2018年11月25日日曜日

三島由紀夫のアタマは悪かった


 今日(11/25)は、三島由紀夫が割腹自殺した日だそう

だ。

 昼過ぎにテレビを点けると、『そこまで言って委員会』で

三島の事を取り上げていて知ったのだが、番組を観ていて、

あらためて「三島由紀夫って、〈自己劇化〉の権化だったん

だなぁ」と思う。なんとまぁ「観念」の人なんだろうと。



 〈自己劇化〉というのは、【自分の生き方・人生をストー

リーとして捉え、ドラマの様に考えているということ】

(『自己劇化の果てに・・。』2018/8 参照 なんです

が、人間の〈アタマの悪さ〉の中でも、特に「悪さ」の際立

つものです。つまり、「三島由紀夫のアタマはすごく悪かっ

た」ということになります。

 まぁ悪いですよね。自分の身体をないがしろにして、ハラ

切っちゃったんだから。完全にアタマが暴走したんですね。



 三島の場合、普通の自殺とはちょっと違うと考えた方がい

いですよね。

 普通の自殺は「アタマの暴走」というより、「アタマの逃

走」のようなものです。社会の中に居場所が無くなってしま

って、社会の外に出る為です。

 一方、三島の〈ハラ切り〉はイスラム過激派の自爆テロに

近いんじゃないかと思う。人を殺すわけにはいかないので、

自分を殺したんじゃないかと・・。メッセージ性の強い自殺

ですね。けど、悲しいかな、そのメッセージに共感する人間

はとても少なかった。


 《人間には自由意志は無い》と私は思っています。私たち

の考え・行動は、「状況による誘導」だということですが、

三島の事件のような事には、特に強くそういう印象を持ちま

す。社会の中の “集合無意識” が、あのような形で三島を通

して出て来たのだと。


 あの時代、あの時に、三島にとってというより、社会にと

って、三島が誰も耳を貸そうとしない演説をぶち、ハラを切

ることが必要とされたのでしょう。

 もちろん、なぜそうなったのかは分かりませんよ。“集合

無意識” の中に、何が、どんな風に渦巻いているのか、その

詳細は誰にも分からない。まぁ、「こんなモーメントは、あ

るだろなぁ」ぐらいは、想像できそうですがね。

 今の日本であれば、「管理社会の息苦しさに反発して、暴

力的な行動に出る人間は後を絶たないだろうなぁ」なんて思

います。


 そのような行動に出るのが誰かは分からない。もしかすれ

ば、私かも知れない。あなたかも知れない。社会的地位のあ

る有名人かも知れない。

 なんにせよ、そんな役回りは御免ですよね。三島のよう

に、四十数年も経ってから、どこの馬の骨だかわからない男

に「アタマが悪い」なんてブログで書かれたりするんですか

ら。


 そんなゲンナリするような役回りを引き受けない為にも、

わたしたちは「アタマは悪さをする」ということを、事ある

ごとに意識しておかなければいけないでしょう。

 アタマに、エネルギーがどんどん注ぎ込まれるような状況

になってきたら、「おっと。これはちょっと気を付けなくち

ゃいけないんじゃない?」って。

 人間が愚かなことをする時って、あたまの働きが足りない

時もありますが、本当に愚かなことをするのは、アタマが働

き過ぎた時です。

 “自分のアタマの中だけの現実” だけが、“現実” となって

しまって、世界と適応出来なくなってしまう。

 自分は「正しいこと」をしているつもりでも、まわりから

見れば「狂ってる・・」。


 「アタマは悪さをする」

 その事を知って、意識しておかないと、自分もまわりも地

獄を見ることになりかねない。三島の事件のような大袈裟な

ことではなく、ごく日常的なレベルでもね。


 三島由紀夫のアタマは悪かった。

 それは三島のせいではない。

 三島をバカにする気もない。

 「ヤな役どころだなぁ・・」と思う。頭の良い人は、注意

した方がいいね。観念的に暴走しやすいだろうから・・。

 〈ハラ切り〉はしなくても、「観念」対「観念」で対立し

てはた迷惑なゴタゴタを起こしたり、弱い立場の人間を知ら

ず知らずに踏みつけにしたりしかねないですからね。


 三島の事件から学ぶこと。

 人のアタマは悪い。

 あなたのも、私のも、誰も彼ものアタマは悪い。


 自分の「正しさ」にこだわり始めたら、御用心、御用心。






2018年11月18日日曜日

『比較病』


 今までにも度々登場してもらっていますが、浄土真宗のお

坊さんだった藤原正遠さんは、『比較病』という言葉を使わ

