2019年5月31日金曜日

「子供を守れ!」・・・まぁ、気持ちは分るけどね・・。



 また酷い事件が起きて、子供が殺されてしまった。川崎の

無差別殺人の事ですけどね。

 「どうやって子供を守ってゆけばいいか?」

 マスコミがお決まりのセリフを繰り返し、〈意識の高い善

の人〉を気取る。

 「じゃぁ、具体的で現実的なアイデアを出してみろよ。あ

んたらは話題を追いかけているだけだろうが」と私はつい毒

づいてしまう(中には本気で問題意識を持っている業界人も

いるだろうが・・・)。守りようがないでしょ。何をどうし

たいの?

 そういえば安倍総理も何かコメントしてたなあ。軽いのか

ウケ狙いかしらないけど、深く考えもせずにわけのわからな

い通達なんか出されたりしたら、実務屋さんがいらない苦労

をする羽目になるだろうに。
 

 少子化とはいえ、この国では一年に約百万人の子供が生ま

れる。小学生までの子供は千二百万人いる計算だ。「その千

二百万人の一人も事故や事件で死なせないぞ!」という発想

はマトモなのか?


 もちろんそのひとりひとり、ひとつひとつの家族にとっ

て、子供が死ぬことはとてつもなく重大な事です。当事者に

とってはあってはならないことなのは言うまでもない。けれ

ど、現実的に考えて、その千二百万人の内のある程度の人数

の子供たちが、事故や事件に巻き込まれて死んでしまう事は

避けられないでしょう。リスクゼロの世界は存在しないです

よ。

 逆に、リスクをゼロにしょうという社会の意識が極端な管

理主義を生み出して、その圧迫が人を窒息させ、かえって今

回の事件を起こしたような人間を生んでいる可能性は高いん

じゃないだろうかと思うんです。

 エントロピーの法則によって、秩序が生まれれば見えない

所で無秩序が生まれてしまうから、あるところでリスクが減

れば、別の所に別の形でリスクが増える。


 社会は管理が進み、より秩序化されるが、その分、個人の

精神に無秩序が溜め込まれてしまう。その無秩序がある人間

の中で限界を越えると、自殺や殺人という形で、無秩序が社

会の中に具体化してしまうのだろうと思う(イジメやパワハ

ラやクレーマーなんかもそうだろう)。鬱病やパニック障害

などの精神疾患がとても増えているのも、“社会のリスクを

ゼロにして、より効率的な暮らしを実現しよう” という管理

化の影響なんだろうと、私は思っている。


 社会が秩序を求めるのは仕方がないだろうけれど、そもそ

もこの世界は無目的で、自然法則以外は無秩序なのです。人

にとって理不尽で非情な事は起り続けるのです。


 どんなに「安心・安全」を望んでも、「不安」と「危険」

は裏口から入って来る・・。だったら、ある程度の理不尽さ

を受け入れることの方がいいのではないだろうか? だって

「不安」と「危険」は、裏口ではなく玄関から来てもらった

方が受け止めやすいだろうから。

 今回の事件や、この前の交通事故のようなものは、「災

害」の一種だと見ておいた方が良いだろうと思う(もちろん

法律上は別ですがね)。「管理がどうだこうだ」という種類

のものではないでしょう。


 巻き込まれた子供たちも大人も、本当に気の毒です。その

ひとりひとりにとっての事の重大さは、ひとりひとりそれぞ

れに絶対の重さです。それに対して、言えることは何もな

い・・・。

 けれど、人は誰もその一生の内で、数知れない様々な不運

に出会いながら生きて行かざるを得ない。時にはその不運が

その人の人生を終わらせるけれど、この世界の中では、それ

すら特別な事ではないのです。(江戸時代には、十五歳まで

生きられる子は半分ぐらいだったそうです)


