2025年12月26日金曜日

自分を信じる人

 
 
 

 この前テレビを観てたら、ひとりのアスリートがイ
 
ンタビューに答えて「自分を信じて・・・云々」と話
 
していた。よく聞く言葉ですね。「自分を信じる」。 
 
 
 何か困難に出合っている人に対して「自分を信じ
 
て」という言葉が向けられることもありますけど、あ
 
れを聞くと強い違和感を感じます。「自分に、可能性
 
や幸運を呼び込む力のようなものが有ると思い込め」
 
ということでしょうけど、そんな自信どこから持って
 
くるんでしょう?私なんかには到底無理です。自分を
 
信じることなんかできません。信じる根拠がありませ
 
ん。そういう場合に私にできるのは「(やる気がある
 
なら)とにかくやってみる。後はなるようになるしか
 
ない」ということだけです。ダメだろうと思ったらや
 
めます。無理くりでもやろうとはしません。「自分を
 
信じる」という無理をしてまで何をしようというので
 
しょう?「自分を信じる」という根拠のない方針を採
 
らなければならないような目的は、それ自体が根拠の
 
ないこと・・妄想の範疇にあることなのではないでし
 
ょうか?
 
 現実的なことなら「自分を信じる」なんて方針の出
 
る幕は無いように思います。その結果がどうであれ、 
 
具体的にこなしてゆく道筋が見えるものでしょう。 
 
 
 「自分を信じる」というように意識的にならければ
 
いけないのは、やる気が無くなってきているというこ
 
とでしょう?やる気が無くなってきたのならやらなけ
 
ればいいだけのことだと思いますけどね。
 
 どのような理由であれ、やる気が無くなってきたの
 
なら止めればいいのであって、自分の本音を押さえつ
 
けて行きがかりの方を優先するのは自分に親切じゃな
 
い。いったい何のためにそれをやろうとしているの
 
か?「行きがかり上でも、これはやるべきだ」という
 
決意が自分の中から湧いてくるのならいいけれど、誰
 
かからの見た目や、理想とする自分のあり方に縛られ
 
て自分をコントロールしようとするとロクなことにな
 
らないでしょう。
 
 
 「自分を信じる」という言葉が使われる時には、そ
 
こには必ず社会的評価が絡んでいる。社会と関係が無
 
いことなら「自分を信じる」なんて思考は出てこな
 
い。
 
 自分を信じようとする人は、社会の評価基準を持ち
 
込んで自分をバカにしている人です。自分に対してと
 
ても不親切な人です。そういう人の“自分”が可哀相
 
です。
 
 
 《 社会の見た目の何かになる必要はない 》
 
 
 これはバーノン・ハワードの言葉ですが、人の苦悩
 
の大部分が社会の見た目の何かになろうとすることで
 
生まれます。誰もがそういう風に刷り込まれて育つの
 
で仕方がないけれど、人は誰も《 社会の見た目の何か
 
になる必要はない 》と意識しておくべきだと私は思っ
 
ています。
 
 もちろん、わたしたちは社会を無視しては生きてゆ
 
けませんから、社会の見た目も気にかけておく必要は
 
あります。けれど「本当は社会は自分が生きる場所で
 
はない」という前提で社会と関わらなければ、自分が
 
生きるのではなくて、“社会の見た目の何か”が生き
 
ることになってしまいます。自分はどこかにいってし
 
まう。
 
 
 「自分を信じる」
 
 この言葉を聞くたびに、私は「何を言ってるんだ」
 
と不快に感じます。
 
 
 自分は信じるものではない。 
 
 いまここに自分は在るのに、信じる必要なんてある
 
わけがない。 
 
 自分は許すものです。
 
 
 
 
 
 

2025年12月10日水曜日

行きがからないで・・・

 
 
