2020年7月26日日曜日

「命」とは何か?



 「安楽死」「尊厳死」「自殺」「感染症弱者」・・・。

 「人命がすべてに優先する・・・」。

 「命」とは何か?


 身体的・生物的に「生きている」状態ならそれでいいの

か?

 それが「命」の全貌だろうか?
 

   「意識がある」、「自分の意志がある」、それが「命」の

真の価値だろうか?


 いま、日本の社会では二つの「命」の基準がある。

 ・ 心臓が動いていること(動かされていることも含

  む)。

 ・ 脳が働いていること。

 どちらかが満たされていなければ、その人は「死んでい

る」と判断される。しかし、その基準を受け入れられない人

も多い。この基準はあくまで、現代の日本社会が採用してい

る暫定的なものにとどまる。すべての人が納得する「命」の

定義が存在しないからだ。肉親を亡くした人が、もう完全に

この世に存在しないその人を、「まだ生きている」「受け入

れられない」と言ったりするのだから。

 「命」とは何か?


 今回ニュースになった安楽死を依頼した ALS 患者の女

性は、視線入力の装置で意志の疎通を行っている状態だった

そうだが、病状が進むと眼球も動かせなくなり、視線入力も

使えなくなる。そうなってくると最後に動かせるのは肛門の

筋肉だそうで、介護者に肛門に手を当ててもらい、肛門に力

を入れるかどうかで「イエス」「ノー」の意思表示をして、

自分の意思を伝えることになるそうだ。そして、やがて肛門

も動かせなくなると、自分の意思をまったく伝えられなくな

り、「閉じ込め症候群」と呼ばれる状態になってしまう。


 どこかが痛くても、苦しくても、何かをしてもらいたくて

も、誰にも伝えることもできない。喜びも、悲しみも、怒り

も、感謝も、誰とも分かち合うことができない。

 私の感覚では、人にとってこれほど残酷な運命はない。

 「死なせてくれ」

 そう思って無理はない。

 そんな恐ろしい状態に誰が耐えられるだろうか? 耐えら

なくても、自ら死ぬこともできないのだ。それは想像を絶

する。

 その想像を絶する残酷な状態を生みだすのは、ALS と

いう病気ではなくて、現代の医療なのだ。「命を守る為」

に・・・。

 「命」とは何なのか?


 現代の医療は、ほとんど「身体的 “命” 」の所で思考停止

している。そこから先は「医療の範疇ではない」と、社会と

個人に丸投げしている。

 そのままでは死んだであろう人を生かして、その結果、そ

の人がどんな苛酷な状況にさらされたとしても、「それはそ

の人が対処すべき問題であり、社会がフォローすべきこと

だ」として関わらない。私はそれを無責任だと思う。(矛盾

や葛藤を抱えながら、その苦悩を受け止めつつ、今はそれを

するという医療者もいるだろうし、それゆえに医療から離れ

る人もいるだろう・・・)

 何も「患者の人生に責任を持て」と言うのではない。「人

の命を左右するのだ。“命” とは何なのか、命がけで考えて

るのか?」と思う。それが、責任だと思う。


 「命」とは何か?


 無責任なのは医療者だけに限らない。ほとんどの人間が無

責任だと思う。

 「命とは何か?」という問いに対して、揺るぎない答えを

持っている人はごく限られるだろう。ところが、誰もが、確

固たる答えを持たないまま「命」について口にする。それが

自分自身の「命」についてならそれはそれでいいだろう。し

かし、他者の「命」に対して口を開くなら、そこには責任が

生じる。覚悟が要る。その社会の、その時の公式見解を掲げ

て、それで済ませられるようなことではなかろう。


 「命」とは何か?


 身体的に存続することだけではないだろう。

 精神的に存続することだけでもないだろう。

 その二つを合わせたものでもないだろう。

 そして、“個” が持っているものでもないだろう。

 「命」とは、《 “個” を生みだし、それを生かさしめてい

る〈働き〉》のことだろう。


 この半年余り、コロナの騒動を不快に感じ続け、自殺や尊

厳死や安楽死などに対するありきたりの言葉をいくつも聞か

され、いつも憮然とした思いになっていた。


 そこには、「命」に対する畏怖が感じられない。

 “個” の「命」という狭いところにだけ目を向け、それを

「自分たちでコントロールするのだ」という、浅薄さや驕り

ばかりが幅を利かせる・・・。


 人は誰でも死ぬ。その厳然たる事実をどう考えているの

か?

