2018年5月27日日曜日

物と事


 わたしたちは、日々さまざまな物を手に入れ、数え切れな

い程の物に囲まれて暮らしている。例え自分が持っていなく

ても、暮らしの中で多くの物に接して生きている。

 食べ物、生活必需品、娯楽に関わるもの・・・、いろんな

物が生産され、暮らしの中へ送り届けられて来る。それぞれ

にそれぞれの価値を持つ物として。



 しかし、“物” には本来価値は無い。

 価値は、その “物” に関わる “事” の方に有る。

 名のある陶工の作った茶碗に、百万円の値が付く。その値

段は、「名のある陶工が作った」という、 “事” に対しての

価値であって、まったく同じものを名も無い陶工が作った

ら、百分の一の値段だろう。しかし、その百分の一の値段さ

え、「陶工が作った」という “事” に対してのものであっ

て、茶碗その “物” の価値では無い。



 人は、“事” を評価せずにはいられない。

 “事” の評価に人生さえ賭ける。いや、“事” の評価に費や

されるのが、わたしたちの人生というものかも知れない。

 “自分が為す事の評価” 

 “他人が為す事の評価” 

 その二つの “事” の評価に揺さぶられ、圧迫され、追い立

てられながら生きる。その人生そのものも、また “事” であ

って、その人生が周りにも自分自身にも影響を与えて、お互

いに揺さぶられ合いながら、やがて一生を終える。

 “事” だけが人の世界をうごめいて、その中で人は何をし

ているのか・・・。



 しょせん人間は、“事” を無視して生きられないし、自分

自身が “事” であるのだから、どんな “事” を「良し」とし

て、どんな “事” を「自分という “事” 」とするかが、人の

幸福に大きな影響を与える。(当たり前の事を、変な言い回

しで言っているだけですが)


 とはいうものの、“事” とは《変化し続ける万物の一瞬》

でしかないもので、どんどん次の “事” に取って代わられて

消えてゆく。



 “事” が “事” を変え、「変えた」という “事” が新しい

“事” として、次の “事” を生んで行く・・・。

 何か、「ある “事”」に心を留めて、そこに安らぎや喜び

を見い出そうとするのは、ミルクの入ったコップを手にし

て、小舟の上でこぼさないようにする様なものだろう。 



 日大のアメフトの問題に触れるのはこれで最後にするけ

ど、あの選手は「試合に出る事」という価値に囚われてしま

って、「人としてフェアである事」という価値を見失ってし

まった。その事が、あの騒動の根本だろう。



 アメリカンフットボールという “事” 。

 試合に出るという “事” 。

 それに自身の生活を費やしてきたという “事” 。



 どれも “事” に過ぎないという視点を持てれば、あんな事

は仕出かさなかっただろう。

 彼が居る、あの閉鎖された人間の集団自体が、ある “事” 

にがんじがらめになっている澱んだ世界で、その中でその 

“事” に動かされてしまったのが、あの一件・・。



 「フェアである」という意味の本質は、〈 “事” に揺さぶ

られない〉事ではないだろうか。

 “フェア” を日本語にするなら、“公平” ということにする

のが最も適しているだろうが、「公に平ら」だから、「エゴ

を離れて安定している」と言っていい。

 なんらかの “事”   それは利益をもたらす事であること

が多いが  に執着して、自身の安定を失う時、人はフェア

でなくなる。いや、フェアでないから自身の安定を失うの

だ。


 件の彼は最も大事なものを見失ったが、同じ様な事は世の

中にいくらでもある。左遷されたくなかったら違法な事や倫

理的に許されない事をしろと、上司や経営者に言われてやっ

てしまうサラリーマンなんぞ、ざらにいるだろう。みんな 

“事” に執着して自分を見失う。

 「自分も含めて、すべては “事” に過ぎない」と、肝に銘

じておく方が良い。

 大事な “事” は、“自分が自分として安定している事” 。

 それを「しあわせ」と言うのだ。


 「誕生」という “事” と、いずれ来る「死」という “事” 

の間で、いったいどんな “事” が「自分が自分として在る

事」を超えるだろうか?