 どんなに非情で理不尽に思えても、そもそもこの世界は自

分の都合に合わせて出来ているわけではない。

 冷酷だと思われるかもしれませんが、それが事実なのは誰

でも分かっているはずの事です。でも、アタマがそれを認め

たくない・・・。


 「他人事だから、そんなことが言える」なんて思わないで

下さいね。私だって死にたくなるような理不尽な事にいろい

ろと出会って来たのです。死にかけた事も何度かあったので

す。泣き泣き生きて来た日数の方が多いかもしれない。「そ

れを乗り越えて生きて来た・・・」のではなくて、たまたま

今も生きていられているだけのことなんです。だから、たま

たま今生きている人に言いたいんです。

 「今、自分が生きているのも、たまたま。今日死んじゃっ

た人も、たまたまですよ」と。


 理不尽な事が起ると、人はすぐに「何故だ!」と不安や怒

りに囚われるけれど、「何故」なんて言っても、理由なんか

無い。

 人が生きている事にも、死ぬ事にも理由は無い。

 非情な出来事に出合って、泣くのなら、泣くのです。泣く

しかなければ泣き続けるのです。

 この世界は、自分の都合に合わせて出来ているわけではな

い。でも、世界の都合  といっても無秩序ですが  に自

分が合わせることは出来る。

 どんなに理不尽に思えても、その出来事に寄り添いながら

生きて行くしかない・・・。


 「気に入らない事は無くそう!」

 ・・・なんて、まぁ、気持ちは分るけどね。

 無くならないんですよ。イヤな事も、イヤな奴も。

 不運はいくらでもやって来る(程度の差はあるけれど)。

生きて行くなら、その自分の人生に寄り添って、慈しんでゆ

くしかないでしょう。


 それぞれの人に起るそれぞれの理不尽な出来事は、個人の

事ですよ。その人が受け止めて、その人の中で消化(できれ

ば “昇華”)してゆくことですよ。まわりが、ましてやどこ

かの誰かや社会が口はばったい事を言うのは、ちょっと違う

と思うね・・・。語るに落ちるか・・・。


 「子供がいくら死んでもいい」なんて思ってるんじゃない

ですよ。私も普通に情の有る人間です。そんなことは無いほ

うが良いに決まってる。けれど、そんなことが起るのが、起

き続けるのがこの世界です。それどころか、子供を殺す人間

は見ず知らずの者ではなくて、その子の親だということの方

がはるかに多い・・・。親から子供を引き離すのが子供を守

る一番良い方法だなんて・・・、そんなことできますか?

 子供を殺すところまでいかなくても、子供の人格を否定し

て、自分のエゴの為に子供を利用する “毒親” はいくらでも

いる。そういう人間を管理して、子供を守るなんていって

も、具体的にどうするんですか? どうしようもないんじゃ

ないですか・・・?


 「子供を守れ!」なんて言って、管理することばかり考え

て、それで子供が生き易い世の中になるのか? 私は「違う

だろうな・・」と思う。

 管理することで犯罪や事故から子供を守れたとしても、そ

の管理社会の息苦しさ(生き苦しさ)は、子供を引きこもり

や不登校や自殺やイジメに追い込んで行っているのが、今の

日本でしょう。

 効率と秩序にがんじがらめにされて、子供たちももういっ

ぱいいっぱいなんだろう。だからちょっとしたストレスで心

が折れてしまう。キレてしまう・・。ホント、可哀相です

よ。


 「子供を守ろう!」という言葉の裏には、「子供に、(大

人の)思い通りに生きて欲しい」というエゴが隠されていた

りはしないか? 本当に子供のことを考えているのか?

 「子供の為」と言いながら、その実、心を取りこぼされた

子供たちが大人になって、自身を見失ったまま苦しんでいる

のではないか? 上手く生きている様に見える大人であって

も、心が無いからこそ、社会で上手くやっていけているので

はないのか?   「勝ち組」に成る為には、弱い者の痛み

に鈍感である必要がありますからね。


 この世界は人間の思い通りに行かない。

 自分の思い通りならない。

 それどころか、起きて欲しくない事が起きてしまう。死に

たくなくても、人は死ぬ時が来る。


 「子供を死なせないぞ!」

 「若者を死なせないぞ!」

 「働き盛りの人間を死なせないぞ!」

 「お年寄りを死なせないぞ!」


 いったい、いつ死ぬんだ?

 どんなに嫌でも、人は死ぬんですよ。それは「事実」です

よ。

 生きている限り、自分と、自分の大切な者の死は避けられ

ない。時にはあまりにもむごい形でそれは起きる・・・。で

も、それが「生きている」ということの一つの必然です。

 少なくとも、意識の上だけでも、それを自分の事として受

け入れる「覚悟」を持っていなければ、わたしたちは “何

か” を、誤る・・・。


 それを認める。それをある程度受け入れる。すべてを自分

の思い通りにしようとしない。コントロールし過ぎない。そ

うしなければ、「生きている」のではなく、ただ「死んでい

ない」だけの生になるんじゃないだろうか。


 改めて言っておきますが、私は「子供が死んでもどうでも

いい」「人が死んでもどうでもいい」と言っているんじゃな

いですよ。

 「事実」を、「避けられないこと」が在ることを認めない

ことが、かえって人を苦しめているだろうと思っているので

す。


 「事実」の非情さに打ちひしがれて、心は砕けて、慟哭の

中に閉じ込められて、もしかするとそのまま死んでしまうか

もしれない・・・。それもまた、「生きる」ということでし

ょう。それならそれでいいのだとも思う。
 

 「事実」を受け入れることを拒んで、自分の望み  望ん

でいたこと  に捕らわれすぎると、わたしたちは生き損ね

るだろうと思うのです。

 「しあわせ」は、自分の望み通りになることにあるのでは

なくて、出来事を静かに受け入れ、寄り添って行くことにあ

るのだと思うのです。泣きながら・・・、苦しみながらでも

ね・・・。


 世界は自分の為には動いてくれませんが、世界は自分の為

に用意されている。

 それが、自分の為だとは思い辛いですけどね・・・。




 

 

2019年5月27日月曜日

しあわせでいたくはないのだろうか?



