2024年12月31日火曜日

ぼくらは愛するのがヘタだ

 
 
 先月、日本を代表する詩人の一人である谷川俊太郎さんが亡
 
くなった。昔、詩集を一冊買ったようにも思うけれど、記憶違
 
いかもしれない。なにせ阪神淡路大震災の時に持っていた本の
 
大半は無くしてしまったし、もう30年も経っていろいろなこ
 
とを忘れてしまっている。
 
 私にとって谷川さんの詩は、小室等さんの曲の歌詞としての
 
印象が強い。それらは谷川さんが既に創っていた詩に小室さん
 
が曲を付けたものもそうでないものもあるだろうけど、どの曲
 
もレベルが高い。好きな曲は沢山あるけど、その中の『クリフ
 
トンN.J.』という曲に、こういう歌詞がある。
 
 
 ぼくらはみんな過ちを犯し そのくせ正義を口にする
 
 ぼくらはみんな憎しみを恐れ そのくせ愛するのがヘタだ
 
 
 ばくらは大抵口先だけだ。むしろ、実が無いからこそ、飾っ
 
てものを言う。
 
 
 ぼくらはみんな憎しみを恐れ そのくせ愛するのがヘタだ
 
 
 愛せもしないのに愛されることを求め、愛してくれないと憎
 
む。ホント、性格が悪い。アタマが悪い。
 
 
 この『クリフトン N.J. 』という曲は、アメリカに住む友人
 
を訪ねたら心の病気で入院していた・・・、という話を歌って
 
いるのだけれど、心の病気のほとんどは、得られるべきであろ
 
う愛が得られないことが理由だ  思いやりと言う方が良いの
 
かもしれないが。 
 
 
 ぼくらはみんな、人から思いやりを持って接してもらいた
 
い。優しくされたい。愛されたい。けれども、まず相手がそう
 
してくれたら自分もそうしようという立場をとることが多い。
 
虫のいい話だ。なぜそうなのか?
 
 たぶん生まれてしばらくは無力だからだろうね。与えられ、
 
受け取ることで生き伸びるから、「自分の望むものは与えられ
 
るものだ」という認識になるのだろうなぁ。で、その認識を大
 
きくなっても、年寄りになってまでも持ち続ける者が多くな
 
る。要するに子供のままなんだね。
 
 
 いい歳をして「愛して下さい」と欲してばかりいては、みっ
 
ともないと思うけどね。そういえば、むかし菅野美穂が『ZOO
 
~愛ください~』という曲で「愛をください 愛をください」と
 
歌ってヒットしてたね。私は聴くたびに不快だったけど、ああ
 
いう曲がヒットするぐらい、多くの人は与えられる側の意識の
 
まま大人になる。
 
 事程左様に、ばくらはみんな愛するのがヘタだ。それは幼い
 
ころの扱われ方のせいではあるけれど、それだけでもない。僕
 
らの、いわゆる「愛」というものが、必ず見返りを求めるもの
 
であるせいでもある。
 
 愛したら愛し返して欲しい。もしくはなんらかの喜びをこち
 
らに返して欲しい。そういう思いを伴っているのが、いわゆる
 
「愛」なので、その見返りが無いとすぐさま憎しみが湧いてき
 
てしまう。困ったものです。
 
 
 結局のところ、ぼくらはみんな「愛」という言葉のイメージ
 
に相応しくないものを「愛」と呼んでいるので、谷川さんに
 
「愛するのがヘタだ」と看破されてしまうことになる。残念な
 
ぼくたち・・・。
 
 
 でも愛するのがヘタでも、それはそれでいいじゃないかと思
 
う。「愛」を意識する人には、少なくとも、そこには「愛」を
 
価値あるものだとする意識があるし、「できることなら理想的
 
な愛を持ちたい。それを活かしたい」という思いがあるだろ
 
う。
 
 
 ヘタでもいい。「愛」について思い違いをしていてもいい。
 
そこにある「良い人でありたい」という思いは、悪いものでは
 
ないだろうし、そのような思いを持てることは、とても幸運な
 
ことだろうから。
 
 
   「愛」という言葉のイメージに相応しい “愛” について
 
は、以前書いているのでそちらをどーぞ  
 
 (『「愛」とは何か?』2018/3 『愛である』2019/3)




2024年12月30日月曜日

ハッピーエンドは有るか?

