2019年9月30日月曜日

世の中を、たしなんでいると・・・



 《 世の中なんか、たしなむ程度にしておきなさい 》なん

てことを、私は書いたりしている。


 人として生きている限り、世の中と関わらずには生きられ

ない。

 けれども世の中とまともに関わると、その妄想の物語に引

き込まれて、人として本来持ちうるべき安らぎや喜びを見失

ってしまう。だから《 世の中なんか、たしなむ程度にして

おきなさい 》と、自戒を込めて私は言う。


 常に、そのように自戒しているのだが、世の中と関わって

いるとどうしてもメンドウな人間に関わってしまうことにな

   “メンドウな人間” とは自分のエゴの世界にどっぷり

と浸かって、そこからしか物事を見れない人間のことだ。

 そんな人間と関わってしまうと、もうホントにうんざりす

る。生きているのが嫌になってしまう。「もういい加減にし

てくれないか・・・」と思ってしまう。


 「これまでの人生で、そういう人間と嫌というほど関わっ

てきた、もういいよ・・・」

 そんな思いで天井を仰いだりする・・・。


 そういう “メンドウな人間” を、恨んだり憎んだり、バカ

にしたりする気持ちは起きない。その人にはその人の事情が

有って、そのような人間になっているのだからしょうがない

と思う。そういう面では自分も成長したとは思うが、なにぶ

ん生身の人間なので、メンドウなことに巻き込まれるのは酷

く疲れる。


 私はただ、「人と人は穏やかに仲良く助け合えばそれでい

い」と思っているだけだ(それが一番いいことだとも思って

いる)。ところが、人はエゴに振り回され、エゴにそそのか

されて、他人を否定し、他人を攻撃したりする。

 否定し、攻撃される人も不幸だが、その当人も決して幸せ

にはなれないのに、エゴの興奮状態に酔っているのでそれに

気付けない。自分と周りを地獄に引き込んでいるのだ

が・・・。


 私は地獄は嫌だ。

 穏やかでありたいし、周りの人の穏やかさも乱したくな

い。

 『和顔愛語』などという言葉も思い浮かぶが、その「和顔

愛語」に腹を立てる人間までいるのだからどうしようもな

い。ため息がでる・・・。

 「生きるのやめようかな・・・」などと思う。

 「どうせ死ぬんだし、他人の “エゴという狂気” に関わっ

てたって、世界が良くなるわけじゃなし・・・」

 お釈迦様だって「縁なき衆生は度し難し」  縁が無けれ

ば救えない  と言ったのだから、私に “メンドウな人間” 

を救える道理も無い。そもそも私の見立てが正しいという保

証もない。メンドウなのは私の方かもしれないんだか

ら・・・。

 「ああ・・・、生きているのが嫌になる。。。」


 生きてるのは、やっぱり「苦」だね。


 そこからなんとか自由になりたいと、こんなブログを書い

ている。

 

 意識の深い部分。「ライフサイド」には「苦」は浸透して

来ないけれど、世の中と関わる限り、自分の「エゴサイド」

を開くしかない。そこにはすぐに「苦」が侵入し、うごめく

・・・。世の中と関わると苦しい・・・。時には弱音を吐

かずにはいられなくなる・・・。


 「生きるのやめようかな・・・」
 

 「ライフサイド」に在る自分は絶対に幸福だから、いつ死

んだって構わない。でも、私の「死」は親しい人たちを苦し

める。だから苦しくても死ぬわけにはいかない・・・。


 ひょっとして、私は菩薩だろうか?


