2024年4月28日日曜日

合言葉は「勇気」



 カッコいいタイトルですが、この言葉は、昔の橋本治さん

の本のタイトル。で、橋本さんも昔のアメリカ映画のタイト

ルから頂いたそう。 

 なんとなくこのタイトルを思い出して、「勇気」について

書いてみようと思った次第。


 ゲーテが言った。

 「勇気を失くした? 生まれてこない方がよかっただろう」


 井上陽水は『娘がねじれる時』の中で歌う。

 「“勇気” なら持ちなさい 得になるから」


 “勇気” って良いものなんですかね?

 それ以前に “勇気” ってあるんですかね?


 極端な行動の結果が、望ましいものだった時には “勇気” と

呼ばれ、結果が悪ければ “無謀” とか “愚行” とか呼ばれるだ

けで(“蛮勇” なんてことも言うね)、“勇気” という意志の

ようなものがあるわけじゃないでしょう。ただ単に、その時

そうやっちゃったことについて、後付けで “勇気” だとか 

“無謀” だとかラベルを貼るだけのことでしょうね。

 “勇気” なんてものは無い。

 “勇敢な人” もいない。

 ただ「止むに止まれずそうしてしまうこと」や、「そうし

てしまう人」があるだけ。


 わが身を顧みずに人助けをする人などはカッコいいし、良

い事だと思う。そういうことを否定する気はない。私だって

そういう人でありたい。けれど、そういうのも “勇気” ではな

くて、「止むに止まれずそうしてしまう」という話。


 まぁ傾向として勇敢な人・臆病な人というのはあって、普

段からそういう評価をされていたりもするけれど、どちらが

良いとか悪いとかいうことでもない。やはり結果次第だか

ら。


 登山なんかでよく「引き返す勇気」とか言う。「リスクが

大きいと思ったら予定を変更して引き返せ」と。

 引き返すと、強行した場合にどうなっていたかは分からな

い。本当に臆病だっただけかもしれない。強行して上手くい

っても、たまたま運が良かっただけということもあるし、案

の定、遭難して死んでしまったということもよくある。どう

評価されるかはやはり後付けだし、その評価にも、評価する

者の好みが出るわけだから、勇敢か臆病かなんて本当はどう

でもいいのだろう。


 そういうわけで、「勇気」という言葉も人を評価し査定す

るためのものであって、評価される側ではなく、評価する側

が自分の気分を良くしたいために使われるものですね。

 「あいつは臆病だ!」とバカにして心理的な優位性を得

る。「あの人は勇気がある」と言う時は、「自分は “勇敢な

人の側” の人間なのだ」と無意識に自己肯定に利用する。

 評価される方はといえば、勇敢か臆病かなんて関係なく

て、自分はそうしてしまったというだけのこと。評価なんて

関係ない。


 「勇敢か?臆病か?」などと、人(自分も含めて)を評価

するのは、評価することで自分の心理的安定性を高めたいと

いう人間の臆病さの表れと捉えてもよさそうです。ならば人

を評価しないというのは勇気が有ることなのかもしれませ

ん。だって「評価しない」というのは無謀です。「謀(は

りごと)をしない」ということですからね。
 

 「(人を)評価しないという “勇気”」

 それは自分と他人を自由にする。


 ゲーテの言う「勇気」は、たぶん世の批評を物ともしない

ということでしょうし、陽水が「“勇気” なら持ちなさい」と

歌うのは、半分は皮肉でしょう。世間一般で使われるところ

「勇気」というのは口に出さない方が良い言葉ですね。


 哀言葉は「勇気」。とでもしておきましょうか。

 (こじつける勇気・・・ですね。ただの愚行ですか😅)




 


