2021年4月29日木曜日

人間らしさが無いのだろうか?



 昨日、「悲しい」が分からないという話を書いた。

 人が死んでも悲しくない。そんな風に言うと、まるで氷の

ように心の冷たい人間のようだが、そういうわけではない。


 自分の中に沸き起こってくる「悲しい」「苦しい」「淋し

い」「虚しい」「腹立たしい」などという感情を分析してみ

ると、普通一般に言うところの「悲しい」という感情は、私

の中にはそれほど生まれないようなのだが、他の感情は湧い

てくる。


 例えば、子供が虐待されて死んでしまったとか、中学生が

いじめられて自殺したというようなニュースを聞くと、「怒

り」や「虚しさ」などを覚える。それは、その子たちの

「生」が踏みにじられた事に対して、私の心が平静でいられ

ないということではあるのだが、その子たちの「死」そのも

のに対する「悲しみ」は生まれてはこない。

 また、病気や災害で人が亡くなっても、私はあまり「悲し

み」を覚えない。けれど、「気の毒に・・」とか「残念だろ

うな、苦しかっただろうな」などと思って胸は痛む。

 なぜそうなのかと考えてみるに、私が、人が死ぬというこ

とを当然のことと考えているからだろう。

 だって、人は必ず死ぬ。死ぬこと自体は当たり前のこと

で、すべての人に訪れるのだから、それが特別な感情を引き

起こすということ自体が、本来的にはおかしいと言える。


 「人が死んで悲しむことはおかしい」なんて、あんまりな

言い方だね。私の人格を否定されそうだけれど、話を続ける

ことにしよう。


 「死ぬこと」自体にはどの人にも違いはない。けれど、そ

れぞれの「死に方」は違う。私の心はその「違い」には反応

する。その「違い」に対して時には胸が痛む。「そんなの酷

いだろう・・・」と。

 そして私の胸を痛ませる「死に方」は、「いじめ」だと

か、「無謀運転」などのように、誰かが関わっている「死に

方」の場合で、自然に起こる病気などが理由であれば、私の

胸はさほど痛まない。なぜならそれは「自然」だから。「自

然」なら仕方がないと思うから。

 私の心を苦しめるのは、いつであっても「人」の行いだ。


 そんな私の特殊性(異常性と思われるかもしれないね)を

書き連ねて、「それがなんだ」と思われるかもしれない。け

れど、ことは私だけの話にとどまらないだろう。これは私が

特殊なのではなく、誰にでも当てはまることであって、たま

たま私がそのことに気が付いたというだけだろうと思うか

ら。


 人は、この世に生を受け成長して行く間に、どのような場

合にどのような気分を持つべきかを刷り込まれてゆく。さま

ざまな感情を学習して身に着け、その感情を基準にして世界

と対応しながら生きて行く。

 それがすべてというわけではないが、どのような感情の刷

り込まれ方をされるかが、それぞれの人の生き方を大きく左

右する。「三つ子の魂百までも」とはそういうことだ。そし

て大抵の場合、その感情によって苦しむことになる。 


 その「百まで」固定されてしまっている感情が、実は本来

のものではないとしたらどうだろうか? 感情に振り回されな

がら生きることから、逃れられるのではないだろうか?


