2018年9月30日日曜日

チョウのように、花のように。


 今朝外へ出ると、家の脇のシソの花にシジミチョウやミツ

バチが来ていて、静かに蜜を吸っている。

 「平和だなぁ」

と、思わずつぶやく。

 そうして、彼らをながめていると、近くの交差点からイラ

ついたクラクションの音が聞こえてくる。

 「人間は、なにやってるんだか・・・」

 まぁ、まいどお馴染みの事ではあるが・・・。



 彼らが蜜を吸って「美味しい」と思っているのかどうかは

知らない。それが彼らにとってしあわせなのかどうかも知ら

ない。ただ、彼らは人とは違って、自らが生きるべき生き方

を、迷いなく生きていることは確かだろう。


 人は、何が「正しいこと」かを知らず。「正しいと思うこ

と」に確信が持てない。にもかかわらず、「自分は正しい」

という思いを持たなければ不安で生きていられない。

 何が「正しいこと」かを知らないので、常に迷って右往左

往している。心理的にも物理的にも・・・。

 右往左往したところで、何が「正しいこと」か知らないの

だから、なんにもならないんだけどね。



 チョウやミツバチには迷いは無い(無いと思う)。

 淡々とひたすらに、自分も、自分がいる世界も、疑うこと

く生きている。羨ましいなぁ。

 羨ましいけれど、先程も書いたように、彼らがしあわせを

感じているかどうかは知らない。人間の常識から考えると、

そういうことは感じていなさそうだ。

 そうだとすれば、しあわせを感じる事が出来るのは、わた

したち人間の特権かも知れない。



 「アタマが悪い。アタマが悪い」と何度も書いて来たけれ

ど、わたしたちの頭は「しあわせを感じられる」という素晴

らしい資質を持ち合わせている。

 もしそうでないのなら、人間なんかロクなことしないの

で、さっさと滅びて消え去った方が良さそうに思う。



 スピリチュアルの導師の中には、「人間に意識があるの

は、“世界が存在することの喜び” を、〈世界〉を代表して

(世界の一部として)人間が感じる為だ」といった言い方を

する者も多い。

 「人間に意識がなければ、この世界に意識はないのだか

ら、世界の存在自体に何の意味も無い。〈世界〉は人間を通

して “自身(世界)” を感じたいだろう」という風な意味の

ことを言う。



 言いたいことは分かる。(分かります?)

 そうかも知れないと思う。

 けれど、それを手放しで肯定できる程、私は自分を「正し

い」と値踏みすることは出来ない。

 でも、わたしたちが、わたしたちも含めた世界全体を「良

いもの」「喜ばしいもの」と感じ、しあわせを感じられるな

ら、それは〈世界〉からすれば、まんざらでもないだろう。



 アタマが迷って右往左往するのにあまり付き合わないで、

なるべく、淡々と穏やかに、すんなり、あっさり、のびやか

にわたしたちが生きることを、〈世界〉は喜ぶのじゃないだ

ろうか、という気がする。なにせ、わたしたちは世界の一部

なんだから・・・。


 〈世界〉にとって、わたしたちが悩み苦しむことは、わた

したちの身体の一部の具合が悪いようなもので、「このごろ

膝が痛くてやだなぁ・・」といったようなつまらなさを〈世

界〉は感じるだろう。わたしたちは機嫌がいい方がイイ。

 わたしたちが機嫌良くなって、そのことを〈世界〉が気分

良く感じて、〈世界〉と一緒に機嫌良く生きる・・・。



 その「機嫌良さ」は、自分が何かを達成するとか、自分の

存在意義を何かで保証するとかいうものではなくて、自分自

身を含めた〈世界〉が用意しているすべてを、受け入れて、

その中に安住することから来るものですが・・・。

 「すでに、すべてがある」

 そのことを確かめる・・・。


 『手を合わせる意味』(2017/4)という回でも書いたの

ですけど、私は奈良の唐招提寺で千手観音を見て、その千本

の手が「すべての者を救う」ためにあるのではなくて、「す

べて与えてある」ということだと思ったんですね。

 そう思って考えてみると、確かに、間違いなく、「この世

界にあるものは、すべてある」じゃないか。

 「足りない」と思うのは、わたしたちのアタマ(エゴ)の

都合であって、〈世界〉とは関係ない。勝手なわがままを言

っているだけなんだ。


 アタマがあれこれ考えて、「足りない」ものを手に入れ

て、それでエゴが満足するのならそれもいいけれど、実際に

やっている事といえば、「何か隠されている」と思ってあち

こち覗き回っているだけに過ぎない。

 覗き回らなくったって、「すべて与えてある」。


 そりゃぁ、〈世界〉は無限に広いのだから、自分に見えな

いものもある。けれど、〈世界〉は見えているものだけで充

分に美しくはないだろうか?

