2018年1月31日水曜日

『チカチカっと、するだけじゃ』by 沢木興道


 相変わらず寒いなぁ~。

 まだ、一週間以上はこんな感じだそうだ。今、フリースの

下に、セーターを一枚着込んだところです。


 寒くなれば、一枚服を着る。

 暑くなれば、一枚服を脱ぐ。

 当たり前の事ですね。誰でもそうする。

 ところがわたしたちは、何かに囚われると、この “当たり

前” が出来なくなる。“当たり前” で済ませられなくなる。


 「お腹がいっぱい!もう、入らない!」

 そう言っている女性の前に、美味しそうなケーキが出て来

ると、「もう、入らない!」はずのお腹にケーキが入ってゆ

く。そして、言う。

 「食べ過ぎて、苦しい・・」



 「100万円預けてもらえば、一年後には200万円にな

りますよ!」

 そう持ちかけられて、大金を預ける人がいる。

 もちろん、戻って来ない。そんないい話なら、借金をして

でも、本人が自分でやる。見ず知らずの他人に持ちかける理

由が無い。欲にかられて、当たり前の事が分からなくなる。
 

 当たり前の事が、当たり前に進んで行く。それで、当たり

前なのだが、それがつまらないらしい。刺激が欲しいんだ。

 甘いもの、三ツ星レストラン、儲け話、不倫のドキドキ、

ブランドのバッグ、バンジージャンプ、お化け屋敷、金メダ

ル、ビジネスの成功、エリートの椅子、権力・・・。


 昭和の前半に活躍された曹洞宗のお坊さんで、沢木興道と

いう方がいますが、その方が人生について、こういう風に仰

っています。


 『チカチカっと、するだけじゃ』


 解説するのも何ですが、「刺激で、ちょっと喜んだり泣い

たりするだけのことで、結局なんにもならん」という話です

ね。

 ほんとに身も蓋も無い言い方をされる方ですが、そこが痛

快で大好きです。


 《 “特別なこと” が無ければ喜べないというのは

                  心の病気です 》


 病気なんですが、みんなが同じ症状なので、病気と思って

いないんですね。


 ユダヤ教やイスラム教の〈割礼〉なんて、外から見たら異

常ですけど、その中では大真面目です。


 少年野球や、中高の野球部の練習を見てると、「ウェ~」

とか言いながら守備に就いていますが、あれ、絶対無意味だ

と思います。「今までがそうだから」という理由だけで、わ

けも分からずに「声を出せ!」と、指導する。

 イチローが「ウェ~」なんて言いながら、守備をしてます

か? そこにどっぷり浸かってしまうと、変な事が変と分か

らない。その中では、普通になっている。誰も疑わない。


 何かしなければ、「やった気」がしないというだけだと思

います。

 別にやらなくてもいい事を、手持ち無沙汰だからやってい

るだけだったり、自分達のしている事に箔を付ける為だった

り、ただ「もったい付けてるだけ」のことでしょう。

 何か特別なことをしないと、生きた気がしないんですね。


 広告なんかでよくある表現に、「高級感のある・・」とい

うのがありますが、〈高級〉って、結局「高級感」のことな

んですね。

 〈高級〉という実態があるわけじゃない。

 「〈高級〉ということにしたい」という意識だか、暗黙の

申し合わせだかによって「高級と感じる」だけで、ダイヤモ

ンドはやっぱり石ですよ。

 “高級な思考” も、「それはそれ」ですよ。

 自分たちの中の、何かを満たす為に、都合のいいものを特

別に思いたい。それだけのことであって、「特別なこと」っ

て〈飾り〉に過ぎない。『チカチカっと、するだけ』です

ね。


 家に居て、「あ~っ、寒い!」と、ミンクのコートを引っ

張り出す必要は無い。フリースや半纏でも羽織ればいい。

(逆に、「寒い」と言う理由だけで、ミンクのコートを羽織

ってコタツに入ってる人は、たいした人かも知れませんが)

 気分良く生きて行くことに、特別なものは必要ない。

 “誰かの目” を意識しないでいられれば、生きて行くこと

は大袈裟な事じゃない。

 自分の中の “誰かの目” を意識しないでいられるなら、生

きて行くことは気楽なものです。

 けれど、わたしたちは自分を特別だと思いたい。特別だと

思われたい。「自分は別だ」と・・・。でも、何と・・?

 「別」なら、どんな良い事があるのでしょう?

 「別」だとしたって、『チカチカっと、するだけ』のこと

です。


 人間は人間。

 何も持たずに生まれて来て、何も持てずに死んで行く。

 〈生きた証しを残したい〉なんて言う人がいますが、「子

供っぽいことを言いなさんな」と思いますね。

 そんな〈証し〉が、いつまで残ると思っているのか?

