2020年10月27日火曜日

悲しみにシンクロする



 「アタマの良いところについて考えてみよう」などと、前

回の最後に思ったのだけど、 大阪で “飛び降り自殺” した

の子の巻き添えになって、女の子が死んでしまったというニ

ュースなどを聞くと、やはり「アタマは悪い」ということで

しかないか・・・。という気分になる。


 これまでにも書いてきたが、私は ”自殺” は肯定しない。

が、"自殺する人” は肯定する。けれど、自殺するにしても、

そのやり方と場所ぐらいは考えないと・・・。

 自殺する人は、他者から必要量の思いやりを得られない状

況に嵌まり込み、行き場を失ってしまって自ら命を絶つもの

だ。それなのに自殺するその人自身が、自分の人生に対する

思いやりを欠いてはいけないだろう。自分の人生が肯定でき

ないものになってしまったからといって、無神経に他の人を

害するような終わらせ方はいただけない。

 この男の子は、たぶん「殺人」か「過失致死」で、被疑者

死亡のまま書類送検されることになるだろう。彼は「自殺

者」ではなく「殺人者」になってしまった。そんな風に自分

で自分の死を汚してはいけなかったんだ。

 たとえ自殺しても、それがこの男の子の命を貶めることだ

とは私は考えないけど、このやり方はいけない。彼は自分を

冒涜する形で人生を終わらせることになったと、私は思って

しまう。まぁ、そうならざるを得なかったわけだけど・・。


 アタマが悪い。

 こんな死に方をしてしまう彼のアタマは悪い。

 こんな死に方へと追い込む、彼を取り巻く世の中のアタマ

も悪い。

 自殺や殺人を可能にする、人間という生物のアタマが悪

い。

 その悪いアタマの働きの中で、良いことは有るのか?それ

を改めて考えてみたが、有るとすれば、それは「共感」だろ

う。


 ニュースを見ていると、事件の現場に花を供えに来る人が

結構いる。

 全然関係のない人たちが、事件を知って花を供えに来る

(巻き添えになった女の子に対してだろうけど・・・)。な

ぜだか知らないけど、他人事ではない気持ちになって花を供

えに来る。

 なぜだか、突然人生を終わらせられてしまった女の子の身

になって、花を供える。

 突然我が子を失った親御さんや家族の身になってしまっ

て、なぜだか花を供えずにおれなくなる。なぜだか、その身

になってしまう。


 「共感」というのは、アタマの働きではないだろう。思考

ではなく情緒の働きだけど、それを引き出す足掛かりとなる

のは、思考だ。アタマの働きだ。


 ただ「共感」といっても色々ある。醜悪で愚劣な「共感」

もある。テログループを生みだすような、観念的でむき出し

エゴを増殖させてゆく「共感」のように。

 一方、喜びをふくらませるような「共感」も有るし、穏や

かさを広げるように働く「共感」も有る。でも、そういった

「共感」の中で、もっとも深く強く人をつなげるのは、悲し

みを分け持つ「共感」であり、他者の苦しみにシンクロして

しまう「共感」だろう。


 悲しみ、苦しみに共感すること。それは「慈悲」だ。

 仏は人の悲しみ苦しみを我がこととするがゆえに、人を救

おうとする。すべての人が悲しみ苦しんでいるので、すべて

の人を救おうとする。その想い・在り方が「慈悲」だ。

 他者の悲しみ苦しみに「共感」することは、人の心を「慈

悲」に満ちたものへといざなう。「思考」は、その「共感」

への道を拓く可能性を持っている。アタマを上手く誘導する

ことができれば、人は仏に近づく。仏であることに目覚める

ことができる。「慈悲」を持つ時、人は仏になっている。


 今回の事件で、巻き添えとなった女の子やそのご家族を気

の毒に思い、自分も悲しくなってしまう人は多いだろう。一

方で、巻き添えにした男の子に同情する人はほとんどいない

だろう。「死ぬのなら一人で死ね!」といった言葉を吐く人

も少なからずいるだろう。私も、この男の子に対しては、正

直、批判的になってしまう。人の情として、それは普通だろ

う。けれど、理想を言えば、そこも越えるべきなのだろう。


 どんなに自分が苦しいとはいえ、この男の子の、他の人の

ことをおもんばからない行動は、批判されても仕方がない。

けれども、他の人のことをおもんばからない人たちに取り巻

