2017年7月21日金曜日

亡霊のまま、生きて死ぬ


 死から生へ、生から死へ。

 輪廻を信じる人は、どのくらい居るのでしょうか?

 私は、輪廻を信じていませんが、生物学的には、ある個体

が死ぬと、そのからだは分解されて、次の生物の一部になる

わけですから、それを輪廻と呼んでもいいのかなと思いま

す。

 しかし、ある個体の魂が、そのまま別の個体の魂になると

いうのは、経験したことも確かめたこともないので、私には

無関係な話です。輪廻というストーリーを自分の人生に取り

込むことで、何かしらの満足を得られる人は、それでいいと

思いますが、私には必要ないというだけです。


 ところが、人と話していると、ときどき輪廻の話を持ち出

されることがあります。女性の場合が多いですが、否定する

のも面倒ですし、当人はそれで良しとしているんですから、

わざわざ困らせる義理も無いので、たいていはやり過ごしま

す。ですが、どうしても、言いたいことを言わずにいるとフ

ラストレーションが溜まります。なので、今までに溜まった

フラストレーションを、ここで吐き出しておこうと思いま

す。



 輪廻の話をする人の中に、「子供は、自分で親を選んで生

まれて来る」と言う人がいるんですが、このタイプと関わる

のが一番溜まります

 「じゃあ、親の文句を言ったり、自分の人生について愚痴

を言ったり、拗ねたりする奴が、そこら中にいるのはどうい

う事なんだ? “自分で選んで生まれて” おいて、なんで不足

があるんだ?」と、すぐに言いたくなるのを、“グッ” と抑

えなければならないので、すごく溜まります。自分で選んだ

人生なら、「なんで?」なんて言葉が口から出る余地は無

いはずなんですが・・・。

 「いえ。選んだ親が良くなかったんです」

 という言い逃れも有りそうですが、「自分で選んだんだか

ら、文句を言うなよ」って話です。

 わたしたちは、「生まれて来ること」も「生きること」も

「死んで行くこと」も選べません。



 「選んで生まれ変わる」というのでは無く、「ただ、生ま

れ変わる」という輪廻を言う人もいます。ですが、前世を憶

えていないのであれば、本当に生まれ変わったのだとして

も、何の意味もありません。前世の人は、“以前どこかで生

きていた別の人” でしかありません。

 また、前世の記憶をそのまま持っているのであれば、そん

なの生まれ変わった事になりません。

 そんな輪廻を信じて、それが一体何なのか? 



 それから、これは余語 翠巌(よごす いがん)という曹洞

宗のお坊さんの言われていたことですが、「悪いことをする

と、虫とか牛とか “畜生” に生まれかわる。良いことをすれ

ば、人間に生まれ変わると言うが、牛に生まれた者は何をし

たら良いのだ? 牛にとっての “良いこと” とは一体何だ?」

 まったく、ごもっともです。たとえば、蚊に生まれたら人

の血を吸うわけですが、それは良いことでしょうか? 何を

すれば、再び人に生まれ変われるというのでしょう? たぶ

ん、蚊になってしまえば、それっきりになってしまうんじゃ

ないでしょうか。



 どこまで本当の話か知りませんが、時々「前世を憶えてい

る」と言う人が居るそうですね。

 物心付いたばかりなのに、聞いたこともない外国の言葉を

話す子供とか、遠く離れた面識の無い人の、家族しか知らな

いエピソードを語る子供とか。

 ああいうのが本当の話ならば、輪廻の可能性を示唆するの

かも知れませんが、「また人間に生まれ変わったところでそ

れでどうするの?」と思うだけで、今のところ私には無関係

です。



 私にとって〈輪廻〉とは、「“自分の「アタマ」が作り出

すストーリー” に惑わされて、世の中をあっちやこっちへと

彷徨い廻ること」です。

 仏教の中で語られる “輪廻の物語” は、その文学的なアナ

ロジーであり、時代によっては、道徳的な方便です。



 〈悟り〉であったり、〈涅槃〉や〈往生〉と言われる事

は、“自分の「アタマ」が作り出すストーリー” から自由に

なることで、“輪廻の循環(関連)” を断ち切ることです。

 「生まれ変わる」とは、自分の “世の中の見方” が、変わ

る事でしかありません。“見方” が変わるだけでは、いつま

でも「(この世界で)六道に輪廻する」だけです。

 「極楽浄土」に生まれたければ、「“見方” を越える」、

あるいは「“見方” を手放す」ことが、必要です。



 刑務所の中の世界に対して、“世間” のことを “娑婆” と言

います。そのように、わたしたちが生きている “世の

中”が、“娑婆” であり “六道” であり “現世” であり、その

中に “地獄” も有ります。



 「死んで生まれ変わる」というのは、「アタマ」が死ぬの

です。身体ではありません。「身体」が死んで、「アタマ」

が残っているなんて、まったく逆さまです。

 「身体が死んで、魂が生まれ変わること」は、ありませ

ん。

 あったとしても、「それで、どうした?」という程度のこ

とです。

 死ななくてはならないのは、“魂” などと呼んで後生大事

にしている「アタマ(エゴ)」であって、その時に初めて、

本当に〈魂〉とでも呼ぶべき、〈本来の自分〉が姿を現しま

す。「アタマ」という “でっち上げの魂” が、〈本来の自

分〉という本当の〈魂〉に生まれ変わります
 

 ちょっと仏教臭くなり過ぎました。

 いつになく、「断定的に言い過ぎたかな」とも思います。

 でも、これまでに書いてきた話を読んでもらえれば、理解

はしてもらえるだろうと思います。



 「人は、生まれ変わる」なんて考えは “妄想” です、“妄

想” と一緒になっている “魂”は、「妄想する魂(霊)」、

つまり “亡霊”です。  この世の亡霊のままでいるのは、悲し

い事だと思いますが・・・。



 (ゲーテの言葉を思い出しました。

  「死んで生きよ。この神秘にふれない限り

   いつでも人間は、ただ地上の悲しき客人過ぎない」

  これが、頭の中にあって、

  今日の話を書かせたようですね)





