2017年5月13日土曜日

命の基本

 山に目をやると、五月の新緑が優しく健康的なパッチワー

クを見せている。

 街の中にも色とりどりの花がいっぱいで、飽きることがな

い。


 わたしは植物が好きなんですが、なぜ自分がこんなに植物

に惹かれるのか・・。時々、不思議な気持ちになります。
 

 植物に接していると、いろいろと考えさせられ、学ばされ

ることがあります。

 それはたぶん、植物が我々人間とはまったく違う生き方を

していることと、植物が地球の生態系の基礎であり、植物な

しでは、殆どすべての生物が生存出来ない、ということに関

係しているのだろうと思います。

 植物が我々と最も違う点は、光合成をして有機物を生産す

ること   生産者であるということ。

 植物が生産する有機物が無ければ、ごく一部の例外を除い

て、生物は生存できません。(例外は、深海底の熱水噴出口

周辺に生きる細菌などですね)太古の昔から、植物は太陽の

エネルギーを有機物という形で地球上に保存してきました。

植物のこの活動がなければ、地球はとうの昔に灼熱地獄にな

っていたことでしょう。現在言われるところの地球温暖化な

ど、比べものにならない。炭酸ガスの濃厚な大気の中で、太

陽から降り注ぐエネルギーはそのまま熱として地球に溜まり

続け、地球灼熱化が進む・・・。それを止め、さまざまな生

物が生まれ、生きて行く基礎を作ったのが植物でした。

 もう一つの植物の特徴は、やはり動かない(根を張る)と

いうことでしょう。逃げない。追わない。ということ。

 自分が置かれた環境の中で、ただ自分として、自分を生き

るというスタイルですね。(【「置かれた場所で咲きなさ

い」渡邊和子】 という本が話題になりましたね。  読ん

でないです、内容は推測できますから)


 で、「置かれた環境で生きる」ということなんですが、植

物に興味を持つと、「遷移」という現象を知る訳です。

 「遷移」というのは、字の通り「移り変わる」という意味

ですが、ある土地で植物の種類がだんだん変わって行くこと

です。

 例えば、西日本であれば、更地が出来ると、まず乾燥に強

く肥料分をあまり必要としない草が生え、次に少し肥料分を

必要な背の高い草が生え、次いで落葉樹などが入り込んで育

ち始めます。木が大きくなってくると、その下は日陰になっ

て、それまでの草は枯れてしまい、代わりに日陰の植物が育

ちはじめる。その日陰の植物の中の、照葉樹(常緑広葉樹)

が数十年をかけて育ち続け、やがて元から居た木より高くな

り、照葉樹の陰でそれらの木は枯れてゆく。最終的には照葉

樹主体の林になつてしまう。  「極相林」と言います。


 ということなんですが、このことを知った時に、私が考え

たのは「役割」ということなんです。

 ある植物が、自分に合った場所で、自分のやり方で生きる

ことで、その場所の環境が変わってしまい、自分は生きられ

なくなって行く。(乾燥地に適した草がたくさん茂ると、そ

の草の陰が出来て湿度が上がるということなど)

 つまり、植物たちは次のメンバーの為の、(まさに)土壌

作りをして、仕事が終ったらバトンタッチをして消えて行く

様にみえるのです。

 そこに、意志を感じる訳ではありません。しかし、「生き

る意味」といったことは考えてしまいます。
 

 人間の仕事でも同じで、自分の仕事が完了すれば、もう居

場所はないのです。次の仕事場へ移らねばなりません。

 植物の場合は種を飛ばしたりして、次の場所へ移るのです

が、元の個体は枯れてしまいます。(人間も自然と枯れれば

いいのですが、役目も無いのにその場に止まり続けようとす

る人がいます。いわゆる、「老害」というやつです)
 

 そのような植物の在り方を見て、人間の事を思います。

 「自分が、自分が」と言って自分を精一杯生きても、結局

のところ、自分が居られなくなる下地をつくっているだけだ

ろうと。精を出せば出すほど、自分が用済みになる時が来る

のは早くなる。「お疲れさま」。

 それでいいんですよ。「一所懸命働くな」というわけじゃ

ぁない。ただ、「何も自分のものにはならない」ということ

を分かっておく方がいいだろうと・・。

 自分が生きるのは、次の者の為。次の者はその次の者の

為・・・。そうやって、ずっと続いて行く・・・。その役割

を一時果たすだけ。
 

 私は、植物の遷移を見て、「生きるというのは、仕事だ

な」と思いました。

 とくに、何があるという訳じゃなく、物質循環の役割の一

端を、“自分という生命”という形で果たしているだけだと。


 何をするかは、関係ない。

 「やりたい事」を、やりたいようにすればいい。(「やり

たい」と思わされているのだと、私は観ますが)

 「やりたい事しか出来ない」か、「やりたくない事をやら

なければならない」か、でしかない。どちらにしてもアタマ

の都合の問題ですが、「やりたくも、やりたくない事もな

い」事っていうのが残る。そういう事は、何も考えずに「た

だ、やる」、ってことになるんですけど、実はそれが一番平

和なんだろうと思うんです。

 でも、人は刺激が好きですから、「平和」なことは流行ら

ないですね。

 刺激があると、「生きてる実感」とか「充実感」とか(同

じか・・)を感じるんでしょう。かん違いだと思うんですけ

ど。

 
 植物は、ご承知のように、何も考えていないことになって

います。ですから、ただ生きているだけです。

 何をどうこうしょうなんて無い。

 それぞれに、それぞれの葉を広げ、花を咲かせる。

 人がそれを見て、「美しい」と感じたりするけれども、植

物にとっては、たぶん知った事ではない。

 ただ、自分が自分であるだけ。

 でも、自分が自分であることが、美しいのかも知れない、

人の思惑が入らなければ。  美しさに言葉を失う、という

事があるけれど、言葉(思考)を排除出来たときに、人は本

当の美を知るのかもね。


 植物の存在に乗っかって、生物は逃げたり追っかけたりの

活動を続け、人間に至っては、その上に“妄想”まで形にし

て、その為に動き回る。

 植物の、逃げも追いもせず「ただ生きる」姿に教えられま

す。それが、“命”の基本なんだろうと。

 「余計な事しちゃいけないよ」って。


 (でも、余計に思える様な事をするのが、人間の役割なん

  だろうなぁ)