 そばにあるものだって、充分に優しさを持っていないだろ

うか?

 自分がそれを感じようとしないだけなんじゃないのか?

 自分がそれを見ようとしないだけなんじゃないのか?


 チョウやミツバチがしあわせを感じていないとしても、ア

タマ(エゴ)に惑わされて、感じられるはずのしあわせを感

じられない人間よりはマシなんじゃないかな?


 シソの蜜はやっぱり甘いだろう。






2018年9月23日日曜日

すき間を見る


 私の書いていることは、基本的に非常識です。

 なぜかと言えば、世の中には、戦争・テロ・いじめ・児童

虐待・無差別殺人・薬物乱用・パワハラ・セクハラ・搾取・

貧困・環境破壊などが止む事無く起きていて、そこには人間

の傲慢・強欲・妬み・愚痴・うぬぼれ・卑下・恨み・などが

渦巻いています。

 世の中の常識はそれらを無くすことが出来ないばかりか、

世の中の常識こそが、それらを生み出している可能性が高い

と考えるべきでしょう。だから私は “常識” に懐疑的です。

 “常識” に多く含まれる胡散臭さに敏感で、それらを看過

出来ないんです。だって、“常識” というものが良いもの

らば、世の中の不幸や愚かさがこんなに続くはずがないです

から。



 私は、なんでもかんでも「常識は間違ってる!」と考える

反動家ではありません。単に「変だと思うことは、疑ってみ

る」というだけのことです。

 そして疑いの目で “常識” を見ていると、あるストーリー

が見えて来てしまう。そしてこう思う。

 「ああ、これは誰かの都合で描かれたお話に過ぎないな」



 ヒトラーの “お話” にドイツ人が乗っかって、ユダヤ人の

虐殺が起きた。その当時、その “お話” はドイツでは “常識”