2017年7月19日水曜日

キノコの世界


 ゆうべ、NHKで「キノコの世界」という、科学ドキュメ

ンタリーを見ました。確か、BBCの制作だったと思います

が、この手の自然科学物を作らせたら、BBCの独壇場です

ね。ナショナル・ジオグラフィックやディスカバリーチャン

ネルも良い物を作りますが、映像の美しさ・見せ方では、や

はりBBCが一枚上でしょう。デビッド・アッテンボローさん

は、お元気なのでしょうか?


 番組の中でもその生態が詳しく描かれていましたが、キノ

コ(菌類)という生き物は、植物や動物のからだを、バラバ

ラに分解するのが主な “お仕事” です。

 植物は、太陽のエネルギーを使って炭酸ガスから有機物を

作り出す生命システムで、生物学では “生産者” と呼ばれま

すね。動物は、植物が作った有機物を取り込んで、物理的に

分解し、地球上に拡散するシステムです。“消費者” と呼ば

れますね。(消費する事より、有機物を拡散する事の方が重

要に思います。“拡散者” とした方が良いと思いますが)

 その、植物と動物のからだと、動物が物理的に分解した有

機物を、植物が再び利用できる形にまでバラバラに分解する

のが、菌類の仕事です。“分解者” と呼ばれますね。

 ここまでは、中学で習う事だと思います。「生物」の授業

が嫌いな人でなければ、ご存じの事です。


 さて、ここからが、昨日番組を見ていて思ったことなんで

すが、植物・動物・菌類ともに、それぞれの法則性・規則性

によってその形態を保っています。それぞれが、それぞれな

りの秩序を持っていて、その形態は “秩序の形” と言えま

す。

 太陽光線と炭酸ガスという “無秩序” を、植物がまとめ

て“秩序” を与え、動物はその形を変えて拡散する。

 そして、菌類はその “秩序” をもう一度 “無秩序” に戻す

役割を担っている。

 太古の昔から、植物・動物・菌類が協力して、太陽エネル

ギーを有機物という形に固定し、地球上に広く薄く分散させ

ている様ですね。

 菌類が分解しきれなかった(しきらなかった?のかも!)

大昔の有機物は、地下に格納されて、石炭・石油・天然ガス

として保管されてきた。

 地球環境の恒常性を保つ、見事なシステムですね。(人は

それを掘り出してしまいましたが。パンドラの箱を開けたの

でしょうか?)


 こういう事を考えると、いつも驚いてしまいますが、今回

特に思ったのが、“秩序” と “無秩序” の関係です。

 エントロピーの法則によって、“秩序” は “無秩序” になろ

うとするわけですが、“秩序” と “秩序” を組み合わせて、

“二次的な秩序”を作ることは出来ても、“秩序” から直接

の “秩序” を作ることは出来ない。必ず、一度 “無秩序” 

しなければ、違う “秩序” は作れないので、“秩序” が “無秩

序” になるのは、新たな “秩序” を作る為の準備のようにも

思えます。

 そして菌類は、“無秩序” を作る為の “秩序” なんだなと。


 要するに「壊さなければ、作れない」という単純な話なん

ですが、人間は「計画的な破壊」は当然容認しますが、「予

定外の破壊」は受け入れません。

 しかし、自然界には「破壊するための “秩序”」が存在す

る。「新たな秩序」を作る為の破壊が。

 家がシロアリに喰われて倒れるのは「予定外の破壊」です

が、自然からすれば、次の “秩序” への準備となる、秩序立

った行為です。

 自然は、ただ漫然と無秩序になって行くわけではない。


 “秩序” は「秩序立てて」“無秩序” を作り、“無秩序” か

らしか “秩序” は生まれない。「エントロピーは増大し続け

る」という法則は本当だろうか? 本当はこの世界の様態

を“秩序” と “無秩序” に分けてはいけないのではないだろう

か?