 





2017年5月12日金曜日

アタマが悪い まとめ Ⅰ

 書いた物がだいぶん溜まってきたので、この辺で一度まと

めておこうかなと思います。

 実のところ、私が自分に肩書きを付けるとしたら、“名言

作家”としたいと思っています。

 随分な話です。

 名言というものは、作家や、功成り名を馳せた人の言葉か

ら、選ばれ残って行くものです。それを、そんな事とは全く

縁のない人間が、いきなり“名言作家”などと名乗ろうという

のです。身の程知らずとは、まさしくこの事です。
 
(“名言”ではなく、“世迷言”か・・・)


 私が名言・格言・ことわざなどに惹かれる様になったの

は、中学一年の頃です。

 短い言葉の中に、深い洞察のエッセンスが詰められている

ことに、何とも言えない感慨や昂揚感、爽快感を感じるので

す。お笑いの、上手いボケやツッコミに似ています。

 いつしか自分も、短い言葉に豊かな意味を込める事を楽し

む様になっていました。

 私の言葉が、他人から見て“名言”であるかは、この際考え

ないことにして、まで書いてきた「口から出まかせ」を並

べてみます。


 《 頭が悪さをすることを、
       「アタマが悪い」という 》 
                    「ごあいさつ」

 《 正しいとは「そういうことにしておけば気が済む」
                 ということである 》
             「正しいとはどういうことか」

 《 人間の考えていることといったら、
     「自分は正しい」「あいつはおかしい」
                   そればっかり 》
                   「自分は正しい」

 《 意識というものは、
      社会が脳の中に浸潤してきたもので
            ほとんど自分ではありません 》
                 「意識というものは」

 《 世の中なんて、たしなむ程度にしておきなさい 》
                 「世の中をたしなむ」

 《 自殺する人は、死にたいのではなくて
          死ぬしか生きる道がないのです 》
                    「自分を葬る」

 《 誰もわけが分かって生きてるわけじゃない 》

 《 しあわせになるのに理由は要らない 》
              「みんなわけが分からない」

 《 要するに、機嫌の悪い奴はバカである 》
             「機嫌の悪い奴はバカである」

 《 人生はグリコのキャラメルのようなもの
   おまけに気を取られて本体を味わう人は少ない 》 
                  「グリコのおまけ」

 《 窓の外でけたたましいクラクションが鳴った

   「うるさい!」と思ったけど
   思った時には、もうクラクションは鳴っていない
   では、何がうるさいか?
   どうやら、自分の頭の中がうるさいらしい 》


 《 起った時には終わってる 》

                  「うるさいのは?」

 《 世界は惰性で動いている 》 

              「世界は惰性で動いている」

 《 聞きたくないでしょうが、

          自由意思というものはありません 》
                     
 《 しあわせとは、自分を肯定できること 》
                     「自由意志」

 《 浮いて 待て 》         「浮いて待て」


 《 自分の世界の中心に自分を置かない

   自分を中心からずらせば、自分の世界(人生)が
   他人事になって、どんな問題もストレートに
   自分にぶつかって来ないので、とても楽になる 》
                   「自分をずらす」


 《 未来は無い 》          「未来は無い」


 《 人を殺してはいけないのは、それが人が人として

     安心して生きて行く為の、最初の約束だから 》
           「なぜ、人を殺してはいけないか」

 《 世界が平和になれば、

      一人一人に平和が来るのではない
  一人一人が平和になって、
        初めて世界に平和が来るのである 》

 《 戦争だとかテロだとか、その他の様々な危険だとか、
   そういった事なんか何も考えずに
   「ぼーーっ」としていられる状態を“平和”という 》
               「平和ボケはいけないか」

 《 この世には嘘も裏切りも無い。
              自分の読みが浅いだけだ 》
 
 《 人は皆、出来損ないだ 》
                    「ウソは無い」

 《 そもそも結婚は人間に向いていません 》

 《 結婚は自分の為にしてはいけません 》
           「結婚してもしあわせになる方法」

 《 何をするにしても、やるのなら機嫌良くやればよい
   機嫌良くやれないなら、やめればよい
   生きるのなら、機嫌良く生きればよい
   機嫌良く生きないなら、死ねばよい 》
         「結婚してもしあわせになる方法 Ⅱ」

 《 問題の対処法には三つしかない。
         「許す」か「逃げる」か「戦う」か 》
             「許すか、逃げるか、戦うか」

 《 すべての出来事はキノコのようなもので
      突然立ち現われて、驚かされるが
     気付かぬうちに菌糸が廻っているのだ 》
             「知ろうとすることは・・・」

