2022年5月29日日曜日

命を寿ぐ



 昨日のタイトルの『~むやみに救われる命について』とい

うのを後から眺めていて、「さすがにこれは自分でも違和感

あるなぁ」と思ってしまった。やっぱり私にも、社会人の端

くれとしての感覚が残っているのだなぁ(私はどういう人間

なのだろう・・・)。


 人が死にかけていたら、むやみに救ってしまうのが人間と

いうものだもの。命を救うことにケチを付けるべきではない

のだろう・・・。だろうとは思いつつ、やっぱり現代はやり

過ぎだという感覚は消えない。最後に書いたように、本気で

「命」のことを考えていないと思うのだ。


 「寿命」という言葉。その字面を考えてみる。

 「命を寿(ことほ)ぐ」となっている。

 「寿ぐ」とは、【お祝いの言葉を述べる】ということらし

い。「ハレルヤ」と同じようなイメージで捉えていいのでは

ないだろうか。


 「ハレルヤ」は、ユダヤ教、キリスト教で「神を讃え

よ!」という意味で、いま在るこの命を賛美する感嘆の言葉

だと受け止めておいていいだろう。そう考えれば「寿命」

いう言葉は、特にネガティブな事を表してはいない。むし

ろ、その人その人の、生きたすべてを「寿ぐ」という、ポジ

ティブさが込められているのではないだろうか?


 三歳で死んでも、百歳で死んでも、それがその人の「寿

命」だ。

 長さや内容には関係なく、その “生きたすべてを尊重しよ

う” 、“その人その人なりの精一杯の命を敬おう” という思い

が、「寿命」という言葉に込められているのではないか?