 「キノコの存在理由」といった事を考えていると、「“無

秩序” さえ、“秩序” の一部」と思えて来ます。

 “秩序”と “無秩序” を越えた、高次の〈秩序〉が在るよう

に思います。それを〈神〉と呼ぶつもりはありませんが、ヒ

ンドゥー教のシヴァ神(破壊と再生の神)をイメージしてし

まいます。


 破壊と再生。

 死と生。  

 それは、あくまで “個体” から見たものであって、世界の

中にあっては、さざ波の様なものでしかない。

 わたしたち人間は、破壊や死を怖れるけれど、それはエゴ

が世界から乖離したものであることを証明してしまっている

のでしょう。〈死〉は、個人にとっては「想定外」でしょう

が、〈世界〉にとっては、当たり前に「予定」に入っていま

す。

 「自分は、自分は・・・」と言い立てるその都度、わたし

たちは、人の世だけでなく〈世界〉そのものからも、はぐれ

て行くのでしょう、そう遠くない将来〈世界の秩序〉によっ

消えてゆくことを忘れて・・・。



 キノコが働く世界は、わたしたちにとっては「死後の世

界」です。

 あなたや私が死んだ時、浄土から舞い降りて来るのは、天

女ではなく、菌類の胞子かも知れませんよ。いや、生物学的

には、間違いなく胞子です。

 わたしたちは、ただ身をまかせるだけです。




2017年7月18日火曜日

ナット・キング・コールと「不寛容社会」


 今、ナット・キング・コールを聴きながら、PCに向かっ

ています。

 ナット・キング・コールは、言わずと知れた大スターです

が、若い人は知らないでしょうから、少し説明をしておきま

しょう。

 ナット・キング・コールは、アメリカのジャズシンガー

で、「スターダスト」「モナリザ」「L-O-V-E」などのヒッ

ト曲を持っています。日本のCMなどでも、いまだにその曲

が使われる大歌手で、誰でも一度はその歌声を耳にしたこと

があるでしょう。(これ以上の事は、“ググって” 下さい)

 コールの魅力を一言で言えば、その「包容力のある歌声」

です。「父性」と言ってもいいでしょう。優しく包み込むよ

うな、温かさにあふれた歌声は、多くの人を魅了します。

 私が今さら言うまでもなく、そんなことはある年代以上の

音楽ファンには当たり前の事です。



 昔は(1970年代まででしょうか)アメリカだけでなく、

日本にもヨーロッパにも、「包容力」や「父性」を感じさせ

る歌手がいました。歌手だけではなく、俳優にも政治家にも

実業家(もしかして “死語” でしょうか?)にもいました。

 男性に求めるものの一つとして、「包容力」を挙げる女性

も沢山いましたが、今では「包容力」とか「父性」といった

ものは、世の中全体から絶えて久しい様に思います。



 アメリカで「父性」を感じさせる歌手といえば、サミー・

ディビス・Jrだとか、フランク・シナトラ、パット・ブー

ン、ルイ・アームストロングとかが思い浮かびます。俳優で

は、クラーク・ゲーブル、ジョン・ウェイン、ハンフリー・

ボガードとか。大統領でも、レーガン氏までは「父性」を感

じさせます。

 日本の歌手では、水原 弘、三波 春夫、フランク永井。俳

優なら、笠 智衆、志村 喬、千秋 実、市川 右太衛門、片岡 

千恵蔵とか、いくらでもいます。総理大臣では、中曽根さん

までは皆「父性」だったと思います。他には、松下 幸之

助、本田 宗一郎、黒澤 明、円谷 英二といった名前が浮かび

ます。実際に、周りから「おやじ」と呼ばれていた人もいま

すしね。

 日本の歌手や俳優で、「父性」を感じさせていた最後は、

晩年の坂本 九さんと、渡 哲也さんぐらいでしょう。(渡さ

んは、まだ死んでいませんから、「最後の父性」ということ

になるのでしょう)裕次郎さんや、高倉 建さん、渥美 清さ

んとかは「父性」とは違うんですよね。やっぱり、「おや

じ」ではなく、「兄貴」ですよね。

 「父性」が絶えたということは、要するに「大人の男がい

なくなった」という事です。


 話を、ナット・キング・コールに戻しますが、コールは黒

人ですから、当時、いくら大スターであったとしても、酷い

差別から無縁ではなかったでしょう。沢山の “理不尽” や 

“矛盾” に取り巻かれて生きていたはずです。また、日本で

もアメリカでも、上に挙げた様な人々は、第二次大戦を知っ

ている人達です。差別とは無縁だったとしても、世の中の 

“理不尽” を呑み込まざるを得ない時代を生きた人達です。

 「生きるという事は、綺麗ごとだけでは済まない。けれど

その中で、たとえ自分は泥水を飲んでも、綺麗ごとを捨てな

いんだ。」

 そういう気概が、「父性」とか「包容力」ではないんだろ

うか? 「やせ我慢」と言ってもいいんでしょう。



 「清濁併せ呑む」という度量の深さは、何処かに追いやら

れてしまって、「小さな辻褄合わせ」と、キレイではあるけ

れど「キレイなだけの綺麗ごと」ばかりになった様な気がし

ます。


 「昔は良かった」などと言うつもりはないんです。

 上に挙げたスターや著名人が、みんな素晴しい人だったと

も思っていません。あの時代に有って、今の時代に失われた

ものの一つが、あの人たちの姿に表れていたという事です。

 そして私が気になるのは、なぜ「父性」は消えたのか?と

いう事です。

 少なくとも、日本、アメリカからは消えたと思われます

し、ヨーロッパの主要国も「父性」は消えたか、薄れている

のだろうと思います。他の、イスラム圏、東南アジア、南米

などは、よく分かりません。(そもそも、何かのデータに基

づいて言っているのではありませんよ。私のイメージだけで

す。ご注意下さい)



 で、何故「父性」は消えたか?

 女性の社会進出と関係があるだろうな、と思います。

 「男が社会を動かし、金を稼いで、女は家庭をマネジメン

トする」という形が、女性の社会進出によって壊れた。それ

によって、「父性」の必要性が下がっていったのだろうと。



 「冷蔵庫・洗濯機・炊飯器が、日本から父性を消した」

 というのが、私の結論です。アメリカなら「冷蔵庫・洗濯

機・掃除機」となるのでしょうか?



 「何のことか分からない?」



 これらの家電の登場によって、女性(主に主婦)が劇的に

暇になったのです。

 その結果、何が起きたか?