 《 知ろうとすることは、無限に続く失望と不安です 》

 《 「考えること」「知ろうとすること」は
         “依存症”であり、“病気”である 》
                  「人は皆、依存症」

 《 アグレッシブな人間ほど、困ったものはない 》

 《 「歴史から学ぶ人間はほとんどいない」
        ということを、私は歴史から学んだ 》
                「アグレッシブの脅威」

 《 過剰こそ悪であり、過剰を生むのは欲である 》

 《 エゴとは欲であり、エゴとは悪の種である 》
                 「過剰こそ悪である」

 《 省エネよりも、省エゴを! 》
        「少欲知足。省エネよりも、省エゴを!」

 《 夢を持つ権利はあるが、
           夢を持つ義務はありません 》
            「My dream is no dream !」

 《 結婚が何かをしてくれるのではありません
      結婚に何をしてあげられるかなんです 》
         「結婚してもしあわせになる方法 Ⅲ」

 《 手を合わすのは、対象とひとつになる為 》
                 「手を合わせる意味」

 《 搾取なき所に、富は無い 》

 《 金持ちとは、その金に見合う価値がある人ではなく
   自分の所に金が流れてくるシステムを作った人か
   既成の集金システムを掴んだ人である 》
                   「退屈を味わう」

 《 思い通りになると気持ちいいよね
     でも「思い通り」ばっかりやってると
       「思いのほか」っていう喜びを
           逃がしちゃうんだよね 》
                「安心・安全原理主義」

 《 あなたの、その「正しさ」が
        今まで何をしてくれましたか? 》
                 「原理主義ワクチン」

 《 わたしたちは、考える時に
    “心”を立ち会わせるから、悩む事になるのです 》
                    「人の信じ方」

 《 “独り”は、孤独や孤立とは限らない
   それは、気高い“独立”かもしれないのだから 》
             「孤独死という、おせっかい」
   
 《 「目的は未来にある」というのが
       人間の最も大きな思い違いなのでは? 》
                「人生設計がワカラン」


 ふ~っ・・。

 まとめるのって、大変。 疲れました。

 さて、「名言集」になったでしょうか?

 「人間の思想は、2000年以上前に出尽くしている」と言

います。ましてや私なんかの頭から、新しいものが出てくる

はずもありません。

 わずかばかりの価値があるとしたら、「今の人に合う表現

になっている」か、「ある一部の人には解りやすい」という

だけでしょう。自分では「そこそこイケてる」と思っている

のですが。(「そこそこイッてしまってる」のかも・・・)


 最後にもうひとつ「名言(?)」を書いて、今回は終りに

しましょう。

 《 個性とは、
   違う言い回し(表現)が出来るということ 》

 あ~疲れた。



 

2017年5月10日水曜日

人生設計がワカラン。

 人生って、設計できるんですか?

 CMなんかで、「人生設計」という言葉がよく出てきます

が、そんな事ほんとうに考えてる人って居るんでしょうか?

 居るんでしょうねぇ。「人生設計」という言葉が使われだ

して、もう随分になりますものね。


 私には「人生を設計する」なんて不可能ですし、ほんとに

「人生設計」を考えている人も、その通りに施工するなんて

無理じゃないんですか?

 何をどう設計するのでしょうか?

 どんな学校に入って、どれだけの成績を挙げて、卒業した

らどんな仕事に就いて、いくらいくら稼いで、いくつで結婚

して、子供は何人で、何歳で仕事を辞めて、老後の暮らし方

はどうで、何歳まで生きて、死ぬ。そんな事でしょうか?

 私には出来ません。

 ほとんど、考えも及びません。

 なにより、面白いんですか?
 

 こんなこと言うと怒られるでしょうが、あまりにもお手軽

過ぎますよね。世の中の事とか、歴史とか、何も見てないん

でしょうか?

 人の想定通りに行く事が、どれだけ有ると思っているので

しょう?

 私だって、「ある程度お金を貯めておこう」とか、「来年

からは、あれをやろう」ぐらいのことは考えますけどね。

「設計」という表現がハマるようなことは、考えられない。


 「人の事は放っときゃいい」と思われそうですが、「人生

設計」なんて言葉が抵抗もなく通って行く世の中が、気持ち

悪いんですよね。

 それに、設計通り行くことを望む人間が多い世の中って、

予定外の事はなるべく排除したいっていう世の中になると思

うんですよ。例外は認めず、狭量で、均質な・・・。うっか

りすると、ファシズムになっちゃう様な。

 大袈裟ですか?

 でも、ちょっとした変化が、気付けば大きな流れになって

いて、誰もが抜き差しならない状況に置かれてしまう・・。

 というのが、わたしたちが歴史から学んで来たことではな

いでしょうか。(まぁ、大袈裟なのは確かですし、時代の流

れがそうならば、そうなるしかないんですけどね。世の中が

私の好みに合わなくったって、私の為の世の中じゃないから

ね😋)
 

 世の中の事はともかく、「人生設計」なんて言って先の事

ばかり考えていると、“今”は“未来”の為の「手段」、あるい

は「踏み台」になってしまう。極端に言えば。

 “今日”は“明日”の為の「踏み台」。

 “明日”は“明後日”の為の「踏み台」。

 “明後日”は“明々後日”の為の「踏み台」・・・・・・・。

 そうやって延々と続いていって・・ゴールは「死」です。

 “今”に落ち着き、“今”に親しみ、味わうことなく一生が終

る・・・。

 「目的は未来にある」というのが、人間の最も大きな思い

違いなのでは?

 「人生設計」なんかを“ガチ”で考える人は、人生の最後の

時に、もう訪れない“明日”を前に何を思うのでしょう?

 「どんな大きな成果も、すべては“手段”でしかなかった」

 そんな人生って・・・、どうなんですか?