 あと二千年も経てば、釈迦やキリストさえ忘れ去られてい

るかも知れませんし、人類が滅びているかも知れない。

 なんにも残りませんよ。


 “特別” でもない自分が、いま生きているという事が〈特

別〉なんです。「空前絶後」なんです。

 人の約束事ででっち上げた “特別” を、ことさら身に纏お

うとするのは、約束事の外にいる者から見れば滑稽でしかな

い。
 

 必要なものは、必要だ。

 不必要なものは、不必要だ。

 何が本当に必要で、本当は何が不必要か?

 誰も、しみじみと自分自身に訊いてみたりはしない。


 生きることを大袈裟にしたのは “誰” だ?

 自分の中で、大袈裟に騒ぎ立てるのは “何者” か?
 

 寒くなれば、服を一枚着る。

 暑くなれば、服を一枚脱ぐ。


 生きて行くことは、その程度のことに過ぎないはずだし、

それで十分にしあわせでいられるはずだったのに・・・。

 誰かにそそのかされて、わたしたちは命を浪費する・・。
 

 《 世の中に、寝るより楽はなかりけり

            浮世の馬鹿は起きて働く 》





 
 

後始末の始末。


 今日もまた一日が過ぎて行く。

 56年生きて来たけれど、それでどうということもない。

 人様に自慢できるような事はしていないし、人様に顔向け

できない様な事もして来なかった。(知られると恥ずかしい

事ぐらいはあるけどね)

 人を不愉快にする事よりも、人に喜ばれる事をした方が多

かったろうと思うので、そのあたりは、まぁ、上出来と言え

るんじゃないか。でも、まぁ、それもどうということでもな

い。なにせ、もう終わってしまってる事だ。



 《 起った時には、終わってる 》


 前に、そう書いた。

 すべては、もう終わってる。

 すべては、記憶でしかない。

 だから、どうということもない。



 当たり前だが、わたしたちが知っていることは、すべて終

わったことだ。その終わった事との関わりの中で、わたした

ちは生きて行く。

 そう考えてみれば、わたしたち人間がしていることは、す

べて過去の後始末と言っていいのかも知れない。それが、ポ

ジティブに見えてもね。

 後始末の仕方が悪いから、いつまでたっても片付かなく

て、ジタバタ・ゴタゴタし続けているのが、人間なのかも知

れない。個人も、社会全体も。



 将来のことを考えて、あれこれするけれど、それは過去を

踏まえた上でのことなので、結局は後始末の一種なんだろう

と思う。・・・なんだか、人間ってみっともないなぁ。



 私のこれまでも、後始末に追われる人生だったのだろう。

 自分が仕出かしたことと、自分が巻き込まれたことに、必

死になって片を付けようとして来たのは間違いない。そし

て、それがほぼすべて。

 ただ、この一年はあきらかに違って来た。

 このブログを書くこともそうだけれど、「『後始末』の

始末」とでもいうことを、やり始めているのかも知れない。

 今までやって来た事、経験して来た事を、全部物置に放り

込んで、一度、チャラにする。そして、ウロウロしない。ゴ

チャゴチャしない。過去も未来も、いじくらない。

 縁側に座って、日向ぼっこをする様な気持ちで日々を修め

てゆく・・・。(年寄か!)



 今から何があるか?

 日々、何かがあるだろう。

 日々、何かをするだろう。

 でも、それもまた終わってゆくことだ。

 すべては、終わったことだ。


 “後始末ではない人生” は、可能だろうか?
 

 〈身体〉と〈エゴ〉は、後始末に追われる定めだろうけれ

ど、〈エゴ〉の外に在る《意識》は、後始末とは無縁と思わ

れる。

 《意識》からすれば、過去なんてケリが付いている。

 


 《 なんということ!

   もう、みんな終っている。

   すべてケリがついている。

   今の今まで気付かなかった。

   用は済んだ。

   さて・・・・、生に溺れていようか。》
 
 
  最近、そんなことを思った・・・。



 「未来は、無い」

 「過去は、もう無い」

 そう想う時、私はなにやら、ニンマリしてしまう。

 「ふふっ」と笑いたくなる。



 「あぁ~っ、楽だぁ。なんか、笑っちゃう!」



 そんな気分になる。


 それで、世の中との “メンドウクサイ” が無くなるわけで

はないけれど。でもね・・・、ケリは付いたんですよ。

 私の中でね。







2018年1月30日火曜日

「インフルエンザが猛威!」って・・、馬鹿マスコミめ。


 なにげなくテレビを点けると、ニュースで『インフルエン

ザが猛威をふるっている』と言う。

 「100人ぐらい死んだのか?」と思って見ていると、な

んだ、ただ流行ってるだけだ。

 冬にインフルエンザが流行るのは、夏にあせもができる様

な事で、何も不思議なことじゃない。何が「猛威」なのか?

付き合ってるのもバカらしくて、チャンネルを変える。 



 「今、医学的に認知されている病気は、何種類あるのだろ

うか? 」などと考える。

 誰か答えられる人はいるのだろうか? 

 医師に尋ねても、たぶん答えられる人はいないだろう。せ

いぜい、WHOでそういった研究・統計に関わっている人間

が、概要を知っているぐらいだろうと思う。

 皮膚の病気、目の病気、耳の病気、鼻の病気、首・手・

肩・肘・手首・脚・腰・背中の病気、内臓のさまざまな病

気、脳の病気・・・・・。日々、新たな病名が生まれている

のだろう。

 かたや、縄文時代の日本ではどうだっただろうか?