 人のからだは、歳をとって死んでゆくようにプログラムさ

れている。その自然の摂理をただ忌み嫌い、恐れ、悲しむこ

とは、「命」に対する冒涜ではないのか?


 生まれること、生きること、死んでゆくこと。

 それを受け入れ、厳粛に見守ることが、「命」を守ること

ではないだろうか?



 

2020年7月25日土曜日

生を明らめ 死を明らめ・・・



 「生を明らめ 死を明らめるは 仏家一大事の因縁なり」

という。

 生と死の本質を見極め、揺るぎない「死生観」に立つとい

うことが最も大事だということだろう。


 それはそうだ。人にとって、「死生観」がすべての価値観

の根本になる。それぞれの人の「死生観」が、その人の意識

の中心で、考え、行動を既定しているだろう。何も「仏家」

だけではない。すべての人にとって「死生観」を明らかにす

ることは一大事だ。

 ところが、現代では人は「死」を隠す。そして、「生」は

社会の “お話し” の中に準備されていると思っているよう

で、「生を明らめ 死をあきらめ」なんてことに普通は関わ

らない。それで問題無いと思っているらしいのだが、私から

見れば世の中は問題だらけだ。だって、みんな泣いたり怒っ

たり悩んだりしまくってるんだから。


 メンドウなことは考えない。だから「死」は隠す。できる

限り回避する。回避できない「死」は美化したり、怒りの対

象にしたりして、その本質については考えないようにする。

「生」は、世の中にお手本があるので、それに従っていれば

しあわせになれる。

 それが一般的な世の中のやり方だが、それで済ませられる

のかい?


 それで済ませられるのなら、それはそれでいいことなのか

もしれないが、私はそうは思えないし、皆がそれで済ませら

れているようにも見えない。先に書いたように、みんな泣い

たり怒ったり悩んだりしまくっているのだ。


 考えたくないことを隠したり、偽装したりしてごまかして

手に入れられるのは、まがい物、あるいは作り物だ。価値観

の根本が “作り物” だったら、それが生み出す価値も “作り

物” だろう。私は “本物” がいい。


 というわけで、私は「死」について考えざるを得ない。

 「死」について考えずして「死にたくない」と言うのは、

「生」の半分を無視する態度だ。だって、そもそも誰もが死

ぬのだから、それを拒絶していては「生」が “負け戦” のよう

なもので終わることになる。それこそ “死” ではないか?