 暇を持て余した女性たちは、次の事にエネルギーを向け始

めたんです。


 *子供を構う

 *社会活動をする

 *趣味を持つ

 *働いて、金を稼ぐ


 この事を、目ざとい商売人たちが放っておくわけがありま

せん。

 “子供の教育・娯楽”・“様々な趣味”の為のマーケットを作

り、その為の金を稼ぎたい女性を取り込んで、働かせ、さら

なる市場拡大の駒に使う。



 「女性が社会進出した」のではなくて、「女性が社会に誘

い出された」と見る方がよいと、私は思ってるんです。

 『男女雇用機会均等法』なんて、「猫の手を借りるわけに

はいかないので、もっと女が迷い込んで来るような罠を張っ

てくれ」という、経済界からの要請で作られたものだと思っ

ています。『男女使用機会均等法』と名称を変えるべきでし

ょう。

 「(経済的に)豊かな生活」とか、「自己実現」とかいう

言葉が、ほとんどの人にとっては、マインドコントロールの

常套句として作用し、男性だけでは足りず、女性までもが経

済というエンドレスゲームに引っ張り出されてしまったので

す。



 また、暇を持て余した母親が、子供の教育に強い関心を持

つようになり、その結果として、昼間家に居ない父親より

も、母親が子供の教育の主導権を握り、受験戦争が始まった

のに違いない。子供の塾通いの増加と「冷蔵庫・洗濯機・炊

飯器」の普及率と性能アップは、見事な相関関係にあるだろ

うと思います。(自分で調べる気はありません。興味のある

方は、ぜひ確かめて下さい)



 女性が自分で金を稼ぐようになり、子供の教育の主導権を

握り、“父親の絶対性” とでもいうものが、薄らいでしまっ

た。その上、女性に教育された男の子には、“おんな目線” 

の刷り込みがされているので、大人になっても「父性」など

持ちようがありません。

 かくして、「冷蔵庫」と「洗濯機」と「炊飯器」によっ

て、「父性」は滅んだのでした。



 私は何も、「父性の復活」を望んでいるのではありませ

ん。その様に時代が動いたのですから、それでいいのでしょ

う。ただ「本当にそれでいいのかな」と、思うんです。


 「父性」にも、良い面はあったでしょうし、悪い面もあつ

たでしょう。

 “「男尊女卑」の温床 ” といった部分は、否定出来ないで

しょうし、“おとこ目線” だけで世の中の物事を判断して、

それで良しとする傾向が強かったのも、否めないでしょう。

 一方で、清濁併せ呑む、「包容力」という良さがあったと

思います。



 長い長い間、男が社会を作り、動かしてきました。

 その社会の中では、闘争・騙し合い・駆け引きなど、ロク

でもない事がそこら中で行われ、それが良くない事だと分か

っていても、「長い目で見た時には、見過ごした方が良い時

がある」という経験則が、男には受け継がれてきたのでしょ

う。それが、「包容力」となった。



 『包容力のある女性』というフレーズを聞いたことがあり

ますか? まず使わないですよね。

 「包容力」は、男に対する形容詞です。

 「父性」に属するものの中で、「包容力」は残しておいた

方が良かったのではないでしょうか?
 

 女性には失礼ですが、長く社会を運営してきた〈男〉に

は、その経験上、「時を待つ」とか「見逃す」とかいった事

が「後で良い結果を生むことがある」、という知恵があっ

た。ところが女性は、長く、家庭やその周りのコミュニティ

の中で生きて来た為に、社会的な知恵を持ち合わせていなか

った。つまり、社会に慣れていなかった。(バカだと言って

いるのではありませんよ。単なる、経験不足ということで

す)


 ところが、急激に社会との関わりが強くなったために、家

族や小さなコミュニティの論理を、そのまま、社会的判断や

社会人を育てる為の教育に使ってしまったのでしょう。

 昨今言われる、「不寛容社会」というものは、社会から

「父性」が失われた結果かも知れません。



 怖いので、言い訳をしておきますが、「女性は不寛容だ」

と言っているわけではありませんよ。「きちんと、し過ぎ

る」「結果を早く求めすぎる」といった傾向があるというこ

とです。それが、女性が長い間分担してきた役割には、必要

なことだったのでしょう。でも、その性向は、社会にあって

は齟齬を生むものでもあった、ということです。(不寛容の

言い訳に気を取られて、「女性は怖い」と言ってしまっ

たし、言い訳にもなっていない気がする・・・、あぁ、怖

い・・・


 ・・・まだ、怖いので、応援を頼みたいと思います。

 山本夏彦さんは、次のように言っています。


 「婦人のなかの最も若く最も未熟なものを、警察官にする

  とどうなるか。正義の権化になる。権化になって何が悪

  いというだろうが悪いのである。」

               (やぶから棒 新潮文庫)


 《 人間は、それぞれに “いびつ” である

   決まった型に押し込むと死んでしまうことがある 》



 女が社会に進出し、男が「主夫」となって家庭に入るとい

う世の中になって来ました。その変化があまりに早かったの

で、お互いに慣れていなくて、様々な問題を起こしているの

でしょう。少しスピードダウンして、それぞれがその役割を

学び、なじむまで、待つことをした方が良いのではないでし

ょうか? その為に「父性」の中で、それをを代表する「包

容力」が必要だろうと思うのです。「待つこと」「大目に見

ること」といった、“やせ我慢” が。


  ボギー ボギー あんたの時代は良かった

 男のやせ我慢 粋に見えたよ       阿久 悠

        「カサブランカ ダンディ」  沢田 研二

 *ボギー=ハンフリー・ボガード
 


さすが、阿久 悠さんは時代をしっかり見ていたんですね

(この曲は1979年リリースです)。世の中が、“性急” で

“狭量” になって、“遊び” や “おおらかさ” が失われていっ

ているのを、敏感にキャッチしていたのでしょう。

 (「聞き分けの無い女の頬を ひとつ ふたつ張り倒して」

という歌詞ですからね。今、これを書いても、どこのレコー

ド会社も取り上げないでしょう。発表したら、即、炎上でし

ょうからね。ホント、余裕が無い。「阿久 悠さん あんた

の時代は良かった」)