かれた結果が、この男の子の、他の人のことをおもんばから

ない行動を生んだ可能性は高いだろう。

 「他の人のことをおもんばからない」

 それは「共感」の欠如に他ならない。


 できることならば、どんなに非常識でアタマがおかしいと

思われても、この男の子の悲しみ苦しみも分け持つべきなの

だろう。仏なら、そうするだろうから。


 わたしたちのアタマは悪い。

 人はみな苦しい。

 人はみな悲しい。

 その苦しみ悲しみを覆い隠し、ごまかそうとすることが、

社会に混迷を生みだし、人を更なる苦しみ悲しみの中へと迷

いこませる。


 人と人が、お互いの苦しみ悲しみを分け持ち、共に泣くこ

とは、人を同じ地平に立たせる。そこで人は初めて平等にな

るのだろう。そして、人はそこで悲しみの底ににある、本当

の安らぎを垣間見ることだろう。


 そんなふうに思ってはみても、私の気持ちは、巻き添えに

なった女の子の方に寄ってゆく。いまはそれでいい。そうだ

からそうなのだ。それでいい。しばらくの間、心を痛めるの

みなのだ・・・。




2020年10月25日日曜日

やっぱり、アタマが悪かった。

 

 さっき、一週間ほど前に録画していたNHKの『ヒューマ

ニエンス』という番組を観ていた。テーマは「腸」について

で、腸には大きな神経ネットワークが有り、それ独自でいわ

ば「ものを考え」ていて、人間の行動のかなりの部分を決定

付けているという話だった。

 そして、「脳」は、生物のからだが複雑化して行く過程

で、「腸」とは違う役割を担うために出来てきた二次的な神

経ネットワークの中枢で、人間にあってはその二次的な

「脳」が「腸」の生命維持の為の働きを無視して、かえって

人の生存を危うくしているというところまで話が及んだ。

 番組中では、「脳」を、「腸」という親から生まれた “ド

ラ息子” と表現していたのだが、「アタマが悪さをする」と

言っているこのブログの書き手には、「我が意を得たり」と

いう番組だった。


 番組のMCは織田裕二なのだが、このテーマを扱うには適

任だろう。なぜなら、彼は『踊る大走査線 ザ・ムービー』の

中で、この名台詞を吐く、「事件は会議室で起きてんじゃな

い!現場で起きてんだ!」。


 「脳」(アタマ)という会議室が、「腸」(身体・現実世

界)という現場の実情を無視して引っ掻き回す。これほどみ

ごとなアナロジーもない。というより、人間の進化の当然の

帰結と言うべきだろうか。


 進化が、人間に大脳新皮質という、生物の本能からはみ出

してしまうものを与えてしまった結果、人間は自身の身体か

らも現実世界からも浮いてしまって、なんとも面倒で不毛な

世界を彷徨うことになってしまった。その世界を日本語では

「浮世」という  「憂き世」とも言ったりする。“備えあれ

ば憂い無し” などと言うが、私に言わせれば “アタマ無ければ

憂いなし” というところだ。


 「アタマが悪さをすることを、〈アタマが悪い〉という」

という私の主張が、生物学的にも生理学的にも根拠を得て、

まことに嬉しい限りだね。


 ホントにね。もっともっと身体(自然)の言うことに耳を

傾けなければいけないと思うよ。

 この社会が今後どうなるかは知らないけれど、少なくとも

個人々々のレベルでしあわせでいたいのなら、身体ではなく 

“社会の端末” に堕してしまったアタマの言う事はあまり真に

受けない方がいい。

 とはいえ、わたしたちは「腸」の言う事が分からない。

「腸」は言葉を使わないからね。でも、「腸」の感じさせる

ことは分かる。それと共に、わたしたちを取り巻く「自然」

の感じさせることもかなり分かるはずなんだ。分かっている

はずなんだ。ただ、アタマがそれを邪魔してるんだね。


 生物というものは、その誕生から、栄養を取り込み、生存

し、繁殖するということを目的  さだめと言うべきか  

にして来た。その為に最初に必要とされるのは、当然、消化

器官であり、それが独自の制御システムを持ったのも当然

で、「脳」なんぞは、後発の器官を制御する為に、「腸」の

制御システムを流用してずっと後に作られたものだというの

は、まったく筋の通った話だと思う。


 アタマは悪い。本当にアタマが悪い・・・。けれど、アタ

マは悪いだけなのだろうか?