れていました。「人は、比べるから不幸になる」と。



 わたしたちは、生まれるとすぐに「比べられます」(今で

は、生まれる前から比べられますが)。

 そして、物心が付くと「比べること」を叩きこまれます。

 正遠さんの言葉を正しいとすれば、親やまわりの大人、教

師などは、子供が不幸になるように教育していることになり

ますね。
 

 比べれば、ほぼ必ず、人はそこに「優劣」や「正・悪」を

付けてしまいます。

 優れている者は満足し、さらに慢心したり、劣った者をバ

カにしたりします。

 劣っている者は不満を覚え、自分を卑下したり、優れた者

を妬んだりします。

 
 勉強・スポーツ・健康・仕事・・、あらゆることで「比べ

ること」を教え込まれながら、その一方で「人はみな平等で

す。人と仲良くしなさい」などと言われるのです。

 「ふざけんじゃねぇ~よ!」と言いたいところです。 



 人は、生物として自分の置かれている状況を比べないわけ

にはいきません。

 「暑い・寒い」「硬い・柔らかい」「強い・弱い」などと

いった事を判断しながら行動しなければ、生存の危機に直面

することになるでしょうからね。

 そういう意味で、人にとって「比べること」は必要です

が、そこに人間関係が加わってくると、「比べること」は却

って人を害することになります。


 自分が優れていれば劣った者を侮り、自分が劣っていれば

優れた者に引け目を感じる。どちらにしても平静  平らか

で静かな心  ではいられません。

 そして、ある面でどんなに優れた能力を持っていても、他

の面では他者より劣るでしょうし、優れていることでも、い

つまでも優れたままではいられません。その能力が落ちて行

くことや、自分より優れた者の出現に不安を覚えることでし

ょう。「比べること」に安住の時は無いのです(あったとし

ても、ほんの束の間です)。


 そもそも人間関係の中で  “人付き合い” という狭い意

味ではありませんよ  「比べる」ということは、人が単に

生きて行くということでは、実質的な意味を持ちません。

 もちろん、人と比べられて仕事を失うといったことは起き

ますが、それは本質的なことではありません。そのようなこ

とは、人が生きて行く上でのある一面でしかありません。


 ところが、わたしたちは「比べること」を子供の頃から叩

き込まれているので、ある一面で比べられ、他の者より劣っ

ていると評価されると、自分のすべてを否定された様に思い

込んだりしてしまいます。

 「すべてにおいて優れている人などいない」という、当た

り前の事に想いが至らない。

 「人はみんな出来損ない」という事実に気付けない。


 仮に、社会的に自分の 100% を否定されたとしても、

「今、生きている」ということは、〈命〉は自分を肯定して

いるということです。

 〈命〉と〈社会〉。どちらがこの世界の本質でしょうか?


 比べられて悩み、比べて悩み、そうしてほとんどの人は落

ち着くことなく一生を終えてしまう・・・。


 「比べること」は人間の病気である。

 「比べること」は社会の側の都合でしかない “お約束” で

ある。

 そのことに思い至れば、わたしたちはもう少し楽に息をつ

けるのではないでしょうか?


 『東京オリンピック』が近付いて来て、何かを達成した人

を、「輝いてる」などと持ち上げたりすることが増えて来て

いるように思いますが、人に誇れるような事を達成してない

人は「輝いていない」のでしょうか?

 輝かなければ、その人は価値がないのでしょうか?

 「輝く」って、なんでしょうか?

 ひとりの「輝いている人」の向こうには、数百人・数千人

の「輝いていない人」がいるわけです。

 そのように人を比較して、ごく一握りの人間を褒め称える

社会は果たして “良い社会” なのでしょうか?

 その一握りの「輝いている人」に自分を重ねて(ファンと

かですね・・)、自分の「輝いて無さ」から意識をそらそう

とする人がたくさん生まれる社会とは、“健全な社会” なの

でしょうか?

 輝けない「その他大勢」の何でもない人達をダシにして、

社会を “誇れるモノ” のように宣伝するのを見るのは、もう

飽きが来た・・・。


 人はみんな、「それぞれ」ですよ。

 人はみんな、それぞれに「精一杯」ですよ。

 人はみんな、社会の都合に合わせてばかりはいられません

よ。


 もうそろそろ、社会の方が人の都合に合わせてもいいんじ

ゃないんですか?