 この世に生まれて来た限りは、しあわせでいたくはないの

だろうか?

 誰だってそうだろうとは思うのだけれど、意外とみんな、

そうではなさそうだ。だって、しあわせでいようとしている

ようには見えない人がほとんどだと思えるから。

 自分の身のまわりで起ることを見ても、ニュースなんかを

見ても、自分で自分を不幸にしているような事ばかり。それ

がそれぞれの必然だからしようがないのだけれど・・・。


 私は、「しあわせ」=「機嫌が良い事」と考えているので

すが、世の中を見ていると、誰もが、自ら進んで不機嫌にな

ろうとしているとしか思えないのです。「不機嫌」になるこ

とに喜びを感じているように見える。「喜び」というより

は、ある種の「快感」・「興奮」を求めて「不機嫌」を選択

している様です。


 人々が求めているのは「しあわせ」ではなくて、「刺激」

ですね。

 さまざまな “依存症” が存在することを考えても、人とい

うものは、「刺激」を欲し、「刺激」に陶酔し、「刺激」に

溺れ、「刺激」に囚われてゆくものです。

 「陶酔」を「しあわせ」だと思っているようですが、「陶

酔」は「陶酔」でしかありません。酔っぱらっているだけで

す。素面(しらふ)じゃない。


 仕事や金儲けに陶酔し、恋愛に陶酔し、スポーツやギャン

ブルや様々な娯楽に陶酔し、薬物に陶酔し、思想や宗教に陶

酔する・・・。みんな、なにがしかに陶酔して、それを「し

あわせ」だと思っている。実のところ、“脳内麻薬” で「ハ

イ」になってるだけでしょうが・・・。


 そういったものが本当に「しあわせ」なのなら、世の中は

もう少し平和で、人はもう少し落ち着いているだろうと思う

のですが、それでは済まない。実際、済んでいない。


 仕事・金儲け・恋愛・スポーツ・ギャンブル・薬物・思

想・宗教・・・。そういったものに人が喜びを覚えるのは確

かですが、それらに関わる事で、その喜び以上に苦しんでい

るのが正直なところでしょう。

 百の苦しみの後の一つの喜び(興奮)に対して、百の苦し

みの分の思い入れを注ぎ込んで、その喜びが「価値あるもの

だ」と信じ込む・・・。

 それはまるで、自ら洞窟にもぐり込んで彷徨った挙句に、

一すじの光を見つけて歓喜しているようなものですが、世の

中で「しあわせ」といわれることは、たいていそんなことで

す。

 逆パターンもありますね。洞窟の奥ばかりに目を向けて、

背後から射している光を見ずに「暗い・暗い・・」と嘆いて

いるような・・・。どちらにせよ、人は暗がりに入りたがり

ます。基本的に、わたしたちはマゾのようです。


 《しあわせになるのに理由は要らない》

 わたしたちは、放っておいたら「しあわせ」なのです。

 余計な事をするから  考えるから  苦しむのです。


 生きるということは・・・、この世界は・・・、光に包ま

れているようなものです。

 余計な事をするから本来は無いはずの “闇” を見てしま

う。

 自分で “闇” を設定して、その “闇” に目を向け、「暗

い、怖い」と苦しむ・・・。なんだって人間はこんなにも 

“ご苦労さん” な存在なのでしょう? (ホント、何とかして

欲しい。神様仏様・・・)

 なぜ、人は暗がりに入りたがるのでしょう?


 別に暗がりに入りたいのではありませんね。人は、人であ

る限り、暗がりに入ってしまわざるを得ません。

 人は、思考した瞬間、アタマを使った瞬間に “闇” に入っ

てしまいます。「思考」は “闇” です。仏教では〈無明〉と

言いますね。〈分別智〉とも言います。


 考える事はある視点を持つ事ですから、視野が狭くなりま

す。

 視野が狭くなれば、当然ながら目に入る光の量は減ります

から暗くなるのです。

 そうやって考えれば考えるほど、考えが固定するほど、世

界は暗くなってゆくのです。

 「思考」は “闇” です。


 それとは逆に、考えなければ “闇” は生まれません。「思

考」を用いずに世界を捉えれば “闇” は生まれません。〈無

分別智〉というものですね。

 その結果見える世界を〈光明〉と呼ぶわけです。“闇” が

消えるわけですね。


 なにやら胡散臭い話をしているようですが、わたしたちが

考えることを止めたとしても、世界が消えて無くなるわけで

はありませんよね。「ボーッ」としてたって、寝ていたっ

て、世界は存在している。

 だったら当然、「思考」を用いずに世界を捉える可能性は

あるわけです。そして、そこにこそ「しあわせ」があると私

は確信しているわけです。自分の経験上・・・。


 人は誰しも、しあわせでいたいはずです。

 そうでなければ、人として生まれて、意識というものを持

っている甲斐がありません。

 世の中で「しあわせ」とされるものが、たいしたものでは

なさそうなのは、もう明らかではありませんか? 