 逆に、自分の前に現れて来る出来事を、ただ受け留めて行

く生き方・・・。良く言えば、すべてが自分への“贈り物”と

も呼べる人生・・・。

 良く言い過ぎですが、実はこの二つは同じことです。

 「設計」を立てていたって、自分の予定通り行くはずもあ

りませんから、その都度、状況に対応して行かねばなりませ

ん。結局、人は出来事の受け手でしかありません。

 違うのは、ひとつひとつの出来事に対する時の態度でしか

ありません。でも、その違いはとても大きなものだと思うの

ですが・・・。


 「人生設計」をする様な生き方を、私はして来ませんでし

たから、そういう生き方で得られる想いは、分かりません。

 ですが、すべてが思い通りになったとしても、一番大切な

ものを取りこぼして、最後に大きな後悔をしかねない生き方

の様に思うのです。



 

2017年5月9日火曜日

孤独死という、おせっかい。

 気が付いたら、投稿が40本になっていました。早いもんで

す。いまだ、誰の目にも触れていないのは残念ですが、その

内に物好きな人が、偶然迷い込んで来るでしょう。

 なので、気楽に今日のテーマに参りましょう。

 今日のテーマは「孤独死」です。 ・・・・。


 「どこが気楽なんだ!」って話ですが、「孤独死」という

言葉の深刻さに、違和感があるんですよ。私は。

 なので、「孤独死」という言葉の使い方を整理して、本来

は深刻ではない部分を、「孤独死」という言葉から救い出し

たいと思うんです。気楽であるはずの部分を、あるべき場所

へ。


 そもそも、「孤独死」という言葉は「阪神大震災」の後、

仮設住宅や災害復興住宅で、一人暮らしの高齢者が、誰にも

看取られずに亡くなるケースが相次いだのを受けて、マスコ

ミか自治体か災害支援NPOあたりが生み出したものでしょ

う。それまでには聞いたことがありませんでした。

 今では、災害に関係なく、一人暮らしの人が誰にも看取ら

れずに亡くなると、「孤独死」と言っている様ですね。

 そして、「孤独死」という言葉には、「淋しい」「気の

毒」「悲惨」「現代の暗部」「不幸」みたいなイメージが被

せられています。けど、ほんとにそうなの?

 何故、《 独りで死ぬ=孤独死 》なの?

 何故、《 独り=孤独 》ということにしちゃうの?

 病院や、家族の居る家庭で死ななかったら不幸なの?

 なんで、他人が“人の死”を勝手に評価して、「孤独死」な

んてレッテルをはるの? 大きなお世話でしょ。 

 “人の死”を「これは、良い死に方」、「これは、可哀相な

死に方」、「これは、酷い死に方」なんて勝手な基準で振り

分ける。「アンタいったい何様なんだよ」って言いたくなる

んです。


 そりゃあね、普通に考えて「酷い死に方」ってあります

よ。テロリストに惨殺されたりね。「気の毒な死に方」もあ

りますよ。幼いわが子を残して、親が癌で死ぬとかね。

 でも、「孤独死」と呼ばれるケースの場合。大抵は脳卒中

や心筋梗塞だったり、持病の悪化でしょう?

 そして、その多くは高齢者だから、「平均余命」前後の年

齢で亡くなるわけでしょ? 普通じゃない?

 「死ぬとき、独り」というのが“優しくて、親切な人た

ち”には気に入らないんでしょうが、これだけ核家族化が進

んで、その事を国も気にしていないし、当の高齢者たちも

「気楽でいい」とか「子供の世話になりたくない」などと言

って、良しとしている事が多いんでしょう? だったら、

「死ぬとき、独り」になる事が増えるのは、当然でしょう。

いったい、何が問題なんでしょう?
 

 場合によってはね、本当に「孤独死」と呼ぶべき気の毒な

ケースもあるでしょう。

 東日本大震災と原発事故のせいで、今まで一緒に暮らして

いた家族が、一時的に離れて暮らさなければならなくなっ

て、そうこうしているうちに、独り暮らしになった高齢の親

が、自室で倒れてそのまま亡くなってしまう。そんなケース

は、いくつかあった事でしょう。気の毒なことです。

 しかし、ニュースで流れたり、行政が「孤独死」とカウン

トするものの殆どは、ただ「死ぬとき、独り」だっただけの

事でしょう。

 もちろん、独りで亡くなった人の発見が遅れると、現場は

より大変になるでしょうから、その対策は立てるべきだとは

思いますよ。でも、40~50代の人の「孤独死」というのも

けっこうあると聞きますから、「見守り」とか云っても、ど

こまで入って行けるのか? 入って来られたくないという人

も多いでしょうし。



 それでも、「そんな死に方は嫌だ」「独りで死にたくな

い」という人は居るでしょう。そういう人は、生きている内

から、そうならない様な繋がりを持つように、手を打ってお

けばいい。でも、そんな人ばかりじゃない。「別に人と交流

を持たなくていい」「むしろ、独りがいい」「死ぬ時も独り

で構わない」という人だって、今の日本にはかなり多い筈で

す。(私の母親がそうでした。「孤独死」ではなく、病院で

死にはしましたが)

 なのに、「死ぬとき、独り」だったら、それだけで「孤独

死」というカテゴリーに入れられる・・。ずいぶん乱暴で、

無神経で事務的な扱いだと思いますが。



 そこにあるのは、一見、気に掛けて心を寄せている様に見

えながら、実は紋切り型の浅い考えで、一人の人間の死をひ

とつの視点からしか見ていない、“表面的な思いやり”だと感

じます。

 一人の人の死には、一つの人生があったということで、そ

こには様々な考え、想いがあったわけです。「『死ぬとき、

独り』でも、それで満足な人だったかも知れない」。そんな

風に、たとえ少しでも、その人が生きて来た事に想いを寄せ

る気持ちがあれば、「孤独死」なんてレッテルを貼れるわけ

がない。大体、「孤独死」なんて言葉が必要か?


 自分が死んで、「孤独死」と言われたら嬉しいですか?