だった。

 真面目に頑張って仕事をすることが常識。その “常識” が

絶対視され過ぎたり、傲慢な経営者がそれを利用すると、働

く者が身体を壊したり、過労死や過労自殺が起きる。

 “常識” なんて、信用できたもんじゃない。



 もちろん、大切にするべき “常識” はありますよ。

 人の尊厳を守り、人を安らがせる “常識” や、わたしたち

の生きている世界を乱さない為の “常識” もあります。けれ

ど、 世の中の “常識” の 7~8割は、どうでもいいことか、

かえって害を及ぼしているような気がします。ロクなもんじ

ゃないと。

 だから私は、ついつい非常識になってしまう。


 別に新しい常識を作ろうなどと大それたことを考えている

わけではありません。あるお話を取り下げて別のお話を取り

上げたところで、“お話” であることに違いはありません。

“お話” 以前に、疑いようもなく存在している事があるだろ

うと思うし、それを認めた上で頭を使わないと、その時代や

どこかの誰かのお話に振り回されて、有る事を無い事にした

り、無い事を有る事にしたりと、際限のないバカな骨折りを

繰り返しかねない。

 その「“お話” 以前」のことを大切にしなければ、赤道直

下で毛皮を着て暮らすような、まったくトンチンカンな生き

方をして終わりかねない。


 常識と常識のすき間を見るようなものの見方が必要だと思

うのです。


 面白いものの見方があるんです。

 たとえば、わたしたちは街を歩くと、まわりの人や建物、

店の看板や車や街路樹なんかを見ながら歩いていますが(ス

マホもあるね)、そういう時に意識して何もないところを見

るようにするのです。

 人と人の間、ビルとビルの間、看板の字じゃなくて地の部

分、いろんな音が聞こえる中で音の無い部分に耳を向ける。

 空を見上げる時があれば、雲や星ではなく空間の方を見

る。そうやって、何もない空間の方に意識を向けてみる。

 具体的な「空観」ということですね。


 面白いですよ。

 空間には何もない。当然意味も無い。

 わたしたちは、四六時中意味に囲まれて暮らしているけれ

ど、こんな風に空間ばかりを目で追って、音の無い所に耳を

傾けていると、心が意味から解放されて来ます。物事の本質

が見えてくる(ような気がします)。

 そして周りにいる人たちが、意味に動かされて “お話” の

中をうろつき回っているのが見て取れます。建物などのあら

ゆる人工物が、それぞれの “お話” のためにあるのだとリア

ルに感じます


 意味から解放されると、当然ながら自由になります。

 「無意味」は何のプレッシャーも与えません(「意味」を

求める人にはかえって不安でしょうがね)。


 この世の中で生きる為には、意味を放棄することは出来ま

せんが、意味に取り巻かれて苦しんだり、意味に酔っぱらっ

たようになっている日々から時々抜け出して楽になるには、

おすすめです。

 さらに、そんな時間が増えて行けば、日々は、より安らか

なものになっていきます。


 何も無い。

 それが世界のベースです。

 当たり前ですが、空間があって初めてそこに物が存在出来

る。わたしたちも空間の中に存在している。

 空間に生かされていることを認識する。

 何も無いことに安らぐ。


 いえ、何もないことこそが安らぎなんじゃないでしょう

か。






2018年9月22日土曜日

何かを探して、何かを求めて・・・


 樹木希林さんが亡くなって何日か経った。テレビでは、ま

だ希林さんの話題を取り上げているけれど、あの人の面白さ

って、物欲の質の違いなんじゃないかなぁと思ったりする。

 希林さんも当然、物が欲しかったりしただろうが、「好き

な物が欲しい」ということと、「欲しい物を “好きだ” とい

うことにする」のでは事情が違う。希林さんの場合は「好き

な物が欲しい」ということだったんだろう。だから、人から

物を貰う事が嫌いで、「お願いですから、くれないで下さ

い」などという言葉が出る。



 人間は大抵 “欲しがり” なものだけれど、ほとんどの場合

「欲しくなった物を “好きだ” ということにしている」だけ

なんじゃないだろうか。



 自分が、「参加すべきだ」と思った “世の中のストーリ

ー” の中で、その中にあるものを「これが好きだ」と思い込

んで、思考停止しているだけなのが、普通一般なんじゃない

だろうか・・。




 わたしたちは「何かを求めて」、「何かを探して」、四六

時中アタマを使い、動き続けている・・・。いったい何が欲

しいのか?

 「欲しい」というのは、不足しているということだけれ

ど、いったい何が足りないのか?

 「インスタで見た、谷中の古民家カフェの “抹茶白玉ラム

レーズンパフェ” が不足している」というような人がいるわ

けですが、ほんとにそれが足りないのか?(そんなパフェが

ほんとに有るかどうかはともかく・・)



 〈「欲しい」からといって、それが必ずしも「不足してい

る」ということではない。単に「付け足したい」という場合

もある〉



 そんな意見もありそうですが、何故「付け足したい」ので

しょうか? それはやはり「不足している」のですよ。
 

 わたしたちは、物であれ能力であれ経験であれ、それを手

に入れている自分が “望ましい自分” であり、さらにいえば 

“あるべき自分” であると想定して考えてしまうので、現状

は常に「足りない」ということになってしまう。

 そのように現状に満足できないものだから、何かを「付け

足したい」という想いが湧いて来るのであって、「欲しい」

という想いがあるのであれば、その人は満足できていないわ

けです。

 人は、《今は常に不満》なのです。  



 アラブの石油王が、次から次へと超超高級品を買う。
 

 「何かが足りない」のですよ。



 どれほど多くのモノを手に入れても、いくら手に入れて

も、満足出来ない・・・。

 いったい、“何を”・ “どれだけ” 手に入れたら気が済むの

でしょう?

 いつになれば、探し求めることは終わるのでしょうか?

とは、アラブの石油王に限ったことではありません。

 程度の違いやスケールの違いこそあれ、石油王から乞食ま

で、「足りない」と思い、「欲しい」と思うことは、すべて

の人間にとって本質的には同じです。(生きてゆくための生

理的な欲求は別ですが)



