2017年7月2日日曜日

伊勢神宮で、アタマを下げる。




 今年の三月に、伊勢神宮に行きました。


 小学校の修学旅行以来で、二度目の「お伊勢さん」だった

んですが、修学旅行の時はバスに酔ってしまい、最悪の状態

で伊勢神宮に着いたので、参拝したかどうかも含めて、なん

の記憶も残っていません。なので、実質的には今回が始めて

の参拝のようなものです。 

 初日に「外宮」を訪れ、一泊してから「内宮」に参りまし

た。

 神宮の中にある、いくつもの「宮」を回ったのですが、ど

この宮も、普段は神様など意識もしてなさそうな、若い子達

や外国人でいっぱい。日本人の高齢者より多いぐらいで、

面白かったですね。

 そんな人たちに混ざって、一つ一つの宮を回りながら、

「二礼・二拍手・一礼」を繰り返したんですが、その内に

「これは一体なんだろう?」と思い始めました。

 「神様」がそこに居られるわけですが、私たちには “そ

れ" が何かは、分かりません。ただひたすら、「神聖な」

(神様を「神聖な」というのも変ですが)「奉り」「敬うべ

き」ものとして、何度も何度も手を合わせ、頭を下げまし

た。
 「わけの分からないものに、頭を下げて回る」

 自分だけではなく、いつもは「神も仏も無い」生き方をし


ているであろう若い子や、おそらく違う信仰を持っている外

国の人までもが、わけも分からず頭を下げる。

 ホントに「おもしろいなぁ~」と思いました。


 わたしたちは、“すべて” ではないにしろ、さしあたって

は「わけが分かったつもり」で生きています。その中で、一

応の根拠を持って自分を立てて暮らしています。

 また、人に頭を下げる時にも、何らかの根拠があった場合

に、「相手に頭を下げてよい」として頭を下げます。

 しかし、伊勢神宮では誰もが「わけも分からず」頭を下げ

て回ります。(近所のお宮さんでも頭を下げますが、伊勢神

宮は「最高に格式が高い」わけなので、とてもじゃないが無

礼な振る舞いは出来ません。やはり、「わけも分からないま

ま」に・・・)


 みんなが「わけも分からないまま」、当然の事として頭を

下げる。「いったい何に? なんの為に?」。

 
 自分も頭を下げているうちに、最後にはこう思い始めまし

た。

 〈 何か分からないものに頭を下げ続けることで「この世

界は、自分には分かり得ないものに満ちている」、「自分と

いうものを立てる事は、怖る怖るすべきことである」という

謙虚さを、身体で覚えるのだ 〉と。


 普段のわたしたち、特に現代のわたしたちは、「分からな

い事」に取り囲まれて生きているのに、アタマにそそのかさ

れて「分かったような」顔をしている。そのアタマによる

「思い上がり」なり「錯覚」なりを、身体に分からせる。そ

の為に伊勢神宮や出雲大社に代表される「神社」というもの

がある。


 「“人” より前に、この世界はある」。それは当然、人の

力と理解(意味付け)をはるかに越え、抗しきれないものと

として存在する。その世界を「神様」と呼び、怖れを持って

接することで、身の程に合わせた、実際的な生き方から、は

み出さないようにするのだと。そのことを、日本人は古代か

ら、骨身に滲みて知っているのだろう。

「“神(自然)” をないがしろにすれば、身を滅ぼす」と。

 
 人は古代から、アタマ優位、アタマ主導の生き方をしてき

たのでしょう。そして、それによって何度も痛い目に合って

来たのでしょう。そのため人間以前からの存在を、「神様」

として畏れ敬う様になった。

 アタマ優位の害を知り、アタマを下げ(アタマの影響力を

下げる)、自分を立てない様にする。それによって、自然に

自分を生きられるようになるのでしょう。

 
 ところが、「神様」に頭を下げながら暮らしていても、い

つのまにか〈自分を「神」とする人間〉が出てくる。そこ


に、より良い暮らしを生み出すものが在るように思い、人々

は従うのだが、その度に大きな災厄を生み出して、人は我に

返り、あらためて「神様」に頭を下げる。

 その繰り返しを日本人は続けて来た様に思います。

 現代においては、“エネルギー”(化石燃料と電気)とそれ

が形を変えた “経済” が、「神」となっている様で、人々は

その前にひれ伏し、従います。それがより良いものをもたら

す様に見えるので・・・。


 何度もアタマに誤られながらも、その一方で「神様」を祀

り続けてきた日本人・・・。


 近頃、パワースポットが人気で、伊勢神宮はその中でも最

高のパワースポットとされるので、若い子達も訪れるのでし

ょうが、あの「宮」の前で、ほんとうに「アタマ」を下げた

のなら、パワーを得られるでしょう。それは、「神様」につ

ながっている自分の、本来持っていたパワーが、遮るものを

かれて出て来るのでしょうが・・・。


 若い子達や、外国人までが神宮に訪れて、「わけも分から

ず」頭を下げる。それは、「わけの分かったもの」がもたら

してくれた事が、決して本質的な幸福ではなかったと、みん

ながうっすらと感じ始めたからかも知れません。

 みんなが、そんなにハッキリと意識して、神宮を参るわけ

ではない。でも、その意識の底には「今の在り方は、何かお

かしい」という感覚があるのでは?


 「外宮」「内宮」ともに、「正宮」には『お願い事はせ

ず、ただ謙虚な気持ちでお参り下さい』とありました。

 ほんとに、ただアタマを下げるだけなのです。

 日本中に数知れないほど「神社」がありますが、その多く

は ”御利益” を謳います。ところが「神宮」は、御利益を求

めてはいけない。ただ、奉るだけ。


 『日本書紀』には、「神宮」のことが書かれているわけで

すが、実質的には「なにか分からない」まま、日本人は「神

宮」を守り続けて来たのです。

 「なにか分からない」ものに、ただただ頭を下げることを

二千年も続けて来た・・。これはもの凄い事だと思います。

 そして、日本人の智慧だと思います。


 「思い上がっちゃいけないよ」と。


(私は、特に “ナショナリスト” じゃないですよ。念のた

め)
















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