 わたしたちが後生大事に思っている事が、他人から見れば

「そんな事」と一笑に付されてしまったりする。

 自分が命を賭けている “事” も、その程度の事なのだ。

 “事” よりも大事なことが有る。

 “事” 以前に、「自分が在る」ということ。


 「“物” には価値が無い」と初めに書いたけれど、実のと

ころ “物” には「在る」という一点で、絶対的な価値があ

る。

 どんな価値判断も無意味な、「在る」という絶対性が与え

られていて、それは “物” である私たちひとりひとりにもあ

る。その事に留まるように自分を促すことが、わたしたちの

為すべき “こと” だろうと思うのだが・・・。


 さて、日大の彼には、そんな自分であるようなこれから

待っているのだろうか? そうあって欲しいけどね。若いん

だから。




2018年5月21日月曜日

しあわせな事。


 ということで「体育会系」の悪口を書いていますが  

回からつながっています  、何も「体育会系」だけが観念

的なわけじゃないのは言うまでもないことです。それがどの

様なものであろうと、人間が集団を作る時は、必ず観念的に

なってしまう。なんらかの価値感を共有しなければ、人間は

一緒に動けないのですから、そこにはなんらかの約束事や、

共通する思い込みといったものが介在する。そして、それが

集団の行動原理となり、集団の外とは違うロジックが支配す

ることになりやすい。



 政党・会社・行政・宗教法人・民間団体・・・。

 どんな種類のものであれ、人間が集団を作ると、その中だ

けの “正しさ” が力を持つ事になって、その集団を作ってい

る各々の “個人” は、“集団” に同化してしまう。各々の〈エ

ゴ〉が、より大きく強固な〈エゴ〉へと凝集して、人間の本

来性をさらに強く支配して行く・・・。



 そもそもわたしたち人間は、絶対的な価値基準というもの

を持ち合わせていないので、自分が「これでいい」と思って

いる事であっても、常に不安を持っています。ですから、他

の人間が「それでいい」と認めてくれると安心します。さら

に、多くの人が「これがいい」と認めている事を信頼しがち

です。それが高じると、集団の価値感に依存する傾向が強ま

って、そこに違和感を感じたとしても、それを自らに伏せる

ようにして集団の価値感に従って行く・・・。



 そもそもわたしたちは、絶対的な価値基準というものを持

ち合わせない。いや、持ち得ないのですから、自信を持って

「正しさ」を掲げる者は “食わせ者” だと見るべきなのです

が、多くの人が認めていたり、自分の価値感や欲求を肯定す

る方向性を示す者には、心を寄せてしまう・・・。

 〈プチ原理主義者〉の誕生です。

 そして、せまい世界観にはまり込み、人の本来性とはかけ

離れた観念的な行動を執って、自分自身を窮地に追い込んだ

りする。



 「観念的」とは、“念” を “観る” のですから、自分の考え

ばかりを観ている状態で、実際の世界を観ていないのです

ね。だから、世界との乖離が生じて、常軌を逸した行動を執

るようになる。

 それが、自分のせまい世界でしか評価されないものでしか

ないことを、本人は気付かない。(このブログは大丈夫?)
 