 もちろん、人  個人  の方も『比較病』を治す努力が

必要ですけどね。





おだやかであれ


 〈おだやかであれ〉なんて言うと、「災害が起きないよう

に」とか「恐ろしい事件が起きないように」だとか、「病気やケ

ガをしませんように」とか願っているみたいですが、そうい

うことではありません。もちろん、そうあればありがたいで

すが、今日書こうとしてあるのは、運命に対する願いではな

くて、自分自身に言い聞かせる言葉としての〈おだやかであ

れ〉ということなんです。



 昨日の明け方、もうすぐ目が覚めそうな、夢か現かという

状態の時に、『おだやかであれ』という言葉で目が覚めたの

です。

 別に、神のお告げだとか言うことではなくて、たまたま夢

に見たというようなことなんですが、その言葉と共に目が覚

めた。

 そして、目が覚めた瞬間にこう思った。

 「お釈迦さんの伝えていることは、要するにこれだったん

だな」と。



 釈迦は多くの言葉を残しているわけですが、結局のところ

『おだやかであれ』といっているだけなんだろうと思います

ね。



 『生きることは苦である』

 その「苦」の中で、人はなかなかおだやかにはなれない。

 けれど、お釈迦さまは「そうじゃないよ」と言った。

 「人は、“生きること” とは違う次元で、おだやかさに身

を置くことが出来るよ」と・・・。



 わたしたちは「おだやか」であれば、それでいいのです。

 自分自身の中にある「おだやかさ」に安住していればいい

のです。「おだやかさ」は自分の中にある。

 自分を取り囲む状況が、自分を「おだやか」にしてくれる

のではない。周りの状況に関わらず「おだやか」でいられる

部分が自分の  人間の  本質としてあるようです。



 以前、「しあわせになるのに理由はいらない」とか書きま

した。(『しあわせになるのに理由はいらない』1017/1)

 「理由なんかいらないんです。しあわせになっちゃえばい

い」とか言っていて、今回〈おだやかであれ〉というのもそ

れと同じなんですが、「しあわせになっちゃえばいい」とい

うより、〈おだやかであれ〉という方が、より分かり易いと

思いました。


 「しあわせになっちゃえばいい」と言われても、アタマの

考える「しあわせ」しか考えられない人は、自分が(ほんと

うに)しあわせである状態というのは理解しにくい。

 けれど、「おだやか」という状態はたぶん誰にでも分か

る。

 「天気のいい春の日」とか、「寝ている猫を眺めている時

間」とかというように、「おだやか」という感覚は誰にでも

分かるはずです。その「おだやか」な感覚(気持ち)を自分

の標準にする・・。

 常に、「おだやか」であることを起点にして、あらゆるこ

とに関わってゆくようにする・・。



 《「おだやかであれ」。

      おだやかであれば、すべてが上手く行く》



 なんの根拠もなくそう思う。

 理由も分からず、そう確信している。



 そもそも「おだやか」であるのなら、それは「上手く行っ

てる」ということです。それだけで十分ではあるんですが、

「おだやか」であれば、自分の思考・行動もスムーズになる

だろうし、「おだやかである人」に対しては、まわりの人間

もあまりネガティブな関わり方をしてこないものです。もち

ろんそうじゃないこともありますがね。


 そのように、「おだやか」であればすべてが上手く行くで

しょう。仮に、状況が上手く行っていない場合でも、「おだ

やか」であれば、“良くない状況” の影響を免れているわけ

ですから、それは「上手く行っている」のですね。

 まず、自分が「おだやか」であること・・。そうすれば無

敵です。そうあることが出来れば、スタートした瞬間にゴー

ルしているようなものです。


 「まず、おだやかであれ」


 それが、人が生きることの究極の目的なんだろうと思いま

すね。




  

2018年11月12日月曜日

自殺された側の人間として。


 このブログでは、自殺について度々触れている。今日はそ

の理由などについて書こうと思う。

 なぜ私が自殺について触れるのか?