 それでは救いが無い。なので、アタマの良いところについ

て考えてみようと思うけど、長くなるので、次回へ続く。



  

2020年10月18日日曜日

予言しちゃおう

 

 今日はチェット・ベイカーを聴きながらこれを書き始め

た。聴いているのは1965年の『Baby Breeze』というア

ルバムのCD。こういう50年以上も前の音楽が、CDとな

って売られていたり、ネットで聴けたりする。

 レコードの発明以来、いったいどれだけの曲が作られて世

に出たのか?アイデアは絞り出せるだけ絞り出され、取り込

めるものは限界まで取り込んで、1990年頃には、世界の

音楽に新しいものは生まれなくなった。

 その後も音楽は作られ続け、一応の発展は見せながらここ

まできたけれど、膨大な量の音楽(楽曲)の蓄積があり、も

うさすがに終わりが来ているんじゃないか?


 生活に密着した音楽や儀式のための音楽ではない、エンタ

ーテインメントととしての音楽は100年以上も成長を続けた

が、もう行き詰まってしまったというのが本当だろう。どん

なことでも、成長・発展の限界がある。必ず行き詰まる時が

来る。音楽の創造は行き詰まったのだ。すべての音楽がクラ

ッシックになったと考えていい。これから先は、表現者の個

性を楽しむというかたちの音楽しか提供されないだろう。


 人というものは、もう数千年も常に新しい文化を生みだし

続けて来た、けれど、ここへ来て、音楽に起きているような

事が文化のあらゆる面に起きている。芸術にもスポーツにも

映画や演劇にもゲームにも。

 変化のスピードが急激に圧縮され、すべてが行き詰まって

いる。人のこれまでの文化の形が終わろうとしているとしか

私には思えない。

 文化が飽和し、世界のいたるところで、文化に対する倦怠

と脱力感がピークに達し、大きな揺れ戻しのような現象が起

こるのは近いだろう。おそらく5年以内には、その兆しが顕著

になるだろうと私は思う。予言だね。


 ではいったい何が起こるのか?

 まぁ、分かんないんだけど、揺れ戻しだろうから、あらゆ

ることがシンプルでミニマルな方へ向かうんじゃないかなと

いう気がする。ただし、それは私の希望がかなり入った予想

だね。

 経済の上にのったものや、テクノロジーに支えられたもの

ではなく、個人や小さな集団の素朴なクリエイティビティの

発露としての “遊び” に戻って行くのではないか?


 私の子供時代。昭和の中頃は、舗装された道にはロウ石

(何かわからなかったら調べてね)やチョークで絵を描き。

土の地面には棒切れやアイスキャンデーの棒で絵を描いた。

そこには、古代の人々が洞窟の岩壁に簡単な絵を描いたり手

形を残したことと、大きな隔たりは無い。自然で素直な、人

の「創造する喜び」の表れだ。

 自分の身の丈の、何かの手段の為の表現行為ではない、シ

ンプルな “遊び” に近付こうとする人が増えてくるのだろう。

やはり、私の希望に過ぎないかもしれないけどね。


 いずれにせよ、この文化は、もうどん詰まりだよ。


 と、ここで気が付いたが、聴いていたチェットベイカーの

アルバムは『Baby Breeze』だった。「赤ちゃんのそよ

風」。

 素直に、自然に、単純に喜びを求める方がしあわせだろう

よ。赤ちゃんのようにね。




2020年10月17日土曜日

レコードが生き残る理由



 最近知ったニュース。アメリカでは三十年ぶりにレコード

の売り上げがCDを上回ったという。詳しい数字は知らない

が、そんなにレコードが作られているはずもないので、CD

が極端に売れなくなったのだろう。ほとんどの人が音楽配信

で音楽を楽しむようになったせいだろうが、それにしてもレ

コードに抜かれるなんて・・・。


 結局のところ、CDは記録媒体でしかなかったということ

が露呈したという事なんだろう。どうせデジタル情報なんだ

から、“ブツ” はいらないということなんだろうな。哀れなC

D。これまでありがとう。ご苦労様でした。


 と、CDの労をねぎらったところで(日本人だなぁ)話は

レコードへ。

 ここへ来てレコードがしぶとく生き残り、さらには少し勢

いを盛り返しているのは何故か?

