」になってしまって暴走
 
する。「観念(理想)のためには国民は二の次」になり、や
 
がて権力者が生まれて国民を喰い物にしはじめ、そして国民
 
は思う「なんでこうなった・・・」。自分たちが推したんだ
 
けどね。
 
 これから日本の政治状況が本当に大きく変わるとするな
 
ら、私はそれを懸念する。     
 
 まぁ、すぐにそういうことが起こるとは思いませんが、5
 
年後、10年後に、自由にものが言えない世の中になったと
 
しても驚きません。コロナのときに私たちはそれを目の当た
 
りにしましたよね? アタマは悪さをします。
 
 
 まぁ、先でどうなるかなんて誰もわかりませんし、今の政
 
権はロクでもないと私も思っています(当然、今の政権の方
 
が都合がいいという者もいる)。なので明日投票に行って、
 
結果を80%ぐらい「傍観者」の感じで見ていようと思いま
 
す。
 
 《 世の中はたしなむ程度にしておきましょう 》
 
 というのが私の生き方ですからね。