 病気の種類は、誰でも覚えられるぐらいの数だったに違い

ない。



 身体というものを、そんなに複雑に捉えようとはしていな

かっただろうし、複雑に捉える必要もなかったはずだ。

 “日にち薬” や薬草などで、治るものは治るし、治らなけ

れば仕方がない。

 治らないまま生きるか、治らなくて死ぬか。

 「そういうもんだ」とあきらめるしかないので、とにかく

あきらめただろう。その事を引き受けて生きただろう。


 現代でも、完治出来ない病気やケガはいくらでもあるし、

死を免れない病気も多い。

 自分や家族がその様な病気になったら、結局はあきらめる

しかない。「あきらめられない」とか「あきらめない」とか

言ったところで、治らないものなら、治らない。

 以前は治せなかった病気が、治せるようになったりしてい

るが、一方でアレルギー疾患のような、昔は少なかった病気

が社会にあふれる。医療が進歩しても、人間の病気に対する

苦悩が減ったようには見えない。それどころか、身体の見方

が複雑になったことと、医療に対する期待が大きくなったせ

いで、かえって苦悩は増大しているのではないか?


 医療の進歩で、苦痛をかなりコントロール出来る様になっ

たのは、本当にありがたい事だと思う。けれど、医学の細分

化は身体の捉え方を細分化し、病気の診断も細分化した。

 昔なら「知らぬが仏」で済んでいたことが、むやみに表ざ

たにされて、針小棒大に大ごとに仕立てられてしまう。

 そこに、マスコミなどが首を突っ込んでは、飯のタネに騒

ぎ立てて、お手軽な人たちが余計な心配ごとを背負い込むこ

とを手助けする。


 膨大な労力とエネルギーを注ぎ込みながら、病に対する苦

悩は、縄文時代より、かえって増えているのではないか?

 (何の根拠も無いんだけど、「iPS細胞」の臨床応用っ

て、あまり発展しないような気がするなぁ。人間の免疫系や

細胞の振る舞いって、まだまだ謎に包まれて、奥が深いと思

うんですよ。山中教授って、真摯で好感が持てますけどね)


 『インフルエンザが猛威をふるっています!』


 深刻な顔をして語るアナウンサーを見ていると、「“自分

でものを考えず、自分で責任を持たないという病気” が猛威

をふるっているんだなぁ」と分かる。

 ニュースが伝えているのは、そのコメントだけではない。

 「それをコメントする」という事が、ニュースの核心だっ

たりする。


 病気も事件も、大昔から繰り返されてきた。

 この世に生まれた人たちは、ひとり残らず死んでいった。

 道具立てが違っても、人のすることや苦悩は変わらない。

 騒ぎ方が大袈裟になっただけで、人間は相変わらずのお馬

鹿さん。

 いや、大袈裟になった分だけ、ストレスは大きくなったの

かも知れないし、何でも科学技術でコントロール出来る様に

錯覚して、“自分の都合” に固執する度合も強くなっている

んじゃないか。

 「肚を括る」ということが出来ない人間ばかりになってき

ているように思う。


 『・・・・次のニュースです。今年も、わたしたちの出来

損ないのアタマが、猛威をふるっています・・・・・』


 お疲れ様です。





2018年1月29日月曜日

勝手にしあわせ


 昨日、《「淋しい」がわからない》などと書いた後で、

「もしかしたら、感情のかけらも無いと思われるだろう

か?」と、すこし気になった。



 私が《「淋しい」が分からない》のは、幼いころに「淋し

い」が普通な状態に置かれていたので、知らず知らずに「淋

しい」の対処法を身に付けたせいだと思われる。

 『災い転じて福となす』

 『禍福はあざなえる縄のごとし』

 何が良いのか悪いのか?

 そんなこと誰も知らないし、お手軽に決められないのは、

そこそこ生きていれば分かるもんです。というか、何が良い

のか悪いのかなんて、自分が決めればいいことで、個人の自

由裁量ですね。


 自分に起こる出来事を、どこかの誰かの基準に照らして

「良い」か「悪い」かなんて考える必要はない。

 負け惜しみでも、ヤケクソでも、「良い」と言ってしまえ

ばそれでいいんでしょう。だって、起きたことは仕方がない

んだから、やみくもにでも肯定しちゃった方が、精神衛生上

よろしいかと・・。

 ところが、なかなかそう思えないのは、無意識のうちに誰

かに気兼ねしているんでしょうね。

 いったい誰に?

 それは、誰でしょう?
 

