2022年3月20日日曜日

真実は伝えられない



 ロシアのウクライナ侵攻はどうなって行くのだろうか? プ

ーチンが失脚させられてロシア軍が撤退する以外には、あま

りよい未来はなさそうだ。何にせよ、この前書いたように、

私にはどちらが正しいとか、どうすればよいかとかいうこと

分からない(誰にも分からないはずだが・・・)。


 ニュースを見ていると、現地の人たちやジャーナリスト

が、「真実を伝えて欲しい」と語る姿をよく見る。そして私

は思う。「真実は伝えられないよ」と。


 真実というものは、個人的なものだ。個人の体験・実感の

ことだ。それは他者に伝えることはできない。他者に伝えた

時、それは「真実」というラベルを貼られた「情報」にな

る。それは残念ながら、もはや真実ではない。

 なぜなら、真実を言葉にしたり、映像として切り取ったり

することで、真実に、ある評価や意図がどうしても含まれて

しまうから。さらには「真実を伝えたい」という動機自体

が、もうすでにその人の意図を含んでいる。そして真実は

「真実」という名の「情報」になる。


 同じ場所で、同じものを見ても、見ている視点は微妙に違

うので、まったく同じものを見ることはできない。見ている

人それぞれの感性や価値観で受け止め方も異なる。それゆ

え、真実は個人的なものにとどまらざるを得ない。真実は伝

えられない。


 大勢の人がそれぞれの見たことをそれぞれに語る。それを

集めれば物事の真相が明らかになるという、ナイーブな感覚

を持った人は多いが、とんでもない話だ。

 「船頭多くして、舟、山に登る」ということわざもある

し、黒澤明の『羅生門』(芥川龍之介の『藪の中』)では、

人の言葉がいかに当てにならないかが描かれていて、主人公

は「こんな怖ろしいことは無い・・」と青ざめる・・・。


 理不尽に攻撃を受けるウクライナの市民や、反戦を訴えて

逮捕されるロシア人が、「真実を伝えて欲しい」という気持

ちは理解できる。そりゃそうだろう。人情として、「こんな

いことが起きていることを多くの人に知ってもらいたい」

と思って当然だ。・・・けれど、残念ながら真実は伝えられ

ない。伝えることができない。ましてや、今回のような状況

では、為政者などが、自分たちに都合の良い情報や嘘さえも

流すことは、歴史に明らかだ。そのことを、伝える側も受け

取る側も肝に銘じておかなければならないだろうと思う。


 真実は個人のものにとどまる。それは、世の中には真実は

無いということを意味している。では今回のようなことが起

きている時、わたしたちはどうすればよいのか?
 

 それぞれの真実が有るだろう。それぞれの主張と事情があ

るだろう。けれど、それは共有できない性質のものだ。だか

ら、その真実・事情がどのようなものであるかは問わず、

「人を傷付けるのはよくない」「とにかく、まず仲良くせ

よ」と言うしかない。

 《 “正しいこと” があるとすれば、それは仲良くすることだ

ろう 》というのが、私の立場だが、今回あらためてそう思っ

ている。


 1991年。ロドニー・キングという黒人男性が警察官に過

剰な暴行を受け、警察官が訴えられるという事件があった

が、翌92年、警察官に無罪評決が出たことをきっかけに

『ロサンゼルス暴動』と呼ばれる大規模な暴動が起きた。

 放火・略奪・暴行が行われ、州兵が出るほどの事態が一週

間ほど続いたが、それが収束するきっかけになったのが、発

端となった事件の被害者キング氏がインタビューに答えた言

葉だった。

 キング氏はこう言った。

 「言いたいことは一つだけだ。仲良くやっていけないの

か?」


 私もキング氏に賛成する。「仲良くやっていけないの

か?」。それ以外何がある?