 うがった思い込みだとは承知だけれど、そう考えた方が上

品だろうと思う。


 まるで、「死ぬことは、命の達成に失敗したことだ」とで

言わんばかりの現代。

 それは死ぬ人に失礼だろう。

 人の生き死にに点数を付けるようなことはするもんじゃな

いよ。


 誰かを死なせる、死に追い込む・・・。そのようなことを

する人間の方に点数を付けるというのなら、まだ受け入れら

れる。けれど、死に方(生き方でもある)や、その長さを吟

味して「不幸」だの「可哀想」だの「自業自得」だのと言う

のは、浅はかだと思うね。

 それぞれ、誰もがみんな、その人なりに精一杯なんだ。

 その精一杯の果ての「死」なんだ。

 その、丸ごとの精一杯を評価できる立場の人間などいな

い。と、私は思っている。


 そういう気持ちから、「むやみに命を救う」ことに違和感

を感じる。

 いま死のうとしている人の、その死を、力尽くで引き戻そ

うとするのは、暗黙の裡に「ここで死んだらあなたは落第だ

よ」とでも言っているような気がする。

 そこには「生」を尊重する意識は有っても、「命」全体に

対する敬意が欠けているような気がするのですよ。

 だって、生まれて死んで行くのが「命」なんだもの。


 力ずくで、むやみやたらに命を救おうとするのが、“絶対の

善” だなどと思考停止するのだけは止めてもらいたいもの

だ。

 単に、私が救いようの無いひねくれ者だというだけかもし

れないけれどね。




2022年5月28日土曜日

AED の価値は?~ むやみに救われる命について



 AEDというのを、あっちこっちで普通に見かけるようにな

って久しいけど、「あれってどれぐらい使われてるんだろう

か?」とよく思う。思うだけだったんだけど、今回は調べて

みた。すると、2019年度に全国で1300人ぐらいに使

われたそうだ。「意外と多かったな」とは思ったけど、病院

以外で心肺停止に陥ったひとは12万6千人程度だというこ

となので、AEDが使えるような状況で倒れる人は、その中の 

1 %ぐらいのようだ。

 で、私の感想は、「あれ、やっぱり要らないんじゃな

い?」。


 全国の設置台数が62万台だそうで、価格は22万円ぐら

いで、耐用年数が7年程度。計算すると、AEDの市場は年間

200億円ぐらいということになる。


 年200億円かけて、1300人に使用する(命が助かる

人は、その中の200人ぐらいらしい)というのは、社会的

に妥当なものだろうか?その200億円を別のことに使った

方が、日本人の幸福に資するような気がするが・・・。


 こういうことを迂闊に言うと、「お前は人が死んでもいい

のか!」と、どこかから怒号と石が飛んで来るはずなので、

こうやってネットの辺境で呟いている。

 でもね、「生き死に」って、やっぱりコストの問題抜きに

は語れないはずなんですよ。単にお金の問題だけではなく

て、いろんな意味でのコストですけど。


 昔は、口減らしの為に、生まれた子を産婆さんが座布団の

下に入れて窒息死させて「死産だった」ということにしたり

(地方によって、「死産にしてくれ・・」という暗黙の合図

があったりしたそうだ)、姥捨て山が有ったりした。

 現代でも、お金の有る無しで受けられる医療のレベルは違

うわけだし、避妊するのは事前の口減らしとも言えるわけ

で、「お前は人が死んでもいいのか!」と怒る人は、その辺

りのことを見ずに、キレイごとを言っているんですよね。


 救急医療が発達して、少しは死ぬ人が減ったのだろうけ

ど、その一方で障害を持つ人は増えただろう。私が子供の頃

には脳卒中の後遺症の人なんてまず見かけなかった。倒れた

ら、大抵そのまま亡くなっちゃったんだね。けど、いまはそ

こそこ助かる。そして、家族や本人はその時は「良かっ

た!」と思うのだけど、重い障害が残ったりすると、あとで

いろいろと悩み苦しみや家族間の問題が生まれたりすること

は、よくあることだそうだ。


 私たち夫婦は、「倒れて意識不明になったら、一時間は救

急車を呼ぶな」(手遅れにしろということです)なんてお互

いに言っているぐらいなので、「むやみやたらに “命を救う” 

のは、いかがなものか?」という考えです。実際にそうなっ

たら慌ててしまって、つい救急車を呼んでしまうかもしれな

いけど・・。


 AED のことでも、いろいろな薬や医療技術・制度にして

も、コストの割には命を救えていないように思えるし、命を

救えてもそれが人にとって本当に良いことなのか?

  現代の、「命」と「幸福」の価値観が絶対のものでもない

だろう。そこを “問答無用” に切り捨てているのは良くないだ

ろうと思う。


 〈 死は、われわれが必ず支払わなければならないものだ 〉

と、誰かの名言にあったけど、死を忌み嫌い、隠し、無いこ

とにしていると、生きることが痩せて、貧相になるだろう。


 現代の日本は、むやみやたらに命を救おうとし過ぎじゃな

いのだろうか(チョー問題発言だなぁ)? その一方で20

0代の死因のトップは自殺なのだ。

 そういうことを考え合わせると、私は「命」より「(本質

的な)暮らし」を救って欲しい。

 生物的な生存を無理やり(理不尽にと言うべきか)維持す

るより、その分の社会的コストを「暮らし」の平安の為に充

てて欲しい。それは却って人々健康にするだろうし、「暮ら

し」に(本質的な)平安がもたらされれば、死を受け入れる

ことも難しくなくなるだろう。


 一年に200億円をかけて200人の命を救う AED。

 200億円あれば、200人どころかもっともっと多くの

自殺する若者たちの命と暮らしを救う力になると思う

が・・・。


 前にも書いたけど、本当に「命」を守ってくれよ。

 本気で「命」について考えてくれよ。

 やはり、そう思う。



2022年5月15日日曜日

「現実」って言うけどね・・・



 毎日、ロシアのウクライナ侵攻のニュースが続く。「本当

にそんなことおきているのか?」という気もする。なにせ、

この目で見たわけでもない。

 私の住む世界は平和そのもので、困った人間もいるにはい

るが、生活が壊されるようなことはない。そもそも、ここ数

年で、私の “現実感” というものはかなり希薄になっている。

自分の生活や命さえ、なにやら他所事のようなのに、遠い国

で、ましてや戦争が起きているなどということには、“現実

感” など持てない。

 私は昔から、他の人よりも “現実感” というものが希薄なよ

うに思う。もちろん、他の人の “現実感” と、自分の “現実

感” を比べることはできないけど、話を聞いたりしてると、

他の人たちは、「現実」というものを、かなり確信的に「現

実だ」と思っているようだ。


 「現実が現実なのはあたりまえじゃないか!」。そう思わ

れるかもしれないけれど、実際、「現実」を「現実だ」とあ

まり思えない人間が、ここにいる。しかも、最近はその度合

いが強くなっている。そして思う。「そもそも現実って、

何?」。


 こういう、人の認識の根幹に関わる言葉は自己矛盾をはら

んでしまうことが多い。

 「正しい」という言葉を正しく定義できないように、「現

実」という言葉、概念も矛盾をはらむ。「現実」というもの

を定義している、その思考は “現実” か?