 実は、あなたも「悲しく」ないはずだ。誰かのことが「憎

かったり」もしないはずだ。それらは、教え込まれた表面上

の “お話し” なのだから。


 「無感情の勧め」のように思われるだろう。

 無感情になってしまえば、人間らしさを失ってしまうでは

ないかと思われるかもしれないが、人は無感情にはなれな

い。生きている限り感情は動くだろう。けれど、感情的であ

ることが人間らしさではない。それはあまり出来の良くない

お芝居に過ぎない。本当の人間らしさは感情の動きの後ろに

在る。

 無言でひたすら鼓動し続ける心臓や、意識されることもな

く息をしている肺のように、静かで暖かい “生きる働き” とし

て・・・。そして、その本当の人間らしさだけが、他者の苦

しみに本当に寄り添うことができる。それぞれの「生」の境

を透過して。




2021年4月28日水曜日

悲しくない



  前に『「淋しい」がわからない』(2018/1)という話を

書いたことがある。私は「淋しい」と思うことが無い。「独

りは穏やかでいい」。それぐらいの感覚で生きている。とこ

ろが数日前にあることに気が付いてしまった。私は「悲し

い」も分からないようなのだ。

 もちろん、弱虫なので辛くて泣くこともあるのだが、それ

は「辛い」「苦しい」ということであって、どうやら「悲し

い」ということではないようなのだ。なぜそう思うかという

と、「これまで自分のまわりで人が亡くなった時に、自分は 

“悲しい” と感じていなかったなぁ」と気付いたから。

 人が普通「悲しい」と感じる出来事は、私の感情を揺さぶ

らない。

 例えば、身近な人が死ぬ。

 「人は死ぬものだ」

 私はそう思っている。

 「残念だな」と思ったりする。「本人の気持ちはいか程だ

ろうか」などと思ったりもする。ガッカリすることもある。

けれど「悲しい」とは感じない。

 薄情な人間だと思わないでほしい。私は他人が辛い思いを

している様子や感激している姿などを見ると、共感してすぐ

に泣いてしまう人間なのだから(ミラーニューロンの活動が

過剰なのだろう)。


 私が「悲しい」が分からないのは、「淋しい」が分からな

いことと関係しているだろう。

 「悲しい」も「淋しい」も、自分の世界から必要な何かが

欠けていることに対する苦しみだと考えられるが、その「悲

しい」「淋しい」を感じないということには、二つの可能性

が考えられる。


 何かが欠けても「苦しく」ない。

 欠けることがないので「苦しく」ない。


 たぶん私は、「自分の世界から何かが欠けることがない」

のだと思われる。

 私はこの世界の「部外者」で、仮におじゃましている存在

なので、この世界には「自分のもの」が無い。自分のもので

はないので、この世界の何が欠けたところで “私の世界” は影

響を受けないということなのだろう。せいぜいのところ、こ

の世界での活動に差し障りが出て「辛い」ということにとど

まっているようだ。


 私は「悲しい」も「淋しい」も分からない。


 “私の世界” は等身大の私を出ない。

 私の身の内だけが “私の世界” なので、“私の世界” からは

何も欠けようがない。

 “私の世界” に在るのは “私” だけ。

 “私の世界” には、最初から最後まで “私” しかないので、

最初から最後まで満ち足りている。

 孤独である。真の孤独である。

 真の孤独は、完璧に満たされている。


 私が特別なのではない。

 あなたもそうなのだ。


 「悲しい」も「淋しい」も、私やあなたの、外に有る “お

話し” なのだ。




2021年4月25日日曜日

レコードを聴きながら愚痴を言ってみたり・・・



  今、ユーミンの『悲しいほどお天気』というレコードを聴

いている。1979年のアルバムで、ユーミンの中では一番

好きな作品だ。これまで何度聴いたか知れないが、それにし

てもレコードの音ってなんでこうも良いのだろう。やっぱり

デジタルより柔らかくて繊細に感じる。

 情報量も多そうだ。耳では聞こえないからとデジタルでは

カットしてしまう音がレコードには残されていて、そういう

部分をわたしたちは皮膚などでも聴いているらしいから、実

際に情報量は多いのだろう。情報をすべてデータにできるな

んて思ったら大間違いだ。


 世界は分けることができない。単にわたしたちの意識が分

けたつもりになれるだけ。

 思考は、物事を分けなければ働けないし、存在できない。

なので、なんでもかんでも分けてしまうという業を持ってい

る。それが人間の愚かさの根源でもあるだろう。

 まぁ、音楽をデジタルにしたことぐらいは愚かとは言えな

いが、勇み足ではあったのだろう。だから、最近レコードが

少しばかり復活してきている。


 世界は分けられない。

 分かれていない。

 「分けてしまうけれど、本当は分かれていないんだ・・」

 誰もがそのことに少しばかり意識を向けるようになれば、

人の世の中もちょっとはマシなものにもなるだろうに・・・

あっ!いま音が跳んだ!

