2018年9月22日土曜日

何かを探して、何かを求めて・・・


 樹木希林さんが亡くなって何日か経った。テレビでは、ま

だ希林さんの話題を取り上げているけれど、あの人の面白さ

って、物欲の質の違いなんじゃないかなぁと思ったりする。

 希林さんも当然、物が欲しかったりしただろうが、「好き

な物が欲しい」ということと、「欲しい物を “好きだ” とい

うことにする」のでは事情が違う。希林さんの場合は「好き

な物が欲しい」ということだったんだろう。だから、人から

物を貰う事が嫌いで、「お願いですから、くれないで下さ

い」などという言葉が出る。



 人間は大抵 “欲しがり” なものだけれど、ほとんどの場合

「欲しくなった物を “好きだ” ということにしている」だけ

なんじゃないだろうか。



 自分が、「参加すべきだ」と思った “世の中のストーリ

ー” の中で、その中にあるものを「これが好きだ」と思い込

んで、思考停止しているだけなのが、普通一般なんじゃない

だろうか・・。




 わたしたちは「何かを求めて」、「何かを探して」、四六

時中アタマを使い、動き続けている・・・。いったい何が欲

しいのか?

 「欲しい」というのは、不足しているということだけれ

ど、いったい何が足りないのか?

 「インスタで見た、谷中の古民家カフェの “抹茶白玉ラム

レーズンパフェ” が不足している」というような人がいるわ

けですが、ほんとにそれが足りないのか?(そんなパフェが

ほんとに有るかどうかはともかく・・)



 〈「欲しい」からといって、それが必ずしも「不足してい

る」ということではない。単に「付け足したい」という場合

もある〉



 そんな意見もありそうですが、何故「付け足したい」ので

しょうか? それはやはり「不足している」のですよ。
 

 わたしたちは、物であれ能力であれ経験であれ、それを手

に入れている自分が “望ましい自分” であり、さらにいえば 

“あるべき自分” であると想定して考えてしまうので、現状

は常に「足りない」ということになってしまう。

 そのように現状に満足できないものだから、何かを「付け

足したい」という想いが湧いて来るのであって、「欲しい」

という想いがあるのであれば、その人は満足できていないわ

けです。

 人は、《今は常に不満》なのです。  



 アラブの石油王が、次から次へと超超高級品を買う。
 

 「何かが足りない」のですよ。



 どれほど多くのモノを手に入れても、いくら手に入れて

も、満足出来ない・・・。

 いったい、“何を”・ “どれだけ” 手に入れたら気が済むの

でしょう?

 いつになれば、探し求めることは終わるのでしょうか?

とは、アラブの石油王に限ったことではありません。

 程度の違いやスケールの違いこそあれ、石油王から乞食ま

で、「足りない」と思い、「欲しい」と思うことは、すべて

の人間にとって本質的には同じです。(生きてゆくための生

理的な欲求は別ですが)



 求めても求めても、「足りない」という想いが消えること

はない。

 わたしたちのアタマは、常に現状を否定することが使命だ

と思っていますから、欲しい物を手に入れた瞬間、それは

「現状」という “足りない世界” に汚染され、価値を失いま

す。まるで、ゴールするたびにゴールが先へ行ってしまうマ

ラソンのようなものです。

 砂漠でオアシスの蜃気楼を求め続ける様にわたしたちは生

きている。

 本来であれば豊かなはずのこの世界を、わたしたちのアタ

マは砂漠に変えてしまう・・・。



 社会  アタマの集合体  はさまざまな蜃気楼をわたし

たちに見せて、そそのかす。そそのかされる側も、そそのか

す側もそれが蜃気楼だとは思っていない。それが「今、無

い」ことは確かだから、「今は、常に足りない世界」だか

ら、蜃気楼であれなんであれ追い求める。

 《足りないものは「満足」だけ》

 それがわたしたち人間。

 それがアタマの基本理念。

 アタマに従っている限り、永遠に満たされることはない。



 わたしたちがアタマの呪縛から解放され、真に満ち足りる

事は絶望的に難しい(お釈迦さまのようにならなけりゃいけ

ない)。でも、せめて自分が心から求める声に耳を傾け、社

会が語りかけてくる “お話” に迂闊に乗っからないようにし

た方が、しあわせだろうと思う。そして、そのことは、実は

みんな分かっている。分かっているからこそ、樹木希林さん

の言葉が話題になるのだ。でも、みんなそのようには出来な

い・・。

 しゃあないね。出来ないなら出来ないまま生きるしかな

い。社会の見せる蜃気楼を追い続けて・・・。



 アタマは「足りない」と言う。

 「無いもの」に目を向けるのだから、足りなくて当たり前

です。

 「今有るもの」に目を向ければ、「すべてが有る」。

 当たり前の事ですね。でもアタマはそれを嫌がる。

 アタマがそのような思考しかできないのは、すべての人間

が、生まれた時からそのように刷り込まれるからです。

 すべての人間がそのように刷り込まれ、それに基づいて影

響し合うのですから、その刷り込みは恐ろしいほど強力で

す。

 人は皆、「良かれ」と思って “お話” を聞かせ合う・・。

「良かれ」と思っているので、なおさらタチが悪い。なにが

本当に「良い」のか誰も知らないくせに、「今、無い」もの

に価値を置く。「今、ある」ものに目を向けようと言う人は

少ないし、そういうお話は人に受けが悪い。アタマは満足し

たくないですから。



 現状に満足してしまうと、アタマはすること(考える事)

が無くなって、存在意義が無くなる。アタマは存在し続けた

い。だから、アタマは常に不満を表明する。



 満足することを恐れる〈アタマ〉が集まって社会を作り、

社会が大きな “お話” を作り上げて、個々の〈アタマ〉の不

満を再生産するので、世界中の人間が蜃気楼を追って、“自

分の今” からさまよい出て迷い続けているのが、人間の世界

というものでしょう。



 仏教の言葉に『脚下照顧』というのがありますね。

 「自分の足元を顧みろ」というのですけど、「今、あるも

のを見てみなさい」ということですね。

 今あるものは、すべてある。



 何かを探して、何かを求めて・・。

 それは本当に必要なのか?

 人が価値あるとしているものって、大抵は “お話” に過ぎ

ないんですよ。大騒ぎして持ち上げたりすることほどね。



 生きることは、そんな大袈裟なものではないし、喜ぶこと

は、本当は簡単なことです。自分たちで寄ってたかって難し

くしているだけですね。つまんない約束事で縛り合ってね。

そう思う。



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