 それは、子供の頃に父親が自殺したからです。



 私が九歳の時、父親が自ら命を断った。

 仕事の事、お金の事、健康の事、夫婦の事、さまざまな問

題が父親を追い込んだようだ。

 当時、私は子供だったので、詳しいことは知らないし、本

当のところは本人しか知らない。私が大人になってから、

「そのようなことだったのだろう」と推測しているだけで

す。



 言うまでもなく、父親の自殺は私の人格形成に大きな影響

を与えた。

 男の子にとって、父親というのは男として成長して行く為

のお手本です。そのお手本が突然いなくなった・・。しかも

家族を残して、自ら命を断った・・。まだ九歳の男の子にと

って、これは堪える・・・。

 それまで、ヤンチャで明るく、「売られたケンカは買

う!」と言って、しょっちゅうケンカばっかりしていた私

は、突然、引っ込み思案で臆病な人間になってしまった。

 当時は、自分でその事には気付いていなかったのだが、高

校生になったころに小学生の頃を振り返って気が付いた。



 さらに、父親の死から二年程の間、私は心身症になった。

 ちょっとしたストレスが掛かると、息が出来なくて苦しく

なり、学校を早退したり、休んだりするようになった。

 今にして思えば、パニック障害のような症状だけれど、当

時の日本には、「パニック障害」や「心身症」という概念は

無く、「ストレス」という言葉すら、まだ認知されていなか

ったと思う。医者に診てもらっても、私の症状は「気管支系

の問題」という捉えかたをされていた。

 父親の自殺が無ければ、私はまったく違ったパーソナリテ

ィになっていたことだろう。もちろん、かなり違う人生を歩

むことになって、このブログも存在しないだろう。



 そのような子供時代を過ごした私にとって、「自殺」とい

う事柄は、捨て置くことが出来ない問題になった。



 ネガティブ思考の人間となった上に、父親の死によって経

済的な困難を抱えた家庭で成長した私の前には、常に自分の

事としての「自殺」が有った。

 さらに、当時は意識していたわけではないけれど、「自

殺」を否定する事は、自殺した父親を否定する事だった。

 男の子として、「男のお手本」である父親を否定する事

は、この世界で、自分が拠って立つ足場を失うことに等し

い。それはあまりにも恐ろしい・・。

 「父親の自殺」と「自分の事としての自殺」に前後からは

さまれている人生・・・。それゆえに、私は「自殺」という

ものが何であるかを理解して、「自殺」というものを “得体

の知れないもの” のままにして置かない必要にせまられたの

です。



 ことあるごとに「自殺」について考え、「自殺」という事

柄に接するときに自分の中に生まれるフィーリングを検証

し、「自殺とは何であるか?」、その答えを自分の中に定着

させようとして来たのが、わたしの人生の前半だったように

思う。

 その結果、《自殺する人は、死にたいのではなくて、死ぬ

しか生きる道が無かったのである》とか、《自殺は人間の死

の中ではポピュラーなものである》とか、《自殺は「いけな

くない」》《最後の手段として、「自殺」は持っておいてい

い》などということを言うようになりました。


 こういうことを言っていると、私が「自殺」を肯定してい

るように思われがちですが、私は「自殺」を肯定しているの

ではありません。

 私は、「自殺する人」や「自殺したいと思っている人」を

肯定しているのです。

 「自殺する」人は、「弱い人」でも「卑怯な人」でも「は

た迷惑な人」でもない。さらに言えば「不幸な人」でもな

い。

 「自殺する人」は、“その時、自殺する事になった人” だ

というだけだ。


 本人のパーソナリティも含めた、“状況” がその人を「自

殺」に追い込んで行くのであって、「自殺」はその人の “属

性” ではない。

 「自殺する人」は、“自殺する」という状況” に立たさ

れた人のことで、“「自殺する」という状況” を作った人

はない。

 私は、そう認識している。


 自殺する人は、確かに気の毒だし、まわりの人間はかなり

困る(経験者ですからよく分かる)。「自殺」なんて無い方

がいい。

 けれど「自殺」は存在し、「自殺」はこれからも無くなら

ないだろう。

 だから、「自殺」とは何なのかを捉え直し、「『自殺する

人』が “自殺という状況” を作るのではない」のだと考えて

欲しい。その人が「たまたま “そこ(そういう因縁)” に居

合わせた」だけなのだと・・・。


 「自殺」はなくならない。

 だから「自殺した人」を、憐れんだり恨んだりバカにした

りして欲しくない。

 こう言おう、

 《 自殺は、心理的な事故なのだ 


 「自殺する人」を批判的に見る人の心理には、「自分は自

殺しない」「自分は自殺などする側の人間ではない」と自