 見るべきものは見るべきだ。知るべきことは知るべきだ。

考えるべきことは考えるべきだ。そして、素面で生きるべき

だ(私はいま、少しお酒が入っているけどね)。アタマが採

用した “お話し” に酔っぱらって「死」を拒絶している間

に、「生」を見損ね、知り損ねる。

 「生死」を “考える” ことこそが、「生きる」ことではな

いだろうか? そしてそれを “明らめる” ことこそが、人の目

的ではないのか? だから「一大事」だと言うのだ。


 この半年、コロナの騒ぎに付き合わされて、本当に呆れて

いる。


 「死にたくない」「死なせない」・・・。


 永遠に生きればいいさ。生きれるものならね。

 「一大事」を無視したまま、「生」も「死」もごまかした

まま、亡霊のようにね・・・。








2020年7月24日金曜日

自然にさからって



 人は、ほぼ全員がわけも分からず生きている(と、思うけ

ど)。けれど、普段はそのことを意識しないようにしてい

る。

 考えないようにしているか、自分なりになんらかの “わ

け” を想定して自分を納得させている。けれど、もともとわ

けも分からず生きているので、しばしばそのわけの分からな

さが意識上に浮き上がってきて、非常に不安になってしま

う。そして、人を最もわけが分からなくさせ、不安にさせる

ものは「死」だろう。


 コロナの問題、先日の三浦春馬くんの自殺、そして昨日は

「 ALS の患者から頼まれて、薬物を投与して死なせた(安

楽死を手伝った)」ということで、二人の医師が「嘱託殺

人」の疑いで逮捕されたというニュースがあった。共に、わ

たしたちの「死生観」に強く訴えかける出来事だと思う。


 コロナの問題は、“自然にさからってでも、徹底的に現実

から「死」を排除したい” という望みにもとずく。

 自殺は、“自然にさからってでも、「死」によって現実を

排除したい” という望みがそうさせる。

 安楽死は、“自然にさからって「死」を排除している、と

いう現実から解放されたい” という望みによる。


 思い付きで書いたが、これらの苦しみの違いは、「死」と

「排除」という思考の組み合わせの違いによるのだろう。

 コロナの問題では、排除したいのは「死」という苦しみ。

 自殺と安楽死によって排除したいのは、「生」という苦し

み。

 その求めていることは真逆だが、希望や絶望は状況によっ

て生み出されるということをよく表している。
 

 コロナの問題では、“死を管理したい” ということが望み

だが、自殺・安楽死の場合は “管理された「生」から逃れた

い” ということが望みとなっている。


 “死を管理する” ということは、「死なないように生き

る」ということであり、そのまま “生を管理する” ことに繋

がる。ところが、「生」が高度に管理されてしまうと、人は

死にたくなってしまう。「自分は生きられていない」と感じ

るのだ。

 人というものは、程度の違いこそあれ、「死にたくない」

と「生きたくない」の間で常に揺さぶられているものなのだ

ろう。面倒な存在だ。


 その「面倒さ」の根底にあるのは “自然にさからって” と

いうことのようだが、それは人が “自然にさからう” ことが

出来るようになって生まれた問題だと言える。


 ほんの百年ほど前なら、人はウイルスの存在など知らず、

疫病が流行れば人は逆らうことはできずに弱い者は死んでい

った。人工呼吸器など無かったから、「安楽死」などという

考え方以前に、病によって自然に死んでいった。

 自殺は、三~四千年ぐらい前には、都市化した所ではもう

よくあることになっていたのだろうと想像する。

 歴史の違いはあれ、人が「自然にさからう能力」を持った

ことによって、「生」という自然からも、「死」という自然

からも乖離し、その乖離が人を苦しませる。


 人はいまさら「自然にさからう能力」を捨てることはでき

ないが、それが苦しみを生みだしていることを意識し、“自

然より自分の思考が絶対的に優先する” という立場から少し

身を引く方が賢明だろうと思う。ざっくり言えば、「ほどほ

どに生きて、ほどほどに死ぬ」ということになるだろうが、

こんな風にも表現したい。


 「ゆるりと生きて、すらりと死ぬ」(・・・なんだか爺ク

サイ言葉だけど・・・)


 「生」を管理し過ぎては、人は生きられない。

 「死」を管理し過ぎても、人は生きられない。

 けれど、人は管理することの罠にハマる。

 「ゆるり」と「すらり」と、「そこそこ」「ほどほど」に

生きられないものだろうか? 生きさせてあげられないもの

だろうか?

 私はそう生きたいと、そこそこ思うのだが。




2020年7月21日火曜日

「頑張れ」って言うな!



 テレビを点けたら、三浦春馬くんの自殺についてやってい

た。

 親交のあった人との過去の会話の内容が画面に出ていて、

彼の言葉と、彼に掛けられた言葉がいくつか載せられていた

のだが、その一つの画面の、わずかな言葉の中に、「頑張

る」という言葉が四つか五つあった・・・。

 「あ~あ・・・・。」と、思わずため息が出る。


 本人も「頑張る」と言い。周りの人も「頑張れ」と言う。


 本当に、もういい加減にしないか?