 もとより、人間は物心付いた時から観念の中に生きていま

す。「物心付く」ということ自体が、「観念的になる」とい

うことなのですから、それだけでも危ういのに、さらに高度

観念的になりたがる。

 観念を洗練すればするほど、自身を安定させられると感じ

ているのですね。本当は逆なのに・・・。


 観念を洗練すればするほど、世界は狭くなる。実は、その

過程を本人も感じているのですが、意識は無意識からの働き

かけを怖れ、嫌いますから、その「感じ」はないがしろにさ

れてしまう。


 そして考えが強固になるほどに、文字通り自身の在り方は

強固になるけれど、拠って立つ所は狭くなってしまい、自分

の正当性に対する自信とは裏腹に、不安が増してくる・・。

 その結果、外の世界に対する攻撃性が出てきたりする。



 わたしたちは放っておいても観念的です。そして、その観

念ゆえに苦しみます。ですから、なるべく観念的にならない

ように努めるべきなのですが、そうしようと思ったとして

も、悲しいかな人間の業で、「“考えないように” 、考え

る」という穴に嵌ったりします・・。困ったもんですね。



 わたしたちが、観念の奴隷にならない為に出来る事は、

「ああ。自分は今、考えてるなぁ。」と、自分の考えを眺め

ながら暮らして行くことぐらいしか無いでしょうね。

 そうすることで、観念の世界より広い世界と繋がりを持ち

つつ生きることができて、自由度が増します。


 わたしたちは、大きな社会の観念やその中の小さな社会の

観念に取り込まれ、その上に自分自身が抱えている観念にが

んじがらめになりながら、「これでいいはずだ」と自分に言

い聞かせて生きている。それが普通ですね。

 「自分は正しい」「あいつはおかしい」「自分が間違って

いるんじゃない」「あれは変だ」・・・。

 そんなことを毎日、何度となく思いながら暮らしています

が、そういう考えが四六時中浮かんでくるということ自体

が、自分の「正しさ」の不安定さを表わしています。

 「自分は人間だ」ということを誰も疑ったりしませんが、

絶対に確かなことは、疑ったり、それが正しい事である理由

を考えたりしないですからね。いちいち正当性を持ち出した

くなるというのは、それが不確かであることを自分で感じて

いるからです。


 観念的になればなるほど、自分に対して言い訳をする数が

増えていきます。それは、非常にくたびれることですが、人

はなかなか「自分がくたびれている事」に気付けません。

 〈自分に言い訳をしなくていい生き方〉

 それはとてもしあわせな生き方だと思いますが、わたした

ちは日々、自分が「しあわせだ」と思っていることを守る為

に、言い訳ばかりをしています。


 “しあわせな「事」” などないのです。

 むしろ、「事」から開放されることが、しあわせなので

す。

 「事」とは、観念の作り上げた “お話“ で、ちょっとばか

り楽しむのには、いいものですが・・・。




2018年5月17日木曜日

私は「体育会系」となじめない


 私は昔から、「体育会系」とは反りが合わない。ポロシャ

ツの襟を立てている男となどは、とてもじゃないが話が合う

気がしない。

 私は、まぁ、文系なのだろう。運動神経は良い方だと思う

が、「気合」とか「根性」とかいう言葉になじめないし  

「辛抱」とかは分かる  「縦社会」の絶対性みたいなもの

も受け入れ難い。

 年長者に敬意を払うということには、何の不満もないし、

その方が良いとも思うが、それは「縦社会」という話ではな

い。“敬意を払う” ことと、 “先輩には絶対服従” というので

は、まったく違う。

 前者は〈人〉に注意を向けているのに対して、後者は〈ル

ール(しきたり)〉に注意が払われる。

 もちろん社会にルールは必要だが、もともと存在している

社会のルールで十分なはずで、ある小さな集団の中の特殊な

ルールなど無くてもよいはずだ。そこに有るのは、「支配力

の継承」ではないのか?



 もちろんこれは極論であり、うがった考えだろうが、昔か

ら私が「体育会系」に感じる違和感とは、そういうものだっ

た。

 以前も書いたが、太平洋戦争中に軍隊経験を持った男たち

が、軍隊式の教育を社会に持ち込み、それが特に色濃く表れ

たのが「体育会系」なのだと思っている。(『努力にまつわ

る幻想について』2017/6 参照 

 そこでは “個人の意見” や “個人の事情” というものは、

排除される。



 高校球児が、なぜ未だに “坊主頭” であるのか?

 実は「耳を見せるかどうか?」ということに、自己主張す

るかどうかという象徴的意味合いがあるからだ。



 西川きよしが、長髪の若手芸人に対して「耳出せよ!」と

よく言っていたそうだ。「人の話を聞けよ!」という事なの

だが、そう言われて世の中を見渡すと、兵隊はもちろん坊主

だし、普通のサラリーマンにあまりロン毛はいない。髪の長

い女性は、仕事をする時はたいてい髪をまとめて耳を出す

し、当たり前だが坊主は “坊主頭” だ。

 「“坊主頭” にさせる」というのは、「おまえの話は聞か

ねえよ」ということである。

 軍隊やお寺はそれでいい。そういうところなんだから。

 でも、野球部がなぜ “坊主頭” である必要があるのか?

 「高校球児の坊主頭」に象徴される何かが、「体育会系」

の中に見え隠れする・・。



 私は「坊主頭反対!」、「子供の個性を奪うな!」などと

言うつもりなど毛頭無い。

 私の世代は、中学では坊主にさせられていたので、“坊主

頭” などなんでもない。むしろ、「世の中には、そんな理不

尽な事があるのだ」ということを経験させるために、中学の

“坊主頭” を復活させるのも面白いと思っている。けれど、

野球部などの “坊主頭” はまた違う。たかがスポーツなのだ

が、なぜスポーツだと “坊主” か? 


 〈髪切り〉という妖怪がいるそうだが、「体育会系」の社

会には、いまだに戦時中の亡霊がうろついていて、若者の髪

を切らせるのだろう・・。


 「体育会系」は、字の通り「体育系」ではない。なぜ「体

育会」と “会” が付くのか?

 それが「体育」という、ある種の価値感の元に集まった集

団だから “会” なのですね。

 一見、身体が根本のように思われるけれど、「体育」とい

う価値感によって、身体をコントロールしようという思想の

集団であって、実は「体育会系」という言葉とは裏腹に、非

常に観念的で〈アタマ〉優先の世界だというのが本当です。

 自分や自分たちの身体を、“思い通り” にしたいのですか

ら・・・。

 だから、それが高じてドーピングが行われたり、女子アス

リートが「無月経」になったりする・・。身体の声は無視さ

れるわけですね。


 そして、当然ながら「体育会系」は競争・勝負が好きで

す。目的志向でアグレッシブ。そして、観念的・・・。(こ

うして書いてみるとよく分かった。私と反りが合わないはず

だわ・・)


 別に「体育会系」の悪口を言いたいんじゃないんです。

(「言いたいんじゃない」と言いながら、明らかに言ってま

すが・・)