 求めても求めても、「足りない」という想いが消えること

はない。

 わたしたちのアタマは、常に現状を否定することが使命だ

と思っていますから、欲しい物を手に入れた瞬間、それは

「現状」という “足りない世界” に汚染され、価値を失いま

す。まるで、ゴールするたびにゴールが先へ行ってしまうマ

ラソンのようなものです。

 砂漠でオアシスの蜃気楼を求め続ける様にわたしたちは生

きている。

 本来であれば豊かなはずのこの世界を、わたしたちのアタ

マは砂漠に変えてしまう・・・。



 社会  アタマの集合体  はさまざまな蜃気楼をわたし

たちに見せて、そそのかす。そそのかされる側も、そそのか

す側もそれが蜃気楼だとは思っていない。それが「今、無

い」ことは確かだから、「今は、常に足りない世界」だか

ら、蜃気楼であれなんであれ追い求める。

 《足りないものは「満足」だけ》

 それがわたしたち人間。

 それがアタマの基本理念。

 アタマに従っている限り、永遠に満たされることはない。



 わたしたちがアタマの呪縛から解放され、真に満ち足りる

事は絶望的に難しい(お釈迦さまのようにならなけりゃいけ

ない)。でも、せめて自分が心から求める声に耳を傾け、社

会が語りかけてくる “お話” に迂闊に乗っからないようにし

た方が、しあわせだろうと思う。そして、そのことは、実は

みんな分かっている。分かっているからこそ、樹木希林さん

の言葉が話題になるのだ。でも、みんなそのようには出来な

い・・。

 しゃあないね。出来ないなら出来ないまま生きるしかな

い。社会の見せる蜃気楼を追い続けて・・・。



 アタマは「足りない」と言う。

 「無いもの」に目を向けるのだから、足りなくて当たり前

です。

 「今有るもの」に目を向ければ、「すべてが有る」。

 当たり前の事ですね。でもアタマはそれを嫌がる。

 アタマがそのような思考しかできないのは、すべての人間

が、生まれた時からそのように刷り込まれるからです。

 すべての人間がそのように刷り込まれ、それに基づいて影

響し合うのですから、その刷り込みは恐ろしいほど強力で

す。

 人は皆、「良かれ」と思って “お話” を聞かせ合う・・。

「良かれ」と思っているので、なおさらタチが悪い。なにが

本当に「良い」のか誰も知らないくせに、「今、無い」もの

に価値を置く。「今、ある」ものに目を向けようと言う人は

少ないし、そういうお話は人に受けが悪い。アタマは満足し

たくないですから。



 現状に満足してしまうと、アタマはすること(考える事)

が無くなって、存在意義が無くなる。アタマは存在し続けた

い。だから、アタマは常に不満を表明する。



 満足することを恐れる〈アタマ〉が集まって社会を作り、

社会が大きな “お話” を作り上げて、個々の〈アタマ〉の不

満を再生産するので、世界中の人間が蜃気楼を追って、“自

分の今” からさまよい出て迷い続けているのが、人間の世界

というものでしょう。



 仏教の言葉に『脚下照顧』というのがありますね。

 「自分の足元を顧みろ」というのですけど、「今、あるも

のを見てみなさい」ということですね。

 今あるものは、すべてある。



 何かを探して、何かを求めて・・。

 それは本当に必要なのか?

 人が価値あるとしているものって、大抵は “お話” に過ぎ

ないんですよ。大騒ぎして持ち上げたりすることほどね。



 生きることは、そんな大袈裟なものではないし、喜ぶこと

は、本当は簡単なことです。自分たちで寄ってたかって難し

くしているだけですね。つまんない約束事で縛り合ってね。

そう思う。



2018年9月17日月曜日

樹木希林さんの真っ当さ。


 昨日、女優の樹木希林さんが亡くなったという報道があっ

て、今朝はワイドショーでその話を長く取り上げていた。


 今までの希林さんの発言を取り上げて、感心したり驚いた

りしているわけだけど、私はさほど思わない。希林さんの語

り口が面白くて好きだったけれど、彼女の言われていたこと

は真っ当なことばかりで、それを「変わってる」とか、「考

えもしなかった」とか言って感心する方が、バイアスのかか

ったものの見方をしているんだと思う。


 ほんとに面白い人だったと思うけれど、私が希林さんを好

きだったのは、ジョークが言える人だったから。


 日本人はジョークが言えない。

 シャレは言えても、ジョークを言えないし、理解するのも

ヘタクソだ。日本人でジョークを理解するのは 1 %未満だ

と思う。この先も、日本にジョークは根付かないだろう。


 希林さんの言うことは真っ当だ。けれど、それが世間では

真っ当ではないことを、本人はよく知っている。

 世間の人が、真っ当な事を真っ当でないと思い込まされて

いたり、無用な怖れを抱いて真っ当な事から目をそらしてい

て、そのせいでいろんな困りごとを抱え込んでいる。希林さ

んはそれを「いいことではない」と思っていたのだろう。

 なので、その真っ当な事を少しひねって表現する事で、そ

れが聴く人の心に引っ掛かるようにする。

 自分たちの考えている常識を考え直してみるキッカケを与

えてあげる。

 親切な人だったと思いますね。(考え過ぎかもしれないけ

どね)