 レコードに傷は無かったはずだから、たぶん汚れだろう。

カビでも生えたのかもしれない。あとで調べないと。・・・

レコードは面倒臭い。


 でも、どんなに効率よく便利になっても、この世から面倒

が減るわけでもない。面倒の処理にも効率とスピードが要求

されて、かえって心理的な負担は大きくなっているとも言え

そうだ。スマホにどうでもいい通知がやたらと入ってきた

り、いい迷惑だ。便利さはその背中に面倒を背負っている。

エントロピーの法則により、秩序は別のところにその分の無

秩序を生み出してしまうのだから。


 レコードのほこりのノイズに舌打ちをしたり、いちいち裏

返さなければならなかったりするのは、面倒でもなにやら自

分が生きていることの身の内のような感じがする。

 ・・・と書いたところで、タイムリーにもスマホの通知音

が鳴った・・・。

 天気のお知らせだった。

 お呼びじゃないよ。


 植木等は、「お呼びじゃない」と気付いたら「こりゃまた

失礼しました!」と詫びたけど、スマホとその向こうにいる

人間だとか AI だとかは失礼だとは思っていない。そう、

「便利」というものは失礼なものでもあるのだった。


 ということで、今から『イブニングスキャンダル(邦

題)』というボビー・コールドウェルのレコードを聴くこと

にする。こちらは1978年の作品。

 ではさようなら。ごきげんよう。



2021年4月14日水曜日

「待ち受け」状態に・・・・

 