 繰り返しますが、女性をバカにしているのではありませ

ん。

 家庭や小さなコミュニティが分裂して社会に取り込まれ、

まだまだ、その過程は進行中なのでしょう。

 男も女も子供も年寄りも、「功を急ぐ」あまり、事を荒立

ててしまっているように思えます。

 わたしたちには、やはり「父性」も必要だと思います。

 その、良いところを、もう一度振り返ってみる必要が生ま

れているのでは? 男と女が、一緒に社会を動かして行く為

に。


 ボギーのやせ我慢の意味を、その表情から感じ取り、ナッ

ト・キング・コールの歌声から、人間の悲しさと、それ故の

温かさを受け取る。
 
 
 「おとーさん、くさーい!」とか、

 「おとうさんの下着は、別に洗うの!」とか、

 時代にそそのかされて、「父性」を軽く見て馬鹿にし過ぎ

たのは、失敗だったのだと思いますよ。


 ナット・キング・コールの歌声は、本当に温かく、優し

い。

 少し気持ちをゆるめて、コールの歌をみんなが聴けば、

人々の不寛容さも、ちょっとほぐれるのでは?


 Smile though your heart is aching

   Smile even thought it's breaking

   When there are clouds in the sky

   You'll get by

   ・・・・・・・・・・・・・・  「Smile」



2017年7月16日日曜日

フンコロガシにあこがれる?


 「砂漠」「ピラミッド」と続いたので、今日は “スカラ

ベ”(フンコロガシ) の話でもしましょう・・・、といって

も、エジプトのスカラベのことはよく知らないので、日本の

スカラベ  つまり、糞虫のことを。(ズルですね)


 以前、山で昼ごはんを食べていた時に、赤いセンチコガネ

が飛んできて、私の足にとまりました。

 センチコガネというのは、日本に居る糞虫の一種で、哺乳

類の糞を食べて育つ虫です。センチコガネという名の通り、

カブトムシやカナブンなどと同じ、コガネムシの仲間の甲虫

ですが、メタリックな光沢を持つ、たいへん綺麗な虫です。


 この時は、丁度おにぎりを食べていて、足の上にとまった

センチコガネを見ながら、手に取ろうか、止めとこうか、し

ばし考えていました。なにせ相手は糞虫です。どこかで、何

かの糞の上を、這い回ったり、頭を突っ込んだりしてきたは

ずですし、その後、手(脚)を洗って来たとも思えません。

そして、私の手にはおにぎりが・・・。


 しかし、センチコガネが向こうから訪ねて来てくれたので

す。例え、食事中であったとしても、この美しい虫を手に取

らずにはおれません。捕まえて、しばらく、しげしげと眺め

ました。

 糞虫とはいえ、彼らは身体を清潔にするように心掛けてい

るので、糞などはどこにもついていません。見た目は、きれ

いです・・・。(きっと、私の手の方が細菌だらけでしょ

う)

 でも、ほんとに綺麗な虫です。

 派手さはないですが、その深い金属光沢は見事です。アル

ミに、赤紫の焼き付け塗装を施したような輝き・・・。この

虫のからだは、糞から作られているのです。眺めていて、改

めて驚いてしまいます。「この世界は、なんと不思議なんだ

ろう・・・」。


 実のところ、わたしたちのからだも、間接的に糞を食べる

ことで作られています。

 植物が無ければ、わたしたちは食べ物にありつけないわけ

ですが、その植物が養分とするのは、他の生物の排泄物です

から、わたしたちは間接的に糞を食べているわけです。


 センチコガネの様な生き物を見ていると、どうしても「美

しさ」とか「汚さ」とか、「清潔」とか「不潔」といったこ

との意味を考えずにいられません。

 「感染症」というものは、人間だけに限らず、ほとんどの

生物にとって大きな問題です。「清潔さ」という感覚は、感

染症の危険を避ける為に必要で、「清潔さ」に気を配ること

を疎かには出来ません。が、しかし、わたしたち日本人の

「清潔」に対するこだわり方は・・・。ビョーキですね。


 日本人の「清潔」は、感染症を避ける目的を遥かに通り越

して、病的です。ここでも、“手段” が “目的" にすり替わっ

ています。歯ブラシの柄や髪をとかす櫛、小学生の使う下敷

きが “抗菌” であることに、どんな意味があるのでしょう?