 「現実」について、養老孟司先生がこう定義している。

 「その人の行動に影響を与えるものが “現実” だ」と。なる

ほど、よく分かる。


 先日、「銀河の中心にある巨大ブラックホールの影を撮影

できた」というニュースがあったけど、そのニュースに驚い

たりする人にとっては「現実」だ。けれど、「なにそれ?」

と聞き流す人にとっての「現実」には関係ない。「どうでも

いいこと」だ。

 それで分かるのは、「現実」というものは個人的なもので

あって、この世界に普遍的な「現実」というものが有るわけ

ではないということ。


 「いやいや、手に針を刺されれば痛いじゃないか」などと

思われるかもしれない。けれど、それは身体的な「反応」で

あって、いわゆる「現実」というものではないだろう。わた

したちが日常的に「現実」と呼んでいるものは、大なり小な

り、ある “物語” を持っているもののことで、自分が持つ世界

の “物語”(イメージ)の構成要素になっているもののことで

あり、実態を「現実」だと思っているわけじゃない。


 ミサイルが飛んで来てビルを爆破する。

 それを「ミサイルで攻撃された!」と言う。その言葉に

は、「ミサイルが飛んで来てビルを爆破した」という実態

だけではなく、遠い所にいる軍隊やその国の指導者の意思が

おもんばかられ、いつの間にか付け加えられている。実態は

すぐに “物語” へと変えられる。そして、その “物語” が「現

実」として扱われる。


 今回の侵攻が起きて、ウクライナの人が沢山避難したけれ

ど、もしも誰一人避難せず、いつもと変わらぬ暮らしをし続

けたらどうなっただろうかと思う。

 ロシアの戦車が道を通っても、ダンプカーが通ったように

意に介さず、人が撃たれて倒れても、急病で人が倒れたよう

に周りの人が助けたり、建物が砲撃されても、ガス爆発でも

起きたように処理に努め、ロシア兵を見ても自国の警察官を

見るように気に留めず、彼らに連れ去られても、自国のマフ

ィアの横暴のように対処したら?

 ウクライナの人々にとって、そこに「戦争」というものは

存在しないことになる。


 もちろん、そんなことは「現実的」ではない。人類の歴史

上、大小、数えきれないほどの戦争が行われてきたけれど、

上に書いたようなことが行われたことはないだろうし、これ

からもないだろう。

 けれど、暴力というものは、相手が怖れ、脅威に感じてく

れなければ、その力は大きく削がれる。攻撃している側は拍

子抜けしてしまい、自分たちのしていることに虚無感を憶え

るのではないだろうか?「自分たちは何をやってるんだろ

う?」と。


 禅の言葉に「端坐して実相を思え」というのがある。「起

きていること、見ていることに自分の考え(物語)を持ち込

んでウロチョロするな」という。

 「莫妄想」というのもある。「妄想するな」と。やはり

「物語を持ち込むな」というのです。


 ある人の “物語” が別の “物語” を刺激して、それぞれの人

のアタマの中で “物語” が変質し続ける。そういった “物語” 

の総体が、世の中の「現実」というものでしょう。みんな 

“物語” (妄想)の中に生きている。それを「現実」と呼んで

いるけれど、その「現実」はそんなに良いものか?


 窓の外に青空が広がり、街路樹が風に揺れ、スズメが鳴

き、小学生が笑いながら走って行く・・・。そんな日常の風

景を見ていたら、戦争する気になんてなれない・・・。戦争

する気になれるなんて、また、誰かを戦争する気にさせるな

んて、妄想の中に生きている証拠だろう。人間のアタマは

ホントに悪い。


 他人の下品な妄想に付き合いたくはないけど、そういう連

中はそれを「現実」だと思っているので、どうしても付き合

わされてしまったりする。「ああ、ヤダ・・・」と思うけど

仕方がない。それが浮世というものなのだ。


 もし、私の街にどこかが侵攻して来たら、銃を構えた兵隊

がそばに来ても、いつも通り花に水をやっていたいものだ。

それで撃たれて死んだら、それでいい。もう若くもないし。

   これも妄想だな。



 
 


2022年5月4日水曜日

トンガはどうなった?