 一般には、“「体育会系」は身体と仲良し” みたいなイメ

ージがあるでしょうから、「それは違うよ」と言いたいんで

すね。

 「体育会系」は、身体を〈アタマ〉の奴隷にする人たちな

んです。


 身体を動かすといっても、例えば農業や林業やいろいろな

職人など、仕事で身体をコントロールする人たちは、ある目

的の為に、身体と頭を協調させるのであって、身体をコント

ロールすること自体が目的ではない。

 「体育会系」は、〈アタマ〉が身体を支配するという、

〈アタマ〉の “コントロール願望” が如実に現れている例で

す。ですから「体育会系」には 、自分の外に対しても “コン

トロール願望” の強いパーソナリティが多い。(個人の感想

です)


 なんでこんな事を書き出したかというと、ニュースで日大

アメフト部の事件を見たからです。(あれは、暴行傷害だよ

なぁ)

 で、前から「体育会系」の悪口を言いたいと思っていたの

で、そうせずに居れなかったのでしょうねぇ。

 やっぱり「悪口」でしたね。(笑)


 よく「体育会系はあたまが悪い」という言い方がされます

が、思考力が劣るという事ではないのです。勉強や仕事が出

る「体育会系」はいっぱいいます。“あたまが悪い” なん

てことはない。彼らの “アタマが悪い” のです。


 自分の身体を、アタマの奴隷にしたりしちゃいけない。



2018年5月13日日曜日

死ななければ、死んでしまう。


 わたしたちは、他の生き物を食べて生きている。

 もしも、他の生き物を食べなかったらどうなるか?


 わたしたちは植物の生産したものを食べて生きているが、

それを食べなければ、当然植物は増えてゆくことになる。ま

た、植物を病気にしたり腐らせたりする菌類も、植物を食べ

ているわけなので、菌類も植物を食べないとなると、植物は

病気になって枯れたりしないし、風などの物理的な原因で折

れて枯れても、それを食べる者はいないので、枯れた植物体

は残ってゆく。

 その状況が続いて行くと、植物は炭素などの構成要素とな

る物質が無くなるまで増え続け、そしてその活動はストップ

する。活動し続けようにも、もう利用する物質が無いのだか

ら。

 また、動物の方はといえば、自分で身体を生産したり、身

体の外にあるエネルギーを直接利用する事は出来ないので、

やはりその活動はストップする。

 地球は、生命活動の止まった世界・・、つまり「死の星」

となる。



 生命活動は、ある個体が別の個体を食べるという、“個体

の死” が無ければ続かない。個体が死ななければ、すべてが

死んでしまう・・・。

 “個体の死” は生命活動に不可欠であり、「生」と「死」

は生命のそれぞれの側面であって、ひとつのものです。

 わたしたちのアタマが「“個体” 意識」を持たなければ、

「死」というものは、自然に生命の中に溶け込んでいるもの

でしょう。

 「死」も含めた上での〈生命〉であるということを、人間

は素直に受け止めた方が良い。



 「自分が死ぬ? そんなの困る!」

 まぁ、そりゃそうです。でも、みんな死ななかったら

んな死ぬのです。自分も含めた、すべての生命がストップす

ることになる。それじゃぁ、なんの為に「死なないでいた」

のか分からない。

 《人は通常、小さな罠を怖れて大きな罠に逃げ込む》

 そんな名言がありました。それは、こんな風に言い変えら

れるのかも知れません。

 《人は通常、小さな利益にこだわって大きな利益を逃す》



 “個体の死” を厭うばかりに、“全体の生” の中に生きる喜

びを逃しているのが、我々人間のようです。

 死に代わり、生き代わりしながら、生命全体の流れの中に

身をゆだねることで、命そのものの喜びを得られるのに・・

・・。



  人類の偉大な先達たちは、そのことを伝えて来た。

 けれど、それを本当に受け取った者はまだまだ少ない。



 《死んで生きよ(死せよ、成れよ)》とゲーテは言った。

 《放てば手に満てり》と道元は言った。

 《南無阿弥陀仏》とは、生命の中に自分を投げ入れてしま

うのであるし、達磨は「あなたは何者か?」と訊かれて、

「知らんな」と答えた。

 《生きようともがけばもがくほど、乏しくしか生きられな

いのだ》これは、アメリカのスピリチュアリスト、バーノ

ン・ハワードの言葉。


 「“自分” が生きよう」とすることが、真に生きることを

邪魔する。「アタマが生きよう」とすることが、命が生きる

ことの妨げになる。

 “自分” は死にたくない。

 “アタマ” は死ぬのが恐い。

 そうやって必然から逃れようともがくことで、生の流れが

乱れてしまう・・・。



 自分は死んでよい。

 自分は死なせてしまう。

 それこそが、生きる秘訣だ。



 先達たちは、そう教える。



 《 わたしたちの生は、死ななければ死んでしまう 



 生きることは、生きる喜びとは、「自分を守ろうとして

様々なものにしがみ付くこと」を忘れてしまう 、そんな “お

おらかさ” にあるんではないだろうか。





 


 