 
 
 わたしたちの人生にハッピーエンドは有るか?
 
 無いですね。ずっと続いているんだから。
 
 終わるのは死ぬ時だから、ハッピーエンドを望むのなら死を
 
肯定し、それだけではなく死をハッピーなものと捉えなければ
 
ならないことになりますけど・・・。出来ますか?
 
 
 わたしたちは人生をストーリーとして捉えるので、その一部
 
分を恣意的に区別してハッピーエンドのように受け取ったりす
 
ることもできなくはないけれど、それは次々に起こる出来事に
 
かき消されてしまうし、そもそも区別することは人生の全体性
 
や本質的な流れを見失うことになる。せいぜい「ひとまずはお
 
幸せに」ということでしかない。ハッピーエンドは映画やドラ
 
マの中だけで、実際の人生でハッピーエンドだなんて誰も思う
 
ことはないでしょうね。
 
 
 ハッピーエンドのような小さな辻褄合わせではなくて、まる
 
ごとの人生に想いを致す。
 
 これまでの人生が良いか悪いかということは二の次にして、
 
「とにかく生きて来てるよなぁ」という感慨は持てるはずで、
 
それは噛みしめる程に、只事ならざることとして感じられるは
 
ずです。そして、さしあたりは続く。もし、いま絶体絶命だと
 
しても次の瞬間までは続くし、そこで終わるのならば、只事な
 
らざる感慨の中で終わりを迎えるのですから、それこそハッ
 
ピーエンドでしょう。人生にハッピーエンドが有るとすれば、
 
そのような在り方しかない。
 
 そして、そのように心得て生きるのなら、 常にしあわせを
 
ベースに生きていることになる。
 
 
 これまでも人生は続いてきたし、この先も(さしあたり)人
 
生は続くでしょう。本当はストーリーよりも「いま続いてい
 
る」という事実の方に、えもいわれぬものが有る。

 
 人生をどのように見るかはとても恣意的です。その時々の自
 
分次第で同じことが良くも悪くも見えてしまう。出来事が自分
 
を幸・不幸にするのではない。出来事を自分が幸・不幸と決め
 
ている。出来事は無声映画のようなもので、そこに自分がス
 
トーリーを付けているのに、あたかも出来事が自分にそう語っ
 
ているように錯覚する。自作自演で踏んだり蹴ったりして、
 
怒ったり泣いたり・・・。自作自演なら、せめて笑いたいもの
 
だ。

 
 「そんなこと言ったって強盗にでも入られたら笑ってられな
 
い」という話にもなるけれど、良寛さんの逸話にこういうのが
 
あります。
 
 
 ある夜、良寛さんが寝てると泥棒が入って来た。泥棒に入っ
 
たはいいが、あいにく良寛さんの庵だ。盗るものなんか何もな
 
い。目が覚めていた良寛さんはそのまま寝たふりをしていた
 
が、泥棒は良寛さんの着ている布団をはがすと出て行った。
 
 その時のことを良寛さんは句にしている。

 
   盗人に 取り残されし 窓の月
 
 
 良寛さんは泥棒に入られたことでも風流にしてしまう。
 
 
 良寛さんは粗末な身なりをしていたので、泥棒に間違われた
 
こともある。たまたま泥棒が入ったばかりの家のそばを通りか
 
かったところ、泥棒扱いされて殴られていた。そこに良寛さん
 
の知り合いが通りかかって「何をしてる!この方は良寛さまだ
 
ぞ!」と止めに入った。そして「なぜ、自分は良寛だと仰らな
 
かったのですか」と尋ねると、「なにごともご縁じゃからの」
 
と笑っていたという。

 
 出来事にどういう意味を持たせるかは自分次第。できること
 
なら、良寛さんのように風流に、粋にやりたい。
 
 もっとも、そうできるかどうかもご縁なのだけれど、そうで
 
きないのなら、“そうできない自分” を「風流だ😅」と笑うと
 
いう手が有る。
 
 あの手この手で自分を笑わせるのが粋というものだ。


 
 
 
 

2024年12月29日日曜日

卑下慢

 
 
 “卑下慢(ひげまん)” なんて言葉は聞いたことがないですよ
 
ね?
 