 今回のニュースを知って改めて考えて気付いたが、CDは

記録媒体で、単なる情報の器でしかないのに対して、レコー

ドは単なる記録媒体ではなく、楽器の延長線上に位置してい

るんだね。

 極端な話、縫い針でレコードの溝を引っ掻けば音が鳴る

(縫い針を手で持って引っ掻いても音は出ないよ。デジタル

世代の方の為に申し添えておきます)それは、バイオリン

絃を弓で擦れば音が鳴るのと変わらない。いまさら言うほ

ではないがレコードが持っているのは、数学的な情報では

く、音の振動の具体的な記録であり、単なる記録の器では

く、記録そのものなのだ。 いわば、音楽がレコードという

体として固定されている。その具体性が人に訴えるのでは

かろうか?


 大袈裟だね。そんなたいそうな話でもない。ただ、ここへ

来てレコードが注目されているということには興味がある。

なぜいまレコードなのか?

 「具体性」というのがキーワードのように思う。社会が、

あまりにも具体性を消し過ぎたのだろう。その揺れ戻しなり

反発の表れではないだろうか。


 誰も彼もが一日の多くの時間、スマホに入り込んでいる。

当然ながらそこには具体性は無い。情報があるだけ。さらに

は、今年などは新型コロナのせいでテレワークなんてことも

やっている。PCの画面で人と会うが、それはやはり情報で

しかない。液晶の点滅であって、具体的にそこにあるのはP

Cの画面だが、わたしたちの脳はその画面の中に具体性を見

てしまう。錯覚だけどね。

 でも、その錯覚を、わたしたちは無意識には自覚してい

て、違和感なり不快感なりを感じているのではないだろう

か?「なんか変だなぁ。なんか気持ち悪いなぁ」と。

 その無意識の違和感が、今後、世の中を方向付けて行くの

かもしれない。


 キャッシュレスでお金も具体性を失い、PCR検査の結果

とか、健康診断の数値だとか、マイナンバーだとか、人自身

が情報化されて、人自身の具体性(身体性)も希薄になって

いることに、そろそろ耐えられなくなってきているのではな

いのかな?


 だいぶ前に『もうすぐ、スマホは飽きられるだろう』

(2018/7)と書いたけど、その「もうすぐ」が “もうすぐ” 

かもしれない。きっと、みんなもう飽きてきていると思う

よ。ただ、他に暇つぶしが無くなっちゃってるからスマホを

いじってるだけで、これからはゲームに使う人以外、スマホ

をいじる時間は、急減してゆくんじゃないのだろうか。電車

の中で本を読む人がまた増えてきたり。まぁ、生活に必要な

道具としてみんな使い続けるだろうけど。

 人はやっぱり具体性を求めるものだと思うけどね。「肌感

覚」をね。


 このブログもインターネット上の情報でしかないんだけ

ど、私が伝えようとしているのは、「情報」ではなく、私の

持っている「感覚」です。上手にやれば、情報を媒介にして

その「感覚」を伝えることができるはずだから。そのため

に、それなりに苦心しているんだけど、はてさて・・・。

 レコードのノイズ程度には何かが伝わっているのだろう

か?




2020年10月11日日曜日

「変」な理屈。



 毎日いろんなニュースが流される。ニュースの八割ぐらい

は気分のよろしくない事柄だけれど、それにしても、最近の

ニュースの内容はバカらし過ぎるような気がする。私の歳の

せいだろうか?

 国内でも海外でも、ニュースのほとんどが感じさせるの

は、上っ面の理屈と薄っぺらな欲求、それに「正義」と言う

名の観念の興奮。ニュースというものの内容は昔からそうい

うものだろうけれど、ここ最近はその内容にあまりにも血が

通っていないような気がしている。私がおかしくなったのか

もしれないが。


 「賛成」「反対」。

 「いいね!」「クソ!」。

 「勇気をもらった」「心が痛む」。

 ホントに自分で感じて、考えて言ってる?