「女子高生心中」のニュース


 女子高生が二人、校舎から飛び降りて死んだらしい。心中

のようだ。

 自殺した事について批判する気は無い。それが彼女たちの

「必然」だったのだから、仕方がないことだ。けれど、自殺

するということは、しあわせには生きていなかったという証

しなので、やはり自殺するという境遇は可哀相だね。

 誰も、自ら命を絶つつもりで生まれて来はしない。

 誰でも生きたい。

 けれど、皮肉な事に、その「生きたい」という想いが、時

として人を自殺へと追い詰めてしまう。

 《自殺する人は、自殺するしか生きる道が無かった人》だ

から。


 わたしたちが本来持っている、〈生物としての命〉は、決

して自ら命を絶つという方向へは向かわない。死のうとする

のは「社会的な命」である〈エゴ〉です。

 その〈エゴ〉(個人のストーリー、又は自己イメージ)

が、社会の中で、他の〈エゴ〉とのせめぎ合いから居場所を

失ってしまい、“生きる為に社会の外へ逃れる行為” が自殺

ですから、その人は  その人のエゴですが  「生きた

い」から命を絶つのです。

 死ななくても、生きているこの世界に違う場所はあるので

すが、観念の塊である〈エゴ〉には、それが分からない。

「自分がこの世で生きられる場所は、ここしかない」と思い

込んでいる。だから「わたしが生きる為には、ここを出るし

かない・・・」と考えて、この世界の外へ出る・・・。


 “自分のストーリー” が強固である人ほど、その人から

れば “社会のストーリー” も強固に見える。

 「自分は、この自分しかいない」

 「社会は、この社会しかない」

 そう強く固まっている〈エゴ〉にとっては、死ぬしか “違

う世界” へ行く方法がない。だから「生きる為に、死ぬ」。

 いや「死なない手段として、違う世界へ行くために自殺す

る」という方が適切でしょう。


 今回、心中した子たちが、そんな強固な〈エゴ〉  エゴ

イストということではないですよ  を持ってしまった生い

立ちや、心中するに至る直近の経緯などは知る由も無いし、

知っていたところで、私に何が出来たわけでもない。ただ、

そのことは「不運だなぁ・・」と思うだけです。何かが少し

違っていれば、その人生は気楽で楽しいものになったかも知

れない・・。


 わたしたちの〈エゴ〉、つまり自我は社会によって作られ

ますが、その過程で「社会の絶対性」といった感覚を持たさ

れます。“強固な〈エゴ〉” とは、「社会の絶対性」とそれ

に対応する「自分の絶対性」を “強固” に感じているという

ことです。


 「死にたい」と思っている人に、その個人の事情に対して

働きかけるのは、有効なこともあるけれど、難しいし、ケー

スバイケースだから、とても手が回らない。

 それよりも、自殺を減らしたいのであれば、すべての子供

に対して、思春期の頃に「社会は絶対的なものではないんだ

よ」という意識を持たせることの方が重要だと思う。

 「社会の在り方は、いろいろ有るんだ」

 「自分の在り方も、いろんなのが有り得るんだ」

 「社会の価値は、ひとつの約束事なんだ」

 そういう気付きを、誰もが持っている方がいい。けれど、

世の中は逆です。

 「社会の中で、価値のある人間になれ」という教育をす

る。社会の中で価値が有ると認めた人間を賞賛し、持ち上

げ、「社会の絶対性」を強化する。

 これじゃあ、「死にたい」人がいなくなるわけが無い。社

会の約束事からはみ出た人に、立つ瀬が無い・・・。


 そりゃあね、社会の方も必死ですよ。

 「社会なんて、単なる約束事だ」なんてみんなが思うよう

になったら、社会の方の命が無い。社会がむちゃくちゃにな

る・・。

 でもね、ほんとに「社会がむちゃくちゃになる」でしょう

か? 

 私はそうは思いません。縛りがゆるくなるだけで、社会は

成り立つでしょうし、その “縛りのゆるい社会” の方が、人

は生きやすいだろうと思うのです。

 「世の中はこうでなければ!」

 「自分はこうでなければ!」

 そんな刷り込みから逃れて、「まぁ、この程度で手を打ち

ましょうよ」、「ムキになるなよ・・」、そんなおおらかさ

を人々が誠実に持てるのなら、それは良い社会だろうと思う

のです。


 心中した女の子たちに、

 「だいたいでいいんだよ。世の中も、他の人たちも、“何

が正しいか” なんてほんとは知らないんだからね」

 そんな想いを持てる出会いが有ったのなら、彼女たちは自

殺しなくてもよかっただろうと思う。

 〈生物としての命〉ではなく、「社会的な命」である〈

ゴ〉の方を死なせるという考えも、持てただろうから・・。

 もちろん、彼女たちの “自殺も含めた人生” を否定する気

も、批判する気も無い。

 ただ、ちょっと残念だったね。しんどかったね。そう思

う。

 私は、後は黙って手を合わせるだけ・・・。

 しんどかったんだろうなぁ・・・。




 