 この度、家族からの要請によってスマホを持つことになっ

た。以前に書いたことがあるが、私はこれまでケータイとい

うものを持ったことがない。そんな私がスマホを持つなん

て・・・。富士山でも噴火するかもしれない。噴火したらご

めんなさい。でも私のせいではない。


 このご時世、何が起こるか分からないので連絡が取れるよ

うにしておいてほしいというのだが、何が起こるか分からな

いのはいつのご時世でも同じだ。さらに、何が起こるか分か

らないのであれば、ケータイが繋がらないということも起こ

り得る。さらに言えば、数時間連絡が付かないからといって

大した違いもあるまいと思う。すぐに連絡が付こうが、連絡

が付かなかろうが、「何か」が起こってしまった後の「連

絡」なのだから、どちらにしても事後処理で、後の祭りだ。

 家族には以前にこのブログに書いた『スキャンダル・クラ

ブ』(2018/4)という話でも読んでもらいたいところだが、

このブログを家族に見せるつもりは無い。ということで、代

わりに、いまこれを見ているあなたに読んでもらいたいと思

う。おもしろいと思うので。


 スマホを持つことにしたのは、持ってなくても不便だとは

思っていないが、有ればいろいろ役に立つのは分かっている

し、料金も安くなってきたことなので、頑なに拒むことでも

ないから、「そろそろいいか」という気になっただけのこ

と。けど、あまり使わないだろうな。これまで使う事情が無

いから持っていなかったわけで、それは変わらないからね。


 「スマホは必需品」という言葉をちょくちょく耳にするけ

ど、これまでそれを持たずに来た私は一体どういう人間なの

か? 「必需品」であるものを持たずにこれまで生きて来たの

だから、スマホは人間にとって「必需品」ではないだろう。

私がそれを証明している。「スマホは必需品」という人間

は、「スマホが必需品であるような生き方」に自分を追い込

んできたということであって、ただの依存症か、他人の動向

が気になる人か、何かの見当違いをしている人だろう。「必

需品」というのは最低限の衣食住の事であって、それ以外は

何であれオマケ、おなぐさみ、贅沢品の類いだということを

忘れると、人は道を誤る。縄文人なんて、それこそグリコの

オマケ程度しか物を持たなかっただろうけど、しあわせを感

じてたと思うよ。むしろ、現代人よりしあわせを感じること

が多かったかもしれない。


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 ということで数日が経ち、いま私はスマホを手にしてい

る。

 実際に持つとよく分かるのは、常に、意識の中に薄っすら

と「スマホに何かの通知が来ているかもしれない」という意

識があるということ。私の意識の一部が常に「待ち受け」状

態になっている。スマホが「待ち受け」でバッテリーを消費

するように、私の意識の一部のエネルギーが常に少し消費さ

れ続けている。社会のしがらみがまた一つ増えた。ああ、メ

ンドウだ。みんな、こんなメンドウなことよくやってるな

ぁ。


 先日、田中邦衛さんが亡くなったが、『北の国から』の五

郎さんのセリフでこういうのがあったな。


 「“知る権利” ってのがあるだろ? 俺のは、“な~んも知ら

ん権利” !」


 社会とむやみに繋がると、いらないエネルギーを使うこと

になる。けれど、まぁお付き合いもしなくちゃならない。こ

れも「ご縁」だということで、程々にたしなんで行こうと思

っている。


 ふと、『2001年宇宙の旅』を思い出した。「モノリス」の

形はスマホのようだと。

 人は知恵と道具を手にするごとに、知恵と道具を利用して

いるつもりで、知恵と道具に縛られてゆく・・・。そしてそ

の分だけ、しあわせから遠ざかるのだろう・・・。

 気を付けよう・・・。




2021年4月4日日曜日

雨の中のスイートピー



 正午ごろから雨が降り出した。この雨で桜の花は一気に散

るだろう。“花散らしの雨” だね。

 家の前では咲き始めたばかりのスイートピーが雨に濡れて

いるが、なんとなくスイートピーには雨が似合う気がする。

まぁ、私の好みということなんだろうが。


 スイートピーには、その可憐な姿には似つかわしくなく毒

が有る。アフリカなどの貧しい地域ではスイートピーの豆を

食べたりもするそうだが、食べ過ぎると足に障害が出るらし

い。属名のラティルスから「ラチリズム」という病名で呼ば

れる。

 スイートピーに限らず、わたしたちの身の回りには毒のあ

る植物はいっぱいある。こういったものの毒性は、昔の人が

食べて、病気になったり、死んだりした経験から知識として

蓄積されてきたので、それらの人々の犠牲がなければ、わた

したちは何ひとつとして安心して口にすることができない。

まったくご先祖様のおかげである。

 その一方、今のわたしたちは、そのようなことでは恩恵を

受けているが、人が仲良くするというようなことでは、ほと

んど何も学んできていない。何も知恵が残されなかったわけ

ではなく、その手のことを学ぶことを、わたしたちが苦手と

しているから・・・。本当に、人は人と仲良くするのが苦手

だ。何千年もかけてきたのに賢くなれない。アタマが悪いま

まで数千年か・・・、どうにもならないのかなぁ。


 人がよく話題にするのが、「からだに良い食べ物」「から

だに悪い食べ物」のことだけど、実は「からだに良い食べ

物」も「からだに悪い食べ物」も無い。すべては量の問題だ

から。猛毒でも、ごく微量なら影響はないし、それが薬とし

ての役目を果たすこともある。逆に、生きる為に不可欠な水

だって、飲み過ぎれば害になるくらいだ。最近は「水中毒」

なんて言葉も使われるようになったしね。

 それと同じで、仲良くすることも程度問題ということでは

あるまいか?