 わたしたちの中に、誰かが居るのです。

 「何考えてるんだ、オマエは!」と、すぐにダメ出しをす

る口うるさい奴が。

 何度も何度もくどいですが、それはわたしたちの〈アタ

マ〉ですね。

 わたしたちが生まれた直後から、世の中の価値感を休むこ

となくインプットされて、あたかもそれが “自分” であるか

の様に感じてしまっている、わたしたちの〈アタマ〉。

 わたしたちが物心ついて以来、

 「正解は、世の中にある」

 「世の中に逆らってはいけない」

 「世の中は善で、それ以外は悪」

 〈アタマ〉に、そう言い聴かせ続けられて、自分で判断を

下すことに罪悪感を持つようになってしまっている。


 独り=淋しい

 独り=孤独

 独り=気の毒


 そんな刷り込みを拭いきれない人たちが、世の中の大半を

占めている。


 独り=独り

 です。

 それが、本当です。

 それをどう扱うかは、個人の問題です。


 独り=自由

 独り=静か

 独り=豊か


 そう感じたっていいのです。
 

 個人的な喜びを表明すると、しばしば批判されます。

 「あいつは変わってる」

 「オタクだ」

 「変態だ」

 「あいつはおかしい」

 世の中に承認された喜びは、「うんうん!」「そうそ

う!」と歓迎されて、「みんな一緒だね! そうだよね!」

と褒めてもらえます。お互いに安心感を共有出来るからです

ね。でも、それでいいのでしょうか?


 他人と共有出来る喜びが、ダメだとは言いません。それは

それで結構なことではあります。ただ、その喜びは「その

事」が与えてくれるものなのか? それとも「共有する事」

が与えてくれるものなのか?

 「その事」、が嬉しいのであれば問題はないでしょう。た

またま同じことを喜ぶ人がいただけのことですから。しかし

「共有する事」、が嬉しいのは問題を孕んできます。「共有

する事」は、自動的に排除を生み出すからです。

 「一緒だね!」と、ある価値観を囲い込みあうことで、

“一緒じゃない事・人” を生み出します。そして、その “一

緒じゃない事・人” は、当然、価値の低いものとみなされま

す。「良い・悪い」といった、ラべリングが始まります。

 「共有する事」で成立する喜びは、区別・差別が無ければ

成り立ちません。よく気を付けていなければ、そのまま差別

やイジメに繋がりかねません。「これが分からない奴は、ダ

メな人間」というラベルを貼るわけですね。

 ホント、注意が必要です。
 

 「みんな一緒!」は恐い。

 人類全員が「一緒!」はあり得ません。もしも「人類全員

が一緒!」が成立したら、「一緒!」の意味が無くなってし

まいますから  当たり前になってしまいますから  必然

的に「みんな一緒!」は排除を生むのです。

 そして、排除は大なり小なり、区別や差別やイジメを生ん

でしまい、傲慢や優越感、嫉妬や劣等感をもたらします。
 

 世の中に承認された喜びは、言葉通り「世の中に承認」さ

れなければ成立しません。つまり「みんな一緒!」。

 その「みんな一緒!」が区別・差別を生み出すのは、区

別・差別が、世の中を動かす “精神的な位置エネルギー” と

して欠かせないからです。ですから、世の中は「みんな一

緒!」を奨励します。

 その一方で、世の中はその安定(平和)の為に価値観の共

有を図ろうとすると、その過程で不可避的に区別・差別を生

み出すというジレンマを抱えています。

 「『価値観を共有しなくていい』という共通の価値感を

しなければならない」、という絶望的にメンドウなことが

出来なければ、世の中が安定する事はない・・・。


 「ひとりひとり嬉しい事は違うよね。大事なのは、『何

が』じゃなくて、『嬉しい』の方だよね。」

 と、お互いの『嬉しい』を大事にし合うしかない。

 その足掛かりとして  別に世界の平和を考えてるわけで

もないんですが  「他人の事は知らない。わたしはこれが

嬉しい」という、開き直りなり、独立なりが必要だと思うの

です。


 世の中の事はともかく、
 
 「ひとりで勝手に嬉しい」

 「ひとりで勝手にしあわせ」

 それが分からなきゃ、人としての「本当のしあわせ」の、

とば口にも立てないんじゃないかな・・・。




2018年1月28日日曜日

「淋しい」がわからない 


 今日は、13年ぶりに、昔勤めていた会社の後輩に会う。

 仲は良く、毎年年賀状のやり取りはしていたが、電話で話

すのも二年に一度ぐらいで、まあ、我ながら人付き合いの悪

さには感心する。(感心するところだろうか?)

 お互いに年を取ったが、人間なんて老ける以外はそうそう

変わるものじゃない。会えば、十年一日変わりなく、話が進

むことだろう。



 友達とは何か?