 仲良くしろ。

 みんなアタマが悪いのだ。

 みんな出来損ないで弱いのだ。

 出来損ない同士、いたわり合うにしくはない。

 それが幸福ではないか。

 強がることが、醜悪な問題を生み、人を不幸にし、世の中

を地獄にするのだ。


 仲良くすることの前では、それぞれの「真実」など、ほん

とうはものの数ではない。非情だとは思うけれど、そうなの

だ。そして、真の平和への糸口はそれしかないと思ってい

る。真の平和が実現する可能性は、絶望的に低いけれ

ど・・・。



2022年3月13日日曜日

しあわせとは



 私はしあわせなのです。

 本当は、他の人間の不しあわせに付き合う必要もないので

す。

 けれども、もし私が自分一人でしあわせでい続けたらどう

でしょう?

 私のまわりの誰もが、生きることに右往左往し、泣いたり

苦しんだりしている中で、理由も無く(無いように見える)

ひとりで「ニコニコ」「ヘラヘラ」していたらどうでしょ

う?


 他の人たちは困惑するでしょうね。そして怒るでしょう

ね。

 「コイツはいったい何だ?」

 「こっちはエラい思いをしてるのに、なぜコイツは意味も

なく嬉しそうで、 “ノープロブム” みたいな顔をしてるん

だ?」と。

  そして、ヘタをすれば攻撃され、殺されてしまうかもしれ

ません。


 私は歴史から学ぶので、その可能性を否定できません。殺

されてしまえば、せっかくのしあわせも感じられませんし、

家族もあるので、さしあたり生きていなければならないので

す。なので、不本意ながら、他の人の不しあわせ(右往左

往)に付き合っています。つまり、世の中に合わせて生きて

います・・・。


 随分と傲慢なことを言っているように思います。「お前は

何様だ」という感じかもしれません・・・。が、私は単にひ

とりの人間です。それは誰もがそうです。その “単なるひと

りの人間” である私が「私はしあわせなのです」と言ってい

るのですから、私以外のすべての人も「しあわせ」なはずな

のです。「しあわせ」に違いないのです。


 「しあわせ」とは何でしょうか?


 私は、“「しあわせ」とは、しあわせが何であるかを知って

いること” だろうと思っています。


 「しあわせ」が何なのかを知ればよい。それだけのことな

のです。なぜなら、「しあわせ」は誰もが持っているものだ

からです。いや、持っているという表現は適切ではないです

ね。誰もが「しあわせ」の中に存在しているのです。“「しあ

わせ」に持たれている” とでも言えばいいのかもしれませ

ん。なので、「しあわせ」が何であるかを知ればそれで済ん

でしまいます。「ああ、なんだ、始めっから終わりまで、し

あわせなんだ」と。


 と、これでは要点が分かりませんね。“結局のところ「しあ

わせ」とは何なんだ?” と思われてしまいます。

 「しあわせ」とは、「いま自分が在る。いま世界が在る」

という気付きのことです。それだけが「しあわせ」と呼べる

もので、それ以外の、意味の世界にあるものは「しあわせ」

ではありません。そして意味の世界の外には「しあわせ」し

かありません。


 「いま自分が在る。いま世界が在る」と気付いている程度

のことが、なぜ「しあわせ」なのかと訝しんでおられるかも

しれませんが、その理由は、実際に「いま自分が在る。いま

世界が在る」ということだけに心を落ち着かせてゆけばわか

ります。そこは、絶対に安定していて、ほのかな暖かさと

びがあるからです。そして、そこからは、置いてきぼりに

れて不安がっているエゴの狼狽が見てとれることでしょう。


 「こんなに不安なのに、何が “しあわせ” だ!」と訴えてい

るかもしれません。けれど、そのエゴの訴えを聞いているも

は何か? それは明らかに、エゴとは違う部分の自分でしょ

う。

 その超然として平静な意識が、自分の中にも、世界中にも

常に在り続けている。

 私は、それを「しあわせ」と呼んでいます。




2022年3月11日金曜日

3.11 風化



 3月11日。

 十一年前までこの日は何でもない日だったが、いまの日本

人にとっては特別な日になった。なにしろ千年に一度ぐらい

のことが起きたのだからムリもない。ムリもないのだが、果

たしてその特別さがいつまで続くか?