 歴史を振り返っても、現在の世界を見渡してみても、もう

「しあわせ」の “お里は知れている” ・・・。


 “お里” はエゴです。わたしたちのアタマです。

 区別し、比較するクセ(業)を持ってしまったアタマが、

「生と死」「善と悪」「幸・不幸」を生み出し、その為に不

安に苛まれて、苦しまぎれに「思考」の中に設定したもの

が、世の中の「しあわせ」です。それは、質の悪い代替品で

す(“品” という言葉は、本来「品(ぼん)」という仏教用

語で、【救われかたの度合い】を表わすものです)。


 みんな本当の〈しあわせ〉を知らないのです。

 しあわせでいたくはないのだろうか? もう、そろそろ。




 

2019年5月19日日曜日

怪しい道しるべ



 ブログを始めてから二年以上が経つ。実のところ、始める

前には少し悩んでいた。というのも、頼まれもしないのに物

を書く人間なんて、ロクな奴じゃないと思っているからで

す。

 ナルシストか、独善的な社会派のバカか、神のお告げを聴

いた困った人か・・・。いずれにせよ、独りよがりのメンド

ウな人間だという可能性が高い。にも関わらず、自分がそう

いうことをするのか? しばらく逡巡していた・・・。


 けれど、そもそも自分は立派な人間でもないのだし、いま

さら「バカ」があからさまになったとしても、もういいか。

溜まったものを吐き出してしまえ。そう決めたんです。「こ

れも縁だろう」と。


 そうして始めたブログだけれど、これまで続けてみて分か

ったのは、第一に自分の考えを整理したかったのだなという

ことです。

 単にあたまで考えているよりも、やはり文字にすると、自

分の考え・想いをしっかり摑まえることがことができます

ね。自分の思索が、ほとんど最終段階まで来たように思いま

す。もしかしたら自己暗示が強くなっただけかもしれません

が・・・。



 わたしたちは、それぞれ自分のあたまで考えるしかない。

 誰かが代わりに考えてくれはしない。

 代わりに考えてくれて、それを自分に伝えてくれたとして

も、伝わるのは言葉になることでしかない。

 自分で考えて考えて、行き詰って、それでも考えて、自分

の中にある「重要だと感じる “あるフィーリング” 」を摑ま

えようとし続けていると、ある時、言葉にはならないまま

に、その答えが出る。「ストン!」と身体が軽くなるよう

な・・・。


 “思考のストリップ” とでもいえるような、こんなブログ

を書き続けて来て、自分なりには「役に立ったな」と思うけ

れど、これを読む人にも役に立てばと思う。

 自分の役に立ったのだから、他の人の役にも立つだろう。

だって、同じ人間じゃないか。
 

 じゃぁ、どう「役に立つ」か?
 

 これはこれで、ひとつの道だろうから。


 生き辛さを抱え続けてるひとりの人間が、苦しみながら数

十年考え続け、問い続けてきたことの「要約」なり「要点」

なりが吐露されている。

 それは、山道でどこかの誰かが設置した道しるべのような

もので、それを見たからといってもう迷わないというわけで

はないけれど、その人は自分で歩いてみた上で、「こっちに

は行けるよ」と示してくれている。

 それが信用できるかどうか。自分の行きたい道かどうかを

判断するのは、結局、自分の感覚なり度量なりの問題ですけ

ね。


 私は長く山歩きを続けて来たけれど、そういう「どこかの

誰かが設置した道しるべ」というのは 99.9% 誠実なもので

すよ。“いたずら” には出会った事が無い。

 このブログも誠実に書かれているのは保証できます。た

だ、この人がおかしい人なら、真に受ければ、迷って、泥沼

やら谷底なんかに足を踏み入れるかもしれません。それを見

極めるのは、読む人の力量で、私の関知するところではな

い。


 はなはだ判り難い道しるべではあるでしょうが、矢印ぐら

いは判るはずです。

 ちょっと行ってみませんか?