 私はよく分からないのです。

 べつに、友達が必要だと思っていないし、友達が邪魔だと

も思っていない。

 機嫌良く付き合える相手が居るという事は、悪い事ではな

いが、そういう相手を得る為に努力するとか、関係を保つた

めに気を遣う様な事は、必要だと思わない。そういう “努

力” や “気遣い” が必要な相手なら、無理して付き合おうと

も思わない、メンドクサイ。

 仲良くできる人とは、自然に仲良くできるし、その関係が

長く続こうが続くまいが、どちらでもいい。自然な成り行き

にまかせておけば、気苦労が無い。



 竹内まりやの歌を急に思い出した。

 『雨に消えたさよなら』という、昔のアルバムの曲だけ

ど、その中に、こんなフレーズがある。
 

 苦しむために 人は出会わない

 しあわせになりたかった

 たったそれだけなのに・・・


 〈怨憎会苦〉という苦を避けることは出来ない。

 肉親や、仕事上の付き合いや、学校などの人間関係の中で

の〈怨憎会苦〉は避けようもないが、友人関係で悩む人間が

いるのには驚く。

 苦しむ様な友人関係とはいったい何なのか?

 嫌なら付き合わなきゃいいじゃないか。

 いちいち、あれこれ気を遣わなければならない相手を、友

達と呼べるのか? 

 そんなことなら、友達なんて居ない方がマシだろう。

 というより、それは友達じゃないだろうし。


 自分は自分らしく。相手は相手らしく。

 それで、機嫌良くしていられるのが、まあ、友達というも

のだろう。

 そういう関係は、人生でそう幾つも持てるものではないだ

ろうけれど、だからといって「それを大事にする」といった

ら、それはまた違うんじゃないか? わざわざ大事にしなく

てもイイのが、“イイ関係” だろうから。


 「友達が欲しい」なんていうのは、小中学生が言うこと

で、おとなになれば、べつに友達が居なくったって困りはし

ないと思うんだけれど、世間の人は違うんだろうか?


 どうやら違う様ですね。

 「淋しい」なんて言葉を口走るおとなは、結構多い様だか

ら・・。

 しかし、いったい何が「淋しい」のでしょう?

 「淋しい」って、何でしょう?


 私は、「淋しい」が分からないんです。

 ひとりで居て、「不安」になるのはあるんですが、「淋し

い」とは思わない。「不安」と「淋しい」は違うでしょ?

 「不安」というのは、「自信が持てない」といったことだ

と思うけれど、「淋しい」というのは、「あるべきものが足

りない」という感覚だと思うんですね。

 みんな、いったい何が「足りない」のでしょうか?

 メンドウな気遣いが必要な人間関係を持ってまで、何を得

ようとしているのでしょうか?

 ホント、何が欲しいのか?

 人に何を求めているのか?

 いったい、何が足りないというのでしょう?