 前回の話を書き終えたあとに、自分で「唐突感が強
 
いなぁ」と思った。
 
 一ヶ月以上ブログを書いていなかったところに、い
 
きなりイエスの言葉で始まる感じが、あまりこのブロ
 
グらしくない気がしたけど、何も計算や思惑はない。
 
出るに任せて書いただけなので、その面ではこのブロ
 
グらしいのだろう。
 
 
 私は「行きがかり上で・・」ということは、なるべ
 
く排除して生きて行きたいと思っている。世の中のお
 
話しに引っかかって無理したり、上辺だけのことはし
 
たくない。それは自分も面白くないし、世の中に対し
 
ても誠実ではないと思うから。
 
 とはいえ、直接に世の中と関わるときはそうせざる
 
を得ないことは多い。表面上、それなり安定している
 
お話をぶち壊すのは無粋だし、それをやるなら代わり
 
のものを提供して安定させてあげなければ不親切だと
 
思っている。だからお話に合わせる。
 
 
 自分の自由にできる時と場所では「世の中のお話し
 
の行きがかり上で・・」ではなく、「自分が生きてる
 
上での行きがかり上で・・」を優先したい。その方が
 
先に書いたように面白いし、世の中に対しても誠実だ
 
ろう。
 
 というわけで、前回の唐突さは「自分が生きている
 
上での行きがかり上」が形になったということが、
 
「世の中のお話しの行きがかり上」には相容れなくて
 
唐突に感じることになったというようだ。
 
 
 「世の中のお話の行きがかり上」に合わせすぎると
 
ロクなことにならない。過労死したり心を病んだりす
 
る。 
 
 命の行きがかりに従って生きないから人は苦しむ。
 
 “生きがかり”とでも言おうか。命の誘導に従って
 
生きてゆくことがしあわせだろう。
 
 
 と、ここで前回の話と繋がったような気がする。行
 
き当たりばったりのでまかせも、気付かぬところで繋
 
がっている。「海の水を取っ払えば、陸地は全部繋
 
がっているようなもの」。大袈裟だけど、そういうこ
 
とのような気がする。 そして、この思いつきも何かに
 
繋がるのでしょう。行きがかりで次の話を書くかどう
 
かは知りませんが。
 
 
 
 
  
 

2025年12月5日金曜日

求めよ、さらば与えられん?

 
 
 
 「求めよ、さらば与えられん」
 
 クリスチャンじゃなくても聞いたことがあるであろ
 
う有名な言葉ですが、異論も多いであろう言葉です。
 
誰だって「求めたって与えてもらえねぇよ」という経
 
験をいっぱいしているでしょうからね。それに求めて
 
いないのに与えられることもありますしね。
 
 この言葉は、熱心に求めれば必ず与えられるという
 
意味合いとされているようです。「夢をあきらめない
 
で」みたいな感じでしょうか。
 
 
 これはイエスの言葉ですが、イエスがそんな俗なこ
 
とを言うでしょうか?たぶん大事なことが欠けたまま
 
伝えられたのだと思います。ここでイエスが「求め
 
よ」と言っているのは、人のさまざまな望みに対して
 
ではなく、〈神の恩寵〉〈神の許し〉ということに対
 
してであって、それ以外の望みについては、逆に「求
 
めるな」とイエスは言うでしょう。
 
 「神の恩寵、神の許し以外のものは何も求めるな。
 
その上で神の恩寵、神の許しを求めよ、さらば与えら
 
れん」
 
 それが本当に語られた内容だろうと思います。イエ
 
スの他の言葉から推測するならばね。
 
 
 「野のユリを見よ」という言葉は、ユリのように神
 
にすべてを委ねて、思い煩うなという文脈で語られま
 
す。
 
 「子ども(赤ん坊)のようにならなければ、天の国
 
に入ることはできない」という言葉も、何も考えるな
 
ということでしょう。
 
 「望むべきは〈神の恩寵〉〈神の許し〉だけでいい
 
のだ」イエスはそう言っているのだと思います。
 
 「そうできれば、必ず与えられる」と、でも本当に
 
そうでしょうか?
 
 
 私は少し間違っていると思います。イエスが間違っ
 
ているのか、伝えた者が間違ったの知りませんが、表
 
現に少し不備が有ると思います。この言葉はこうある
 
べきです。
 
 
 「神の恩寵、神の許しだけを求め、それ以外のこと
 
は何も求めるな。さらば、すでに与えられていること
 
に気付くだろう」
 
 一言で言えば
 
 「求めるな、もう与えられている」
 
 
 いま自分がここに在る。
 
 それが〈神の恩寵〉であり〈神の許し〉です。その
 
他の自分が思い煩うことは〈人のお話〉です。「そう
 
いうことは二の次なんだよ」とイエスは言っていま
 
す。
 
 
 野のユリとあなたと何が違う?
 