 そんな仕分けされたくないでしょ? 失礼です。


 人と賑やかにしているのが好きだった人が、残念ながら独

りで死ぬ事になってしまっても、「孤独死」なんて言葉を使

う必要はないでしょう。「気の毒だったなぁ」「残念だった

ろうなぁ」と思ってあげれば、それでいいじゃないですか。

 独りが好きな人が独りで死んだら、それこそ「孤独死」な

んて言葉を使うもんじゃない。「おせっかいは、止めとく

れ」。




 「孤独死」なんて言葉、誰に必要なんでしょう?

 そういうレッテルを貼ると、マスコミなんかが扱い易いと

いうだけだと思う。「死ぬとき、独り」の当人には、そんな

こと関係ない。むしろ、そんな言葉を作ることで、考え過ぎ

て不必要に暗くなる人々を生み出しただけでしょう。

 マスコミや宣伝屋は、おどかすのが商売ですからね。

 ほんとに、人をなんだと思っているのでしょう。
 

 そもそもの話、 周りに家族が居ようが、医者や看護師が

居ようが、死ぬ時は独りで死んで行くのですし、どんな死に

方を望んでいても、実際に死ぬ時にどういう死を迎えるかな

んて、誰にも分からないのです。

 「孤独死」とか「見守られ死」とか、死に方をあれこれ考

えて優劣をつけるより、どのような死に方であっても納得し

て受け入れられる様に、生きている内から死と向き合って、

自分なりの考えをまとめておいた方が、より良く生きて、よ

り良く死を迎えられると思う。



 そして、死を見る方も、死に方がどうかなんて本筋の事じ

ゃないんだから、良かったか悪かったかとか言うより、「ご

労さん」「お疲れ様でした」とか思って、手を合わせてあ

ればそれで良いんじゃない。


 《 “独り”は、孤独や孤立とは限らない。

   それは、気高い“独立”かも知れないのだから。 》 
   

 《 独り=孤独=淋しい 》の、幼稚で単純な“お手軽思

考”だけは、辞めにして貰いたいですね。



 人は必ず死ぬのです。


 どれほど大勢の人たちに囲まれていたとしても、本当は独

りです。独りで生きて、独りで死んで行くのです。

 その「孤独」を「独立」に変えるのが、本当に持つべき人

の智慧であり、人が本当に成すべきことでしょう。


(「独立」といっても、社会的な意味ではないですよ)




 ちなみに、私の場合は、その辺の河原の草むらなんかで倒

れて、青空を見上げつつ、スズメの声でも聴きながら死ぬの

が理想的ですけどね。気持ち良さそうです。 (まぁ、なん

でもイイんですけどね)
 
 


人の信じ方



 今日は、「信じる」ということについて。


 前に「私は人を信用していません」と書いたんですが、

(「ウソは無い」という、タイトルでした)もちろん全く人

を信用しないわけではありません。仕事でもプライベートで

も、誰かに物を頼まなければならない時、人を信用しなけれ

ば何も頼めませんから、全く信用しなければ、生活が成り立

ちません。

 私が「人を信用しない」と言う時、それはこちらの期待や

希望を、相手が満たす可能性はそんなに高くないと、いつも

考えているということです。要するに、当たり前の事を分か

っておくだけです。


 そのように、人は当てにならないと思っているのですが、

前述のように、人を当てにせざるを得ない局面はいくらでも

ありますから、どの様に人を信じたら良いか? ということ

を書いてみます。



 「人を信じる」という時。

 例えば、

 《Aさんが、「Bさんを信じる」と言った。》とします。

 この場合、「Bさんが、自分(Aさん)を裏切ることは

無いだろう」と、Aさんは思っていると考えるのが普通で

すね。でも、私の場合は違うんです。

 私の場合は、「Bさんが、自分自身(Bさん)を裏切るこ

は無いだろう」と、Aさんは思っていると考えるんです。

 「Bさんが、自分自身を裏切ることは無いだろう」と考え

るのは何故か?


 前者の場合、Bさんが約束を破ったら、Aさんは裏切られ

た事になりますね。普通です。

 しかし、後者の場合は、Bさんが約束を破ったら、裏切ら

れたのはBさん自身という事になります。Bさんが、自分自

身で自分を貶めただけであって、Aさんには関係がありませ

ん。「傷付けられた」とか、「失望した」とかいう感情は起

こってきません。


 そりゃあ、実際的に困る事になったりしますよ。貸した金

が返って来ないとか、仕事がストップしてしまうとか。

 でも、実際的に困るのは、前者の考え方でも、後者の考え

方でも一緒なんです。ですが後者の場合、そこに起って来る

ネガティブな感情を引き受けなくて済みます。傷付くのはB

さんですから。


 「Bさんは、何とも思わないかもしれないじゃないか」


 そうかも知れません。でも、それは何か問題ですか?

 Bさんが傷付こうが傷付くまいが、Aさんが気にする必要

はないでしょ? 言わば、《対岸の火事》です。

 前者の場合、裏切られたのはAさんですから、裏切られた

事に対する何らかの補償を求めたり、Bさんにも同じ様な痛

を味あわせてやりたいとか思うわけですが、後者の場合

は、裏切られたのはBさん自身ですから、Aさんは痛みを感

じていません。ですから、Bさんからの精神的な補償の様な

ものは、必要ありません。ですから、「Bさんが、何とも思

っていなくても」どうでもいいんです。「金返せよ」とかだ

け言ってればいいんです。
 

 前者の場合、AさんはBさんに対して、憎んだり、恨んだ

り、バカにしたりしますね。

 ところが後者の場合は、AさんはBさんに対して、憐れん

り、気の毒に思ったりする事でしょう。

 仮に、Bさんが故意にAさんを裏切った場合、Aさんは、

「セコイ人なんだなぁ」とBさんに憐れみの目を向けるだけ

でしょうし、また、Bさんが図らずも裏切る形になった場合

でも、Aさんは、「自分で悔しかったり、情けなかったり

てるんだろうなぁ」と、Bさんを慈悲の目で見る事でしょ

う。
  

 いかがですか? こんな形の「信じる」というのは。

 精神衛生上、かなりお得だと思うんですが。


 わたしたちが物事を考える時は、“脳”を使うわけですが、

“脳”という漢字の偏は、“肉月”ですよね?