 これは浄土真宗の僧侶の藤原正遠(しょうおん)さんが使っ
 
てらした言葉で、私も他の人が使っているのを見聞きしたこと
 
はないですが、自分を卑下することも自慢の一種だということ
 
です。で、正遠さんはこんな歌を残しておられます。
 
 
 煩悩をわがものとする卑下慢に 
 
       ながくとどまり御仏(みほとけ)を見ず 
 
 
 慢心するということは、エゴが意識を支配して自分の都合だ
 
けでしか世界を見れないような状況ですが、単に「自分は優れ
 
てる」といったような考えだけではなく、「自分は劣った人間
 
だ」という卑下も、自慢の一つだと正遠さんは伝えています。
 
でも、なぜ卑下が自慢なのでしょう?
 
 
 自分を卑下するということの裏には、「わたしは自分が劣っ
 
ていることを知っている」という自己認識が有るわけで、それ
 
は「わたしは自分をちゃんと評価できる能力を持っている」と
 
いう自慢だというわけです。
 
 なんだかうがった見方のようですが、そこまで徹底して自分
 
の慢心・欲深さ、そしていたらなさを明確にして、初めて御仏
 
に出会えるということです。
 
 
 わたしたちは、ひとかけらの良いことも持っていない。
 
 自力で良いことをすることも、しあわせになることもできな
 
い。それを完全に心の底から認めて、すべてを仏に任せて投げ
 
出してしまうことで、初めてしあわせになれる。それが浄土真
 
宗でいう「他力本願」。
 
 でもわたしたちのエゴは、エゴの望む形での満足がしあわせ
 
だと思っているので、自力でしあわせになろうと必死です。そ
 
の為、エゴにとって不都合な状況になると、「自分を卑下でき
 
る程の賢さを自分は持っている」という巧妙なテクニックを弄
 
してまで、自分で自分を満足させようとするのです。けれど、
 
どのように自慢しようが卑下慢しようがそれは煩悩です。アタ
 
マの右往左往です。そこから離れない限りは落ち着くことはな
 
い。
 
 
 「煩悩をわがものとする」 
 
 わたしたちは自分が煩悩を生み出している、自分が煩悩を
 
持っていると考えるけれど、正遠さんは「そうではない」と言
 
う。
 
 自分からそういうものがただ出て来ているだけで、煩悩は自
 
分のものではない。良く思えようが悪く感じようが、自分の考
 
えることすることすべては仏の働きであって、自分のものは何
 
もない、自分には何をする力もないと気付くとき、自分のこだ
 
わりがほどけて安らぎ、仏の働きが滞りなく自分から出てくる
 
ようになって、人間の評価の「良い悪い」ではない行いが現れ
 
るようになる。
 
 
 こう言うと「出て来るに任せて、とんでもない悪事をやり始
 
めたらどうするんだ」という風に思うところですが、人が悪事
 
をするのは、基本的に不安からです。「生きなければならな
 
い。その為には他人を利用し、他人の領分を犯してでも自分の
 
安定を確保しなければならない」という欲は、生存の不安から
 
生まれます。けれど、「自分は無力で、自分には自分を良く生
 
かす能力は無い」とあきらめて、仏にすべて任せてしまう境涯
 
になると、不安からの欲がなくなり、悪事もしなくなってしま
 
います。非常識なことをして、世間から嫌な顔をされることは
 
あるかもしれませんがね😜
 
 
 人は、一見謙虚なようにみえて、その実傲慢であったりする
 
ことは多いものです。「俺は謙虚だぞ!」なんて思ってたりす
 
るわけです。わたしたちは、そういう品の無いことは無しにし
 
て生きたい。
 
 自分に「良い」とか「悪い」とかラベルを貼ったりせず、こ
 
れまで自分がどのようであったろうと、いまの自分がどのよう
 
であろうと、とにかく落ち着いて、機嫌良く生きることを心掛
 
ける。世間やアタマの評価は「それはそれ」として、自分の心
 
の落ち着きを第一義とする。その姿勢が、本当に良い自分が現
 
れること可能にする。
 
 
 