2018年5月6日日曜日

山口くん、残念だね・・。


 TOKIOの山口くんが、ジャニーズ事務所を辞めるのだそ

うだ。芸能界から身を引くのだろう。

 社会というのは、“そういうところ” なので、“そういうこ

と” なのだろう。
 

 彼の起こした事は、法律によって量られ、事件の関係者と

の間で片をつけてゆく事で、他の者には関係ない。

 他の人はどう思うか知らないが、少なくとも私には彼を批

判したり、裁いたりする資格は無い。もちろん彼のした事は

良くない事である。でも、それを裁いたり、責任を追及した

りするのは、当事者と司法のすることであって、第三者には

関係が無い。

 幸いな事に、私は警察のお世話になったりするような事は

今まで無かった。けれど、それはたまたまその様なご縁にあ

って生きて来ただけの事で、この先自分が何を仕出かすか分

かったものではない。



 人は誰でも出来損ないである。

 当然ながら、私も例外ではない。この先どんな愚かな事を

するか知れたものではない。そんな自分が、他の人  ある

特定の個人  の過ちを批判したり、裁いたり出来る筋合い

が無い。「明日は我が身」である。



 人は皆、出来損ないである。

 人は皆、不完全である。

 自分の資質と、その時の状況との兼ね合いによつて、強さ

や賢さが現れることも有れば、弱さや愚かさが露わになっ

て、とんでもないことをしてしまうこともある。

 いったい誰が、その “人としての業” から逃れられるだろ

うか? そして、他人を批判し、裁くことが出来るだろう

か?
 

 わたしたちが、社会に生きる存在である限り、自分のした

事に社会的責任があるのは言うまでもない。法律や社会通念

によって責めを負わなければならないのなら、それを免れる

道理は無い。けれど、たまたま自分が正当な側に立っていら

れるからと言って、正義面をして個人が個人を批判したり、

断罪することは、上品な事とは言えないだろう。
 

 「明日は我が身」である。

 人は皆出来損ないである。
 

 社会が人を裁くのは仕方がない。しかし、個人が個人を裁

く事は出来ないはずだ。お互い出来損ないなのだから。だか

らこそ、ほとんどの社会がリンチ(私刑)を禁じている。
 

 イエスが、不貞をはたらき罰せられようとしている女を助

ける話がありますね。

 「汝らのうち、一度も罪を犯したことが無い者が、この者

にまず石を投げなさい」

 イエスがそう言うと、人々は皆去って行ったという・・。



 人は皆出来損ないです。

 人は皆罪を犯します。(法に触れるかかどうかではなく)

 うしろめたさも無く、他人を批判できる人間の厚顔には、

不快さと恐ろしさを感じます。

 実際に法を犯して刑に服す者にも、更生の機会が与えら

れ、その支援が行われるのが、文化的な社会だと思います

が、事件を起こしてすぐに「山口の復帰は有り得ない」と言

うのは、“世の中の目” に対する忖度の色合いが強いのでは

ないか? そのことに言及出来るのは、被害を受けた側の人

たちだけだろうと思うけどね。



 『とにかく、まずは自分のしたことに責任をとって、被害

者に謝罪と償いをして、それから、本人にとってこれからの

人生が良い方へ向かう様に、考えていってもらいたい・・』


 「リーダーからは、そんなコメントを聴きたかったなぁ」

と、私は思っているのだけれど・・。(批判じゃないです

よ。“その方が良かったんじゃないか” という、思いやりで

す)

 ましてや、関係ない第三者が “ああだ。こうだ” と批判す

るのは、「下品だなぁ」と思う。



 「下品だなぁ」と書いたのも “思いやり” ですよ。

 〈下品〉というのは、“不幸” ということですからね。

 そうやって、他人を批判したり、裁いたりする人間は、自

分が救われていないので、その不満が弱い立場の人間に向く

んですからね。


 『自分自身を嫌いな人ほど、他人を攻撃する』と書いた事

もありましたが、“逆もまた真” で、人を攻撃(批判したり

裁いたり)しない様にした方がしあわせでいられる。

 だからバカな事を仕出かしてしまった人を、とやかく言わ

ない方が良いと思っています。自分が穏やかでしあわせで居

る為にね。


 山口くんが、あるべき自分を取り戻して、穏やかになれる

日がなるべく早く来ることを祈っています。TOKIOがどう

こうではなく。

 もちろん、当事者の女の子もね・・・。


 (でも、山口くんが「ジャニーズ事務所を辞める」という

  のを、〈ニュース速報〉で流すテレビ局は、バカなんじ

  ゃないの? 報道の仕事辞めたら?)