 それから、わたしたちが悩む時も“脳”を使っているわけで

すが、“悩”という漢字は、“立心偏”です。

 わたしたちは、考える時に“心”を立ち会わせるから、悩む

事になるのです。漢字というのは、上手く出来ていますね。

 ただ、ここで言う“心”は、“感情”の事です。
 

 わたしたちの意識には、三つのセクションがあります。

 物事を具体的に考えたり、理詰めで考えたりする「論理の

クション」。

 受けた事柄に、感情を付与する「情緒のセクション」。

 そして、物事と自分の情緒を見守っている「慈悲のセクシ

ョン」。


 わたしは、“心”というものは、「情緒のセクション」(感

情)ではなく、「慈悲のセクション」の事と捉えてます。


 「論理」も「情緒」も、人間には作り付けになっていて、

それが無ければ、生きて行く事が出来なくなったり、人間と

しての面白味が無くなったりします。

 しかし、その「論理」と「情緒」は、すぐに暴走して悪さ

を始め、人と世界に不幸をもたらします。


 わたしたちの  “意識のエネルギー” は、前に出て来てい

る意識に、たくさん注がれる様になってるんです。ですか

ら、普「論理」と「情緒」を前に出しているわたしたち

は、すぐ、そこにエネルギーを注入しすぎて暴走させてしま

います。 

 それを防ぐ為に、“見守るセクション” である、「慈悲」を

前に立てることによって、「論理」と「情緒」の暴走を抑え

る必要があります。まずは、自分のしあわせの為にね。

( “見守り” には、いくらエネルギーを注いでも動きだすこと

はありませんからね)

 
 しかし、「慈悲」とは何でしょう?
 

 とても表現が難しい言葉だと思いますが、例えて言うなら

《 幼い子供が、よろけたり、転んだり、時にはいたずらを

しながら歩くのを見守っている、親の気持ち 》というのが

近いんじゃないでしょうか? 『ホントの愛』ですね。




2017年5月7日日曜日

原理主義ワクチン

 相も変わらず、世の中には物騒なニュースが流れています

が、わたしたちを恐がらせることは沢山有りますよね。

 小惑星の衝突や、超巨大火山の噴火。太陽のスーパーフレ

ア、次の氷河期など、人類を存続の危機に追い込む事象も

色々考えられますが、そういった自然の脅威は別として、

間の生存にとって最も脅威となるものは、感染症でもガンで

もなくて、原理主義でしょう。

 これまで行われてきた数々の戦争。テロ。魔女裁判。経済

にまつわる様々な問題。環境破壊。核兵器などのテクノロジ

ーの脅威。

 こういった事柄の大きな原因となっているのは、原理主義

ですね。



 原理主義者は自身を疑う事がありませんから、平気で過剰

になります。

 原理主義者は自身を疑う事がありませんから、平気で異常

になります。

 原理主義者は自身を疑う事がありませんから、平気で無情

になります。

 原理主義者は自身を疑う事がありませんから、平気で強情

になります。

 原理主義者は・・・・・・・・、いいかげんにしないと、

私が原理主義者の様です。
 

 そういった具合ですから、原理主義者を回心させることは

ほぼ不可能。原理主義の最も困ったところは、そこですよ

ね。他の人間の問題は、話し合えばどうにかなるかも知れま

せんけど、原理主義者に話は通じませんものね。原理主義者

を止めるには、潰すしかありません。当然、事態は殺伐とし

たものになってしまいます。

 また、原理主義者に関わっていると、こちらまで「アンチ

原理主義」という原理主義者になりかねません。「ミイラ盗

りが、ミイラになる」わけですね。(この言葉、もしかする

と相当古いのかなぁ。通じるのかなぁ)

 程度の差こそあれ、人間は余程気を付けていなければ、

単に原理主義に陥ってしまいます。

 集団で社会に害を及ぼす様なものではなく、個人レベルで

気付かぬうちに人を傷つけたり、自身が自分で作った穴にハ

マったり。「自分が正しい」と思える時は、警戒心が薄れま

すから、ホントにヤバイ。(プチ原理主義ですね)


 何がヤバイかというと、「原理主義者は潰すしかない」わ

けですから、自分が原理主義者傾向を見せると、周りは潰し

に係って来ます。

 自分で穴にハマったり、周りから潰しに来られたり、一時

いい気分になれても、原理主義にはロクな事がありません。

 原理主義は社会にとって大きな害悪ですが、個人にとって

も、自他ともに害を及ぼすものです。

 わたしたちは原理主義から(原理主義者からではなく)自

分を守らなければなりません。


 原理主義の根幹は、「自分は正しい」ということですか

ら、原理主義から自分を守る為には、常に自分を疑っていな

ければなりません。ということで、私は《正しいとは、そう

いう事にしておけば気が済むということである》と言わなけ

ればならなくなります。

 これは、理屈の上では原理主義に効くのですが、原理主義

の定義上、彼らは聞く耳を持っていません。なので、治療に

は無力です。
 

 でも、予防の効果は期待できるので、原理主義にはまり込

んでしまう前に、あらかじめワクチンとして、十四・五歳の

頃に


 《正しいとは、そういう事にしておけば

           気が済むということである》


と、世界中で教えてもらえれば、人類の平和と幸福に貢献で

きます。

(原理主義者を気取ってみました・・)




 人間というものは、「わたしは正しい」「わたしは正し

い」を、ホントーに飽きもせずやり続けています。

 そんなに「正しく」て、それが何だというのでしょう?