 もはや、感染症を怖れているのではなく、“菌” や “ウイ

ルス” という「他者」を、とにかく排除したいだけです。


 「他者」を排除したがっているのは、わたしたちの “エ

ゴ” です。“エゴ” が自身を守る為に、たとえ目に見えない 

“菌” であっても、素性の知れないものなどと関わりを持つ

ことを嫌がっているわけです。


 「別にそれでいいじゃないか。素性の知れないものと関わ

らない方が、安全だ」


 確かに、そうではあるんですが、わたしたちはすぐに度を

越すのです。


 自分の身体の常在菌を殺してしまって、かえって病気にな

ったり、病気という「他者」を排除したいが為に、不必要な

治療をしたり、過剰に薬を飲んだりするのです。「治療」や

「薬」も本来は「他者」であることは忘れて。


 こういった時には、“エゴ” は身体の立場を無視していま

す。「身体のことなど、どうでもいい」といった状況です。


 「とにかく、気に入らない奴は排除する! その為には、

手段は選ばない!」


 “エゴ” にとっては、自分の身体さえ「他者」です。

 病気をしたり、老いぼれたり、トイレを我慢出来なかった

りする厄介者なのです。


 人は古来から、自分の身体を「厄介だな」と思ってきまし

たが、文明が進んで、さまざまな事をコントロール出来る様

になって、自分の身体の「厄介さ」をさらに強く感じだした

様です。

 アタマはバカですから、“エゴ” 優先の生き方が、身体を

苦しめることが分かれないのです。“身体” が滅んでしまえ

ば、アタマも道連れになるのに・・・。


 逆から見れば、《 “身体” にとって “エゴ” はとてつもな

「厄介者」です 》何が正しいかもよく知らないくせに、

「あれやこれや」「なんだかんだ」と、分かったように命令

を下して、“身体” を支配下に置こうとするのですから。

 生半可な軍事知識しか無い指揮官が、戦場で部下を動かし

たら・・・。

 わたしたちの “エゴ(アタマ)” は、常に指揮官気取りで 

“身体” に指図します。それだけにとどまらず、他人も世界

さえも支配したがります。


 「でも、ほんとのウイルスは、お前(エゴ)だよ」


 “身体” は、いつもそう言ってはいるのでしょう。大

抵、“エゴ” には聞こえませんが。


 「消えて無くなれ」とまでは言いませんが、“エゴ” には

もっともっとおとなしくしてもらう方が、人は健全に生きら

れるでしょうね。そうすれば、センチコガネの様に、わたし

たちも輝きを放つことが出来るのかも知れません。





2017年7月15日土曜日

ピラミッドを寝かせてみれば。 弱肉強食?


 「食物連鎖のピラミッド」って、見たこと有りますよね?

 ピラミッド型の図の頂点にライオンが居て、その下にシマ

ウマとかガゼルなんかが居て、さらに下に草原の草の絵が描

いてあったりするやつです。


 あれと、全く同じ形で、会社とか官僚とか軍隊とか、あら

ゆる組織がピラミッド型の図で表わされますが、「もういい

加減に辞めたら?」と、この頃思っています。

 組織を辞めるのでは無いですよ、「組織をピラミッド型で

考えるのを辞めたら?」ということなんです。
 

 ああいうピラミッド型の図を見ると、例えば、会社なら頂

点が社長で、「社長が一番偉い」という捉え方をしがちです

し、官僚なら事務次官がトップであると見ます。

 でも、こういう見方は事実に即していないと思うんです

よ。


 《 食物連鎖のピラミッドを立てて考えるから

   ヒエラルキーが生まれる

   これを寝かせて考えなくてはならない

   事実、食物連鎖は

   地球上にほぼ水平に広がっている 》


 実際の食物連鎖を考えると、立てたピラミッド型より、寝

かせた同心円で考えた方が、本質に合っているだろうと思い

ます。

 円の中心にライオンが居て、その周りにシマウマが・・、

といった感じで。(実際はもっともっと複雑ですが)


 なんでこんな話を始めたかというと、本当は生物の世界に

も、人間の社会や組織にも、“トップ” というものは存在し

ないからです。ですが、あのピラミッド型を見せられると、

頂点にいる者が強大な力を持っている様に思ってしまうんで

す。でも、本当は違います。

 確かに、全体を取りまとめたり、大きな影響をもたらす者

は居ます。しかし、それは役割分担であつて、「偉い」とか

「強い」とかいうものではないのです。

 ピラミッド型では “トップ” に位置づけられる者が、平面

の同心円では “要(かなめ)” といった位置づけになりま

す。それはそれで、大きな意味を持つポジションですが、

「上」ではないのです。


 自然界の食物連鎖も、人間の社会も、さまざまな関係性の

サークルが、無限に複雑に重なり合って地球上に広がつてい

ます。その中では、その世界の変化によって、しょっちゅ

う、あちらこちらに “空き” が出来ます。その時、その “空

き” の形(求められる性質)に合っていて、尚且つ最も近く

に居る者が、そこに収まることになりますが、それは「トッ

プに立つ」とか、「○○を従える」ということではなく、

「そういう役割だ」という事です。


 「弱肉強食」という言葉がありますね。

 あれは、「強い者が、弱い者の肉を食う」という事です

が、逆の見方だって出来るのです。

 ライオンは、シマウマが居なければ、食べる物が無くて死

んでしまいます。(他の草食動物とかは居ないことにして)

 シマウマは、ライオンが居なくても生きて行けます。(ほ

んとは、そう単純でもない様ですが)

 ライオンはシマウマに依存している訳ですが、シマウマは

ライオンに依存してはいません。

 どっちが、強いんですか?


 企業を考えてみましょう。

 現場の従業員が、ある程度の人数辞めたり、休んだりした

ら、仕事はたちまちストップしてしまいます。

 社長が、突然死んだり、病気で入院しても、仕事に根本的

な影響は出ません。

 どっちが、偉いんですか?


 もちろん、社長は必要です。そのポジションは大事です。

 でも、「上」に居るのではないのです。せいぜい、「中

心」に居るのです。


 わたしたちは、これまでに、あのピラミッド型の図をさん

ざん見せられてきて、“トップ” “ダウン” のイメージを深く

植え付けられてしまっています。「お殿様と平民」「総理大

臣と国民」「CEOとパートタイム」とか。(CEOって何?