 「生きてると、死ぬじゃない? なんで死ぬ方は異常な

の?」

 そんな感じのスタンスで、いろいろなことを発言されてい

た。真っ当ですね。当たり前のことだもの。


 今朝から、希林さんを「自然体」という言葉で評すのを何

度も聴いた。ということは、他の人はみんな「不自然体」だ

ということですね。

 希林さんを「自然体」と評する事に、多くの人が頷くので

あれば、その多くの人たちは、自分や自分の周りの人たちを

「不自然体」だと感じているわけです。

 それなら、ちょっと考えてみた方が良いと思うんだけど

ね。せっかく、希林さんが親切に足元をすくってくれている

のに。


 「変わった事を言うな。考えさせられるな・・」

 そう思う、けど、それで終わりでしょ?

 本当に考えてみたりはしない。そして「不自然体」のまん

ま・・・。

 当の希林さんは、「親切はするけれど、それでその後どう

するかはそれぞれの人の問題で、わたしは知らないわ」とい

うスタンスだったんでしょう。(考え過ぎかもしれないけれ

ど)


 希林さんは「自分に正直」という見方をされているけれ

ど、自分の考えを担保する為に感覚を使うんじゃなくて、

自分の感覚を整理して、感じたことを自分の生き方の中に落

ち着かせて行く為に、ものを考える人だったんだろうなと思

います。


 〈感覚〉は自分本来のもので、〈考え〉は世の中から仕込

まれたものだから、感覚優先だと「自分に正直」ということ

になりますね。けれど、「自分に正直」な人が、みんな希林

さんの様な人ではない。「自分に正直」が “自分の考えに正

直” だと、ただのエゴイストになってしまう・・。「自分に

正直」という言葉も、そう気軽には使えないものです。


 ああいう人は、なかなかいないわけですが、希林さんと同

じ部類の人(「同じ部類」なんて、ちょっと失礼な表現です

が、他の言葉が浮かんでこない・・)に、ミヤコ蝶々さんが

いました。あと、残っているのは藤山直美さんぐらいかな。

 三人とも、凄い芸達者で、ひねった面白い話をしてくれ

る。

 大好きですけどね。

 ミヤコ蝶々さんが亡くなった時も「淋しくなったな」と思

ったけれど、今回も世の中が少し淋しくなったね・・。



 真っ当な事を、ストレートに言うと嫌われる。

 嫌われてもいいんだけど、嫌われると話を聞いてもらえな

いので “ひねる” 。その為には、ジョークのセンスが要る。

 ジョークというのは、単に笑わせることが目的じゃなく

て、本当の目的は、相手のものの見方を変えさせることにあ

る。ジョークの陰には優しさが隠れているのだけれど・・。

 「みんな一緒」の日本人には、ジョークは根付かないんだ

ろうなぁ。



 希林さん、面白かったです。ありがとう。



2018年9月13日木曜日

災害の夏だった


 やっと暑さが一段落して、秋の気配がしてきた。

 この夏は災害が印象に残る夏になった様に思う。

 洪水・土砂崩れ・土石流・暴風・地震。「ああ、日本だな

ぁ・・・」などと思う。

 日本を評して「災害列島」などと言う事がある。確かにそ

うだろう。けれどそれは、この国の自然の恵みの豊かさと背

中合わせのものでもある。おいしい事だけをいただくわけに

はいかないのである。



 私が小さいころ、神戸でも広範囲の水害が起きた。私の住

んでいた所でも30cmほど水が来て、床下浸水したのをよく

憶えている。

 その時、隣近所のどこの家でも、玄関に板を立てて隙間を

布や土嚢で塞ぎ、みんながバケツで水を外にかきだしてい

た。子供だった私は、面白がって一緒に水をかきだしていた

のだけれど、中学生ぐらいになった頃にその時のこと思いだ

し、「あんなことしてたけど、表に水をかきだしても、裏か

らいくらでも水は入って来てたはずだよなぁ。みんなパニッ

クってたんだなぁ」と思ったのだった。



 災害などに合うと、ちゃんと考えているつもりでも、そう

そう冷静ではいられない。あからさまにパニックを起こして

いる場合も多いし、「正常性バイアス」と呼ばれる思考の偏

りを起こして、落ち着き過ぎてしまって大変なことになる事

もある。その場しのぎを繰り返して、後で大きな代償を払う

ことになったりね。それはそれで仕方がないだろう。人間だ

ものね。でも、落ち着いていた方が良いのは確かです。

 じゃぁ、災害の時にどうしたら落ち着いていられるのか?