2018年5月5日土曜日

愛と憎しみ


 《ひとりの人を愛する心は

       どんな人をも憎むことができません》



 これが誰の名言だったのか忘れてしまいましたが、ずいぶ

ん昔  たぶん十代の頃  に知った言葉です。

 この言葉を逆に考えると、「ひとりの人でも憎んでいる人

は、誰ひとり真に愛していません」ということになるんです

が、そうなると世の中のほとんどの人は、誰ひとりも真に愛

していないという事になります。



 この言葉に出会った事は、私の恋愛観や人間関係に対する

考え方に、大きな影響を与えましたね。影響を与えられたと

いうより、大きな制約が出来たというべきかも知れません。

 「気安く、〈愛〉なんて言葉を使ったり、愛したつもりに

なったりするなよ」というわけです。



 この言葉を正しいとすると、常識的な世の中の見方から外

れてしまいます。

 例えば、子供を殺された親が、犯人を「憎む」とすれば、

その親は我が子を愛していない事になってしまうからです。



 とんでもない話ですね。

 とうてい、世間では受け入れられないでしょう。



 また、イスラム原理主義者やキリスト教原理主義者が、互

いに相手を「憎んでいる」としたら、彼らの自身の宗教に対

する「愛」(信仰)は偽物だと見做すことが出来ます。

・・・とてもじゃないが公の場では口にしにくい話です。
 

 世の中には、「“憎しみ” の強さは、 “愛” の強さに比例す

る」といった見方がありますが、それは違うと・・。


 正しくは、「“憎しみ” の強さは、“エゴ” の強さに比例す

る」ということです。

 そして、「“憎しみ” を持つ者は、“愛” を持っていない」

ということです。



 ほんとに、とんでもないことを書いてますが、最初の言葉

を言ったのは、私じゃないですからね。(ムダな言い逃れだ

な・・)

 おかげで私自身、若い時から “気楽な恋愛” が出来ずに来

ました。それは気の重い事でしたが、同時に幸福な事でもあ

りましたけどね。



 前にも話題にした、浄土真宗のお坊さんの藤原正遠さんの

著作の中に、次の様なエピソードがあります。



 女子大生が誘拐され、殺されるという事件があって、その

父親の話が報道された際に、その方はこう仰った「その男が

ほんとうに憎い。先方にも訳があったであろうが、ほんとう

に憎い。娘がかわいそうである」。

 正遠さんは、この方の《「先方にも訳があったであろう

が」という言葉に胸を打たれた》と書いておられる。



 自分の娘を殺されて、普通「先方にも訳があっただろう

が・・」とは言えませんよ。

 この方の中には「ひとは皆不完全であり、いつ罪を犯すか

分からない」という深い認識があり、娘を殺した男に対する

憎しみの中にありながら、罪を犯す因縁にあった男に対する

慈悲がある。

 この方には「この男を心底憎んでしまえば、娘に対する 

“愛” を汚してしまう。そうなれば、娘がさらに可哀相だ」

という想いがあったのでしょう。もちろん、はっきりとそう

考えていたわけではないでしょうが・・。



 愛するものを損なわれて、その損なった者を憎むことは、

とても人間的なことに思えますが、人間以外の動物も、自分

の縄張りや子供を奪われそうになると、とても怒りますか

ら、人間的と言うよりは動物的なのでしょう。

 冒頭に書いた言葉が発せられたのは、「人として、〈愛〉

というものを動物のレベルに止めて置くべきではない」とい

う想いからでしょうね。



 ここで言われる〈愛〉は、「神の愛」や「仏の慈悲」とい

ったものであって、普通ひとが口にする “愛” ではない。

 普通ひとが口にする “愛” は、仏教で言うところの「渇

愛」であって、「執着」なので、それに気付き、それに振り

回されない様にしなければ、しあわせには生きられない。

 だから、この名言を言った人は、一言釘を刺しておきたか

たのでしょう。



 《ひとりの人を愛する心は

         どんな人をも憎むことができません》


 けれど、仏様にでもならなければ、《どんな人をも憎ま

ず》に生きることなど出来ませんね・・・。

 でも、《出来るだけ憎まず》に生きることで、自分の中の

〈愛〉がその分豊かになります。それは、しあわせな瞬間が

増えてゆくことでもあるだろうと想うのです。


 〈愛〉というのは、何かロマンティックなものや、高尚な

感情といったものではなくて、“肯定する姿勢(在り方)” 

といったもので、人に本来在るものです。だから、自分の中

〈愛〉が豊かになるほど、世界が肯定的に見えてくること

なります。


 世界が肯定的に見えれば見える程、人はしあわせですよ

ね?