 「頑張る(れ)」という言葉、「頑張る(れ)」という姿

勢が、これまでどれほどの人を追い詰めて来たかを想像する

と、空恐ろしくなる。それと同時に腹が立ってくる。


 日本語に「頑張る(れ)」という言葉が無かったら、日本

人の自殺者の数は三分の一ぐらいになるんじゃないだろう

か。


 自殺者だけではなく、過労死も鬱病もパニック障害もひき

こもりも不登校もニートもパワハラなんかも、かなり減るこ

とだろう。多くの家庭の、家族間のもめごとも減ることだろ

う。


 本当に、もういい加減にしよう。

 少なくとも人に対して「頑張れ」と言うな。

 「頑張る(れ)」という言葉は、副作用の強い薬のような

もので、慎重に使わなければ、人を害し、命さえ奪う。

 「頑張る(れ)」という言葉の持つ “毒” の面に対する意

識を、日本人全員に持たせるようなキャンペーンでもするべ

きだ。NHKあたりがやればいいのではないか? キャンペー

ンはお得意だろう。 新型コロナなんかよりこっちの方がはる

かに大きな問題だ。


 私は「頑張るな!」とまでは言わない。

 人は、ごく自然に頑張ったりするものだ。

 しんどい仕事をしている途中でちょっと一休みしてから、

「よし。頑張ろう!」と元気よく再開したりすることに何も

問題は無い。自分の行いが、誰かの、人としての本質的な

びや安らぎに繋がるような場面での「頑張り」なら、それは

自身の喜びにもなるだろう。けれど、心をすり減らし、から

だに泥のように疲れがたまっているような日々を過ごしなが

ら、「頑張らないと・・・」と、自分の感覚ではなく、自分

の置かれている状況の方に自分を合わせようとしている時な

どは、「頑張る(れ)」のダークサイドに囚われていると見

ていいだろう。

「頑張る(れ)」という思考に惑わされて、「命」が  

とからだが   “二束三文” で売り飛ばされようとしている

のだと。


 “頑張れない人間” は「ダメ人間」。それが、今の日本の

風潮だろう。そういう考え・人の見方がわたしたちのアタマ

に徹底的に刷り込まれている。けれど、それが人間のあるべ

き姿というわけでは、決してない。それは、一つの価値観に

過ぎない。それが、人としての正しい在り方でもない。それ

は、社会の無言の要請によって人が自ら生み出したもので、

個人というものを、社会を存続させるパーツにする為の一種

のコントロール・ツールだ。


 それは、人に自己否定感を持たせる。そして、自己肯定感

を取り戻そうとして人が絞り出すエネルギーを、社会を動か

すために吸い取る。そうして、人は命のエネルギーを奪われ

てゆくのだ。


 もう、いい加減にしよう。いま、そう思っているだろ

う? 三浦春馬よ。


 このブログを、彼への供養としたいと思う。


 「君はちょっとミスっちゃったね。けれど、君は間違って

はいないよ。社会のパーツとして生き続けるのは、人として

あるべき姿ではない。君は少なくとも、それだけは拒否した

んだ。君はよくやったよ。少なくとも、ここに一人、君の真

摯さを思う人間がいるんだから。何でもない人間だけどね」


 しかし・・・、腹立つなぁ・・・。




2020年7月19日日曜日

自ら命を絶った者への・・・



 俳優の三浦春馬が自ら命を絶った。関わりの有った芸能人

などから、「悔しい」「生きていて欲しかった」「残念」な

どというコメントが発信されているが、なぜそんなことを言

うのか?


 一人の青年が、自ら命を絶った。その事に対して「悔し

い」とか「生きていて欲しかった」とか「残念」などと言う

のは、当人の人生に心を寄せた発言とは思えない。それらは

どれも、当人に対する “希望” や “批評” であって、そこに

は、当人の人生・心情に心を添わせてみようという真摯さが

感じられない。

 「自ら命を絶つ」という人生の終わらせ方をした人間の内

側に、どのような苦しみや葛藤や絶望が有ったのかを、例え

想像でもいいから、自分の価値観・ものの見方から一歩踏み

出して心を寄せてみようという、「友愛」とでも言うような

ものがそこには無いだろう。


 人にはそれぞれ事情がある。

 人はそれぞれものの見方が違い、価値観も違う。

 自分の事情・ものの見方・価値観からは出ようとはせず、

自分のテリトリーに留まったまま、自ら命を絶った青年に対

して何かを言うのは「愛情」や「思いやり」ではなかろう。

その発言は、三浦春馬のためではなく、その出来事のために

不安定になった自身の気持ちを安定させるためだろう。そん

なことのために口を開くのは上品なことではない。


 一人の青年が自ら命を絶ったのだ。ものを言うのであれ

ば、当人の内面に一歩でも半歩でも踏み込んで、その苦悩の

代弁をしてみようとしたり、一緒に絶望してみようとしての

ことであるべきではないか? それが例え推測から出ないも

のであったとしてもだ。

 少なくとも、そのような態度が、自ら命を絶った人に対す

る敬意ではないのか?