 本人は、〔 しあわせ ⇒ 〕と書いているのですが・・・、

怪しいなぁ。





2019年5月13日月曜日

悪口が悪者を作る



 わたしたちは悪口を言う。ほとんど毎日言う。日に何回も

言う。わたしたちは悪口を言うのが大好きだ。

 「人は共通の敵を持つことで、強い一体感を持つ」と、社

会心理学か何かの研究にあるそうで、いろんな国や民族など

の集団が、ある敵を設定することで団結を図ろうとするのは

昔から広く行われている。


 わたしたちが悪口を言うのは、「悪い事」に対してではな

くて、ほとんど「悪い奴」に対してだと考えていい。けれど

も、わたしたちが悪口を言うのは、「悪い奴がいるから」と

いうわけではない。自分に都合が悪い事をする人間の悪口を

言うことが、「悪者」を作るのです。そもそも「悪者」がい

るわけじゃない。


 人は「悪者」を設定することの反作用を利用して、「自分

は悪くない」という立場に立ち、自分の正当性や安定を保と

うとする。

 「悪い事」という一過性のものよりも、「悪者」という具

体的なものの方が扱いやすいので、「悪者」の需要は高い。

そして「悪者」を設定する為には、“悪口を言う” という作

業が不可欠なので、わたしたちはしょっちゅう悪口を言わな

ければならないことになる。


 悪口を言えば言うほど、自分の安定性が高まるので、悪口

を言うのはとっても楽しい。みんな悪口を言うのが大好き。

悪口を言っている間は無条件に自分を肯定できる。悪口を言

っている間は・・・・。

 ところが悪口を言い終わった時には、その結果として「悪

者」が生まれている。あるいは、以前から存在していた「悪

者」の “悪さ” が増している。それは自分の世界の中に、固

定化された「悪」が増える事を意味する。ひと時の自己正当

化とその快感が、自分の世界に、自分が排除したいものを増

やしている事を多くの人は気付かない。


 悪口は、自分が否定したいものを否定する為に言われるも

のだけれど、否定すればするほど、それは自分の中で存在感

を増して行く。どんどんと “見過ごせない現実” になってゆ

く。かくて、その人の中で「悪者」は実体化し、「悪者」と

の闘いが始まる。どうも、ごくろうさん。



 本当は、「悪者」なんていません。

 自分が悪口を言うことで「悪者」を生み出しているだけの

ことです。
 

 もちろん、自分にとって都合の “悪い” 事はあります。あ

りますが、それは “事” です。その “事” という抽象的なも

のに対して悪口を言おうとすると、それはすぐに、その 

“事” に関わる人にスライドしてしまいます。実態の無

いものに思考を固定する事は大変なので・・・。


 “思考”・ “観念” は、それを保持する為の「依り代」を必

要とします。その “思考” が自身の安定の為であれば、その

「依り代」はより具体的である方が良い。

 自分の都合の悪い事を否定して自身の安定を得る為には、

わたしたちには「悪者」が必要なのです。わたしたちは自分

の都合に合わせて「悪者」を作るのです  わたしたちと言

っても、わたしたちのアタマのことですけどね。


 そのように「悪者」を作る一方で、わたしたちは「味方」

を作ります。一緒に悪口を言ってくれる者が自動的に「味

方」になるんですね。

 でも「味方」という存在は、「一緒に悪口を言う」ことで

生まれるものです。なにやら胡散臭くありませんか? 「味

方」というものは、「悪者」の鏡像のようなものです。それ

は、いつ反転して「悪者」になるかわかったものではありま

せん。「味方」も、所詮自分ではありません。

 (話がちょっと飛びますが、その「味方」と「自分」の信

頼度を上げる為に、わたしたちは「思想」や「宗教の教義」

や「偶像」や「法律」を利用したりします。そういったもの

は、すでに多くの人に肯定されているものなので、都合の良

い “免罪符” になります。もちろん自分に都合の良いように

解釈した上でですけど。《悪魔でも、その目的の為に聖書を

引用する事ができる》のですから)


 「悪者」も「味方」も、どちらも自分の世界の自由度を損

なう存在です。「味方」を「味方」として維持するには、い

ろいろと配慮が必要になるでしょ? 面倒くさい存在なんで

すよ、「味方」も。

 そもそも、わたしたちの “思考”(アタマ)自体が不自由

だから、「悪者」と「味方」なんて面倒なものを作り出して

しまうんですよ。本当の「悪者」は外にいるのではなくて、

わたしたちの中にいる「アタマ」ですよ。

 何度でも言いますけどね。「アタマ」が悪いんです。自分

の「アタマ」がね。




2019年5月12日日曜日

オオキンケイギクに代わって言わせてもらう












  


  






 