2024年4月14日日曜日

無・責任



 タイトルには「無」と「責任」の間に「・」が打ってあり

ますね。「無責任」という言葉とからめての表現なのでこう

いうタイトルにしましたけど、今回書きたいことは「無の責

任」ということです。あらゆる「責任」は自分に有るのでは

なくて、「無」の方に有るという、究極に「無責任」な考え

をご紹介しようということです。


 「“「責任」は「無」の方に有る” ? なんじゃそりゃぁ?」

そんな感じでしょうか? なので「無」についての説明が必要

ですね。


 老子は「無為自然」と言っていて、その「無」が説明した

いことなんですが、そのために先に親鸞の言葉に触れなけれ

ばなりません。

 親鸞は「自ずから、然(しか)らしむ」(自ずから、そう

あらしめられる)と言っています。なのでその言葉を手掛か

りにすると、「無為自然」というのは「無の為(な)すこと

によって、自ずからそうあらしめられる」という読み方がで

きます。


 親鸞は “「阿弥陀仏」の働きによって自ずからそうなる” と

言っているのですが、老子の言葉では、それ(阿弥陀仏)が

「無」という言葉で表現されているわけです。どちらにして

も、この世界そのものの働きによって、すべては自ずからそ

なると考えているわけです。


 老子は「無為自然」と言い、親鸞は「南無阿弥陀仏」と言

う。表現は違えど、どちらも言っていることは同じで、「オ

レの知ったこっちゃね~よ😊」と言っているわけです。

 完全に無責任で、すべては「無の責任」。だから「知った

こっちゃね~よ😊」と・・・。


 で、いまのような世の中では、こういうような無責任な態

度は断罪されてしまうし、自分自身でも罪悪感を持ちそうで

す。けれども老子や親鸞は罪悪感を持たない(親鸞は断罪は

されましたが)。なぜなら「責任」と同時に、自分の「(社

会的な)価値」を認めていないから。

 社会的な「責任」と「価値」はバーターですから、片方が

なくなればもう一方もなくなる。そうして老子と親鸞は、

「責任」と「価値」という束縛から解放されて自由になっ

た。


 すべては「無」に責任があるので、「無」の為すがままに

任せていれば良い。もとより任せるしかない。自分の出る幕

はないし、できることもない。すべては「無」が行う。この

自分の運・不運も、生かすも殺すも・・・。

 「無」の働き(無為)に身も心もあずけて、その流れのま

まに流されて行く気楽さは、実は誰でも知っている。生まれ

てくる前。母親のおなかの中で何も考えずにいた時に・・。

 アタマが悪い・・・。



 

2024年4月13日土曜日

良く生きるとは



 せっかく生きてるんだから良く生きたいと思うのは、誰に

とっても当然のことだろうし、そうあるべきだろう。はっき

りとそう意識しているかしていないかにかかわらず、誰もが

良く生きようとしているだろう。ただ、人それぞれに何が

「良く生きること」かが違うようなので、誰もが「自分は良

く生きているのだろうか?」という心もとなさを持っている

ようだ。人というのは比べるのが習い性だから。


 「良く生きる」とはどういうことか?

 別に何も難しいことはない。要するに「満足して生きる」

というだけのことだろう。それだけの話なのだけど、人それ

ぞれに満足する条件が違うので、他人を見て「あれ?自分の

やってるのは間違いなのかな?」などと思ってしまって、何

やら難しく考えてしまったりする。しかし他人は他人、気に

する必要はない。自分が納得し、満足していれば、何の問題

もない。

 とはいうものの、自分なりにでも満足することはなかなか

難しい・・・、そう思う人が大半だろう。でもそれは「満足

すること」について勘違いをしているだけだ。


 「勘違いをしているだけ・・」と表現したけれど、この勘

違いがとんでもない大問題を生み出しているので、「・・だ

け・・」などと言っている場合でもない。天国と地獄の分か

れ目ぐらいの違いが有る。


 先に「満足して生きる」と書いたけれど、こういう表現を

見聞きすると、普通は「満足を求めて生きる」と考えて、満

足するために、精神的、身体的、社会的に何かをしようとし

る。満足の為に生きることになるだろう。けれども私が言い

たいことは違う。「満足して生きる」とは「満足してから、

生きる」ということ。

 まず満足してしまった上で、さまざまな「生きて行くこ

と」をこなして行くのです。


 「まず満足するなんて、どうやって?」

 そう思われるかもしれない。けれど何も難しくはないので

す。単に、満足すればいいのです。いますぐ。このままで。


 満足するのは誰なのか? もちろん自分です。

 自分を満足させるのは誰なのか? それももちろん自分で

す。

 満足するのは自分の仕事。自分の裁量です。自分の自由に

できることです。けれど、誰もがそれを認識していない。満

足は、誰かや何かとの関りの中で得るものだと思っている。

それが大変な勘違いです。

 いま生きている・・・ならば満足できるはずなのです。


 生まれてくるときに、用事も目的も与えられていないので

す。単に生きてゆく為に生まれてくるわけです。ならば生き

ている時点で満足でいられるはずなのです。

 ところが生まれてすぐから、世の中から、比べる習性と目

的意識を刷り込まれてしまうので、生きていることを達成し

ている自分に目が向かなくなってしまう。


 世の中に教えられたような条件を気にすることなく、満足

してしまえば良いわけです。まず満足してしまえば、生きる

ことは余興のようなものです。

 満足した上でのことなら、いわゆる、良いことが起きたら

「おお!ラッキー😆」。悪いことがあっても、「ああ、こう

いうのもあるわけね😅」という感じで受け止められる。


 「満足」という😊 状態が基本なので、出来事によってはそ

こにちょっとした「快・不快」の揺らぎがあるだけ。

 そのようにして、日々を受け止めて行くなら、それこそが

「良く生きる」ということ。「機嫌良く生きるということ」

でしょう。