 
 

2024年12月18日水曜日

器の大きな人

 
 
 今回は「大器晩成」ということについて。
 
 
 《 エゴという用土がなければ、
 
          不安は育たずに枯れてしまう 》
 
 
 『種は蒔かれる』(2024/8)という話の最後に書いた言葉
 
ですが、 空っぽの鉢の中にどんな種を入れようと、それが育つ
 
ことはありません。
 
 不安・悲しみ・怒り・驕り・妬み・憎しみなどを生むような
 
どんな出来事であれ、わたしたちの意識の中が空っぽであれ
 
ば、それはその出来事のままでしかありません。何にも変容し
 
ないし、何も喚起しない。ありとあらゆる苦悩が育つのは、わ
 
たしたちが苦悩が育つ場所と養分を与えるからです。しかし、
 
わたしたちはそんな場所と養分をなぜわざわざ用意するので
 
しょうか? それは、喜びや楽しみも同じ場所と養分で育つから
 
です。
 
  喜び・楽しみを欲してそのために準備するのですが、それが
 
アダとなってしまう。わたしたちは起きてくる事を選べないで
 
すからね。
 
 「こんなはずじゃない!」
 
 「そうじゃない!」
 
  そんなこと言ったってねぇ。 
 
 
 〈 花は愛惜に散り、草は棄嫌に生うるのみ 〉
 
   愛惜=あいじゃく 棄嫌=きげん 生うる=おうる
 
  そんな言葉があります。 「花は惜しまれながら散る、草は
 
嫌がられても生えてくる」ということですが、〈花も草もそれ
 
ぞれの事情と自然の摂理で生えてくるだけで、それを人間が勝
 
手に惜しんだり嫌ったりするだけなんだから、ちょっと考えな
 
さいよ〉という話です。
 
 で、〈自分の都合で好き嫌いを言わないで、受け入れなさい
 
よ〉という感じになるのですが、花の為に準備していて草が生
 
えてきたら、受け入れなさいと言われても無理ですよね。だっ
 
たら、はなから準備しなけりゃいいのでは? という方針もある
 
わけです。鉢が空っぽなら草の生えようがないですからね。
 
 けれども花も咲かない・・・。それじゃぁ淋しい。つまら
 
ん・・・。確かにそうでしょう。けれどもそこには空がある。
 
 
 『信心銘』の中の言葉に「円同太虚(まどかなることたい
 
きょにおなじ)」というのがあって、「太虚はまどかだ」と言
 
う。空は円満だと。 
 
 空っぽだと円満です。揺さぶられるものがない。そういう
 
「まどかさ」を味わう生き方というものがあって、仏教やタオ
 
ではそういう生き方を勧める。
 
 
 空っぽの鉢と言うと、小さな鉢が目に浮かびますけど、喜び
 
や苦しみが育つ場所であるわたしたちの意識というものには、
 
鉢のように区切りがあるわけではありません。アタマが求める
 
喜び・楽しみの為の養分を片付けてしまえば、そこには「太
 
虚」があるわけです。 わたしたちの意識の本質は、常にまどか
 
なわけです。
 
 
 「大器晩成」というのは『老子』の中の有名な言葉ですけ
 
ど、「大人物は遅くに完成する」という意味とされています
 
ね。けれど老子の語ることから思えば、そうじゃないんじゃな
 
いかと思います。「晩成」というのは「すでに成っている」と
 
いう意味じゃないだろうか? つまりわたしたちも世界も「元か
 
ら無限の器(大器)である」ということではと・・・。
 
 
 「器の大きな人」というのは、「自分の望みを脇にどけるこ
 
とで、まどかでいられる人 」なんでしょう。
 
 しかし、残念ながらほとんどの人はアタマの働きに邪魔され
 
て、自分が大器であることに気付けない。自分の心は本来まど
 
かであることを意識できない。
 
 もったいない話です。 
 
 
 