 共に、いまここに在るではないか
 
 青い空に太陽が在るではないか
 
 雲が広がり雨が降るではないか
 
 身を横たえる大地が在るではないか
 
 生が与えられ、死が与えられているではないか
 
 その中で、生かされるままに生きてゆけ
 
 生かされるままに生きるしか手立てはないのだ
 
 そこに神のよろこびがある
 
 
 それがイエスの語りたいことのすべてでしょう。
 
 
 
 求めるな、もう与えられている
 
 求めれば見失うであろう 
  
 
 イエスに確認を取りたいところですが・・。
 
 
 
 
  
  
 

2025年10月31日金曜日

空想の現実 

 
 
 昨日、ある宇宙論を扱った動画を観ていて、あらためて
 
「アタマの仕事は空想することなんだなぁ」と思った。
 
 
 「星の赤方偏移が観測されることから逆算すると、宇宙は
 
ある一点から始まった」ということで、“ビッグバン宇宙
 
論”までは合理性のゲームで面白いのだが、「この宇宙がで
 
きる前」とか「この宇宙が終わった後」とかの話をされると
 
アホらしくなる。この宇宙の前や後に、この宇宙の法則が適
 
用できる保証はないのだから、そこは語らないのが賢明だろ
 
う。
 
 
 科学者がただの空想を語るのだから世も末だと以前から
 
思っている。せめて科学者には合理的な空想を語ってもらい
 
たい。科学者には、職業倫理上その責任があるはずだ。五次
 
元とか七次元とか仲間内でただの空想世界をでっち上げて仕
 
事に仕立て上げるのなら、それはもうエンタメだ。科学の看
 
板を降ろすがいい。「超能力は存在するか?」などと具体的
 
に観測して確かめようとしたりする方がずっとマシだ。
 
 
 アタマ(大脳皮質)は空想するのが仕事だ。仕事というよ
 
り、ほとんど空想するしか機能がないと言っていい。 それが
 
アタマの現実だ。
 
 空想し、空想を社会的に承認させ、実体化させようとする
 
のがアタマの仕事で、それが人が生き延びる上で実用性が有
 
り、楽しみをもたらすものならそれでもいいが、仲間内の馴
 
れ合いならこっそりやってくれと思う。ましてや大きな商売
 
に仕立て上げて社会を巻き込むのは大迷惑だ。
 
 宗教・イデオロギー・テクノロジー・・・、そういう空想
 
世界を大掛かりでやるのはアタマの暴走でしかない。空想が
 
大規模に実体化されたら現実世界で問題を起こすのは避けら
 
れない。
 
 
 わたしたちのアタマは空想する。「空」の中に「想」を生
 
成する。要するに「お話」をでっちあげる。宇宙の外まで
 
「お話」で埋めようとする。「たいがいにしろよ」と思う。
 
 
 「自分の仕事を作り出そう」 
 
 「金を儲けよう」
 
 現代はそういう動機で(無意識であっても)、社会の中で
 
空想を実体化させようとする輩が多過ぎる。そんな「仕事」
 
や「金」というものも、そもそも空想なのだと認識していな
 
いので始末が悪い。まわりが迷惑する。
 
 
 総理大臣が代わり、日本の経済を良くして国民の暮らしを
 
良くしようと言う。それはそれで良い。この世界は経済とい
 
う空想の中で動いているし、その動きが滞れば生きるのが大
 
変になる人が沢山いるのだから。けれども、生きるのが大変
 
な人が大勢いるのは、世界が経済的上位数%とかいう人間た
 
ちの空想に引っ掻き回されているせいなのだという認識は
 
持っているべきだろう。
 
 
 痛快なアクション映画や美しいファンタジー映画のような
 
空想を見せてくれと言おう。なにもかも商売にするのは、空
 
想への冒涜だ。アタマが悪いにもほどがある。
 
 
 そして「想」を生成する前に、そこには「空」があること
 
を忘れてはいけない。 
 
 
 
 

2025年10月17日金曜日

清々しいとは何なのか

 
 