 「淋しい」なんて言う人は、自分自身にしみじみと親しむ

時間を持っていないのでしょう。

 人間関係の中での〈自分〉しか見ていなくて、人間関係以

前に存在している〈自分〉というものに、気付いていないん

だろうなと思う。

 そばに誰も居なくても、〈自分〉が居るじゃないか。


 災害、病気、事故、殺人、世界には死の働きが渦巻いてい

て、今、自分が生きているのは偶然に過ぎない。

 その、「自分が、今、在ること」の不思議や、あたたかさ

を確かめるなら、「淋しさ」なんて感じる余地はないと思う

んだけど。


 前に書いた言葉をもう一度。


 《 わたしが わたしの マイホーム 》




2018年1月26日金曜日

アーティストは、いらない


 先日、NHKで仏師の松本明慶さんが、丈六の不動明王を

彫るという番組を観た。10年程前の再放送で、たぶんその

時も観たのだと思う。

 その中で松本さんが、「仏を彫るのに、終りは無い」と言

われていたが、職人というものはそういうものだろう。

 「これでよし」と思ったら、そこで終わり。

 自分の仕事に「これでよし」と判断を下せるようなら、そ

れは職人ではない。引退するまで、あるいは死ぬまで、「昨

日までより良い仕事をする」ことを目指すのが職人だ。

 職人とは、仕事の種類や内容とは関係なく、常に “更なる

完成” を目指す人の事だろう。芸術家と同じだと思う。とい

うより、「芸術家」というカテゴリーが現代のものであっ

て、昔は「芸術家」はいなかった。


 絵描き、工芸家、陶工、彫刻師などの様々な職人の中で、

レベルの高い仕事をした者が、後に「芸術家」と呼ばれる様

になったのであって、昔は「芸術家」という人はいなかっ

た。逆に、現在「芸術家」という職業が存在することを、私

は以前から訝しんでいる。

 「芸術を作る」という前提で物を作ることに、どうも不純

な感じを覚える。

 「芸術って、作れるの?」という気がするのです。

 誰かのした仕事が、時代に淘汰されずに価値を持ち続けた

時、初めてその人は「芸術家」と呼ばれ、その仕事が「芸術

作品」となるのだと思う。


 ひとりの職人が、自身の仕事の完成度を高める為に、飽く

ことなく、憑りつかれた様に精進を続ける。そこには、「芸

術作品を作ろう」などという目的意識など無く、ただ「もっ

と良い仕事がしたい」、「もっと良い物を作りたい」という

職人気質があるだけだろう。

 その “憑りつかれた様な精進” から生まれたものが、人を

感動させ、人をして「芸術」と呼ばせるものになるのであっ

て、「芸術作品」に先立つ「芸術家」なんて、茶番だと思

う。

 はなから「芸術作品を作ろう」なんて傲慢だし、なんか 

“履き違えてる感” が満載だ。


 そもそも私は、〈アーティスト〉という言葉が嫌いで、歌

手やミュージシャンまでが〈アーティスト〉と呼ばれる様に

なって、呆れ返っている。

 せめて〈クリエイター〉ぐらいにしといてくれ。


 人の中に潜む “作ることへの情動” が、その人の人生を乗

っ取り、理屈や計算を越えた欲求が作らせる物。それが「芸

術」と成り得るのだろう。


 芸術ではないけれど、『エースをねらえ!』の中で(突然

ですが)、“お蝶夫人” が、自分より “岡ひろみ” の方が優れ

たプレイヤーだと伝える為に、ひろみに向かって、こう言う

シーンがあります。

 「自分が先に立つ者はだめなのです。天才は無心なので

す」(カッコイイ!)


 「芸術」を目的にして生まれるものが、必ずしも「芸術」

ではないだろうし、ともすれば、それは一種のビジネスでし

ょう。

 むしろ「ビジネスを突き詰めたら『芸術』になっちゃっ

た」という方が “あり” だと思う。


 画家は、“絵描き” である方がいいし、彫刻家は “彫り物

師” でいて欲しいし、陶芸家は “陶工” でいてもらいたい。

 「芸術家」や「芸術作品」が、掃いて捨てるほど存在する

なんて、お手軽過ぎるでしょ。


 京都の『三年坂美術館』にある、明治時代の工芸品を観る

と、その超絶技巧と美しさにぶっ飛びますが、作者名があっ

たとしても、それはプロデューサーであって、作ったのは作

者も含めた職人集団です。

 名前も残っていない職人たちが、100年以上も後にわた

したちを驚愕させる。そこにあるのは、まぎれもない「芸

術」です。そんな人たちの事を考えると、生きているうちに

「芸術家」を名乗るなんて片腹痛い。

 「芸術家」とか〈アーティスト〉なんて言葉は、無くなっ

た方がいいのかも知れないな・・・。などと考える。






 

2018年1月25日木曜日

「想定」の限界について


 1月23日、群馬県の草津白根山が噴火して、自衛隊員とス

キー客が死傷した。

 観測対象にしていた火口とは違う、想定外の場所からの噴

火だったそうだ。

 いつの頃からか、自然災害や事故で犠牲者が出る度に、

「想定外」という言葉が使われ、同時に「想定に甘さはなか

ったか?」といった話が出る。けれど、「想定外」だからこ

そ犠牲者が出るのであって、想定が甘いわけではなかろう。

 もとより「犠牲が出る可能性は想定していた」などという

ことは、口が裂けても言えるわけが無い。言えば、袋叩きに

会うのは必至だからね。まぁ、そんな意地の悪い見方をせず

とも、普通の人間の心情であれば、「犠牲が出る可能性」を

想定していたら、そのままにしておけるわけが無い。やは

り、「想定外」であればこそ犠牲が出るのだ。
 

 そもそも、なんらかの危険や不快を回避するために、どれ

ほど「想定」を進めてもキリが無い。「想定」を広げ過ぎる

と、今度は小さな所に目が届かなくなったりする。「背後を

取られる」といった事が起り始める。

 今回の件に関しても、「火山の監視体制が行き届いていな

いんじゃないのか?」とか、「いざという時に備えて、もっ

とシエルターを作っておくべきではないのか?」とか言い出

す人がいることだろう。

 けれど、日本の火山の数からすれば、火山研究者の数は全

然足りていないそうだし、観測網を整備するお金もまったく

足りない。

 シエルターを日本中の火山に作るのも、非現実的な話だ

し、景観の破壊だろう。人間が破壊されるのを回避するため

に、自然を破壊することがどこまで許されるのか? また、

それが新たな問題を生み出さないとも限らない。



 亡くなった自衛官と、そのご家族は気の毒だし、ケガをし

た人たちも気の毒だ。それは確かにそうだ。

 ただ、こういった事が起きる度に思うのです。

 「仕方ない事は、仕方ない」と。



 生きている限り、リスクは無くならない。

 リスクがゼロになれば、人はたぶん生きている実感を失う

だろう。危ういからこそ、危うさから免れていることに喜び

が持てるのだから。

 それに、リスクを減らそうとする行いは、必ず別の問題や

リスクを生み出すと考えておいて間違いない。



 例えば、インフルエンザを回避するために、ワクチンを打

つ人は多いけれど、ワクチンの副作用だってある。ワクチン

で獲得できる免疫は、自然感染による免疫より弱いので、強

い免疫力を獲得するチャンスを減らす、と言う専門家もい

る。それに、インフルエンザで寝込んで、たまに仕事を休ん

だりする事が、過労などから大きな病気になるリスクを減ら

しているのかも知れない。

 (これは、私個人の経験からの話ですが、四年前から「糖

質制限」をしていて、それから風邪を引いたことがありませ

ん。風邪に限らず、あらゆる〈炎症〉が起き難くなりまし

た。どうも、血糖値が高いと免疫活性が落ち、免疫細胞が、

サイトカインなどの物質を異常に放出して、炎症が激しく起

こる様です。ですから、ワクチンを打つよりも、「糖質制

限」をした方が、インフルエンザの予防には効果的だと思い

ます。アトピーや花粉症などにも。・・余談ですが)
 

 東日本大震災クラスの津波を防ぐ為に、30mの防波堤を

作れば安心ですが、それは何をもたらすでしょう?