 
 

2024年12月15日日曜日

消費税 100 %

 
 
 私は政治や経済のことは疎いので、そういうことはあまり考
 
えない。けど最近「103万円の壁」の話題でメディアが賑や
 
かなので、ちょっと税金のことを考えてみた。
 
 
 私が110円払って何かを買う。それを売った人の手には消
 
費税を引いた100円が残る。その人がその100円で何かを
 
買うと、その何かを売った人の手には消費税を引いた91円が
 
残る。次にその人が91円で何かを買うと・・・。
 
 という風に、10人程が経済活動(売買)を行うと、最初の
 
110円はすべて税金として国に渡る。国民の稼いだ金は、預
 
貯金などで滞留しない分はすべて、税金になる。そういう見方
 
をすれば税率は100%ということ。
 
 消費税が無かった頃は、民間が得た金は民間の中で循環して
 
いた。金回りが良い。つまり景気が良かった。
 
 国は所得税などで行政を動かしていたわけですけど、それで
 
は上手く回せないということで消費税を課したわけです(私に
 
はそれが妥当かどうかはわかりませんけどね。複雑すぎるの
 
で・・)。けれど、消費税が上がるとそれだけお金が国に戻る
 
のが早くなるので、民間でお金を回す余裕が減るでしょう。つ
 
まり景気が悪くなる。賃金を上げるとそれに連動して物価も上
 
がるので、消費税を下げるのが経済にとっては良さそうですけ
 
どねぇ。こんな理屈は経済学に詳しい人が見たら、バカまるだ
 
しなのかもしれませんがね。
 
 
 ところで最初に私が持っていた110円は何なのか?
 
 もちろん労働によって得たお金ですね。労働という社会貢献
 
をすることで、見返りに社会でサービスを受ける権利を得る。
 
その権利を保証し証明するのがお金で、お金は政府が発行して
 
いる権利の証明書です。お金は国が担保する権利ですから、理
 
論上は無限に供与(発行)できます。けれど、国の機能が衰退
 
すると権利の信頼性が薄れてしまうので、機能維持の為に権利
 
を回収する。それが税金なので、供給したお金がすべて国に還
 
流するのは当然だと言えるでしょう。むしろ、預貯金などで滞
 
留する方が好ましくない。滞留されると、国はその分のお金を
 
供給しなければならないので負担が増えますからね。
 
 
 問題なのは、国に還流したお金がまた国民に適切に供与され
 
ているのかということ。それが上手く機能していないんじゃな
 
いのか? むしろ敢えて阻害しているんじゃないのか? そうい
 
う疑いが濃厚に思えるので、「手取りを増やせ!」「財務省を
 
潰せ!」などと国民が怒っているというのが、ここ最近の話題
 
なわけです。まぁ、それはいけませんよね。国民の権利の侵害
 
になりますから。
 
 
 「公金チューチュー」とか言って、政治家や天下り官僚や大
 
企業の経営者なんかの横暴が非難されますけど、彼らも一個人
 
であり国民であるので、その「チューチュー」した金を滞留さ
 
せずに使えば一般にお金が回るので大した問題でもないと思い
 
ますが、いかんせん彼らはそれを止める。長期間滞留する預貯
 
金は “お金のミイラ” になってしまう・・・。バカヤローめ。
 
 
 ・・・とまぁ、そんなことを考えたわけですけど、暇つぶし
 
です。私に関係ない。この先も大きなお金には縁がないまま、
 
私の人生は終わるでしょうから、私がお金の話を考えるのは暇
 
つぶしにしかならない。けど、本当に貧困で困っている人でな
 
ければ、誰が考えたとしてもお金の話は暇つぶしでしかないで
 
しょう? 
 
 通帳や証券会社から送られるお知らせにあるのは数字です。
 
それを見てニヤついたり、苦虫を嚙んだりしてても、いずれ命
 
は尽きる。使わない権利を溜め込んで何になるのでしょう?