をカテゴライズすることで、自己肯定感を得ようとするケ

な根性がかくれている。ケチなことは止めとくれ。


 このような「自殺」についての考察は、いつしか私の中で

「人の弱さ」全般に広がって行きました。

 身体の病気・障碍、心の病気・障碍、その他さまざまな社

会適応力の低さなども、その人の “属性” ではなく、その人

の置かれた “状況” なのだと。「強さ」を持つ人も、たまた

まその “状況” にあるだけなのだと。

 強かろうが弱かろうが、人は皆、それぞれに、その時々に

「その人」であるだけなのだと・・・。


 そのようにして、「父親の自殺」を自分の中に位置付ける

作業は、思いがけない発展をみせて、決着を向かえたのでし

た・・・。


 誰にも自殺なんてして欲しくない。 

 自分も自殺なんかしたくない。

 だから知っておきたい。「弱い人」というものが居るので

はない。

 人は「弱さ」の中に立たされてしまう事があって、その中

で「弱さ」に打ちひしがれてしまう事がある。

 でも、それは自分が「弱い」のではないのだ。

 強くも弱くもない、「なんでもない」のが本当の自分なの

だ。

 その「なんでもない自分」に気付いて、そこに立ち返り、

自分を取り巻いている「弱さ」という “状況” が過ぎ去って

行くのをじっと待っていよう。必ずそれは過ぎ去るから。

 「もし過ぎ去らなかったら?」


 死んでもいいですよ。

 人は、何かで死ぬのです。

 「自殺」という事故に遭うこともありますからね。
 

 ・・・まぁ、残念ではありますがね。






2018年11月11日日曜日

“安らぎ” と “苦しみ” の場所


 毎回、口から出まかせを書いている。

 書いている事に責任は持てないし、そもそも責任が無い。


 人それぞれの思惑とは無関係に、日々無数の出来事が起こ

り、誰もが毎日の様に、それをどう受け止めるか苦心するこ

とに出会う

 その様な出来事が起こることは、誰にも責任など無い。

 たとえ、誰かがしでかしたことであっても、起こった事は

元に戻せない。その誰かの責任を追及したところで、時間を

戻せるわけでもない。その出来事によって変わった状況を引

き受けるしかない。

 ケチをつけて、文句を言って、グチっているうちに “今” 

は消えて行く・・・。“今” は浪費されて行く・・・。

 ああ、もったいない。

 それは、この世で最ももったいないことだろうと思う。


 たまたま、私の「口から出まかせ」に出会ってしまって、

不快な思いをする人もいることだろう。「下らない」と思っ

て、時間をムダにしたと思う人もいるだろう。

 けれど、私は信じている。私の「口から出まかせ」に救わ

れる人がきっといると・・(そんな大袈裟なもんじゃないけ

どね)。


 人というものは、たまたまタイミングが合えば、コンビニ

で立ち読みしたマンガの一コマや、電車の中吊り広告の宣伝

コピーに心を開かれることだってある。

 ましてやこのブログは、世の中に上手くなじめなくて、生

きることを重苦しく感じている人達に向かって書かれてい

る。「誰かの助けになる可能性は結構あるだろう・・」、と

本人は思っている。

 たとえ1000人が不愉快に感じても、1001人目がほ

んの少しでも「心が軽くなった」と思うのなら上出来だ。


 たとえば、《「正しい」とは、そういうことにしておけ

ば、気が済むということである》というのは、私の考えの核

心になるものですが、人が悩むのは「自分は正しくないので

はないか?」という思いに捕らわれる為なので、「『正し

さ』なんて、人それぞれの都合でしかないんだよ」と言って

くれる人がいれば、気が楽になるはずなんです(ただし、自

分の「正しさ」もグラグラになりますが)。

 その言葉一つをとっても、きっと役に立つ。役に立って欲

しいなぁ・・。
 

 わたしたちの意識には、社会が浸潤して来て、〈アタマ〉

というものを形作ります。

 その〈アタマ〉は、人の思考・行動を、個人や自然よりも

社会を優先するように向かわせるプログラムです。

 社会というものは、本来、人々がしあわせに生きてゆける

ようにするためのプログラム、あるいはツールであるはずな

んですが、古い昔に社会の方が人を飲みこんでしまって、わ

たしたちは社会を動かす為のパーツに成り下がってしまっ

た・・。


 今や、世界の人口や社会の在り方を考えると、個人と自然

が、社会から主導権を取り戻すのは不可能に思えます。

 でもそれは、釈迦の生きた2500年前でも、すでにそう

だったのでしょう。だから釈迦は、個人に向けて法を説い

た。


 私も、個人に向けてこのブログを書く。

 もう、社会の支配から世界  個人の集まりとしての  

を解放する事は、釈迦の時代以上に誰にも出来ない。(もし

かすれば、インターネットが奇跡を起こすかもしれないけれ

ど・・・)