 これまでにも特別な日はいろいろと有っただろう。終戦記

念日・原爆投下・関東大震災・大政奉還・・・・。


 いま挙げた他にもまだまだあるだろうが、その「まだま

だ」が思い浮かばない。言わば、歴史上の ″特別な日” という

ものはその程度のことなのだろう。“特別な日” が特別であり

続けることには限界が有る。


 人は生まれ死んで行く。

 世代が変わる。世の中も変わる。人は、実感していない事

を意識の中に強く保持し続けることはできない。その時代に

特別だった事も、その次の、またその次の時代の者にとって

は情報のひとつになってしまう。

 阪神大震災から27年。体験した者としては、それが実感

ではなく情報になったこと知っている。3月11日も、情報

になってゆく・・・。(追記 「阪神淡路大震災」ではなく

「阪神大震災」と書いてしまったことにも、それが現れてい

る・・・。ワザとじゃないですよ)


 「風化させない」とか言う。

 「いやいや、風化しますよ」と、私は思っている。「それ

でいい」とも思っている。なぜなら、その時、その時代に起

こったことは、その時々の、その人たちの「事」なのだか

ら・・・。後の世代の人たちには、その人たちにとっての 

“特別な日” が待っている。

 後の人々に、過ぎた日の「特別さ」を受け継がそうという

のは、結局のところ、いまの人のエゴなのだろうと思う。受

け継いでもらうべきはその “特別さ” ではなく、ある事を “特

別” と思ってしまう、「世代」というものの浅さを知ること

ではないだろうか?

 わたしたちは「世代」を越えなければならないのだろう。


 わたしたちの祖先は氷河期を生き延びてきた。

 縄文時代に九州にいた人々は、鬼界カルデラの噴火によっ

て全滅した。

 そのような “特別” な出来事を、わたしたちの祖先は経験し

てきた。

 が、そんなこと、当然ながらいまは誰も憶えていない。地

質学者や考古学者が伝えてくれはするが、それをある程度リ

アルに受け止める人はごくわずかだ。

 過去からの伝承や、科学の丹念な仕事を示されても、それ

は大抵「情報」にとどまる。その “「情報」にとどまる” とい

うことを受け入れるべきなのだと思う。

 それぞれの時代の、それぞれの世代が、結果的にほとんど

過去から学ぶこと無く、自分たちの世界を生きる。それは歴

史に明らかだ(いまのロシアがいい見本)。そのように、

「世代」というものは浅い


 「世代」というものが浅いのは、ひとりの人間が、人類の

膨大な歴史を、ポイント的にではあれ、実感的に抱えなが

ら、新たに自分の歴史を生きるということに無理があるから

だろう。容量不足なのだ。だから「風化」する。

 ある “特別な日” のことを継承し続けようとするのは、いず

れ徒労に終わるだろう。


 身も蓋も無いことを書いて恐縮だけど、それが事実だろ

う。それを受け入れた上で「さて、何が残せるか?」と考え

てみる方が良いのではないだろうか?


 では残すべきなのは何か?

 “特別ではないこと” の持つ、意味と実感ではないだろう

か?


 わたしたちの日常の中の、ありきたりのことのさらにさら

にその中の、本当に、徹底的に “特別ではないこと” 、に目を

向ける。

 それは、人にとって普遍的で「世代」を越えているはず

だ。そして、人である限り、どの時代の誰にとっても深い意

味を持っているはずだ。それを実感することを継承すべき

だ。

 “特別な一日” の事は風化していい。もとより、それを止め

ることはできないだろう。

 特別なことは、「特別ではない」と思われていることの方

ある。



 

2022年3月5日土曜日

どっちが「善」?