 誰にでも事情がある。それぞれにそれぞれの人生がある。

それは当人だけのことだし、それは当人の存在を越えてい

て、当人もそれによって動かされて行く・・・。

 三浦春馬が自ら命を絶ったのは、本人の選択ではない。

 誰も、自ら命を絶って人生を終わらせたいはずがない。

 苦悩と絶望の内に自ら人生を終わらせるという事情にあっ

た者に対しては、幾分かでも、その苦悩と絶望を追体験して

みようとするのが、それに関わろうとする者のすべきことで

はないか?


 人の人生に対して、 “型通り” のもの言いをするだけな

ら、黙っている方がずっとマシだ。

 黙って、その人生に思いを寄せてみれば、例えその千分の

一でも、その悲しみ、苦しさを感じられ、分け持てるかもし

れないではないか・・・・・・・





2020年7月18日土曜日

無いものは無い



 二三日前の朝、突然こう気付いた。


 「無いものは無い」


 何か必要な物が無い時に、開き直ったようにして人はよく

そのように言う。けれど、ここで言う「無いものは無い」

は、それとはすこし趣きが違う。


 「無いもの」というのは、この世に「無い」。存在してい

ないのだ。


 「・・・? そのままじゃないのか?」


 分かりにくいと思うので、反対側から攻めてみる。


 この世界は「有るもの」だけで構成されている。


 当たり前過ぎる話で、「こいつは何が言いたいのだ」と思

われるだろうが、「無いもの」はこの世界の構成には全く関

わっていないし、関われない。だから、この世界に「無いも

の」というのは、「無い」のだ。


 やはり、まだ分かりにくいと思う。こちらも説明しづら

い。

 この世界には「無いもの」は無い。

 「無いもの」というのは、その定義上存在していない。存

在していないのだから、「存在するもの」で構成されている

この世界には、「無いもの」は無い。

 「無いもの」あるいは「無い」ということは、わたしたち

のアタマの中に概念としてあるだけのもので、この世界に

は、世界の構成に必要なすべてのものが「有る」。ところ

が、必要なものがすべて揃っているにもかかわらず、わたし

たちは四六時中「無い」と感じ、「無い」と言い、「無い」

と嘆く。

 すべて揃っているのに、なぜ「無い」と感じ、「無い」と

嘆くのだろうか?


 考えてみるに、これはかなりおかしなことですよ。

 「有るもの」だけで出来ている世界に生きながら、「無い

もの」が「無い」という当然のことを、「無い」と言って嘆

く・・・。これは狂気ではないですか?


 生きる為に必要なものを求めるというのは、生物として当

然だ。すべての生物が、まず食べるものを求めていて、今い

る所に食べ物が無ければ、「無い」と感じ、それを求めて行

動する。次に、子孫を残すために必要な状況が今いる所に足

りなければ、それを求めて行動する。その二点だけは、生物

としての必然だ。植物でさえ、光を求めて枝葉を伸ばし、水

を求めて根を伸ばす。その根底には「無い」という感覚があ

るだろうと思う。

 そのような、本能的な「無い」は、生きとし生けるものの

「生きる事情」そのものだと思う。


 「無いこと」が「苦」を感じさせ、「無いこと」を求める

働きが「生きること」となり、それ自体が「苦」となるけれ

ども、求めるものが得られれば「喜び」ともなる。それはた

ぶん人間以外の生物でもそうだろうと思う。食べ物にありつ

けば嬉しいだろう。少なくとも、そこには生理的満足がある

はずだ。生物にとって、「今、ここに無い」ものを探し求め

ることが、生きることそのものといってよいだろう。ただ

し、どんな生物であっても、必要な物が手に入れば、行動を

止めるものだし、その必要な物もシンプルな物だ。でも、人

間は違う。今生きていることに支障はないのに、何かが「無

い」と感じて苦悩する。

 そのために、時には他人を攻撃し、騙し、利用し、殺しさ

えする。また逆に、自ら命を絶ったりもする。すべてが揃っ

ているのに、それでは納得できなくて・・・。


 わたしたちは、他の生物とはかけ離れた次元で「無い」を

生みだす。

 すべてが揃っている世界の中で、「無い」「無い」「無

い」と意識の中で「無いもの」を生みだし続け、「有るも

の」を軽んじ、その価値を貶め続ける。

 わたしたちが「無い」を生みださなければ、世界に「無

い」は無い。


 世界はその始まりから終わりまで、常に「有る」「有る」

「有る」だ。「有るもの」だけで出来ている。「有るもの」

以外が有ったためしがない。

 そう思って自分の周りを見回すと、なんともこの世界は

「有る」「有る」「有る」・・・。無限に「有る」・・・。

言葉を失う・・・。これに驚かなけりゃ、ウソだ。驚けなけ

りゃ、もったいない話だ。もう世界中すべて、「有る」に満

ち満ちているんだから。


 すべてが有る。

 いや、「有る」がすべて。

 いったい何を望む?