 ゴールデンウイークに入って暖かいとは思うけど、例年よ

りは肌寒いような気がする。

 「トンガの噴火の影響が出ているのでは?」などと思った

りするが、そんなニュースなどは一切無い。それにしても、

ロシアのウクライナ侵攻のおかげで、トンガの噴火災害の報

道が徹底的に消し飛んでしまったのには呆れる。あれだけの

火山灰が降れば、たぶん現在でも大変な状況だろうに。


 マスコミは、ふたこと目には「人道」だとか「命」だとか

言うけれど、単にセンセーショナルなものに飛びついてゆく

だけだということが今回でもよく分かる。トンガのことなど

もう忘れているのだろう。ならばウクライナが心配かといえ

ば、ウクライナ人が死のうが、ロシア兵が死のうがそんなこ

とはどうでもいいのだろう。所詮は他所事で、センセーショ

ナルならそれに越したことはないのだろうな。彼らは現実感

などというものは持ち合わせていないのだろう。そのくせ、

他所事であっても自分のことと受け止めるように、視聴者に

促す・・・。うわべだけのヤな連中だなぁと、あらためて思

う。


 この地球上では、今この時も、至るところで理不尽なこと

や不幸なことが起きている。

 何かの事情で、ウクライナよりも多くの人がある国や地域

で今日死んでいるかもしれない。だって、世界では一日に

6万人あまりが死ぬのだから、ある地域で集中的に数百人

死ぬことも不思議ではない。けれどそれは取り上げられる

とは限らない。マスコミが求めているのは、自国でアピール

きること、自分たちがアピールしたいことだけだろうか

ら。


 もしも、ロシアがウクライナに侵攻したことをどこの国も

取り上げず、どこの国民も知らなければ、天然ガスや石油や

小麦の価格が上がっただろうか、と考える。

 ニュースというものは恐ろしい。人の意識に与える影響は

重大だ。現代では、一夜にして世界中の多くの人の暮らしに

影響を与えることもある。それを知ってか知らずか、計算ず

くかそうでないかは知らないが、マスコミはその影響力を自

ら確認できることが嬉しいのではないだろうか? それだけで

はないのだろうか?


 老子の言ったように、よその国のことなど取り合わず、自

分の身近なことに誠実であればそれでいいのではなかろう

かと思う。

 わたしたちは、この数十年の間に、あまりにもマスコミの

流すことを重要視し過ぎてしまうようになっているのではな

いか? そして、自分の暮らしや身近な人・事よりも、情報に

気を取られ過ぎているのでは?


 人間が愚かなことなど、もうよく知っている。そんなニュ

ースを地球の反対側に届けてくれなくてもいい。それを知っ

た者が、その愚かさを、違う愚かさで繕おうとするだけだ。

結果的に愚かさが増えるだけのことの方が多い。

 そんなことより、自然の脅威に翻弄されている人たちのこ

とを教えてくれ。彼らの暮らしはどうなっているのか?わず

かばかりかもしれないが、手伝えることはないのか?

 トンガはどうなった?




