2021年4月28日水曜日

悲しくない



  前に『「淋しい」がわからない』(2018/1)という話を

書いたことがある。私は「淋しい」と思うことが無い。「独

りは穏やかでいい」。それぐらいの感覚で生きている。とこ

ろが数日前にあることに気が付いてしまった。私は「悲し

い」も分からないようなのだ。

 もちろん、弱虫なので辛くて泣くこともあるのだが、それ

は「辛い」「苦しい」ということであって、どうやら「悲し

い」ということではないようなのだ。なぜそう思うかという

と、「これまで自分のまわりで人が亡くなった時に、自分は 

“悲しい” と感じていなかったなぁ」と気付いたから。

 人が普通「悲しい」と感じる出来事は、私の感情を揺さぶ

らない。

 例えば、身近な人が死ぬ。

 「人は死ぬものだ」

 私はそう思っている。

 「残念だな」と思ったりする。「本人の気持ちはいか程だ

ろうか」などと思ったりもする。ガッカリすることもある。

けれど「悲しい」とは感じない。

 薄情な人間だと思わないでほしい。私は他人が辛い思いを

している様子や感激している姿などを見ると、共感してすぐ

に泣いてしまう人間なのだから(ミラーニューロンの活動が

過剰なのだろう)。


 私が「悲しい」が分からないのは、「淋しい」が分からな

いことと関係しているだろう。

 「悲しい」も「淋しい」も、自分の世界から必要な何かが

欠けていることに対する苦しみだと考えられるが、その「悲

しい」「淋しい」を感じないということには、二つの可能性

が考えられる。


 何かが欠けても「苦しく」ない。

 欠けることがないので「苦しく」ない。


 たぶん私は、「自分の世界から何かが欠けることがない」

のだと思われる。

 私はこの世界の「部外者」で、仮におじゃましている存在

なので、この世界には「自分のもの」が無い。自分のもので

はないので、この世界の何が欠けたところで “私の世界” は影

響を受けないということなのだろう。せいぜいのところ、こ

の世界での活動に差し障りが出て「辛い」ということにとど

まっているようだ。


 私は「悲しい」も「淋しい」も分からない。


 “私の世界” は等身大の私を出ない。

 私の身の内だけが “私の世界” なので、“私の世界” からは

何も欠けようがない。

 “私の世界” に在るのは “私” だけ。

 “私の世界” には、最初から最後まで “私” しかないので、

最初から最後まで満ち足りている。

 孤独である。真の孤独である。

 真の孤独は、完璧に満たされている。


 私が特別なのではない。

 あなたもそうなのだ。


 「悲しい」も「淋しい」も、私やあなたの、外に有る “お

話し” なのだ。




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