 望むことが「無い」を生むのに。





2020年7月10日金曜日

アハハハハ!



 口から出まかせを書き連ねて、もう三年半になる。この

頃、自分が少し傲慢になってきたような気がしている。

 たんに歳のせいかもしれないけれど、こういうブログを書

いて自分の考えがまとまってきて、何やら変な自己肯定を持

ってしまったのかもしれない。「自分は悟っている」みたい

な・・・。


 私は「自分は悟っている」などとは思っていない。そもそ

も「悟り」というものがどういうものなのか、そのハッキリ

とした基準のようなものが存在しないので、自分が「悟って

いる」かどうかが分からない。ただ、「自分は普通の人が分

かっていないレベルのことを分かっている」といった感覚を

持ってしまっているのは確かだろう。それって、傲慢ですよ

ね。ヤな奴だ。


 私は「ヤな奴」にはなりたくない。別に人に嫌われたくな

いと言うのではなくて、自分が「ヤな奴」なのは嫌じゃない

ですか。私は「愛せる自分」でありたい。だから、何かを分

かった気になって、何者かになったように思っている自分な

んて容認できない。

 私は「なんでもない」「何者でもない」自分というものに

なりたかった(発見したかった)んですからね。


 しかし、困ったことに、「なんでもない」「何者でもな

い」ことを望むというのは、そこに何かの価値を見いだして

いるということですから、それは「何か」であり、「何者

か」であるということです。

 というわけで、「なんでもない人」になろうとしてるの

に、「何様」かになってしまっているという失態を演じるの

が、こういう人間によくあるパターンなわけです。私もその

パターンにはまりかけている・・。もしくは、すでにはまっ

ている。ヤだねぇ。


 「どうしたものか」と思うけれど、「どうにもならない」

というのが本当なんだろう。「なんでもない」ことを望むこ

とが「なにかである」ことなんだから、これはもうどうしよ

うもない。

 「なんでもない」と「なにかである」ことの間でふらふら

と揺れ続けるという、はなはだ落ち着かない状況に腰を据え

るというのが、唯一の道なんだろうと思う。

 「落ちつかない状況に腰を据える」だなんてムチャクチャ

な話だけれど、そうするしかないので、そうするしかな

い・・・。アハハハハ・・・。


 「そうするしかないので、そうするしかない・・・・・・

・・・・・」となったら、本当にどうしようもないことにな

ってしまうけれど、「そうするしかないので、そうするしか

ない・・・。アハハハハ・・・」と笑いがでるところが、

“一日の長” といったところであって、自分の「生」を生か

すも殺すも、この「アハハハハ」に掛かっている。


 わたしたちには「自由意思」というものは無い。

 すべては「状況による誘導」だから、「そうするしかない

ので、そうするしかない」のが、わたしたちの「生」です。

 であれば、笑ってしまうのが賢明だ。《機嫌の悪い奴はバ

カである》し、《しあわせとは機嫌の良いことである》のだ

から、なにがどうあろうと「アハハハハ」と笑えば、それで

済みだ。(「状況による誘導」によって笑えない人には申し

訳ない)


 なんでもあろうと無かろうと、それを笑ってしまえば、そ

の「何か」の次元を越えてしまう。それが本当の意味での

「なんでもない」ということなんだろう。


 ということで、私はこれから、心おきなく傲慢であってい

いのかもしれない。

 アハハハハ!