 人それぞれに自身の立場を表明し、あるべき理想を示し、

その根拠となる理屈を述べる。

 それを見て私は思う。《理屈と膏薬はどこにでも付く》。


 わたしたちのアタマは、理屈を考え、理屈に沿って動かな

ければ機能不全を起こす。

 正しいことを導き出す為に理屈で考えているのではなく、

自分にとっての正しさを補完するために理屈を考える。

 なので、理屈を考えるのをやめると、自分にとっての正し

さがくずれてしまう。さらに言うと、自分自身が崩壊してし

まいかねない。それ故、人は理屈をこね続ける(いま私がし

ているように)。


 そのように、合理性を保てれば自分は安泰だと感じるのが

わたしたち人間一般だけれども、どのように理屈を重ねてい

っても、最後に「良し!」と感じるのは理屈ではない。最終

判断をするのは「気分」なのだ。


 わたしたちのアタマは、自分の中に生まれてくる “ある

「気分」” に不安を覚え、それを(アタマにとって)安定し

た状態に置こうとして理屈を考える。そうしてさまざまに理

屈をこねて、ようやく落ち着きどころが見えてきたら、「気

分」にお伺いを立てる。「これでいけるんじゃない?」と。

そしてひと時、ホッとした時間を過ごすことができる。

 しかし、「気分」に脅かされ、「気分」に慰められ、「気

分」と「気分」の間で「理屈」は何をしているんだろう? な

んだか落ち着かなくて、自分の座っている座布団をひっく

返したり向きをかえたりしているようなものではないかと

う。何か違和感を感じてごそごそ動くけれど、座るのは元

場所なんだ。自分は自分で、この身体からは逃れられない

らね。いったいそれで何が変わるというのだろう。本質は

も変わらず、ただゴタゴタが続き、広がっているだけなん

ゃないか?


 わたしたちのアタマは、日々小さなパニックを起こしてい

ると言えるのかもしれない。日に何度も小さな不安に駆られ

「何とかしなくちゃ」とああだこうだと伝家の宝刀「理屈」

を振り回す。ところが、その行為自体が、自分自身と他者に

新たな不安を生みだしてしまうという悪循環を作り出す。そ

れが、哀れなわたしたち人間の日常ではあるまいか?


 最近のニュースには「血が通っていない」と書いたけど、

肌感覚というようなものを無視しているのかマヒしているの

か、ニュースに登場する人間にもニュースを伝える人間にも

そういう印象がある。人の生き死を伝えるニュースの多くに

さえそう感じるのだが、マヒしているのは私の方なんだろう

か? その可能性も結構高いのかもしれないが、自分では分か

らない。


 私が変なのか、世の中が変なのか。

 世の中というところは「“多数” が正解」だから、変なのは

私の方だという事になるのだろう。なんとも哀れな私。

 けれど、理屈ばっかりこねていなくちゃならない世の中と

いうものは、心安らぐ所ではないのだから、そこで「変」な

方に分類されるであろう私は、心安らがない所から少し外れ

ていることになる。それは歓迎すべきことなんだろうと考え

ることにする。


 と、ここに至っても理屈をこねるほど、私も理屈から逃れ

られない。人間は「理屈」という病に侵されているんだ。




2020年10月5日月曜日

一人で泣いている



 前に書いた『生きる価値など無いあなたへ』
(2020/4)

いうのを読み返していて、自分で涙が出そうになった。バカ

だね。


 こういう話が自分のアタマを通して出て来たなんて信じら

れない。イイ話だ。読んでいてありがたかった。

 別に自画自賛しているわけではない。私の能力が書かせた

ものではないからだ。たまたまご縁があって、なりゆきで私

のアタマを通ってきたというだけだから。だから自分で書い

たにも関わらず、自分が慰められてしまう。やっぱりバカ

か。


 わたしたちは、「自分は価値のない人間だ」とか「価値の

低い人間だ」という思いに囚われると酷く苦しむ。人の苦し

みの多くの部分がそこに由来する。だから、「そもそも〈価

値〉というものが生きていることの本質なのではない」と言

ってもらえると、少し気が楽になる(ならない人もいる)。

なので、今は存在していない “過去の私” が発した言葉が、 

“今の私” にはありがたくて、涙が出そうになったのだ。バカ

だな。


 でも、「価値が無い」のだからバカで当然だろう。

 バカでも生かせてもらえてることだし、そこにはバカであ

ればこその喜びというものもある。この前「しあわせは考え

の外にある」なんてことも書いたし、ものが考えられないバ

カはしあわせだともいえる。なんだか “バカ” をバカにしてる

みたいだけど、そういうわけではない(断っておきますが、

「差別発言だ」と取らないで下さいね。そういう意識は無い

から)。

 ちょっと考えればわかるけれど、「自分はバカではない」

と思いたがることが、自分を苦しめ、他人を傷付けるのだ。

人というものがバカに甘んじる世の中の方が平和だろう。

(もう一度断っておきますが、差別意識はありません。ここ

で言う「バカ」とは社会的な意味合いにおいてのバカです)