 
 「権利」の対義語は「義務」ですが、どちらも社会の約束事
 
であり、縛りです。約束事から離れてみた方が自由で、自分を
 
楽しめるだろうと思うんですけどね・・・。
 
 暇をつぶすなら他にいろいろ面白いことが有るだろうに。
 
 
 
 
 


2024年12月14日土曜日

上手く出来過ぎている

 
 
 このごろ思う。「自分は世界で最もしあわせな人間の一人で
 
はないだろうか」と。自分にとって様々なことが上手く出来過
 
ぎているように思う。
 
 上手く出来過ぎていると言っても、すべてが自分の思うよう
 
に運んでいるというのではない。例えば、いまこの文章を打ち
 
ながら、もうすでに何度も打ち間違いや変換ミスをしてやり直
 
している。全然上手く進んではいない。けれど、その現状を否
 
定的に感じない。「そういうことが起きた」と思うだけだし、
 
そのミスも、その後の文章が綴られる前提条件になっているの
 
だろうと受け取っている。現に、ついいましがた打ち間違いを
 
したので、この文章を書いているのだから。
 
 
 なぜ様々なことが上手く出来過ぎているように思うのか?
 
 それは、このごろの私がとても満足しながら日々を送ってい
 
るから。
 
 いま満足しているのは私に起こった過去のすべてのことの結
 
果です。その内の何か一つが変わっていたら、いまの満足は無
 
い可能性がある。それならば過去のすべては、いまの満足に不
 
可欠だったということになるので、過去のすべてが肯定され
 
る。つまり、すべてのことが上手く出来ているということで
 
す。
 
 
 考えてみれば、人が満足することの裏には当然それに至る経
 
緯がある。アスリートが大会で優勝して満足できたら、それま
 
での辛いトレーニングが肯定できるだろう。けれど、満足のゆ
 
く成績ではなかったら、それまでの日々は虚しいものになって
 
しまう。満足することは過去を肯定できるものにする。いま満
 
足すれば、それに至る事柄も満足できるものになる。
 
 ではいまの自分の在り方を心の底から満足したら?
 
 いままでの人生のすべてが肯定され、すべてが満足になる。
 
 いま満足すれば、過去までが満足できてしまう。
 
 
 アスリートのように、人は満足するために何かをするけれ
 
ど、実は何かをする必要はない。とにかくいま満足すればい
 
い。ダイレクトに満足してしまえば、何をしてきたのであろう
 
と、そのすべても満足に取り込まれてしまう。そしてこう思
 
う。
 
 「すべてが上手く出来ていたんだなぁ」
 
 
 
 《 足りないものは「満足」だけ 》 *
 
  この言葉は、このブログを書くうちに出て来た珠玉のものの
 
一つだと思っていますけど、いま生きている人は、いま生きて
 
いる。絶望的な状況にあるとしても、有頂天であるとしても、
 
どのような状況にある人でも、その人はいま生きている いま
 
生きているという、そのことに思いが至れば満足できるはずな
 
のです。他のことはお話しであり、一瞬ごとに過去になってい
 
るものに過ぎないのですから。
 
 
 「いま生きているなぁ」
 
 そうして深く満足すれば、すべてが上手く出来ていたことに
 
気付く。過去のすべてが満足に包み込まれる。 
 
 そして、いままでのすべてが上手く出来ていて、いま満足な
 
らば、次のいまも当然満足なはずです。さっきの瞬間に満足で
 
あって、その前のすべても満足なら、いまこの瞬間の前提すべ
 
てが上手く出来ているのですからね。
 
 一度ほんとうに満足してしまえば・・・、もう満足から逃れ
 
られないようです。 

 
 *「足りない物は『満足』 だけ。」2017/10
 
  「何かを探して、何かを求めて・・・」2018/9 
 
 
 
 
 
 

2024年12月13日金曜日

何気ない毎日

 
 