 (ヤな奴だな)





2020年7月4日土曜日

誰にでも「事情」があるけれど。



 昨日、以前勤めていた職場で仲の良かった人と、久しぶり

に会い、食事をした。

 三時間ほど昔話をしたりしながら楽しく過ごしたのだが、

家に帰ると、どうも気分が良くない。

 前にこのブログの中でも書いたことがあるのだけれど、以

前の職場はブラック企業化してしまい、そのせいで退職した

ので、昔話の内容自体はあまり愉快なものではない。それゆ

えに、当時の不快な気分がかなり蘇ってしまったのだろう。

気持ちがざわついてしまった。

 そしてこう思った。

 「ああ、自分は本当に “人間関係” というものを持てなく

なったのだなぁ」と。


 私も人間である。この、人の溢れる社会で生きている。だ

から、人と関わりを持ちたい。良いつながりを持ちたいと思

う。こんなブログを書いているような人間だし、“友達” と

呼べるような人間も最早いないが、決して「人間嫌い」とい

うわけではない。けれど、人と「関係」を持ちたいのではな

い。私が人と関わりたいのは、「共感」とか「感応」とかい

った形でのことだ。

 「共感」といっても、世の中の “お話し” の中での、「そ

うだよね~」といった仲間意識というものではなくて、人と

しての本質的で深いレベルでの、「そうだよね・・・。」と

いう、心の深い所に滲みるような確信を共にしたいというこ

とです。だから、「感応」という言葉も添えたくなった。


 “人間関係” というものは、私の感覚では、“社会のお話し

の中でのつながり” なんです。

 私はもういい年だし、もうそんなもの要らない。私が望む

のは、“社会のお話しの中でのつながり” ではなくて、“人と

人としての心のつながり” だね。

 極端に表現すれば、


 「生きてるね」

 「うん」


 「死んでゆくね」

 「うん」


 「不思議だね!」

 「うん!」


 「面白いね !!」

 「うん !!」


 というようなやりとりが成立するような人とのつながりが

持てれば、この世の中で生きている価値があると思う。

(「究極に強欲だ」という気がする・・・)



 社会の中で生きている者として、社会をたしなみ、社会が

より良いものであるための “関係” を持つことは当然のこと

だけれども、それは最低限でいい(どういうのが「最低限」

なのかは考えてみてもらいたい)。その最低限をクリアした

ら、“関係” はもうそれでいい。なぜなら、“関係” というも

のは、「違うもの」の間で生まれるものだから。

 いつまでも「違う」ことを意識し続けていては、どんな生

き物であれ、不安と緊張を持ち続けなければならないだろ

う。私はそれがしあわせなことだとは思えない。

 「違い」を “関係” によって結び付けることができたな

ら、そのあとは、“同じ” であることに意識を向けること

が、人として、生き物として、喜びであるだろうから。


 そもそも、わたしたち人間だけでなく、この世界のすべて

の存在は、「自然」というひとつなのだから  まさか反論

はないでしょう   “同じ” に決まっている。その “同じ” 

の中で「違い」を見てしまって苦しんでいるのが、わたした

ち人間というものです(他の生き物も、もしかしたらそうか

もしれないけど)。


 アダムとイブが智慧の実を食べて知ったのは「違い」でし

た。

 そして、人は楽園から苦渋の世界へと堕ちたのですが、こ

うも考えることができます。

 「違い」を見てしまうようになったおかげで、“同じ” と

いうことを「喜び」として捉え直す可能性を持ったのです。

そのことは、たぶん他の生き物には持ち得なかったことでし

ょう。


 わたしたちのアタマは悪い。ロクなことはしない。

 けれど、その果ての果てに、そのごくごく小さなあるとこ

ろに、すべての苦しみ・愚かさをひっくり返してしまう能力

が与えられている。「違う」がゆえに、 “同じ” であること

に気付いて、「しあわせである」と感じられる能力が。


 実は、「人間関係」なんて無い。

 さっき書いたことをひっくり返すようですが、実は、「人

間関係」というのは、本来ひとつのものの中に「違い」を見

て「距離」を置こうとした結果の事なんだろう。

「人間関係」というものは、その言葉とは裏腹に、人と人と

の間に「事情」という壁を作るものなのです。
 

 《 誰にでも事情がある 》という言葉を書いたことがある

けれど、ホントのホントは、わたしたちに「事情」なんて無

い。

 存在するものすべてに、それぞれの立場に立てば「事情」

はある。けれど、すべての存在は他の存在なしには存在し得

ないので、それぞれの「事情」などというものは、本当は無

い。

 自分の「事情」を忘れれば、この世界はすべて “同じ” 。

 「共感」や「感応」という言葉さえ超えて・・・。