 「憎まない」ということは、自分の中に〈愛〉(しあわ

せ)が占めるスペースを広げてゆくことなんですね。






2018年5月2日水曜日

エゴは愛されたがる


 〈エゴ〉というと、「自己中で、わがままで、他人の事な

ど何にも気にしていない」という感じがしますが、実のとこ

ろ〈エゴ〉は、とても愛されたがるものです。

「愛されたい」というよりは、「認められたい」という方が

いいでしょうが、何にしろ他者に肯定されて、自分の価値を

確かめたいんですね。
 

 〈エゴ〉は、常に他人の目を気にしています。

 “他人の目” つまり “社会の評価” だけが、〈エゴ〉の存在

価値を担保してくれるものだからです。

《意識とは、社会が脳の中に浸潤して来たもの》で、それが

〈エゴ〉ですから、“社会の評価” だけが〈エゴ〉の存在価

値を担保するのは当然です。「社会の価値感」が〈エゴ〉の

骨格なのですから、社会から認められなければ、〈エゴ〉は

崩れてしまいます。だから〈エゴ〉は社会(他者)から愛さ

れたい。愛され(認められ)、自分の正当性を確かなものに

したいのです。

 しかし、愛されたとしても、それは一時しのぎにしかなり

ません。


 〈エゴ〉を生むのは “社会” です。その “社会” に認めら

れても、それは〈子供〉が “家族” に認められるようなもの

であって、身内の馴れ合いでしかありません。その「価値

感」は、 “社会” という小さな世界の中でだけ意味を持つも

のであって、外の世界が垣間見えた時には〈エゴ〉は安定感

を失い、「懐疑・恐怖・怒り」に苛まれることになります。

 いや、〈エゴ〉は常に外の世界の存在を感じているので、

「懐疑・恐怖・怒り」の影に怯えていて、それ故に自分を認

めてくれるものに飢えているのです。

 「わたしを愛してくれ」と。


 外の世界とは、“エゴの外の世界” という意味ですが、

〈エゴ〉にとって、〈エゴ〉以外の世界が成立することは脅

威です。「他の在り方が確固として存在する」ことは、〈エ

ゴ〉自身の肯定感を揺るがしてしまいます。その様な世界が

自身とは無関係に成立していては困るので、存在するのであ

れば、〈エゴ〉自身を肯定してくれるものであって欲しい。

つまり、愛されたい・・。


 ところが、〈エゴ〉の仕事は「エゴ以外のものを否定する

こと」ですから、〈エゴ〉が別の〈エゴ〉から愛されること

はありません。

 また、本当の “エゴの外の世界” が〈エゴ〉愛することは

ありません。“エゴの外の世界” は特定のものを肯定したり

はしません。「すべてOK」なので、〈エゴ〉の持つ「自分

は特別」という想いを損ないます。それは、〈エゴ〉からす

れば敵対的で、自尊心を傷つけるものに映ります。(でも、

れこそが〈愛〉なのですが・・・、〈エゴ〉には理解でき

せん)


 結局、どれほど〈エゴ〉が愛されたくても、〈エゴ〉が愛

されることはありません。

 〈エゴ〉の知る “愛” と、本当の〈愛〉は別のものなの

で、ついに〈エゴ〉は愛されることがないままに終わりま

す。(愛されていても、気付けないのですから・・)

 〈エゴ〉が手に入れられるのは、近い立場にある別の〈エ

ゴ〉から、ほんの一時受けられる “認定” でしかないのです

が、〈エゴ〉はそれを “愛” とみなします。そして、その 

“愛” はすぐに壊れます。 

 〈エゴ〉は「自分が大事」ですし、それ故に「否定するの

が仕事」ですから、せっかく自分を “認定” してくれた別の

〈エゴ〉に対しても、それが持つ、自分とは違う部分の否定

を始めるからです。

 「それは違う!」

 「それはおかしい」

 「それは変だ」

 「それは間違ってる!」

 戦いが始まります・・。


 〈エゴ〉は誕生して以来、休みなくそんなことを繰り返し

続けて、他者を憎んだり、恨んだりしているわけですが、そ

の一方で、自身の肯定感を得たいが為に、やっぱり「愛され

たい」・・・。そりゃ、無理でしょう。


 愛されたければ、〈エゴ〉を消すこと。

 せめて、脇にどけること。

 けど、その時に「愛される」のは、〈エゴ〉ではないです

けどね。だって、そこに〈エゴ〉はないわけですから。


 やっぱり〈エゴ〉が愛と出会う事は無い。

 愛は〈エゴ〉の外に在る。

 〈エゴ〉が、自身の完全な肯定感を得る時は、永遠に来な

い・・・。


 〈エゴ〉の間違いとは、「愛」というものを “関係性” だ

と思っていることなんですね。 

 「愛」とは、“関係性” ではなくて、“在り方” なのに、そ

れに気付けない。

 〈愛〉には、関係を持つべき「対象」は無い。

 “世界すべてを肯定する在り方” が〈愛〉だからです。


 〈エゴ〉がどれほど愛されたがっても、〈エゴ〉である限

り〈愛〉の外に居る・・・。

 憐れですね・・・。