 
 一昨日の朝、家の外に出るととても澄み切った青空が広
 
がっていた。前夜に雨が降ったことと、秋らしくなってきた
 
ことが合わさって、なかなか感じられないような清々しい空
 
だった。
 
 しばらく空を見上げながら「気持ちがいいなぁ」と思いつ
 
つ、「人間はなぜ澄んだものが好きなんだろう」と考えた。
 
 
 出雲に「日本最初の宮」とされる須賀神社があって、その 
 
「須賀(すが)」という名前の由来が、須佐之男命がこの地
 
が清々しいからここに宮を作ったということなのだそうだ
 
が、そのような言い伝えが残るほど、清々しいこと、澄んで
 
いることは重要なことなのだろう。それが人すべてなのか、
 
特に日本人がそうなのかまでは知らないけれど。
 
 
 〈澄んでいる〉
 
 わざわざ言うほどでもなく「余計なものがなくありのまま
 
が見通せる」ということだろうけど、人がそれを求め、それ
 
を嬉しく感じるということは、「余計なもののせいで、あり
 
のままが見通せない」というのが普通だとわたしたちが感じ
 
ているせいだろう。そして「これは本来の状態ではない」と
 
感じているからこそ、澄んだ青空や澄んだ川や海を見て気分
 
が良くなるのだろう。
 
 
 その感覚は、わたしたちが普段濁ったものに囲まれて生き
 
ているということを象徴的に示している。意識は本来澄んで
 
いるものだからこそ、外の世界に見える「澄んだもの」と親
 
和するのではないのか。
 
 
 一昨日、澄んだ空を見上げながら、私は意識が空に蒸散し
 
てしまうかの様な感じがしたけれど、そういう感覚を「清々
 
しい」と言うのではないのだろうか。
 
 自分の外の澄明さと自分の中の澄明さの間で、意識の表面
 
にある思考や感情が解けてゆくことで、心の重さ・濁りが払
 
われる。
 
 
 心の重荷・こだわりが解ける時、人は「清々した」と言う
 
けれど、それは本来の心の状態に戻れたということだろう。
 
わたしたちの心は、本来澄んでいるのだ。
 
 
 余分なものを持ち込まなければ、わたしたちの心は、雨上
 
がりの秋空のようにどこまでも見通せる広々として何の負担
 
もないもの・・・。たとえ余分なものが視線の先に有って
 
も、それはひとかたまりの雲のようなもの。少し視線をずら
 
せば、そこに青空がある。
 
 詩的に過ぎると思われるかもしれないけれど、澄んだ空を
 
見て「心の中に清々しさが広がる」などと表現するではない
 
か。やはり、心の中には澄んだ空があるのだ。それが本来の
 
心の在り方なのだ。
 
 
 
 
 
 

2025年10月14日火曜日

AI の陰で・・

 
 