 これといった方法があるわけではないでしょうねぇ。

 危機管理の専門家であっても、実際にその場に居合わせた

らパニックを起こすかもしれませんし、運次第といったとこ

ろではないでしょうか。

 むしろ、災害の時にパニックを起こしてしまうことも含め

て「災害」だと思ってしまえばよさそうです。言いかえれば

「それが人生だ」と・・。



 生きていれば、何が起こるか分かりません。いつ死ぬか分

かりません。

 世界が自分の都合の良いように動いてくれるわけじゃない

し、その動きに合わせて、自分が都合よく動けるかどうかも

分かったもんじゃありません。「自分の動き」も “世界の動

き” の一部ですからね。



 わたしたちは、「“世界” の中で、自分が生きている」と

思っています(普通はそうだと思います)。でも、自分も 

“世界” の一部ですから、「“世界” の中で、自分が生きてい

る」というのはおかしいんですよね。「自分も含めた “世

界” が動いている」というのが本当です。



 “世界” は、わたしたちが生きるステージじゃありませ

ん。自分も含めて、 “世界” です。

 「自分は別」じゃない。自分も “世界” と一緒に動いてい

るわけです。



 わたしたちは特別じゃない。

 わたしたちは “世界” から独立して存在しているんじゃな

い。どっぷりと “世界” の一部です。そんなこと当たり前で

す。にもかかわらず、わたしたちはその当たり前になかなか

気付けない。

 どういうわけか、わたしたちは「自分は別」だと思いたい

んです。そして、そう思い込んでいるのが普通です。

 「自分は生きている」と思う事が、「自分は別」というこ

とに他ならない。「自」を “世界” から「分けて」、初めて

「自分」になるわけですからね。



 でもね、生きているのは本当に「自分」なんでしょうか?