 私の「生きる価値」など無い。

 そんなもの自分で持てない。

 「これが自分の生きる価値だ」などと思おうとすると、す

ぐに自分の中の何処からか横やりが入る(他人からも入った

りする)。私の「生きる価値」などない。悪あがきは辞め

て、そこに落ち着いてしまった方が良いのだろう。


 自分の「無価値さ」を、泣いて笑って、受け入れて・・。

それでもそこに残るものがある。そこに、なんとも微妙でほ

のかな温かさを感じる・・・。


 ちょっと泣こう・・・。

 バカだね・・・。



2020年10月4日日曜日

卑怯な社会。卑怯な人間。



  昨日は少し卑怯な事をした。卑怯と言っても、世の中には

人の風上にも置けない卑怯な事をして自分の利益を得ようと

する人間はいっぱいいるので、私のした卑怯な事など、卑怯

の内には入らないかもしれない。でも、何人かにちょっとし

た迷惑をかけるかもしれないし、不愉快にさせるかもしれな

い。でもやってしまったことは仕方がない。時間は戻せな

い。しばらくは自己嫌悪して過ごすしかない。アタマが悪

い。


 卑怯には二種類あるようだ。自分が危うくなる恐れから行

う保身の為の怯えた卑怯と、自分の欲望を満たすための卑し

い卑怯と。だから「卑」と「怯」を合わせて「卑怯」と書

く。漢字はよく出来ている。


 「自己嫌悪して過ごす」と書いたが、卑怯なまねをしても

自己嫌悪など全く感じない人間も沢山いるし、ニュースにな

るような酷い卑怯もよくある。けれど、普通「卑怯だ」と思

われていないけれども実は卑怯なことが、この社会の日常の

中にも沢山ある。


 たとえば、さまざまな手段を講じて節税して、なるべく税

金を払わないようにして自分は損しないようにしようとする

のは卑怯と言えるのではないか?そういうことをせずに素直

に税金を納めている人は沢山いるからね。一方で、法律上絶

対に納めなければならない以上の額の税金を納めさせておい

て、知らん顔してる国税庁も卑怯ではないか? 節税という事

が可能なのは、放っておいたら必要以上に税金を納めること

になるってことだからね。けれど、こういうことは「卑怯」

という文脈では語られない。同じような事がいっぱいあるけ

どね。


 保身の為の卑怯な行為は、社会的な部分での恐れから来る

わけだけど、そもそも個人を恐れさせる社会の決まりや慣

習・ムードとは何なのか? ちょっとした事で社会(に属する

人)から責められるという恐れを人に持たせている社会の在

り方は、卑怯ではないか? 恐怖感で人をコントロールしよう

としているのだからね。


 「うがった考えだ」?


 まぁそうかもしれない。でも、こういう見方も有りだと思

う。


 社会が恐れさせなければ、保身の為の卑怯は生まれないだ

ろう。でも、放っておいたらわがまま放題をする人間がい

る。だから恐れは必要だと思われるかもしれないが、その為

に法律がある。個人が恐れるのは法律だけでほぼ充分だ。そ

れ以外で個人を怯えさせるものは、結局のところ「自分に都

合の悪いことは許さない」という人間同士の監視と駆け引き

だろう。器の小さい、許容力のない、せこくて、卑怯な人間

がひしめいているので、卑怯が卑怯を生み、息の詰まる社会

になる。だから「生き(息)辛い」ということになる。


 許さない社会が、許さない人間を生み、許さない人間が増

えることで、許さない社会がさらに強固になってゆく・・。

そして人は卑怯になり、自分を嫌いになってゆく・・・。

 ああ、嫌だ。


 前にも書いたけど、(『「許さない」か・・。』2019/7)

「許さない」という言葉は無い方が良い。「許さない」とい

う感情も無い方が良い。「許さない」ことが、社会を醜悪な

ものにする。(強欲な人間が社会を引っ掻き回すことはひと

まず置いておいてね)



 と、持って回ったやり方で、私は自分に言い訳をしている

ようだ。ハハハ、卑怯だね。許して。



2020年10月3日土曜日

不幸は実在しない

 


 ふと、「『不幸になれない』(2020/3)という話を前に

書いたな~」と思って、あらためて考えてみるに、そもそも

不幸は実在していないのだから、不幸になれないのは当然な

のだな。

 不幸は実在しない。

 そもそも「不幸」とは何か?