2022年5月1日日曜日

おなかの中で



 今日は意識のことを考えていてヘレン・ケラーのことを思

い出していた。

 ヘレンがアニー・サリバンと出会い、「言葉」というもの

の存在を知るまで、彼女はどのような意識の世界に居たのか

と。


 目は見えず、耳は聞こえないヘレンの意識の中には、映像

も音も存在していない。さらに言葉を知る以前のヘレンには

思考活動も無かったはずだ。

 匂いと味と触覚(圧力・痛み・熱さ・湿度)の情報がヘレ

ンの脳内に入って来ても、それは感覚的な「快・不快」と、

その記憶を生み出すだけだっただろう。

 空間の概念は無くても、手を伸ばせば物に触れたり触れな

かったりするので、空間の感覚は有っただろう。けれど時間

については概念を持たないだけではなく、時間の感覚も無か

ったのではないだろうか? 時間の感覚を持つには、視覚によ

る、物が動き、変化して行く認識と、聴覚による音の刺激の

変化の認識が大きなウエイトを占めているだろうから。

 言葉を知ってから、時間の概念や論理、自他など意識がヘ

レンの中に育っていったことだろうけれど、それでもヘレン

の世界はわたしたちとは大きく違う。言葉を使い、思考活動

をするようになっても、ヘレンはわたしたちのように夢を

「見ない」し、夢の中で「話したり」「聴いたり」もしなか

ったはずだ。ヘレンの脳にはその機能が無い。ヘレンは夢を

嗅ぎ、夢に触れ、夢を味わっただろう。それがヘレンの夢だ

っただろう。そして言葉を持つまでのヘレンは、夢を経験し

ていなかったのではないだろうか? 

 夢の中で「嗅ぎ」「触れ」「味わった」としても、思考活

動の無いヘレンの脳は、目覚めた時にはそれらの夢を認識し

保持できなかったと思うのだ。小さな空間と時間の無い世界

に生きていたヘレンの意識は、とても小さく閉じていたこと

だろう。


 そんなヘレンの意識を考えていて、さらに臭覚も味覚も触

覚も無ければどうなるか? 想像してみた。たぶん、外部から

の何の入力も無ければ、そこには意識は生まれないだろう。

けれど、空腹など、内部の感覚は生じるはずだ。

 そこで、映画『マトリックス』の生命維持装置のようなも

のに人を繋いで、身体的に何の不具合も無い状態にして、さ

らに五感からの入力は一切遮断したら人の意識はどうなるだ

ろうか?

 ALS の患者が最後にたどり着く「閉じ込め症候群」とは違

、もう一つの「閉じ込め症候群」と言える状態。

 外からも内からも何の変化も無い。

 生きてはいるが、そんな状態では意識は生まれないだろう

し、すでに意識を持っている人間でも、そういう状態に置か

れれば、意識活動を喚起する刺激が全く無いので、ほどなく

して意識が消えて行くのではないだろうかと思う。

 それは、宇宙空間に一人で浮かんでいるような感覚ではな

いだろうか?

 通常、わたしたちが考えるような意識は無い。けれど生き

てはいる。脳も活動はしている。その時、わたしたちはどの

ような「意識」にあるか?


 実は、わたしたちは皆、その「意識」を知っている。母親

のおなかの中にいた時はそうだったはずだから。


 意識が白紙の状態をわたしたちは知っている。そしてその

感覚を覚えているはずだ。

 母親のおなかの中で、わたしたちは何の不安も不満も無

く、宇宙に浮かんでいたのだ。そしてたぶん、宇宙とひとつ

になっていただろう。だって、ほとんどの感覚入力も無い

し、わずかな光と音などの刺激はあったとしても、それを意

識的に処理することはできない状態なのだから、自他を分け

ることなどできない。分けられなければ「ひとつ」だ。


 そして生まれてきたわたしたちは、その “宇宙とひとつ” の

安堵を求め続けるのだろう。けれども、すでに思考に囚われ

てしまっているわたしたちは、思考の世界の中でそれを探し

てしまう。実は自分がすでにそれを経験していて、その感覚

を憶えているし、“白紙の意識” としていまもそれを持ってい

に・・・。


 言葉を持つ前のヘレンはしあわせではなかっただろう。

「しあわせ」という意識さえ持たなかったのだから。

 だけど、言葉を持ったヘレンも、真にしあわせではなかっ

ただろう。思考の世界の中で「自分」に閉じ込められたはず

だから。

 けれど、思考の世界に身を置いてみなければ、“白紙の意

識” に気付くことはできない。

 わたしたちは、一度、思考の世界で「自分」に閉じ込めら

れる必要があるのだ。自分の中にある “白紙の意識” は宇宙と

ひとつであると意識し直し、完全な安堵に気付くために。
 

 仏教的に言えば、わたしたちは母親のおなかの中から、仏

のおなかの中に生み出されたのだろう。けれど、思考が邪魔

をしていて、その安らかさに気付けないまま生きている。