2024年12月3日火曜日

都市基準・命の基準

 
 
 この前「都市の中で人は情報伝達物質として都市に使われて
 
いるんじゃないか」という話を、まるで他人事のように書いた
 
けれど、私がそういうことから免れているわけでもない。あの
 
梅田を行き交う人たちに比べればかなり免れているだろうけ
 
ど、現代の日本の神戸という都市に住んでいるのだから、私
 
だって都市に使われてしまう。
 
 では田舎に住んでいる人は免れているかというと、そうでも
 
ないだろう。日本全体に都市的な約束事とシステムが張られて
 
ているので、「田舎に住んでいる」というだけでは免れない。
 
どこで暮らしているかより、何を基準に動いて(暮らして)い
 
るかが大きいだろう。
 
 
 都市に生きる人たちの評価を自分の行動基準にすると、まと
 
もに都市に使われてしまう。「自分は都市を利用してる」と考
 
える人間もいるのだろうけど、そう思っているだけだ。都市を
 
利用するためには都市の価値基準とシステムに合わせなければ
 
ならないから、利用しているつもりでいても取り込まれてしま
 
う。
 
 
 「自分は都市が好きだから、都市に取り込まれて利用されて
 
いるとしても、楽しいからそれで良い❤️」
 
 そんな人の方が圧倒的に多いかもしれない。それがその人の
 
さだめならそれでいいのだし、そうあるしかない。とはいえ私
 
はそういう人たちの行く末を案じてしまう・・・。
 
 
 いつまでそう思っていられるのか?
 
 それは自分の心の底からの想いなのか?
 
 ある日、自分が都市の道具として生きて来たことのもたらし
 
た結果に愕然としはしないか? 
 
  自分の基準。さらに言えば命の基準。そういうことを軽んじ
 
てしまっていはしないか? 
 
 
 当たり前だけど都市の外にも世界は在る。そして、都市の中
 
に住むわたしたちのアタマは都市につながっているだろうけれ
 
ど、身体は都市に直結しているわけではない。梅田の歩道橋の
 
上で、身体の求めにそのまま従ってウンコをすれすば、すぐさ
 
ま通報されるだろう。身体は都市の外にあるのだ。
 
 
 そういうことを顧みれば、都市の外の基準にも目を向けた方
 
が良さそうだと分かる。都市の基準だけで生きようとすれば、
 
少なくとも自分の半分がないがしろになってしまう。
 
 
 このブログの中で「ライフサイド」という言葉を何度か使っ
 
ているけれど、都市に暮らすとしても、命の側の基準を大事に
 
しなければ、自分を誤り、後悔することになるだろう。
 
 東京や大阪ほどではないにしろ、古くから政令指定都市であ
 
る神戸という都市で生まれ育った私は、いまそう思っている。
 
 
 

2024年12月2日月曜日

解決する

 
 
 どこでも、いつの時代でも、人は悩み苦しみを抱えて、それ
 
をなんとか解決しようとあがいている。
 
 
 個々の悩み苦しみはそれぞれで、表面上同じように見えたと
 
しても、その悩み苦しみの成立の過程も、ひとりひとりの性質
 
や状況なども違うので、個々に解決策を探るしかない。そうし
 
て幸運にも解決策に巡り合えた人は落ち着きを取り戻すことが
 
できる・・・が、果たしてその解決は決定的なものだろうか?
 
言葉を変えて言うのなら、その解決はその人の中にどれほど深
 
く作用するものだろうか?おそらくそういった解決は、遠から
 
ず別の悩み苦しみにかき消されてしまうことだろう。なぜそう
 
言えるかというと、そういった解決は対症療法で、人の意識が
 
持つ “悩み苦しみを生み出すシステム” には手つかずのままだ
 
ろうから。そこをどうにかしないことには、人は結局、ある苦
 
悩から別の苦悩へと渡り歩くしかない。わたしたちは “悩み苦
 
しみを生み出すシステム” をこそ解決しなければならない。
 
いったいどうするか?
 
 
 「解決」という言葉にヒントがある。「解く」のです。
 
  例えば、この “解” という文字を一画々々バラバラにするよ
 
うに。
 
 
 文字を一画々々バラバラにしてしまうと、当然意味を持たな
 
い線や点になるけれど、それと同じように自分の考え・価値観
 
を解いてゆく。 それができれば、どのような悩み苦しみも解か
 
れてしまう。けれど、そんなことができるのか? できます。 

 
  “悩み苦しみを生み出すシステム”とは何かというと、〈自分
 
や自分の人生は価値あるものだと思いたい〉というアタマの働
 
きです。その働き  不安からのものですが  が思考を使っ
 
て無理やり価値を作り上げ、「自分は価値がある」と安心しよ
 
うとするのですが、ものごとは変わって行く。自分も変わって
 
行く。
 
 ひとときその価値で自分をなぐさめることができても、状況
 
は変わり、その価値は価値を失う。それどころか、その価値
 
非難の対象になったりもする。そしてまた悩み苦しむことにな
 
る。なので “システム” 自体の働きを止めなければ終わらな
 
い。そのためには、考え・価値観を解かなくてはならない。そ
 
れらは、自分のアタマが不安から逃れようとしてまとめ上げ
 
た、お粗末な約束事に過ぎないと肚を括る。その約束事がどれ
 
ほど社会で称賛されるようなものでも、その価値は「アタマの
 
約束事に過ぎない」と徹底的に自分に言いきかせる。すると、
 
いままで自分が信じて来た(信じ込まされてきた)ものがバラ
 
バラに解けて行く・・・。 “悩み苦しみを生み出すシステム”
 
がほとんど機能を失う。
 
 そして、あらゆる悩み苦しみ(いわゆる “喜び” や “幸福” も
 
 道連れですが😅)が雲散霧消し、新たな悩み苦しみも形作ら
 
れるなくなる。で、どうなるか?
 