 仲良くし過ぎると、相手を侵害して仲が壊れてしまった

り。嫌うにしても、自分を守ろうとし過ぎることで、壁を作

ってしまい、敵対してしまう。

 敵でも味方でもなく、お互いに、アタマが悪く、出来損な

いで、それぞれが “「自分」という孤独” の内に生きている人

間だと意識していれば、程よい関りを持てるように思うのだ

けどね。


 スイートピーがその内に毒を持っていることを知っても、

「あれには毒が有る」と眉をしかめるにはあたらない。スイ

ートピーが毒を持っているのは、それがスイートピーとして

の在り方だというだけのことで、食おうとしなければなんで

もない。

 誰かが、その内にひとを恐れさせるものを持っていたとし

ても、やはり眉をしかめるにはあたらない。それがその人の

在り方なんだから、付き合えなければ距離を置けばいいだけ

のことだろう。刃物を持って襲いかかってきたりしたら、ま

ぁどうにかするしかないけど、どうにかできたら、「お互い

に出来損ないだからなぁ・・」ということで、それでおしま

いにすればいいと思う。(「あんた出来るのかよ」なんて言

わないでね)


 今日はこのまま雨が降り続くそうだが、眉をしかめるには

あたらない。雨ゆえに、スイートピーはまた違う美しさを見

せている。ちょっと傘をさして外へ出てみることにしよう。

 










2021年4月3日土曜日

「それ」で完璧



 ジャスミンが咲いたので香りを入れようと窓を開けたら、

ケラの声がしている。

 今の時代、ケラと言っても分かる人は少ないのかもしれな

い。コオロギなんかに近い種類の虫で、モグラのような前肢

を持ち、おもに土の中で生きている虫のことです。その虫

が、この季節になると夜中鳴く。「ジーーーーーー」とか

「ビーーーー」とかいう、まるでモーター音のような声で

(音というべきか)。この虫のことを知らない人ならば、

「何の音だろう?」と思うぐらいだろう。

 ケラの姿を見ることはまず無い。なにしろ土の中にいるの

が普通だから、畑や花壇を掘り返していてたまに出てくるこ

とがある程度だろう。なので、特に街に住む人が目にするこ

とはまず無いと思う。そういう見えない存在のような虫では

あるが、見えない所でケラは生き続けている。


 けらという ものにうまれて 泳ぎおり


 そんな句がある。

 誰の詠んだ句なのかは知らない。その人は、たまたま池か

水田に落ちたケラがもがいているのを見たのだろう。ケラは

たぶん泳げないだろうから、なんとか地面にもどろうとジタ

バタしている。その姿を見て、その人は生きているというこ

とへの感慨を深めたのだろう。

 これに似た句がある。前にもブログの中に書いた。


 神これを創り給えり 蟹歩む 〈 誓子 〉


  「それ」として生まれたから、「それ」を生きている。

「それ」以上でも「それ」以下でもない。生きているという

のは、言ってみればそれだけの話。ただ、人間だけは「そ

れ」だけでは済まない。アタマが余計なことをするので「そ

れ」だけなんて納得できない。で、自分が「それ」だけの存

在ではないと思いたがり、自分に何か値打ちを持たせようと

右往左往する  他人にまで求める。けれど、何を考え、何

をしたところで、「そういうことをしている」というだけの

話であって、結局「それ」だけの話。

 何をしても、それは “お話し” 。その “お話し” を楽しむ分

にはいい。けれどそれが “お話し” であることを忘れがちなの

が人間で、下手をすればその “お話し” に飲み込まれて殺し合

いまでする。


 人というものにうまれて 殺し合い


 「人」として生まれたから、「人」を生きている。それが

殺し合いだなんて、なんて馬鹿々々しいんだろうと思うが、

「それ」が「人」なんだからしょうがないね。ああ、アタマ

が悪い。

 少なくともケラは怒らないだろう。全身全霊、迷うことな

くケラとして生きている。「それ」以外に無い。「それ」だ

けのこと。「それ」だからこそ完璧。


 人も、右往左往して、泣いて笑って怒って怯えてというの

が、人としての「それ」なのだろうから、「それ」でいいの

だということだろう。バカボンのパパなのだ。


 私というものにうまれて ブログ書き


 「それ」でいいのだ。「それ」が何になるかなんて知った

こっちゃない。そういう風になっているだけのことなのだ。