 初夏の温かい風の中でオオキンケイギクの花が揺れてい

る。

 うちのそばの空き地では毎年この花が咲き乱れ、通りがか

った人が写真を撮る姿もよく見かける。しかし、この花は十

数年程前に「特定外来種」に指定されて、販売も栽培も禁じ

られている。それまでは園芸店で売られていたけれど(「ウ

サギギク」なんて名前でも流通していたなぁ)。


 環境省曰く、「オオキンケイギクは、その繁殖力の強さか

ら、在来の植物を駆逐して生態系を攪乱する」。


 「フン!」と私は笑ってしまう。「在来の植物を駆逐して

生態系を攪乱・・・」しているのは人間じゃないか。

 まず人間が攪乱し、その状態を維持している土地で、オオ

キンケイギクは繁殖する。もしも人間がその土地の管理を辞

め、放ったらかしにすると、たぶん五~六年でススキやヨモ

ギやセイタカアワダチソウに取って代わられ、さらにそこに

アカメガシワやキリやエノキやシンジュなどの落葉樹が入り

込み、やがてそれらの木の陰になったススキなども消えて行

く。

 これらの中で、シンジュは外来種だけれど、数十年たてば

在来の照葉樹に駆逐されてしまう事だろう。日本の植生は強

靭なのである。


 オオキンケイギクは、「日本の生態系を攪乱する植物」で

はなくて、「“人間が日本の生態系を攪乱したこと” を表現

している植物」なのだ。自分たちの罪を、物言えぬ植物にな

すりつけてはいけない。


 植物の場合の「特定外来種」指定には、このような「人間

による生態系の攪乱」を無視したものが多い。大抵のもの

は、放っておいたら植生の遷移過程で消えてゆく。仮に残っ

たとしても、それは本当に問題なのだろうか?

 動物種の場合は、アライグマやブラックバスなど、人が攪

乱していない自然環境の中で在来種と競合して駆逐してしま

う可能性は強いだろう。でも、それを「問題」とするかどう

かは、個人の好みで恣意的なものだ。言わせてもらえば、そ

のようなことを言っている現代の私たち日本人は、外から

って来て縄文人を駆逐したり混血した、弥生人の末裔という

見方もあるのだから、身のことを棚に上げてよく言うよと

思う。


 日本の野山でタヌキよりアライグマが増えたとしても、

「部長の田中さんが移動になって、中村さんが代わりにやっ

て来た」というようなものです。

 「わたしは田中さんの方が良かった」なんていうのは、新

たにやって来た中村さんに失礼でしょう。中村さんは自分な

りに一所懸命やっている。なぜ中村さんじゃいけないのか?

たんに、なじみが無いというだけでしょう。


 人が手を加えた土地、特に都市部で見かける植物の九割は

外来種だと思われる。

 セイタカアワダチソウやヒガンバナなどはすっかり日本に

とけこんで、もはや日本の風景になっている。そういう現実

には触れないで、「外来種が在来種を・・・」などと言って

いるのを聞くと、「今さら何を言っているんだか・・」と思

う。

 かれら動植物は、連れて来られたその場所で、自身を生き

ているだけだ。恐ろしい伝染病でも引き起こすわけでもない

のに、それを「もともと居たんじゃないから」と排除しょう

とするのは、民族差別と同じ意識が隠れている気がするのだ

けれど、考え過ぎだろうか?


 私だってなじみの顔が見られなくなるのは淋しい。

 河原をオオキンケイギクがうめ尽くすよりは、カワラナデ

シコやカワラハハコなども咲いている方がいい。けれど、オ

オキンケイギクを排除したところで、日本人が本気でそれら

を戻す努力をしない限り、もうそれらの花は戻って来ない。

 見たところ、環境省にそのような努力をする気は見られな

いので、たんにオオキンケイギクを排除しょうとするのは、

ただの “よそ者イジメ” でしょう。


 人が消えれば、オオキンケイギクも消える。所詮は人の都

合の範囲内のこと。それなら、咲かせてあげればいいじゃな

いか。キレイだから、在来種のクズやヨモギが蔓延るよりも

楽しめるしね(クズさん、ヨモギさん、ゴメンナサイ)。


 外来種を悪者扱いして排除することを「善」としてもいい

けれど、少なくともその前に、日本人として、自分たちが駆

逐してしまった在来種に頭を下げるべきじゃないだろうか?

本当に悪いのはオオキンケイギクではないのだから。 

 都合のいいことを言って善人ぶるのはヤだね。


 (ちなみに、オオキンケイギクはどちらかといえば駆除

  しやすい方なので、問題にしておいて成果を挙げるに

  はもってこいですね。一方で、セイタカアワダチソウ

  は昔からオオキンケイギクより大繁殖しているのに

  「特定外来種」には指定されていない。駆除が難しい

  ので諦めてるんでしょう。駆除できないものを問題に

  しても、成果は上げられないしね。・・・イジワルを

  言い過ぎだろうか?)