日本にそんな言葉要るのかよ?カッコイイ気がするだけでし

ょ)

 でも、あの図はウソです。

 ウソと言って悪ければ、間違いです。
 

 わたしたち人間は、地べたで生きているので、俯瞰して物

事を見るのが苦手なのでしょう。だから、ついあんなピラミ

ッド型を立ててしまったのでしょう。


 ピラミッドは寝かしましょう。

 そして、それぞれは、それぞれの状況に応じた役割分担で

あって、「階層など無い」のだと知りましょう。


 岡林信康さんの、「山谷ブルース」という歌に(古いです

が・・)

 ひとは 山谷を 悪く言う

 だけど 俺たち居なくなりゃ 

 ビルも ビルも道路も出来ゃしねぇ

 世間恨んで なんになる

という一節が有りますが、当時も今も、この詞は「底辺の人

間が居て、世の中を支えている」といった捉え方をされるだ

ろうと思います。でも、「底辺に居る」のではないのです。

すべての人間が平面に広がっていて、それぞれの関係が集約

される点が、あちらこちらにあるということです。


 ピラミッド型で組織を捉えて、ヒエラルキーを保持するの

は、軍事組織だけでいいと思います。それ以外の組織では、

上位の者による、横暴や搾取を生むだけです。


 ピラミッドを寝かせても、実際の組織の形は変わりません

が、人々が平面的な関係として組織を捉える様になれば、物

の見方が、かなり良い方へ変わるように思うのです。



 話は変わりますが、「ジュラ紀・白亜紀には、恐竜が地上

を支配していた」とか、「現在は、人間が地球を支配してい

る」とかいう言い方が、テレビや本でもよくありますね。あ

れ、気に入らないんですよね。


 べつに、「恐竜が支配していた」わけでないし、「人間が

支配している」わけでもない。「ちょっと、目立ってる」だ

けでしょ。

 当時は、「恐竜が目立つ様な役割だった」。今は「人間が

目立つ役割をしている」だけです。

 「人間が支配している? 笑わせてくれるよ!」と、他の

生き物たちは思ってるんじゃないでしょうか。


 自分たちがどうしたら良いのかも分からずに、右往左往し

て、国や民族の間で騙し合ったり、いがみ合ったり、戦争し

たり。妄想してムダな事ばっかりに資源を浪費して、世界中

にゴミの山を築いている。

 「それで、地球を支配してるだって? 

  おまえらホント。アタマ悪いよ!」

 私が他の生き物なら、そう言います。


 人間は、他の生き物たちと上手に関係を作れず、地球の上

であちこち転げまわって、他のものを壊したり殺したりし

て、ジタバタ・ドタバタしているばっかり。

 もうそろそろ、どうにか出来ないもんでしょうか・・・。



 

2017年7月11日火曜日

ブラック企業という “砂漠”


 今日、近所の公園のケヤキに、キクラゲが生えているのを

見つけた。低い所なら採って帰るところなんだけど、残念な

がら4mぐらいの高さで、木も細くて登れないので諦めたん

ですが、ふと、このキクラゲがこのケヤキに辿り着くまでの

事を想像し、そこから考えが膨らんでいきました。



 街中の公園で、キクラゲを見つけることはあまり無いの

で、この近くに元になるキクラゲがあるのでは無さそうで

す。であれば、このキクラゲの胞子は少し離れた所から飛ん

で来て、このケヤキに辿り着いたのでしょう。

 このキクラゲに限ったことでは無く、キノコやカビなどの

あらゆる菌類の胞子は、数限りなく空気中を漂っています。

 その中で、キクラゲの胞子が、何年か前にこのケヤキに偶

然辿り着いたところ、枯れていて自分の生育条件に合った枝

だったので、成長を続け、りっぱなキノコになったのでしょ

う。つまり、自分に合った職場に巡り合ったのです。

 このケヤキの枝には、他にも沢山のキノコの胞子が辿り着

いた事でしょう。その中には、シイタケやシメジやツキヨタ

ケや、ヒラタケやマツタケも有ったかも知れませんが、その

中で最もこのケヤキに適していたのが、キクラゲだった。

 どんな生物も植物も、自分に合ったところでなければ、生

き続けられません。最低条件が整っていれば、そこで生き始

めはしますが、成長し続けられる条件が足りなくなれば、結

局死んでしまいます。

 枝先に並んでいるキクラゲを見上げて、「人間も一緒だな

ぁ」と思いました。


 気が付いたら世の中を漂っていて、辿り着いた所で生き始


めるのだけれど、そこが自分に最適の場所かどうかは分から

ない。最初は良くても、環境が激変してしまえば生きられな

い。

 人間は自分の意志で移動することが出来るので、少し状況

が違いますが、やはりそれも表面的なことに過ぎず、本質的

には同じ事でしょう。

 状況の変化によって、移動を余儀なくされたりするのを

“運” と言って差し支えないでしょうが、自ら動くのもやは

り “運” です。

 今までいた所から「移動しよう」と思うのは、自分の外側

の状況が変化したか、自分の内側の状況が変化したかのどち

らかですが、その状況の変化は自分の意志によるものではあ

りません。「移動しよう」という意識の変化を、“意識” に

よって生み出せるわけがありません。「『移動しよう』とい

う意識の変化を生み出そう」という意識を生み出す “意識” 

は、どこから来るのか・・? 無限遡求です。GAME OVER.