 わたしたちの本来の落ち着き・ゆとりが姿を現してくる。

 
 けれど、そんな状態でも人は生き続けるし、さまざまな出来
 
事が起きてくる。それはどうなのか?
 
 
 対処しなければならないことは次々に出てくるけれど、それ
 
まで問題になっていたことが問題にならなくなる。 
 
 「約束事だからそれに付き合うけれど、自分の本質・しあわ
 
せとは関係ないし・・・」という姿勢でいられるようになる。
 
 
 本当ですよ。価値を解いてしまえば、そこにはわたしたちの
 
本来の落ち着き・ゆとりが姿を現すのです。
 
 慣れていないので、「これがそうなの?」という感じがする
 
でしょうけど、雲散霧消してゆく価値の向こうにある “心の広
 
がり” に意識を落ち着けてゆけば分かりますよ。

 
 「信じろ」とは言いません。信仰ではないですからね。信じ
 
たりする必要はない。体感して感じてみれば分かることですか
 
ら。それが正解かどうかは各自が決めることです。私にとって
 
は正解なのです。そしてほぼ確実に、あなたにとっても正解と
 
なることでしょう。

 
 いまこの話を真に受ける必要も無いですが、もしも、自分の
 
悩み苦しみから抜け出すのがとても難しいと思うときに、思い
 
出したら試してみて下さい。落ち着き・ゆとりは、待ちくたび
 
れることなくあなたを待っていますから。
 
 



2024年12月1日日曜日

値踏みして・・・

 
 
 井上陽水のいかにも陽水らしい曲のひとつに『ミス・キャス
 
ト』というのがあります。打算的で妄想的で凡庸な主人公を描
 
くことで、人間一般のいやらしさ・怪しさ・いかがわしさを比
 
喩的に歌っている曲ですが、その詞の中に「友達を暗闇で値踏
 
みして 自分だけのしあわせに女を使う」という一節がありま
 
す。
 
 自分の為になるかどうか人を値踏みする・・・。そういう話
 
はそこらじゅうに転がっていますよね?
 
 婚活だとかあからさまですけど、「自分を高めてくれる人」
 
だったり「付き合うと得になる人」だったり、「どこかに自分
 
の為になる人はいないか?」 と人を値踏みする人間がとても多
 
いように感じるんですけどね。昔より多いかどうか知りません
 
が。

 
 人を値踏みする・・って、いやらしくないですか?ケチ臭い
 
話じゃないですか?そういう人間とは関わりたくないと思いま
 
せんか?
 
 けれど、そういう人間が普通にどこにでもいて、当人たちは
 
人を値踏みすることが自分のしあわせに繋がると本気で考えて
 
いる。得になる人間関係を持ちたいと・・・。いかがわしい世
 
の中だと思いませんか?

 
 本当に得になるのならそれも良いのでしょうが、人を値踏み
 
して、自分の役に立つと思える人と関係を持っことで得られる
 
ものとはなんでしょうか?
 
 値踏みして自分の計算通りに事が運んだとして、その結果は
 
自分の計算の範囲内。それを繰り返してどんどん自分の望みを
 
叶えて行けたとして、たどり着くのは今までの自分の延長線上
 
です。それはこれまで通りの自分を生きながらえさせる作業で
 
す。自分の社会的立場や、自分の暮らす環境は(当人にとって
 
は)良くなるのでしょうけど、自分自身はいままでのまま。自
 
分自身には何も得られてはいない。だって、サイボーグ化しな
 
ければ自分のからだに何も付け加えられないし、考えかたがい
 
ままでの延長ならば、精神的にも何も付け加わっていないわけ
 
ですからね。
 
 人を値踏みする人が考える「得」って、社会のストーリーの
 
中での評価です。自分自身には関係ない。
 
 
 「得しよう」とあれこれ計算して、ネズミが鼻をヒクヒクさ
 
せて食べ物を探すようにして生きる・・・。そういうの、私は
 
みっともないと思うんですがね。
 
 
 アタマはいろいろと「得した」と思ったりしますけど、“世
 
の中の自分” にとっては得することは有っても、本質的な自分
 
にとって得することなんて世の中にはありませんよ。
 
 
 しあわせは得るものではなくて、得られているものを味わう
 
ことにある。
 
 得るどころか逆に失い続けても、 得られているものが底を突
 
くことはない。むしろ、その底を突くことが無いものを味わう
 
ことで、わたしたちは心の余裕を持つことができる。
 
 その自分の心の変化は、自分の周りに影響して状況を変えて
 
行く。そして思いがけない喜び楽しみを生んだりもすることで
 
しょう。
 
 その計算外の思いがけないものに出会うときこそ、「得し
 
た」と言えるでしょうね。