 “「そんなのイヤだ!」と感じる状況” のことだと言ってい

いのだろう。 そう定義しよう。

 それならば、「そんなのイヤだ!」と思わなければ、どの

ような状況も「不幸」にはならないということになる。「不

幸」は状況が生み出すものではなくて、「そんなのイヤ

だ!」という判断が生み出すものだ。「不幸」を生みだすの

は自分自身のアタマだということだね。


 そりゃぁね。「幼い我が子が死んだ」とかいえば不幸にち

がいない。そういう時に「不幸だと思うな」なんて私は言わ

ない。そんなに薄情ではない。薄情ではないが、やっぱりそ

れでも「不幸」は実在しない。「幼い我が子が死んだ」ら、

「幼い我が子が死んだ」という状況があるだけで、それを不

幸な事だとするのはあくまでもアタマの働きであって、「不

幸な事実」というものではない。


 繰り返し言うけれど、私は薄情な人間ではない。小さな子

が痛ましい亡くなり方をしたりしたニュースを知って泣いた

りするんだから。けれど、「それはそれ」なのだ。

 人間だから人情があって当然だ。それでいい。でも、人情

とは別に、事実は事実として受け入れなければ、人は根本で

間違う。そこから目を背け、拒絶すれば、それこそ「不幸」

としか言えない事が増殖してゆく・・・。「不幸」は “その

こと” だけでいい。一時(いっとき)だけでいい。

 「事実」という “そのまま” を、価値判断無しでそのまま受

け入れるのが、その「事実」に対する最善のことであり、そ

の「事実」に対する畏敬の表明だろう。

 「幼い我が子が死んだ」という事を「不幸」だと言ってし

まえば、その子は「不幸な子」ということになってしまう。

それはその子に失礼ではないか? それがどれぐらいの長さで

あれ、どのような境遇であれ、それをそのまま受け入れるの

が人に対する敬意だろう。相手が誰であれ自分であれ、それ

は同じことだ。


 そもそも、出来事の価値判断をするのは自分のアタマだ

が、自分のアタマというショボくて当てにならないものに価

値判断を任せているから、不幸になったりする。そして、不

幸から逃れ、不幸になりたくないがゆえに自分がイヤなこと

を避けようとするのだが、その行為は自分の都合でしかない

ので、他者との間に問題を生む。そしてその問題自体が当然

イヤな事なので、不幸はさらに増殖することになる。

 自分で不幸を作り出し(不幸を認定するという方が適切だ

ろうか)、不幸から逃れようとしてさらなる不幸を生みだ

す・・・。人というものはとってもご苦労さんなのだ。


 人として生きている限りイヤな事はなくならない。けれ

ど、「不幸」は生み出すべきではない。だから、イヤな事は

イヤな事のままにとどめておくべきだろう。

 「ああ、ヤだなぁ・・・」

 そうやって受け入れているうちにイヤな事は過ぎ去って行

く。真夏の酷暑が過ぎて、秋の涼しさが来るように。


 イヤな事を無理してポジティブに捉えようとすると、自分

に対してウソをつくことになりかねない。そのウソは後々面

倒を引き起こすだろう。そんなところでがんばる必要はな

い。


 「ああ、ヤだなぁ・・・」と感じているということは、意

識の中にその「イヤさ」を意識している冷静な部分が存在し

ているということだ。その部分には「イヤさ」や、ましてや

「不幸」など存在していない。わたしたちの意識の根底、命

そのものにとって、「不幸」は実在しない。


 「ああ、ヤだなぁ・・・」

 「ああ、苦しいなぁ・・・」

 「嗚呼、悲しいなぁ・・・・・」

 「ちくしょう・・・、どうしたらいいんだ・・・」

 「ぁぁ・・・・。もう・・死のうかな・・・・・・・・」


 人だから、生きている限りそういうことがたびたびある。

 とてつもない重荷になることもある。

 そのまま押しつぶされてしまうことになるかもしれない。

 そうなったらそうなったで仕方がない。けれど、どうなっ

てもそれは「不幸」ではない。

 「不幸」は実在しない。

 誰一人不幸な人はいない。