 先日、ロシアがウクライナに侵攻して、連日そのニュース

が沢山流れる。「ああ、アタマが悪いな・・・」と思いなが

ら過ごしているが、こういうことが起こると、ニュースも何

も普段以上に信用できない。

 十年以上前に『戦争広告代理店』という本を読んでから

は、紛争が起きた時に流される情報などそのままに受け取れ

ない。


 『戦争広告代理店』という本は、ボスニア・ヘルツェゴヴ

ィナ紛争の際に行われていた情報操作を暴いたノンフィクシ

ョンで、「国際政治の裏側では何が行われているのかなん

て、ごく一部の人間しか知り得ないのだ」ということを認識

させてくれる一冊だった。この本に書かれていることが10

0%事実とは言えなくても、「そういうことが行われてい

る」というだけで十分だろう。


 世の中にはさまざまな「陰謀論」などというものもある。

私はそういう話は「話半分」以下で受け止めている。けれ

ど、今回のウクライナ侵攻も、裏で何が行われているかは分

かったものではない。普通に考えて、ロシアにメリットも理

由も有るとは思えないので、ロシアという国の為ではなく

て、各国の支配者層の金儲けの為の猿芝居なのかもしれない

いう気がしている。なんにせよ、私などに真実なんか知り

うがないので、そういう意味で他人事だし、ウクライナ、

シアの両国民で私のように真実を知りようもない立場の

人々にとっても、言わば “他人事” だろう。

 酷い目に遭わされることだけが “自分事” だと考えておいた

方が良いだろうと思う。“誰か” が、そいつらの都合で勝手に

始めたことなのだということだけは、間違いないだろう。


 当事者たちは精神的・肉体的・経済的に苦しめられ、第三

者は与えられる情報を元に同情と憎しみを掻き立てられてし

まうけれど、少なくとも第三者は心理的に距離を置いた方が

賢明に思う。そして、これは無理な話だとは分かっているけ

れど、当事者も心理的に距離を置く方が良い。“誰か” の悪だ

くみに乗せられて、モロに巻き込まれてしまうのは不愉快で

不利益ではないか・・・。


 いまのところ、プーチンが悪いことになっている。

 私はプーチンに何の思い入れも無いが、ことはそう単純じ

ゃないだろう。先にも書いたけれど、ロシアにメリットも理

由も無いようにしか見えない。ならば、裏の理由があるか、

はたまたプーチンの気がふれたかのどちらかでしかない。


 『愚か者ほど出世する』というタイトルの本があるけれ

ど、権力を持ちたがるような人間の言うことを真に受けてる

と「愚かさ」が感染する。

 社会という「必要悪」のシステムの中で有利な立場に立つ

ものは、当然ながら「悪」だと考えておいて間違いは無いだ

ろう。ごくまれに例外もあるかもしれないが、そのような人

間は遠からず排除されるか、変節してしまうことだろう。


 ダシにされ、踏みにじられ、コケにされ、いつも割を喰ら

うのは庶民だ。

 それを免れる為には、“誰か” の演出する騒ぎに乗せられな

いことなのだが、既に大勢が乗せられてしまった後では、そ

れに抵抗するのは不可能に近い・・・。巻き込まれてしまう

人たちは本当に気の毒だ。


 アタマが悪さをすることを、私は「アタマが悪い」と言

う。戦争はその最たるものだが、たとえ独裁者であっても、

ひとりで戦争を起こすことはできない。まわりの多くの人間

たちのアタマの悪さが発揮され、集約されて、はじめて独裁

者(あるいは一部の支配者層)は大きな力を持ち、戦争も起

こせる。まわりにいるのが知性を持つ者たちならば、独裁者

は “ひとりのバカ” にとどまる。本当に怖ろしいのは群衆なの

だ。


 群衆は、時にあからさまに暴力的であったり、時には善良

な弱者のようであったりもするけれど、どちらにせよ、多く

の場合、群衆は興奮状態にある。人が持ち得るわずかばかり

の知性さえ忘れているものだ。そして「善」を掲げながら、

相容れない立場にある者に圧迫を加える・・・。


 人として真っ当でいたいのならば、他者に対して誠実であ

りたいのならば、自分自身が平和と共に在りたいのであるな

らば、群衆の一人になるべきではない。


 どう表現するのが適切なのかは分からないが、“沢山の一人

の中の一人“ であるべきとでも言えばいいだろうか? それ

が、社会の中で自分と他者を守る最善のことではないだろう