 《 あなたの、その「正しさ」が、

      今まで何をしてくれましたか? 》


 人は皆、「正しさ」に固執しますが、それが本当に『正し

い』ものなら、良い事だけをもたらしてくれるのではありま

せんか? もちろん、色々な良い事があるでしょう。しか

し、それだけではなく、その「正しさ」をめぐって様々なト

ラブルやプレッシャーなどの問題が立ち上がってくるのが、

実際のところでしょう。

 「いや。反対する人間がいるから、問題が起きるだけだ」

という反論が予想されますが、反対があるということは、そ

の「正しさ」は、相手にとっては「正しくない」わけですか

ら、「正しい」とは言い切れません。

 「いや。相手がバカだから〈正しさ〉が分からないだけ

だ」

という反論も予想されますが、“バカ”に分からない様な「正

しさ」を持ち続けても、“バカ”との間でトラブルが続くだけ

ですから、その「正しさ」には、“バカ”とのトラブルを解消

するだけの統合力が欠けています。不完全な「正しさ」で

す。

 結局のところ、人が「正しい」と言っていることは、「都

合がいい」という事でしかありません。(その「都合のよ

さ」も一時的なものでしかないのですが)


 わたしたちは、人と話をする時、「わたしは正しい」とか

「あなたはおかしい」とか言うのではなく、「わたしに都合

がいい」とか「わたしに都合が悪い」、などと言うべきでは

ないでしょうか。


 いったい、「正しさ」って、そんなに「正しい」のでしょ

か?

 
 窓の外を見ると、「五月晴れ」の青空が広がっています。

 人は、いったい何をやってんだか・・・・。






2017年5月6日土曜日

安心・安全原理主義

 相変わらず、北朝鮮の「ボクを見て!ボクを見て!」のパ

フォーマンスに大騒ぎをしていますが、先日また北朝鮮がミ

サイルを撃ち、その一報を受けて、東京メトロなど一部の鉄

道会社が電車を止めました。あのニュースには本当に呆れま

したね。「“Jアラート”も出ていないのに、バカじゃねぇ

の?」って。

 デッドボールが怖いからと、バッターボックスに立たない

野球選手は一生試合には出られないでしょ?

 生きて、暮らしていると、大なり小なり常に危険にさらさ

れているわけですよ。当たり前ですが。

 ところが、この頃の日本人ときたら、この「危険」をゼロ

にしたがっているとしか思えません。

 「安心・安全」という御題目を耳や目にしない日は有りま

せん。テレビを点けても、ネットを観ても、スーパーに買い

物に出かけても、職場や学校に行っても、政治家や行政の言

葉のなかに、街中のポスターに、ありとあらゆる所に「安

心・安全」という言葉が溢れています。ビョーキですね。ま

ったく。
 

 そりゃぁね、安心・安全を求めるのは分かりますよ。人間

に限らず、全ての生き物は安心・安全を求めていますよ。

 昆虫の擬態だってそうだし、小さい魚が珊瑚礁や岩礁から

離れないとか、スズメがすぐに逃げるのだってそうです。し

かしね、今の日本人の「安心・安全」は余りにも度を越して

います。

 国は、飲食店での生レバーの提供を禁じましたよね。

 私は生レバーなんか食べませんけど、要らぬお世話でしょ

う? 一体、生レバーで死ぬ人が年に何人いるのですか?

風邪薬の副作用で死ぬ人の方が多いでしょう? 何故、風邪

薬は禁止しないんですか? “風邪という危険”から身を守る

為ですか? 

 私は、薬というものは目薬ぐらいしか使いません。

 特別に健康なわけではありませんよ。あっちこっち痛い

し、内臓の調子が悪くなったり、頭が痛くなったりします

が、たいていの場合ほっときゃ治るからです。

 インフルエンザの予防接種もしたことがないし、健康診断

も受けません。(面倒くさいでしょ?)

 少々、具合が悪かったって、寝てりゃぁ済むんです。

 ところが周りを見てると、まぁ、みんなよく薬を飲みます

ね。「頭が痛い」「おなかが痛い」「風邪引いた」なんて言

って。

 あゝいうのって、不快であることよりも、「自分の身体

が、自分の意志のコントロールから外れてる」ことが、嫌な

んじゃないでしょうか? 