2019年5月6日月曜日

HSP と云うのだそうだ



 最近、「HSP」という言葉を知った。

 “Highli Sensitive person” の略で、「敏感すぎる人」

ということらしい。

 ほんとうに最近になって一般社会に出て来た言葉のよう

で、まだほとんど認知されていないようだ。


 音や光、臭いや触覚など、さまざまな刺激に敏感で、人の

細かな表情や振る舞いなども敏感に感じ取って、ささいな変

化に気付いて対応できる一方、それゆえにストレスを溜めや

すく疲れてしまう人のことを指すらしい。


 その説明を見て、「ああ、自分の事だ」とすぐに思った。

 HSP かどうかを判断する目安として、四つの条件が挙げ

られていたが、全部自分にあてはまる。そのパーソナリティ

の例もいくつか挙げられていたけれど、心当たりのあること

ばかり。

 「自分は感受性が強すぎるようだ」とは以前から思ってい

たが、そんな自分のような人間のタイプを定義する言葉があ

るとは知らなかった。二十年程前にある研究者が提唱し始め

た事らしいが、そういう人が五人に一人ぐらいの割合でいる

そうだ。


 けれど、感受性の強い弱いにしろ、運動が得意かどうかに

しろ何にしろ、五人の人間を比較すれば、そこに五段階の強

弱が生まれるのは当然で、「低い・やや低い・標準・やや高

い・高い」ということになるしかない。

 「HSP は五人に一人」といっても、比較基準を細かくす

れば、「十人に一人」「五十人に一人」ということにもなる

だろう。いずれにせよ、このような “割合” というものは正

規分布の「ベルカーブ」を描くことになって、両方の極に当

たる人は、それ以外の人から理解されにくくて苦労する事に

なる。ということで、私も苦労して来た。

 苦労して来たおかげもあって、自分が敏感ゆえに不快に感

じる事を、まわりの人間が何も気にしていないことや、関わ

った人が “ザルのような感受性” の持ち主で、いらだってし

まう事なども、「持って生まれたものが違うのだから仕方が

ない」と考えられるようになった。《 誰にでも事情がある 

のだと。

 しかし、不運な事に、こちらは感受性が高いので《 誰に

でも事情がある 》ということに気付けるが、反対のタイプ

の人間はそんなこと感じはしない。そういう人間は「みんな

同じだろ!」と思っているので、こちらが一方的に配慮する

だけになってしまう。結局、疲れてしまうことになる。あ

あ・・・。


 ということで、「HSP」という言葉を生み出して、社会的

な理解を進めようというのは有り難いことだと思うのだけれ

ど、HSP 以外の人は HSP より他人を理解する為の感性レ

ベルが低いので、結局 HSP は、残念ながらあまり配慮して

もらえないだろうね。


 スズメを見てたって、ノラ猫を見てたって、金魚を見てた

って、それぞれの個体に感受性の差はあるし、それぞれにメ

リットとデメリットがある。

 どんな生き物にも敏感な個体と鈍感な個体が存在し、それ

は必要で必然でもあるのだろう。もしそこからさらに極端に

行き過ぎれば、そのような個体は不適応を起こして淘汰され

てしまう事になる。それは人間の社会性においても同じだろ

うね。


 反対のタイプからすれば、どちらからでも「よくあんなの

でやってられるなぁ」とか「頭に来るなぁ」とか思うだろう

けれど、それで生きていられるということは、その環境に生

きる人間として許容範囲内にあるということなのだ・・・。

とはいえ、さっき述べたように、気をつかうのは HSP の側

になるので、やっぱり割が悪いなぁ。


 こう書くと、鈍感な方が得なような感じがするけれど、こ

のブログで書いているような、「センシティブ」な世界の受

け止め方から生まれる喜びなどは、HSP でなければ得られ

にくいだろうから、私は HSP の側で良かったと思うね。

 「“思考” 以前に存在している世界とシンクロすることで

感じる、生きている事の幸福感」などというものは「LSP ( 

Low Sensitive person )」には、感じ様も無いだろうか

ら。(バカにしてるけど、どうせ LSP はこんなブログ観な

いから大丈夫)