 景観を破壊し、風の流れを変え、建造費と維持費に莫大な

経費を使わねばならず、その他にも、実際に作ってみて初め

て分かる問題もあるでしょう。

 エネルギー問題を解決する為に、太陽光パネルを広範囲に

敷き詰めると、きっと気象に影響を与えるだろうと思いま

す。今まで、地上に届いて地面を温めていた陽射しが、遮ら

れるのですから。


 さまざまな局面で、人はリスクを避けたがりますが、ある

程度のところで手を打っておかないと、却ってややこしい問

題を生み出す様に思うのです。


 「想定」して、「危機管理」をして、「安心安全」を実現

して、リスクをゼロにして・・・。

 そんな事が本当に可能だと思っているのなら、「人と

は?」、「生きるとは?」といったことをキチンと考えて

みたことも無い、幼稚な品性だと思うし、しあわせを逃し続

けることになると思いますね。

 (ただし、福島原発の事故に関しては、『全電源喪失』
 
  なんて、「想定外」では済まされないですけどね)




2018年1月21日日曜日

「お前の話は、つまらん!」


 もう何年も前から、面白いCMがほとんど無くなった。

 au の「三太郎シリーズ」、サントリー「BOSS」、「ヒ

ノノ2t」ぐらいが、そこそこ頑張ってる程度だろう。 

 “アイデアの枯渇”、“表現の自主規制”、あるいは端的に

“製作者の能力不足” といったところなんだろうか。



 CMって、やっぱり時代を反映しますから、面白いCMが

無いっていうことは、世の中が面白くないんでしょうね。

 アイデアが出尽くして、行き詰まって来ているのは間違い

ないだろうし、効率優先の上、すべてを想定内に納めようと

する管理主義社会では、表現の冒険はしにくい、その上に、

ちょっとした事をネットで叩かれて、CMがお蔵入りしてし

まったり・・・。面白くなくなって当たり前か・・。



 生前、CMについての評論を沢山して来た 天野祐吉さん

が、大好きで、事あるごとに話題にしていた、キンチョール

のCMがありました。

 大滝秀治さんと岸部一徳さんのこういうやつです。


 大「キンチョールは、なんで水性になったんだ?」

 岸「それは、地球の事を考えて・・・

 大「つまらん! お前の話は、つまらん!」

 静かに “エコ” について語ろうとした息子(岸部)の言葉

をさえぎって、父(大滝)が叫ぶんですね。

 覚えている方も多いでしょう。

   私も大好きでした。


 「猫も杓子もスキを見せると、すぐに “エコ” なんて言う

けれど、いい子ぶってるだけで全然本気じゃないだろ? ヘ

タすりゃ金儲けのネタにしかしないだろ?」

 製作者のそういう声が聞こえて来ますし、その企画にOK

を出した、キンチョーという会社も素晴らしい!

 キンチョーのCMは、今も頑張っているけれど、残念なが

らあのCMを越えることは、もうできないでしょうねぇ。

 「オモシロCM」を作る製作者たちは、あのCMを思い出

すと、ため息が出てしまうのではないでしょうか?

 「これをやられちゃ、もう、しょうがない。」と。


 CMが最高に面白かった時代は、あのCMより少し前だと

思います。だからこそ、面白くなくなり始めたCMの世界と

世の中に対して、「つまらん!」と叫ばずにはいられなかっ

たんでしょう。

 そして今や、ほんとうに「つまらん!」。


 つまらん理由は、はっきりしている。

 CMに限らず、すべてにおいて、現代人はコントロールし

ようとし過ぎです。

 なんでも、想定内に収めたい。自分の思い通りにしたい。

人間の思い通りにしたい。自由にしたい・・。

 その欲望が管理主義となって、かえって自分たちをがんじ

がらめにしている事に、何故気付けない?

 何処が自由? 

 何が思い通り? 