 何気ない毎日が 風のように過ぎてゆく
 
 
 これは、ほぼ五十年前に 中村雅俊が歌ってヒットした『いつ
 
か街で会ったなら』(喜多条忠 作詞・吉田拓郎 作曲)の冒頭
 
の詞。本当に毎日が風のように過ぎて行き、今年ももう終わり
 
が近付いている。「今年って有ったのか?」ぐらいの感じがす
 
る。
 
 特別なことなど何もない・・・。年々そういう感覚が増して
 
くるけど、それでつまらないかというと、そうでもない。
 
 現代人は “イベント中毒” というところが多分にあるので、
 
逆に「特別なことなど何もない」という方が却って特別かもし
 
れない。ものは取りようです。
 
 
 「そんな毎日でつまらないはずがない」と普通は思われるだ
 
ろうけど、そもそも “つまらない” とはどういうことか?
 
 
 以前、テレビで荒俣宏さんが「日本人はいろんなものを詰め
 
込むのが好きで、それが上手い。詰め込まない・詰め込めない
 
のを “つまらない” と言う」と言っていて、なるほどと思っ
 
た。効率的な収納だとか、ムダに多機能な家電とか、とにかく
 
詰められることを日本人は喜ぶ。「詰まってる!❤️」。
 
 方や私の日常は全然詰まっていない。なのに「つまらないわ
 
けでもない」のはどういうことか? 
 
 
 何も詰まっていないのだから、空(から)なわけです。
 
 空っぽです。空っぽだから、空っとしてる、ひろびろして
 
る。圧迫・制約がないのでのびのびする。目的や欲求が詰まっ
 
ていない分、自由。「なにげない毎日」には、自由が詰まって
 
いる・・・。
 
 ものは言いようですよね。こじつけと言われれば、まぁそう
 
なんでしょうけど、結構ほんとうに空っとしてるんですよ。
 
 
 《 自由とは「したいことがない」ということだ 》と、何度
 
か書いたように思いますが、「することがない」のも同じこと
 
ですね。
 
 人間は何かを気に掛けることで、心の奥の空虚さから意識を
 
逸らそうとします。エゴは思考によって存在を成立させてます
 
から空虚が恐ろしい。空虚に思考を詰めたいんですね。でも、
 
それは自由を隠してしまうことです。
 
 
 何気ない毎日。それは何を気に掛けることもない毎日です。
 
  確かにつまらない。でも、詰まっていない。 風通しがよい
 
のですよ。その風を感じてみるのはなかなかに気分のいいもの
 
です。
 
 
  何気ない毎日が風のように過ぎてゆく 
 
 
 
 
 

2024年12月10日火曜日

最悪の時代か・・な?

 
 
 今日、羊文学の『光るとき』を聴いていて、歌詞の〈この最
 
悪な時代も・・・〉というところで「最悪の時代か・・・」と
 
つぶやいていた。
 
 
 〈最悪な時代〉。日本でいうなら、それは今じゃなくて昭和
 
二十年前後だろう。それにくらべたら、悪いとしても他の時代
 
はまだマシだろうし、もっと昔なら天然痘やら飢饉やらで人が
 
大勢死んでゆく時代もあったわけで、さまざまに不愉快な事が
 
あるとはいえ、私の感覚からすれば今はとても恵まれた時代
 
だ・・・表面的にだけど。
 
 
 〈最悪な時代〉とは、そもそもなんだろうか?そんなことを
 
考えてみる。時代はただ単に時代なんじゃないだろうかと思
 
う。
 
 ある時代を最悪と感じたり、ある時代を良いと感じたりする
 
のはわたしたちの意識だけど、それは結局自分の都合です。
 
 人はそれぞれの時代で展開する物語に自分流の注釈を付け
 
て、それぞれの「時代認識」を持つ。そして良いとか悪いとか
 
思う。
 
 80億人のそれぞれの「時代認識」が時代を動かして行くん
 
だけど、時代はそれぞれの人の「時代認識」の外にある。時代
 
はただ時代として動いて行く・・・。(分かりにく表現でごめ
 
んなさい。そもそも分かりにくことを説明しようとしているの
 
で😂)
 
 
 