かと考える。現実の世界の中では、それが絵空事だとは分か

ってはいるけれど、私はそう思う。


 社会に本当の「善」は無い。




2022年3月2日水曜日

失敗を目指して



 ずいぶんなタイトルを挙げて始めてしまった。

 大抵の人は、人生の中で大なり小なり「成功」を目指す。

当たり前です。

 普通一般からすれば非常識で、時には荒唐無稽なことを語

るいわゆる「スピリチュアル系」の話にも「成功」という言

葉はよく出てくる。さすがに「起業して大金持ちになっ

て・・・」みたいなことは言わないが、やはり「自分を成功

する」みたいな文脈で語られる話が多い。


 そこで・・、というわけでもないけれど、逆から考えてみ

ようということで、「失敗を目指す」という言葉からはじめ

ると何かおもしろいことになるのではと思って書き始めてい

ます。


 さて、わたしたちは「失敗」を目指すことができるでしょ

か?

 勘のイイ人なら、もうすでに何かを嗅ぎ取ってらっしゃる

かもしれない。わたしたちは「失敗」を目指すと、かならず

「失敗すること」に失敗する。


 ある目的に「失敗」しようとして、首尾よくその目的の達

成に失敗すると、「失敗を目指す」という目的に「成功」し

てしまうことになる。いやいや「成功」してしまってはいけ

ないではないですか。「成功」してしまったら、それは「失

敗」です。え?「失敗」したのなら「失敗を目指す」ことに

「成功」か・・? いやいや「成功」したら「失敗」だろ

う・・・・?


 話をすり替えながら、面倒臭い言葉遊びをして何を言いた

がっているかと言うと、「一度、失敗を目指してみません

か?」ということのようです。

 わたしたちは、わざわざ「失敗」することはできないよう

です。


 「成功」しようとして「成功」することもできますが、

「成功」し続けることは不可能です。必ず「失敗」すること

になります。一方、「失敗」しようとすると、一義的に、表

面的には「失敗」できますが、必ず「失敗」し損なうことに

なります。それが表しているのは、実は「失敗」というもの

は存在しないということです。わたしたちが「成功」を目指

さない限り、「失敗」は存在し得ない。


 このことが何を意味するか?

 わたしたちのアタマ(意識)が「何か」を目指さない限

り、わたしたちの生には「失敗」は無い。究極にシンプルな

意識で生きるなら「失敗」しようがない。

 「失敗できるものならやってみろ。出来やしないさ」とい

うお言葉が天から降ってきそうなぐらいです。


 わたしたちは、何かの「成功」を目指して生きるように、

社会から強い刷り込みをされてしまっているので、何度も何

度も何度も、限りなく「失敗」を味わい、苦しむことになり

ます。だったら「成功」を目指さなければいい。さらに一歩

進んで「失敗」を目指してみればいい。

 思考実験でいいです(仕事中に「失敗」しようとかしない

で下さいね。えらい目に合いますから)。「失敗」しようと

してみて下さい。意識の中で何が起こるか?どんな感覚を覚

えるか?


 ある種の解放感のようなものを感じるのではないでしょう

か。

 「成功」という概念の縛りから離れると、自己否定感が消

えることでしょう。

 社会に教え込まれた価値観や、評価する意識がどこかへ消

えて、そのままの自分の “厚み” のようなものが感じられたり

しないでしょうか? たぶん、それが掛け値なしの “自分” な

のだと思います。


 社会から刷り込まれた価値観によって、わたしたちは “自

分” を見失っている。


 「何かを成し遂げなければ」

 「何かにならなくては」

 この社会で生きている限り、そういう意識を無くすことは

できないでしょう。けれど、それは「お話し」です。「おま

け」です。本当は “自分” と関係の無いことです。

 本当の “自分” は、そのままで「失敗」とは無縁の、すでに

成し遂げているすでに自分に成っている “自分” です。


 自分の価値を計るハカリは存在しない。

 その単純明快なことに気付けないほど、わたしたちは社会

の刷り込む「成功」の副作用に侵されています。

 そして自分を追い詰め、他人を追い詰め、苦しみもがいて

いる。

 それは、ほんの一時の「達成感」を得る代償としては、あ

まりにも割が合わないと、私には思えますが・・・。


 「失敗」してみませんか?