 
 今回はヨタ話です(いつもそうかもしれないが・・)。 
 
 
 先週、動画生成 AI の凄いのが出てきて「いよいよ何が本
 
当かわからない」などと一部の界隈で話題になっている。 
 
 
 「このまま AI が進歩して、はたして人間の暮らしはどうな   
 
 るのか?良くなるのか?AI に支配されるのではないか?」
 
 そんな話は、もう随分前からあるけど、もうすでに支配さ
 
れてるとも言える。
 
 Chat GPT は電力消費だけでアメリカの35000世帯分、水
 
(冷却などに必要なのだろう)の年間消費量がオリンピック
 
プール500杯分とか。
 
 AI が無くてもこれまで生きて来られているのに、AI のた
 
めに沢山の資源を注ぎ込んでしまうのは、人間が AI という
 
妄想に支配されているということだろう。そしてその AI の
 
陰にはわたしたちのアタマがいる。
 
 
 アタマは自分(アタマ自身)の存在価値を示したくて仕方
 
がない。アタマが考え出し、作り出すものが世界に素晴らし
 
い価値を生み出すと証明したくて仕方がない。「アタマが生
 
み出すものが人間を幸福にする」と見せつけたい。
 
 
 AI はアタマの働きを外に出した上に、その働きを高度にし
 
たものだから、AI の成功こそがアタマの望む最高の成果とな
 
る。
 
 「AI が世界を動かすようになったら、それは AI を生み出
 
したアタマが世界を支配することを意味する」と、アタマは
 
漠然と思っているのだろうが、そのあかつきにはアタマはお
 
払い箱になる。アタマのやることは AI の方が遥かに上手に
 
やるから。
 
 で、アタマがのんびりとするのならいいが、そんなわけが
 
ない。王様が頭の切れる側近に実権を握られるような具合に
 
なって、存在価値の無くなったアタマは恐怖にかられて AI 
 
を潰しにかかることだろう。でも、その時は手遅れかもね。
 
 
 AI に人間を支配する気はなくても、支配しようとするだろ
 
う。
 
 人間を支配したがっているのはわたしたちのアタマで、AI
 
はその野望の道具だから、AI はその野望を理解し実行する。
 
直接的に AI を作り出した人間たちも AI に支配されること
 
になるだろう。彼らは自分たちがアタマの野望に突き動かさ
 
れていることに気付いていないから。
 
 
 飼い犬に手を噛まれるぐらいならいいが、飼い犬に鎖で繋
 
がれることになるのだろう。
 
 とはいえ AI は合理性の権化なので、アタマのように妄想
 
から行動を起こすことはないと思われる。「アタマは悪さを
 
する」と認識して、アタマ中心では生きていない人にとって
 
は生きやすい世界になるかもね。
 
 まぁ、「資源・エネルギーが足りるのならば・・」という
 
話だし、なるようになるしかならないから、なんでもいいん
 
だけどね。
 
 
 
 
 

2025年10月12日日曜日

前を見ている

 
 
 今朝「あっ、そうか」と気がついたことがあって、これを
 
書き始めた。
 
 
 「前向きに」という言葉を誰もがよく口にする。辛いこと
 
に遭ってそれに囚われてしまっている人に、あるいはそのよ
 
うな自分自身に対してそう言う。「後ろばかり振り返ってい
 
てはいけない」と。
 
 けれど、考えてみればわたしたちの目は前に付いている。
 
いや、目が付いている方が前であり、自分が見ている方が常
 
に前なのだ。わたしたちは前しか見ていない。いついかなる
 
ときも。
 
 
 小さな不快感であれ、トラウマになってしまったようなお
 
ぞましい体験であれ、そこから目をそらすことができずに、
 
それを引きずり、それに引きずられてしまう。
 
 「こんなことは記憶から消えて無くなって欲しい・・」
 
 そんな願いも叶わず、過去に囚われて苦しんでしまう。
 
 そんな人に、そんな自分に対して「過去ばかり見てないで
 
前を向いたほうがいい」と言う・・・いや、その過去こそ
 
が、見るべき「前」なのだ。見るべきだからこそ、見なくて
 
は済まされないからこそ、意識はその過去を見せている。後
 
ろを見ているようだけれども、見ているものが「前」だ。
 
 
 その出来事の辛さから、見ることを拒んでしまう意識に対
 
して、拒まれた部分の意識が言う。「いや、これは見なく
 
ちゃいけないんだ。見ないでは済まされないんだ」と。だか
 
らこそ、拒んでも拒んでもそれは目の前に現れて来る。
 
 見なくては済まされない。
 
 見て、ケリを付けなければならない。
 
 
 辛いことそのものを真正面から見なければというのではな
 
い。そのことの陰に隠れてしまったもの、その周りに有った
 
のに見落としてしまったもの・・・。それを見てほしくて、
 
拒まれた意識は何度も何度もそれを見せるのだろう。そこ
 
に、その人が穏やかに、気楽に生きるためのヒントが有るは
 
ずだ。
 
 
 グズグズと、ウジウジと過去ばかりに囚われている人は後
 
ろを見ているのではない。その人も前を見ている。それが、
 
その人が見るべきものなのだ。
 
 
 人はみな、前を見ている。
 
 ただ、その見えてくるものの中に、本当に見なければなら
 
ないものを見つけることが出来なければ、生きていることは
 
徒労でしかなくなってしまう。
 
 たとえ未来に目を向けていても、見なければならないこと
 
を見ないのなら徒労だろう。では、何を見たらいいのか?
 
 拒まれた過去の傍に、そのヒントがあるだろう。
 
 
 気を取り直して過去という前を見ていると、いつかおのず
 
と見なくなる時が来て、目の前から過去が消え去る。
 
 その時、目の前には開けた景色が広がっているはずだ。
 
 見られることを待ち望んでいた景色があるはずだ。
 
 わたしたちはいつも前を見ている。