 《 すべての存在は時代に殉じる 》
 
 そう書いたのも随分前になったけど、わたしたちは時代に動
 
かされ、時代を動かすことに従事させられている・・・と同時
 
に、不思議なことに時代を眺めてもいる。外から眺めているか
 
らこそ「最悪だ」なんて思ったりできるのだから。それなら、
 
わたしたちは時代の外にもいるのだろう。わたしたちは時代の
 
中にも、外にもいるようだ。
 
 
 人間にとっての時代はもちろん人間が作るけれど、実は「わ
 
たしたちには関係が無い」というのが本当のところではないだ
 
ろうか。
 
 時代の中にいる自分は翻弄されて、翻弄されながら外から時
 
代を眺めて「最悪だ」と思ったり、「最高だ」と思ったりする
 
けれど、そんなふうに “時代の勝手” に付き合う必要もないの
 
だろう。わたしたちは時代に動かされるだけで、時代に手出し
 
できない。あらためて言うけれど、わたしたちは時代に動かさ
 
れ、時代を動かすことに従事させられている。時代の手駒なの
 
です。ただし、わたしたちは時代を眺めていることが出きる。
 
それはとても大きな特典なのではないのか?
 
 
 時代に何かを求めたりせず、時代の見せるものをフラットな
 
意識で受け止めてゆくのなら、時代に動かされてしまうこと
 
なかなかに面白いのではないかと思う。
 
 
 
 

  


2024年12月8日日曜日

救われない人はどうするか

 
 
 前の話を書いた後、“読んだ人が「出来る人がさらに救われ
 
るなんて不公平だなぁ」と思うかもしれないなぁ。少し言葉足
 
らずかもなぁ” と思ったのと、「この話を理解できるだけの理
 
解力を持ち合わせない人のことはどうなのか?」というツッコ
 
ミもあると思うので、ちょっと続きを書きます。
 
 
 “社会で出来る人であっても、人として本質的なしあわせを
 
得るためには、比較の世界から外へ出なければならない” とい
 
うことを書いたんですけど、比較の世界から出るということ
 
は、これまで自分が居た世界の価値に意味が無くなるというこ
 
とです。両方を得ることはできません。
 
 真のしあわせは、誰にとっても公平ですし、真のしあわせの
 
前では他のどのような価値もしあわせとは感じられません。次
 
元が違うからです。なので出来る人がさらに得をするというこ
 
とは無い。そもそも「損得」という発想が比較することで出て
 
くるもので、真のしあわせはその外にあるものですからね。
 
 
 その点では公平なんですが、こういった話を理解する力が欠
 
けている人はどうなるのか?
 
 残念ながら、どうにもなりません。私の書いているようなこ
 
となど何の足しにもなりません。私がこんなブログを書いたと
 
ころで落書きのようなものです。
 
 別にそういう人をバカにしているのではありませんよ。
 
 人が救われるか救われないかは、結局のところ「縁」であっ
 
て人それぞれのさだめですし、救われたとしたところで、それ
 
は 「救われていること」を意識できるかどうかの話に過ぎませ
 
ん。
 
 
 「じゃぁ、お前は何のためにこんなブログを書いているん
 
だ」と思われそうですが、 私は私なりのやり方で、私と縁のあ
 
る人に向けてこれを書いているようです。
 
 私の書くことがどれほどの良縁に繋がるかは知りません。た
 
だ、こんなことをしているということは、「お前のやり方・表
 
現がすんなり来る人が必ずいるから、その分だけでいいから思
 
いを綴りなさい」というさだめなのでしょう。(ただの妄想か
 
もしれませんが)
 
 
 このブログの守備範囲から外れている人たち。
 
 さまざまな宗教や哲学やスピリチュアルなことと縁が無い人
 
たち。
 
 生きているうちに「救い」などない人たち・・・。
 
 でも「それはそれ」です。
 
 いま生きている。
 
 やがて死んでゆく。
 
 そのすべて込みで、それぞれの自分というものが在る。
 
 そのこと自体が「救い」なので、安心していればいいわけで
 
す。

 
 そして、苛酷な目に遭っている人たちを、私は悲しみつつ、
 
かつ安心しながら見ています。自分自身もその内の一人になっ
 
たりしながら・・・。

 
 救いは人生の外にある。