 自分の思い通りにしたい。

 でも、思いもかけずに身体の具合がおかしくなる。

 そんなの嫌だ。

 気持ち悪い。

 気持ち悪い事は、排除。

 だから、薬を飲む。
 

 身体を信用していないんですね。

 というか、身体を支配したいんでしょう、「アタマ」が。
 

 私は、身体の事は身体に任せます。たいてい大丈夫ですか

ら。(虫歯が痛んだり、酷いケガをしたりしたら、もちろん

医者にかかります。石器時代じゃありませんから)アタマ

で、身体の自律性を何とかしようなんて、おこがましいです

よ。

 この冬もノロウイルスに関してのニュースが、たくさん流

れましたが、食中毒菌(ウイルス)の中でも弱い症状しかも

たらさないノロに対しての、あの過剰反応は何事かと思いま

す。それに、ノロは他の病原体に比べると、とても防ぎ難い

ものです。完全に防ごうと思うと、相当なコストが掛かる事

でしょう。にもかかわらず、ノロの食中毒を出したら、即営

業停止。評判も落ち、関係者は「能無し」か「無責任」扱

い。

 保険所は、常識的な衛生管理が出来てるかどうかを観て、

クリアしていたら、しっかりとした後処理を指導・確認し

て、マスコミは風評被害が拡大しない様に配慮してあげるべ

きだと思います。ほとんどの飲食店や給食センターは、クリ

ーンルームの様な環境を持てませんからね。それとも、人々

はその為のコストを価格に上乗せしてもよいのでしょうか。

 それと、食品の異物混入の問題。

 「お菓子に、一・二匹の虫が入っているかも」とか、「ビ

ニール片が混入した」とか言って、何万・何十万もの商品を

回収したり。

 以前、サラミソーセージがマイブームになって、半年ぐら

いの間、同じ商品を食べていたのですが、ある日パッケージ

を見ていると、「ケーシングは取り除いて、お召し上がり下

さい」と書いてあった。私は、ケーシングごと食べられるタ

イプだと、かってに思い込んで、そのまま食べ続けていまし

た。この様なケーシングはプラスティックです。それを半年

食べ続けたんですが、当然のことながら、何の異常もありま

せんでした。トマトの皮みたいな物ですね。

 虫についても、あんな物は不快なだけで、本当に健康被害

が出る様な虫は、ごく限られていますし、そういった虫が混

入する確率は、ほぼゼロでしょう。

 それに、農産物に混入する虫や、魚介・食肉に入る寄生虫

などは防除しきれないので、(完全に防ごうとすると、人が

病気になるくらい農薬を使ったりしなければならない)わた

したちは日々かなりの数の虫などを口にしています。   

タンパク質の補給ですね。

 ところが、これらの虫が見えてしまえば、もうダメなので

す。全品回収。

 二・三年前に、カップ焼きそばに虫が混入し、何百万食だ

ったか回収して、工場は半年ほど操業停止。倒産こそしなか

ったから良かったけれど、従業員はどんな日々を送ったので

しょう? 給料・ボーナスはどうなったのでしょう? 

 もし、倒産していたら、その焼きそばを好きな人は二度と

食べられなくなっていたのです。たかが虫で。

 「虫を入れる方が悪い」と言う人も居るでしょう。

 でも、何万・何十万という商品を何十年も日々作り続けて

いるのです。ほんのごくごく僅かな確率で虫が入ってしまう

ことがあっても、許されるのではないでしょうか? 不快だ

というだけなのですから。人間のする事に完全はありませ

ん。

 もし異物が入っていたら、その当該商品を買った人にだけ

誠実に対応すれば、それでいいんじゃない? 全品回収だな

んて、常軌を逸している。日本人の“もったいない精神”は何

処へ行った?(昨年、マルハニチロの「さんまのかば焼き」

の缶詰に、金属片が混入した可能性があるとして、2800万

缶を回収したことがありました。2800万缶ですよ! 私も

当する商品を買っていましたが、面倒くさいので、そのま

食べました。美味しかったです。しかし、死んだサンマも


かばれまい。だって、回収した商品は当然廃棄でしょ。開


た口が塞がりません。10秒ほどですが・・)

 

 ほんとに、日本の「安心・安全」は異常です。

 寛容さに欠けます。

 おおらかさがありません。

 どこまで行っても、わたしたちの生を取り巻くリスクはゼ

ロには成りません。

 むしろ、あまりにも「安心・安全」を求めすぎて、非常に

キツイ管理社会を生み出し、そのストレスがさまざまな事

件・事故に繋がり、かえって病気を増やしたりしていると、

私は信じて疑いません。いじめや鬱病の元にだって、なって

いることでしょう。


 世の中には、さまざまな原理主義があって、それぞれ大き

な問題を引き起こしていますが、今の日本において最も猛威

を振るい、人々を苦しめているのは、「安心・安全原理主

義」でしょう。とっても、気持ち悪いです。

 最近は「安心・安全」という言葉に触れると、反射的にイ

ラッとしてしまいます。

 「それが、何をもたらしているのか、

             考えた事あるのかよ」

 そう思うんですね。

 
 今、多くの日本人が求めているのは、ほんとは安心・安全

ではないだろうと思います。(「ラーメンに虫が入ってい

た」と騒いでいるのが、ボクサーだったりして)

 「安心・安全」という言葉の裏に隠されているもの。それ

は、「想定外の事に、自分の人生を乱されたくない」「自分

に起こることは、全て自分がコントロールしたい」という、

「アタマ至上主義」でしょう。

 「自分の思い通りにするんだ」という傲慢が透けて見えま

す。

 でも、何もかも思い通りになる人生って、面白いんでしょ

うか?

 すべてが想定通り、すべてが計画通り、何もかもが細かく

コントロールされている・・・。私には、気持ち悪い世界に

思えますが。


 《 思い通りになると、気持ちイイよね。

   でも、「思い通り」ばっかりやってると、     

   「思いのほか」って喜びを逃がしちゃうんだよね 》


 なんて、思いますけどね。


 なんでもムチャクチャでいい、なんて言っていませんよ。

先に書いた通り、すべての生き物が安心・安全を求めていま

すからね。程度問題だということです。

 やり過ぎが、却って害をもたらすのは何事にも共通です。

 そして、日本の「安心・安全」は、やり過ぎにも程があり

す。この状況を異常と思わない人が、異常です。


 そのうち、そう二十年ぐらい先。

 時の、総理大臣か厚生労働大臣が、こんなコメントを出す

かも知れません。


 「生きていると、さまざまなリスクがあり、これらをすべ

て避けることは容易ではありません。ですから、国民の皆様

におかれましては、なるべく生きない様にして下さい」と。


 もうすでに、国民の何割かは、「生きていない」と思いま

すけどね。今。