 わたしたちのアタマが分けなければ、そもそも「自分」な

んてないんだから、生きているのは「自分」ではなさそうで

す。

 本当に生きているのは、“世界” だけです。

 どういうわけだか知りませんが、その一部が「自分」とい

う意識を持ってしまったのが、わたしたちなんですね。

 そしてその「自分」という意識があることによって、わた

したちは “世界” からはぐれてしまった・・・。だから、す

ぐに「淋しく」て「虚しく」ていたたまれなくなってしまう

んですね。

 でもって、淋しいものだから、淋しい者同士が繋がろうと

するのだけれど、“世界” からはぐれた者同士が繋がろうと

しても、その繋がりたい「自分」は意識が生んだ観念でしか

ないから、大抵は、繋がったつもりにしかなれない。

 その繋がりたがる「自分」を取っ払ってしまえば、そもそ

も「自分」は “世界” の一部だから、全てと繋がってるんだ

けどね・・。



 「自分は淋しい」と感じたりするのは、「自分」という意

識を持つからであって、「自分」という意識を持つ限り、淋

しさから逃れる事はできない。「自分」と、「淋しさ」「虚

しさ」なんかはセットになっているのです。



 「わたしは!わたしは!」などと、自己主張の強い人ほど

ホントは淋しい人ですね。

 「わたし?・・・はぁ・・?」などと、自分のことにあま

り頓着しない人ほど、淋しさを感じにくい人です。



 考えてみれば当然のことで、「わたしは!」と言って前に

出てくる人は、自分が突出してしまうのだから、一人ぼっち

にならざるを得ない。

 「わたし?・・・はぁ・・?」などと言っている人は、

人々の中に埋没しているのだから一人ぼっちではない。エゴ

が力を持つほどに、人は孤独になってしまう。

 ところが不思議なことに、世の中ではみんな逆に捉えてい

る。

 「わたしは!」と前に出てくる人は、アグレッシブで目立

つので、一人ぼっちじゃないように見えるし、本人も表面上

はそう思ってたりする。

 方や、「わたし?・・・はぁ・・?」という人は、「自分

は冴えなくて、つまんない人間だ・・」などと、ため息をつ

いていたりして、淋しそうに見えたりする。自分でも、鬱々

としてたり・・。

 でも、本当は逆です。そう思い込んでいるだけです。
 

 《 エゴは孤独です 》



 エゴが強ければ強い程、孤独です。



 エゴが強ければ、良かれ悪しかれ世の中で目立ちます。

 そのアグレッシブさによって、世の中でリーダーシップを

とったりするので、まわりに人々が集まって孤独ではなさそ

うだったりしますが、それはイメージに過ぎません。

 そういう人は、「明るさ」や「元気さ」「華やかさ」など

を演出して、「自分は孤独ではない」というイメージを持ち

たがるのですが、そもそもアグレッシブさは、孤独から逃れ

たいがゆえの足掻きです。

 満足している人は、行動しませんからね。行動する人は

「足りていない」人です。

 「わたしは!」と自分を立てるから、浮いてしまって何か

が足りないと思ってしまう。で、足りない何かを埋め合わせ

る為に、必死になって動き回っているだけのことです。ご苦

労さんなことですね。



 一方、「わたし?・・・はぁ・・?」なんて思ってる人

は、危機感がないからこそ、そういう立ち位置なわけなの

で、実はけっこう満たされていたりします。あまり実感が湧

かなかったりするでしょうがね。



 世の中というものは、“孤独で、淋しくて、虚しいがゆえ

にアグレッシブな人達” が作るので、そういう人達に都合の

良い価値観が支配的になります。みんなそれに勘違いさせら

れているんですよ。

 “ぼちぼち、なんとなく、それなりに生きている人” の方

が、ほんとは幸福度が高いのです(幸福とは言い切れないけ

どね)。



 災害の話から始めたのに、なんだかほとんど違うところへ

行ってしまっているなぁ。「自分は “世界” の一部」という

話でした。

 「自分」に、災害が降りかかるわけではないのです。

 災害と一緒に、「自分」も生きているということです。あ

るいは災害と一緒に、「自分」も変わってゆく(死ぬ)とい

うことですね。

 固定した「自分」というものにしがみ付くから、状況の大

きな変化(災害)に脅かされるので  「自分がこんな目に

合うなんて思いもしなかった」ってこと、よく聞きますよ

  、「自分」というものの実態の無さを踏まえておけ

ば、災害もそれなりにやんわりとやり過ごせそうな気がしま

す。


 《 災難に逢う時節には災難に逢うがよろしく候

     死ぬ時節には死ぬがよろしく候

     これはこれ災難をのがるる妙法にて候 》

                   良寛



 災害に遭っても、“ぼちぼち、なんとなく、それなりに” 

していればそれでいいのだと・・・。

 「まぁ、そういうこともあるわなぁ・・」なんて。

 自分も災害もひっくるめた命なんだと・・・。

 「生」だけじゃなく、「生死」もろともで命なんだ

と・・・。




 取って付けたような結末になってしまったなぁ。自分の都

合の良いようには行かないのである。

 けど、自分の都合とは違うからこそ面白くなったりもす

る。

 「自分の都合なんてそれ程のものかよ!」

 などと言ってみたい。そもそも「自分」って、それほどの

ものかよ!



 諸悪の根源  苦しみの根源  は、ひとりひとりの「自

分」じゃないの?








2018年9月2日日曜日

《世界からのプレゼント》


 私は随分昔から、ふと浮かんだ考えを書き留めています。

 「考え」といっても、ふと浮かんでくるのだから自分で考

えているのではない。私のあたまが勝手に考えて、意識に浮

かび上がらせてくるわけです。

 そういった考えの中で、「なるほど」とか「これはイケ

る」といったものを書き留める。

 いわば、“無意識からのプレゼント” といったようなもの

ですね。

 それらの考え(言葉)が、このブログの個々のテーマや、

話のベースになっていることが多いわけです。


 今朝も一つの言葉が浮かんだのですが、いつもとはちょっ

と違ったパターンで、目が覚める直前に見ていた夢の中で、

「おおっ!」という言葉を自分が口にしたのでした。

 それが面白かったので、今回のブログはその言葉に加え

て、今までに書き留めて来た言葉をいくつか並べてみようと

思います。すでに、ブログのテーマにしたものもあります

が、「その言葉だけ」というのは、また違った印象を持つも

のですからね。


 では、今朝の夢の中の言葉から始めましょう。



 命 出てこい!
 かかってこい!
 ・・死にたくないから・・・。


 “満場一致” の壁の外


 鼻歌を生きよう!