 出来る事は、個人個人が、それぞれに意識の上だけでも社

会から自由になって、人が本来持つべきはずの安らぎを持つ

事だけでしょう。


 「そんなこと言って、こんなブログを書いてるアンタ自身

は安らいでるのかよ?」

 
 そう問われると、苦しい。

 私は、釈迦でも老子でもないですからね。

 「安らぎながら、苦しんでる」というのが、正直なところ

でしょうか。


 でも、その “安らぎ” は、「社会の感じさせる安らぎとは

違う深さと広さを持つものだ」ということはハッキリ言える

し、私の中で “苦しみ” が占める〈意識〉の場所も違う。


 “安らぎ” は、個人としての私の中に在るし、”苦しみ” は

社会のパーツとしてのわたしの中のものです。

 たとえ、その “苦しみ” に呑み込まれ、亡ぼされてしまう

としても、亡ぼされてしまうのは社会のパーツとしてのわた

であって、本来の私ではない。

 私の言う “安らぎ”・“苦しみ” は、〈アタマ〉の見せる 

“安らぎ”・“苦しみ” とは違う次元にあるものです。それは

決して、オカルト的なスピリチュアル系の妄想や自己暗示で

はない。逆に、社会がわたしたちに幻想を見せているので

す。


 それは落ち着いて考えてみればすぐわかることです。社会

的な価値が有ることって、すべては約束事でしょ?

 飢え死にしそうな時に、ダイヤの指輪が何になります?

 大切な人が死んだ時に、金メダルが慰めになりますか?

 自分が死を迎える時に、社会的地位が天国行きを保証して

くれますか?

 社会に思い込まされた “安らぎ”・“苦しみ” 、そして “し

あわせ” って、思い込まされているに過ぎません。

 〈アタマ〉から、自分の〈ハート〉を解放してやらなけれ

ば、わたしたちの一生は「社会」というプログラムのパーツ

で終わってしまいます。


 わたしたちは「社会」から逃れることは出来ませんよ。

 「社会」の中で生きて行かざるを得ませんよ。

 でも、わたしたちが「どこに意識を置いて生きて行くか」

で、その生は変わる・・。

 もしかしたら、「社会」をわたしたちの “ツール” として

位置付け直すという奇跡が起こるかも知れません(ほとんど

不可能だと思いますが)。


 「社会」をどうこうしようなどという妄想は止めておきま

しょう。

 そんなことより、今、偶然にもこれを読んでいるあなたに

言いたいんです。


 「〈アタマ〉に振り回されて、本来の自分を見失っていま

せんか?」


 「本来、自分が居るべき場所に安らいだことがあります

か?」って・・・。


 「“アタマが悪さをすること” を、『アタマが悪い』とい

うのですよ」って・・・。




2018年11月10日土曜日

「フェイク!」だろうか?


 *追記
 この回の話は、私がアメリカのメディア状況についてまったく無知であった時期に書かれています。書き直し・削除も考えましたが、「これも、人のアタマの悪さを感じていただく良い例だな」と思い、そのまま残すことにしました。まぁ、私のアタマの悪さが散りばめられているのは、この回に限った事ではありませんが・・・。




 アメリカの中間選挙で、下院の過半数を民主党が獲った。

 トランプは少しやり難くなるのだろうが、アメリカの中の

対立はさしあたりどうにもならないだろうね。

 「〈アメリカ共和国〉と〈アメリカ民主主義合衆国〉にで

も分かれちゃえば? 」と、関係ない私はそんなことを口走

ったりしている。それとも、また南北戦争する? 