 現代は、“用意された自由” の中で、“教え込まれた希望”

 を手に入れて、「嬉しいつもり」になってるだけだ。

 (今に始まった事ではないが、もう限界まで酷くなってる

んじゃないのかなぁ)


 それからもう一つ、CMのセリフで好きなものがありま

す。

 確か20年近く前のJTのCMだったと思うんですが、山

崎努が出ていたシリーズで、“毎回、登場者がちょっとした

トラブルに見舞われるが、運よくそれを回避する” という設

定になっていて、それを見ていた山崎努が、毎回〈決め台

詞〉を言います。

 「ひとまずは、おしあわせに」と。
 

 いつも、「いいなぁ」と思いながら見てました。
 

 世の中の〈しあわせ〉は、全部「ひとまず」です。

 自分に訪れる “変化” の中の、気に入ったところだけを

〈しあわせ〉だと思うだけです。

 それは、変化の中のある一瞬でしかありませんから、すぐ

に消えます。しばらくは、その印象を舐め回して楽しむこと

も出来るでしょうが、「ひとまず」でしかありません。

 その「ひとまず」を追い掛け回して、 人は世の中を右往

左往します。

 さらに、その「ひとまず」が、「いつまでも」になるよう

に固定しようとして、ガチガチに管理しようとします。

 「つまらない」ですね。


 “ガチガチに管理した世界” には、〈面白い事(イレギュ

ラーな事)〉を詰める余地が在りません。詰められません。

 だから「詰まらない」。


 “想定通り・希望通り” の世界は「安心安全」でしょう

が、“思いがけない事” も 、“楽しいハプニング” も無く、そ

の結果としての “面白い事” もありません。

 そんな世界や人生が実現したとしても、〈しあわせ〉と思

えるのでしょうか?

 また、当人の〈しあわせ〉の問題だけではなく、“想定通

り・希望通り” にする為には、“想定外・希望外” のものを

排除しなければなりませんから、必ず “他者” (自分の気に

入らないもの)にしわ寄せが行きます。それが人間とは限り

ませんが。


 キンチョーのCMも、JTのCMも、世の中の表面上の 

“正しさ” や “しあわせ” をからかっていて痛快ですが、あの

頃すでに、からかいたくなる世の中だったという事です。

 そして今や、からかう事さえ許されない程、世の中の管理

は厳しくなっているのでしょう。


 今回のブログを観た人に、「お前の話は、つまらん!」と

言われても、たいして気にならないでしょうが、もしも「お

前の話は、許せん!」と言われたら・・・、ため息が出るで

しょうねぇ。「こんなところにまで、窮屈な世の中はひろが

っているんだ・・」と思って。




2018年1月17日水曜日

不倫・・・SEXは金庫にしまっておいたら?


 テレビのワイドショーやネットニュースを観ると、また 

“不倫” の話をやっている。去年もさんざんやって、よくも

ぁ飽きないねぇ。感心します。

 この手の話が取り上げられる度に、いつも思うのは、「み

んな本当にSEXを重要視してるんだなぁ」ということ。要

するに、“一線を越えたかどうか?” ってやつです。

 あれだけ問題視するということは、SEX が人々にとっ

て、もの凄く重要だということです。みんな、SEX に対

して、非常に高い価値を認めているようですね。


 “一線を越えたか?” なんてことに拘る人というのは、

「わたしは、SEXに高い価値を認めている〈スケベ〉で

す」と、自分で言っているようなもんじゃありませんか?

その人の男女関係というものは、“何よりもSEXが大事” 

、“男女関係の是非は、SEXをどう扱うかに掛かっている”

のでしょうね。そんなにあからさまに、自分の〈スケベ〉を

公にしていいんでしょうか? 心配しちゃいます。

 そういうことですから、テレビや週刊誌やネットなど、メ

ディアも〈スケベ〉だということですね。ホント、メディア

というのは、人間のステレオタイプを見事に形にしてくれま

す。しかし、「たかがSEX」という発想はないのでしょう

か? なんだって、それほどまでにSEXが重要なんでしょ

う? アノ部分の価値は、すごいんですねぇ。(笑)


 まぁ、「理由」は察しがついてるんですが、バカらしいの

で放っておきます。でも、SEXするっていうことは、その

二人は仲がいいということです。人と人とが仲良くするのは

結構じゃないですか?


 いいえ!

 “決まった相手” が居る人はダメです!

 他の人と、一緒に「将棋」を指してもいい。

 他の人と、一緒に「ババ抜き」をしてもいい。

 他の人と、「腕相撲」をしてもいい。

 でも、SEXだけはイケナイ!

 SEXだけは、許されない!

 言語道断である!

 SEXは イ・ケ・ナ・イ!!

 
 でも、「なぜ?」


 理由は簡単ですね。

 一言で言えば、〈スケベ〉だからです。(理由は放ってお

くつもりだったのに・・)


 ところで〈スケベ〉とは何でしょう?

 普通は性的なことを考えるんでしょうが、実は〈スケベ〉

とは、「自分が得をしたい」「自分の物を失いたくない」と

いう、〈強欲〉と〈ケチ〉の “強力タッグ” の事です。(ま

ぁ〈ケチ〉も、〈強欲〉の一面ですが)

 その〈スケベ〉が強烈に顔をのぞかせるのが、SEXなん

ですね  そして、もう一つが “金” です。


 メディアを賑わすのは、SEXと金と食い物と暴力と悪口

と見世物。それが 97% 。人間の活動も、それが 97% 。要

するに、それが〈アタマ〉のお仕事ということです。

(97%の根拠は聞かないで下さいね)


 それで、世の中が通るのだから、「天下泰平」なのかも知

れません。メデタシ、メデタシ。