 負けなさい!
 徹底的に負けなさい!
 完全に負けなさい!
 地球の中心まで落ちて行きなさい!
 それ以上の安らぎの場はありません!


 この世には成功も失敗もありません
 私の成功も失敗も無いし
 誰かの成功も失敗も無い
 起るべき事が
 起るべくして起こるだけのことです
 善も悪も無いのです
 「ふう~ん・・・」と、
 眺めていればいいだけのことなのです


 昨日は前世だと思え。
 明日は来世だと思え。


 沈黙の中にだけしあわせがある
 沈黙とは
 世界の本質である〈静寂〉に意識を向けること


 行為する事で満足を得るのではない。
 満足は既にあるのだ。
 何かを行うのは、満足を得る為ではなく
 満足を分かち合う為である・・・はずである。
  (満足=しあわせ)


 わたしは、わたしの所有物ではない


 自分が、小さく、弱く、愚かなものに思える時
 静かに呟いてみる「それでもいいじゃないか・・」と。
 それが事実なら、それを生きるしかないのだから。
 その、小さく、弱く、愚かに思えるものが
 こうして生きているのだから。


 エゴは「否定する」。
 それと共にエゴは「求める」。
 エゴは「満足」を知らず、それ故「現状を否定する」。
 愛は「求めない」。
 愛は「肯定する」。
 愛は「許す」。
 愛は「満ち足りている」からだ。
 愛は「今に在る」からだ。
 もう、「充分」なのだ。
 よって、愛は「受け取らない」。
 受け取るべき何も無いから。


 白紙。
 その紙が自分。
 描かれたものが自分ではない。


 「役立たず」とは
 「役が立たない」
 「役がない」ということ。
 出番がないということなので、楽屋で昼寝してたらいい。


 なんということ!
 もう、みんな終わっている。
 すべてケリがついている。
 今の今まで気が付かなかった。
 用は済んだ。
 さて・・・、生に溺れていようか。
 (「生」だよ「性」に溺れるんじゃないよ。まあ、それで
   もいいけどね・・)


 「醜さ」は、限定する事によって、
 囲い込む事によって生まれる。


 生とは、「流れ」のことです。
 世界という状況の中の「流れ」のことです。


 すべては完全です。
 人が、比較する意識で見るから、何かが欠けてしまう。
 不完全なものを生み出しているのは、人の意識です。
 世界を不完全にしているのは、自分自身です。


 人は皆、一挙手一等足まで運命に支配されている。
 そして、だからこそ完全に自由だ。


 「自由」とは、したい様にできるということではない。
 「自由」とは、何も考えなくていいということ。
 したい事など何も無いということだ。


 わたしたちが何かをする時、
 そこには、何がしかの意思や欲求がある。
 「自由にしたいことができる」という時も、
 わたしたちの行いは、何か(の欲求)に囚われている。
 自由とは、囚われないことではないだろうか?


 まず自分がある。
 エゴイズムじゃないんだ。
 だって、実際に自分はここにいる。
 ここに自分のからだがある。
 それだけは譲れない。
 譲れないというより消すことができない。 
 死んだって、からだはまだ残っている。
 そしてそれは誰にとっても同じだ。
 それをそのままにしておけばいいのだが、
 わたしたちは、何かが足りないような気がして、
 すぐに他人の分まで取り込もうとする。
 そこからが、エゴイズムとなる。
 小心者の勘違いから、世の中の不幸が始まるんだ。


 小心者=実際より自分を小さく感じている者
     実際より自分を大きく見せようとする者


 意味を手放せば
 世界と自分と今が、そのままここにある


 とまあ、こんなことが今までにいくつもあたまに浮かんで

きたわけです。

 それを浮かばせた力というものは、「より良く生きた

い!」、という私の想いでしょうね。

 その想いが、〈無意識〉に働きかけて、〈無意識〉がそれ

に応えてくれるのでしょう。

 たぶんブログを書くこともそれと同じでしょう。

 〈無意識〉からのプレゼント。あるいは宿題かな。

 でも、「より良く生きたい」という想いは何処からくるの

でしょう?

 「より良く」とは何でしょう?

 「良く生きたい」という想いこそが、《世界からのプレゼ

ント》かもしれませんね。その想いを持たされることがね。


 もっとも、何が「良い」のか分からなければ、どうしよう

もありませんが・・・。