 その時々で自分に都合の良いことだけを言いつのり、自分

に批判的な者やメディアを「フェイク!」と切り捨てる人間

を、40%の国民が支持しているのだから凄い。ホント、“人

間は自分の聴きたい事だけを聴いている” という見本のよう

です。

 《「正しい」とは、そういうことにしておけば気が済むと

いうことである》

 そんなことアメリカ人の99.99%は思いもしない。

 もちろんアメリカ人以外でも、99.98%ぐらいは思いもし

ないが・・(あくまで個人の感想です)。


 アメリカにはアメリカの事情があって、トランプが支持さ

れる現実的な問題もあるのだろう。けれど、都合の悪いこと

はなんでも「フェイク!」と決め付け、それを真に受けて支

持する人間がかなりの割合で居るというのは、アメリカ人の

民度の低さを表沙汰にしていて、他人事ながら「あんたたち

それでいいの?」と心配になる。

 現実の自分たちの暮らしを「月刊ムー」レベルの思考で判

断していいの? って。(あからさまなフェイクニュースは

楽しくっていいけどね。「東スポ」に載るような・・)


 白人至上主義者やネオナチ、イスラム原理主義者や経済原

理主義者、フェミニズムの権化に環境原理主義者にヒューマ

ニズム陶酔者、さまざまな思想・宗教・民族・国家の蛸壺人

間たち・・・。

 自分の気に入ることだけを「正しい」と言いつのる、

99.98%(ぐらいだと思う)の人間たちが地球上にひしめき

合っていて、世界はどうにもならない。みんな他人の話は聞

かない。

 そして人口が増えすぎた事も、世界中の対立の大きな要因

だろう。

 「自分の取り分が無い」という、弱い立場の人々の根源的

な不安と、「もっともっと欲しい」という、強者の狂った欲

望が絡まり合って・・・。さて、どうなることやら。


 宮沢賢治が「世界の平和が実現しない限りは、個人の平和

は有り得ない」といった意味の言葉を遺しているのを、最近

知った。

 賢治のような人であればそうだろう。苦しんでいる人の存

在を知れば、その苦しみを思いやって自分も苦しくなってし

まい、平和ではいられないだろうから、その気持ちは理解で

きる。


 でもね、私はやっぱりこう思う。

 《 世界が平和になれば個人に平和が来るのではなくて

     すべての個人が平和になって初めて

               世界が平和になるのだ 》

 平和じゃない人は、世の中を乱してしまうからね。

 
 世界が良くなるのを待っているうちに、人生は終わってし

まう。世界がどうであろうと、個人として平和にならなけれ

ば、自分の平和は来ない。

 そして、〈“平和になった個人” による世界〉が生まれな

いことには、世界の平和は無い。

 人は、自分で平和になるしかないのです。

 誰かが自分を平和にしてくれることはないのです。そんな

気がすることも有るけれど「気がするだけ」です。優しく

てくれる人がいたりするのは、もちろ大歓迎ですが

 自分自身を平和にする事が、真に世界の平和に貢献するこ

となのだと思う。そうだからこそ、釈迦も老子もソクラテ

スもキリストも政治は行わず、個人のレベルで語ったのだ。
 

 〈平和〉って、「今の自分の状況を肯定できること」だと

思うんですよね  今自分が生きている社会とは別に。

 少なくとも、自分の置かれた状況を、暴力(肉体的な物に

限らず)や “特権的な力”、アンフェアなやり方で変えよう

としないでいられること・・。たとえ、その為に死ぬことに

なったとしても・・・。

 それが〈平和〉なんだと思う。

 『受け入れる心』とでも言えばいいのかな・・。


 何が「正しいこと」かなんて誰も知らない。そもそも「正

しいこと」なんて存在しない。

 “存在している事” を、「正しい」「正しくない」と、人

がそれぞれの都合で仕分けしているだけだ。

 「正しいこと」があるとすれば、〈“存在している事” を 

“問題” にしてしまわずに受け止められる姿勢〉の事だろ

う。


 さて、このブログはフェイクだろうか?


 受け取る人次第だね。




2018年11月4日日曜日

「苦しみ」を味わう


 〈「苦しみ」を味わう〉などと言うと、まるでマゾみたい

だけれど、そういう意味ではありません。


 お釈迦さまは「生きることは苦である」と喝破しました。

ということは、「苦しみ」は生きることの本質・生きること

そのものだとも言えます。

 生きている限り、わたしたちは尽きる事無く「苦しみ」に

出会う。「苦しみ」は無くならない。苦しくて当たり前。 

 ならば、「苦しみ」がやって来た時に、その「苦しみ」を

よく観察し、「苦しみ」と “苦しんでいる自分” がどのよう

にあるのかをしっかりと吟味し、それを味わってしまおう

と・・・。


 「生きることは苦である」のですから、「苦」を避けるこ

とは、「生」を避けることになります。


 かなりムチャなことを言っているようですね。誰だって苦

しみたくはないですからね。私も苦しみたくはない。

 けれど、生きることは苦しいのです。

 「苦しみ」は避けられないのです。

 苦しむしかないのです。

 だったら、どうせ苦しむのなら、腰を据えて「苦しみ」を

受け取ろうと・・。どうせ苦しむのなら「苦しみ」を味わっ

てしまおうと・・。

 「苦しみ」とはいったい何なのか?