 HSP はすぐに不安になったり、泣きたくなったり、自己

嫌悪したり、死にたくなったりするけれど、それを上手くや

り過ごせれば、敏感すぎるからこそのしあわせを得られる。

 世界の無限のディティールと、その背後の “透明な絶対

性” さえも感じ取ることができる。それは、人としての最高

の幸運ですよ。






2019年5月5日日曜日

納得できないのなら・・・


 『令和』となった。

 いま、「れいわ」と打ち込んでも、さすがに「令和」とは

変換されず、「例話」となった。もういちど「れいわ」と打

ち込むと・・・、変換候補の最後に「令和」が出て来た。一

応 PC は覚えたらしい。べつに納得したわけではないだろう

が・・・。


 この前ニュースで、「『天皇制反対』とか云うデモがあっ

て、右翼と揉めて逮捕者が出た」というのをやってたけど、

即位だとか改元だとか、天皇制自体が気に入らない、納得で

きないという人たちも居る。居て当然だろう。それぞれアタ

マの事情が違うのだから立場も違う、立場が違うからアタマ

の事情が違うと言うべきだろうか? どちらにせよ、何をど

う捉えるかはそれぞれの自由だ。いや、それぞれ何に縛られ

ているか次第なので仕方がない。気に入らない事は気に入ら

ないので仕方がない。納得する気が無い人を納得させる事は

できない。


 べつに私は「天皇制を支持する」とか言いたいわけではな

い。「今の日本に天皇制があることに、特に異論は無い」と

いう立場です。今の日本ではそういう風になっているし、デ

メリットよりはメリットの方が多いだろうとも思っているの

で、それで納得している。

 天皇制に限らず、それぞれの人にそれぞれ主義・主張があ

って、人を納得させようとしたり、納得できないと怒ったり

している。


 政治家がよく「納得のいく説明をしろ!」などと他の政治

家や官僚などに詰め寄る。

 裁判などでも、判決に「納得がいかない」と怒ったりして

る。

 日常の中でも、普通の人がいろいろなことで「納得できな

い」と口をとがらせている。


 そういう時に、「真実・事実を明らかにしろ」とか、「筋

の通る理由を言え」などと誰もが言うのですが、いざ「真

実・事実」を聞いても、「筋の通った説明」を聞いても、納

得しない人が多い。ああいった人たち  大抵の人というこ

とです  が言う「納得のいく説明」というのは、「わたし

の気が済む事を言え」ということでしかない。だったらはじ

めからそう言えばいいじゃないかと思う。


 政治家の疑惑や芸能人のスキャンダルで、リポーターや記

者が本人にマイクを向けて「真相はどうなんですか?」など

と訊く。もしも私がその当事者だったら、こう言うだろう。

 「私は本当の事を語る用意があるけれど、あなたはそれを

一切疑わず、それが真実だとして報道してくれますか? も

しそうなら、お話しましょう」と。


 マスコミや大衆は、真実を知りたいのではなくて、自分の

気にいることや、面白いことを聞きたいだけなので、それが

本当の事であっても、気に入らなければ納得なんてしない。

そんな相手に、むやみに本当のことを伝えようとしたって徒

労でしかない。政治家も芸能人も、マイクを向けられたらそ

う言やぁいいのにといつも思う。


 まぁ、そういうゴシップの話なんて本当でも嘘でもいいの

だけれど、そういったことにとどまらず、科学や学問や宗教

や思想の世界でも、人は本当のことより「自分の気に入るこ

と」に納得するので、タチが悪い。だから何千年経とうが世

の中は揉め続ける。


 みんな正直に言いなさい。「わたしの気に入るようにし

ろ!」と言いたいんでしょ?

 「わたしの気に入ることに異を唱えるな!」と言いたいん

でしょ?

 「真実」とか「事実」とか「筋の通る説明」とか言ってご

まかさないで、「わたしのエゴを満足させろ!」と言えばい

い。飾るんじゃない。そうやって、自分を飾ろうとごまかす

ことで、余計に揉め事が大きくなるんだから。


 と、私はそんなことをしょっちゅう思っている。


 『不都合な真実』というのがあったね。

 でも人にとって、「不都合な真実」というのは「誤り」で

しかない。自分にとって都合の良いことが「真実」です。

 「真実」などという言葉は無いほうがいいのかもしれない

ね。

 エゴの問題だけじゃなくて、人の認知機能というものも結

構いいかげんだし、人によって少しずつズレもある。同じも

のを見たり聞いたりしていても、同じように受け止めている

保証はない。

 “社会の中には、すべての人間に共通の「真実」など存在

しない” ということは、人にとって「不都合な真実」と言え

るかもしれない。


 なんにせよ、実際に社会的な利害関係が発生するような事

ではなく、心情的にとか思想的に「納得できない!」なんて

言って強情を張るのは、あまり上品とは言えないでしょう。

 「そういうことなら、そういうことにしておきましょう」

 というのが、上品でいいと思う。


 真実を知らされても、気に入らなければ人は納得しない。

そうなると、「どうしても納得できない」のだったら、ケン

カして相手をぶっ潰すしかない。だからそこらじゅうでケン

カが絶えない。

 《 機嫌の悪い奴はバカ 》ですから、事の真偽なんてこと

より、自分が機嫌良くいることを優先すべきだと思うんです

けどね。どうせみんな、無意識では「真偽なんてホントはど

うでもいい」と思っているんだから。


 なんか今日は話にしまりが無いなぁ(いつもそうかもしれ

ないけど)。

 うっかり時事ネタを扱うとこんなことになってしまう。納

得いかないけど、これが自分の現状なのでしようがないね。

 こういうもんだから、これでいいことにしておきます。