 人間も、自分の意志で移動するのではありません。わたし

たちも、あのキクラゲと変わりません。この世界を漂い、た

またま辿り着いた所に自分の仕事があれば、とにかくそこで

働き、暮らして行きます。

 今、「自分の仕事」と書きましたが、キクラゲがケヤキの

枯れ枝で生きることは、「仕事」です。

 彼は、「ケヤキの枯れ枝を分解する」という仕事に巡り合

い、自分の性質にピッタリだったその仕事を、まっとうしよ

うとしているのです。

 立派な子実体(キノコ)をいくつも作っているという事

が、この仕事が彼にピッタリだったという証明です。

 世界中を無数の胞子や細菌やウイルスが、またタンポポや

柳のように風に乗る植物の種が、さらには昆虫や鳥たちが自

分の仕事に巡り合うまで空を巡っています。もしも、自分の

仕事に巡り合わなければ、それぞれが ”個体の死" を迎えま

す。

「今回は、自分の仕事は無かったな。じゃぁ、さよなら!」

そんな感じでしょう。

 彼らの場合、その個体の性質は死ぬまで変わりませんが、

わたしたち人間は寿命が長く、身体だけでなく、頭の中身も

変化するので、その性質が変わります。その為、その性質の

変化に合わせて仕事も変えなければならなくなります。です

から、「今回は、自分の仕事は無かったな」で終らず、次の

場所へと移動しなければなりません。面倒ですね。


 キノコたちの場合、その仕事場の自分に適した分だけ働い

たら終りですが、人間は自分に適した分が無くなっても、そ

こに居続けようとすることがよくあります。

 仕事が無いという事は、環境が合っていないという事でも

ありますから、そこに居続ければ死んでしまいます。ところ

が、人間は ”学習” という事が出来ますから、環境に合わせ

て自分を変えようとします。それが適応能力の範囲内であれ

ば、万々歳で「成長した!」ということになるわけです。

 でもね、その「成長」は結局のところ、元々の自分の性質

の範囲に止まっているのです。自分の能力の範囲内とも言え

ます。「どんな事でも学習すれば出来る」わけではないです

よね。当たり前です。人それぞれ資質と、その発展させられ

る限界は決まっています(その限界がどこかは、誰にも分

かりませんが)。ウサイン・ボルトと同じ訓練をしても、同

身体を持っていなければ、あのタイムを出す事は出来な

い。誰にだって理解出来ることです。

 ところが、これがもっと一般的なレベルの事になると、

「やれば出来る」と言い出すのです。

 「やれば出来るんじゃないかな?」というのが、理性的な

判断だと思うのですが、事が “一般的な” ことなので、自分

からも周りからも、「出来て当たり前」という同調圧力がか

かって来ます。これが鬱陶しいんですよね。諸悪の根源の一

つです。


 ブラック企業の経営者の理屈がこれです。

 「やれば出来る」

 「出来て当たり前」

 「出来ない奴は無能」

 私に言わせれば、その者の資質に見合った質と量の仕事を

与えて、最大限の結果を得る様にするのが経営者・管理者の

仕事です。

 この場合の「結果」とは、「目標の達成と意欲の継続」で

すが、ブラック企業の経営者や無能な管理者は、「目標の達

成」だけを見て、「意欲の継続」を見ません。その結果、意

欲の無い人間は、良い仕事は出来ませんから、その企業のパ

フォーマンスは徐々に落ちて来ざるを得ません。

 無能なのは、経営者の方です。


 砂漠に苗を植えて、「さっさと、実を付けろ!」と言う様

なもので、バカの極致です。

 ところが困ったことに、その “苗” が、その砂漠で実を付

けようとするのです、「自分に能力が無いと、思われたくな

い!」とか思って。どうせ、「枯れたら、次のを植えりゃい

い」としか思われていないのに・・・。


 人間は自分で移動できるんですから、「ここは、砂漠だ」

と気付いたら、さっさと他の所へ移ればいいんですが・・。

 「他へ行ってもいいんだよ」という追い風が、あまり吹か

ないんですよね、この国では特に。


 結果、一つ二つ実を付けたり、時には一つの実も付けない

まま枯れてしまつたり、引き抜かれて捨てられたりしてしま

う。


 砂漠からは逃げなきゃダメ!

 砂漠には近付いちゃダメ!

 ほとんどの人間にとって、そこは生きる場所ではない!


 わたしたちは、キノコの胞子やタンポポの種の様に、辿り

着いたところでそのまま消えてしまっても「まぁ、そんなこ

とは普通だ」なんて思えないでしょ?

 キノコの胞子には数十億、タンポポの種にも数百の分身が

居るけれど、わたしたちには分身が居ません。

 この身一つだから、ほんとに大切にしなければいけませ

ん。(人として)無能で強欲な連中の “自分の中の砂漠の緑

化事業” に付き合って、命を吸い取られる様な事があっては

なりません。喜ぶのはそいつらだけで、“世の中の砂漠の緑

化” にはなりません。わたしたちが、蒼々とした葉を広げる

ことが出来なければ、世の中に ”緑” が拡がることはないの

ですから。


 「公園のキクラゲ」から始めた話が、「ブラック企業のバ

カ経営者」の話になるとは思いませんでした。

 わたしたちの「アタマ」は悪いのですが、その中にはとて

つもなく「アタマが悪い」奴が、結構います。

 ホントーに、気を付けて下さいね。

 特に、若い人はね。

 (このブログが「砂漠に吹く風」になることを願いつつ)