 「苦しみ」の本質とは何なのか?

 「自分が苦しむ」とはどういうことなのか?


 実は、「苦しみ」の中にこそ “生きていることの実感” と

いうようなものが隠れているのではないか?



 エベレストに登ったり、ボクシングをやったり、わざわざ

苦しいことをする人がいっぱいいます。

 彼らはそこで、生きていることの充実感を感じているよう

です。「苦しみ」こそが生きている事の本質だからです。

 とはいうものの、そういった極端な行動は、脳内麻薬の作

用に病み付きになっている可能性が高い。

 わざわざ自分から「苦しみ」を求めて行かなくても、お釈

迦さまが言ったように「生きることは苦」ですから、放って

おいても、普通に生きているだけで「苦しみ」はやって来ま

す。私が言いたいのは、その普通にやって来る「苦しみ」を

味わってしまおうということです。

 「苦しみ」に対峙することで分泌される脳内麻薬の快感を

味わうのではなくて、「苦しみ」を観察・吟味し、それが

自分の生” を根こそぎにするものではないと認識すること

で、「苦しみ」から離れたところにある “自分の生” に気付

き、そこにある ”安らいでいる空間” に腰を据えようとする

ものです。


 「生きることは苦しみ」です。

 「苦しみ」は “生きることの本質” です。

 けれど、“生の本質” は「生きること」から離れたところ

にあります。


 わたしたちの日々の活動の中に「苦しみ」が生まれて来ま

す。

 わたしたちのまわりの変化が、わたしたちに「苦しみ」を

もたらします。

 けれど、それらの「苦しみ」は、わたしたちの活動の奥に

ある、わたしたちの “生” そのものには届かないのです。



 《  「“生きること” は苦しみである」けれど

       「 “生” は苦しみではない」のです 》



 前に、〈エゴサイド・ライフサイド〉という言葉を使いま

したけど(『ライフサイドに立って』2017/11/30)、“生

きること” は〈エゴサイド〉で起きている事で、“生” は

〈ライフサイド〉にあるものです(“生” のことを〈ライフ

サイド〉なんて「そのまま」ですが・・・)。

 本当は、〈エゴサイド〉で起きている事が〈ライフサイ

ド〉に干渉することはないのです。“生きること” ・ “暮ら

すこと” とは違う次元に、わたしたちの “生” は在る。


 「苦しみ」がやって来ると、精神的に身体的に確かに「苦

しい」。それは嘘ではない。けれど、そのような「苦しい」

状況の中で、「苦しい」自分を俯瞰しているような、「わた

しは苦しんでいるな・・」と苦しんでいる自分を後ろから見

ているような存在があるはずです。そこに私たちの “生” の

本質が在る。そこが〈ライフサイド〉です。

 〈エゴサイド〉で起こることは「苦」です。そこに居続け

れば当然「苦しみ」を受け続けることになります。時には自

ら死を選ぶほどに・・。

 だから・・、「生きることは苦しみ」だから、「生きるこ

と」から一歩退く・・。

 退いて、「生きること」から「生きていること」に立ち位

置を移す・・、“生” の側に、〈ライフサイド〉に立って、

「生きること」を眺めてみる・・・。


 「ああ・・。わたしはこんな事が苦しいんだ・・」

 「ああ・・。人はこんな事を苦しむんだ・・」

という具合に・・・。

 そこには「苦しみ」とは違う次元にある自分が在るはずで

す。


 「苦しみ」とは、わたしたちが生きている上で起こるべく

して起こる出来事です。そしてその中の精神的な「苦しみ」

のほとんどは、わたしたちの〈アタマ〉が不用意に作り上げ

てしまうものです。


 「苦しみ」がやって来たら、それはある意味〈チャンス〉

です。

 それを、味わい・観察し・吟味することで、”生” の存在

が際立ちます。“生” に立ち返り、“生” に安らぐことが出来

ます。


 どうせ「苦しみ」は何度も何度もやって来ます。

 それが「生きること」ですから・・。
 

 味わっちゃいましょうよ。

 〈ライフサイド〉に立って・・、他人事のように・・・。