 菩薩ですよ。


 「自未得度、先度他」の思いを少しでも持っているのな

ら、誰でも菩薩です。

 こんなブログを読んでいるのだから、きっと、あなたも

ね。


 それにしても苦しいなぁ・・・。

 アタマは悪いなぁ・・・。






 

2019年9月29日日曜日

「始まり」も「終わり」も無い



 『終わってますけど』という話をちょっと前に書いた。け

れど、この世界では何一つ終わったことがない。

 宇宙が生まれて以来(「宇宙が生まれる」という始まりが

あったとして)、世界は変化し続けている。物事が終わるの

は、人間のアタマの中だけでの話だ。わたしたちは自分の描

くストーリーにある区切りがつくとき、「終わった」と言

う。でも、この世界には「終わり」も無ければ「始まり」も

無い。


 人が物事に「始まり」と「終わり」を見るのは、世界の変

化を見て取り、そこに社会の約束事や自分なりのストーリー

を当てはめるからだが、実際には、世界では何も始まらず何

も終わらない。しかし、人間のアタマは「始まり」と「終わ

り」が無いことに耐えられないので、そこに「始まり」と

「終わり」を求めてしまう。


 なぜ人間のアタマが「始まり」と「終わり」が無いことに

耐えられないのかというと、“「始まり」と「終わり」の無

い事” には意味付けができないから。

 わたしたちのアタマ(思考)は物事を分割してはじめて、

それに意味付けすることができます。わたしたちは “「始ま

り」と「終わり」の無い事” を思考のまな板に載せることが

できません。“「始まり」と「終わり」の無い事” は扱えな

いのがわたしたちのアタマです。


 無限の過去から無限の未来へ、無限の広がりから無限の極

細まで、この宇宙は一切の区切りの無い、丸ごと一つの存在

として在る。

 「現在」は「過去」と「未来」なしには存在しえないし、

一点の空間はそれ以外のすべての空間無しには存在しえな

い。この宇宙は一切分割することができない。ただわたした

ちのアタマだけがそれを分割する。そうせざるを得ないの

で・・・。


 その “分割すること” がわたしたちを苦しめる・・・。

 しかし、それは同時に、この “丸ごと一つの存在” を感じ

るための前提でもある。


 自意識を持つことによって、分割することによって、この

宇宙から分離してしまったわたしたちは、それゆえに、世界

が “丸ごと一つの存在” であることと、自分もまた “それ” 

であることを意識することができる。


 人間は、 “分割すること” によって苦しむことになった代

わりに、その ゛分割する” という業から自由になった時に

は、《「過去と未来と無限の空間と “丸ごと一つ” である」

という意識を持つ 》という至福に至ることができる。それ

はきっと人間の特権なのだろう。(他の生き物や生き物以外

の物に聞いたことがないのでそう言うしかないし、もし他の

存在がすでに “そう” なら、人間をやって苦しんでいるのは

バカらしすぎるだろう・・・)


 国境・人種・民族・宗教・イデオロギー・階級・老若男

女・生と死・・・。

 あらゆる “区切り” という「お話し」から解き放たれた

時、人は初めて人として生まれた価値を知るのだろうね。


2019年9月27日金曜日

「環境破壊バカ」と「環境保護バカ」



 最近は、地球温暖化防止の話を耳にすると気分が悪くなっ

てしまう。

 一つには、嘘つきが政治や金儲けに利用しようとするか

ら。

 一つには、温暖化防止を語る人間が単純すぎるから。

   一つには、どうにもならないと(私が)思っているから。


 今回の国連の会議では、77か国が「2050年までに温

室効果ガスの排出をゼロにする」と表明したらしい。その中

にアメリカと日本は入っていないので、日本のマスコミが日

本政府に対して批判的な事を言ったりしている。

 77か国もバカだし、それに入っていない日本を批判する

マスコミのバカさ加減もすごいと思う。いったいどうやって

ゼロにするのか?ゼロにするためには、経済活動を停止する

しかないと思うが?

 ホントにバカだからそんなことを言っているのか?イメー

ジアップのために適当に言っているのか?排出権取引のよう

なことを利用して儲けようとか、外交上有利に立とうとして

いるのか?いずれにせよ、その77か国は口先だけの環境派

だ。

 「温室効果ガス排出ゼロ」なんて、物理学がひっくり返る

ような科学的ブレークスルーが起きない限り不可能です。


 私は自然が好きです。というより、人間は自然の一部であ

り、自然に即してでなければ生きられませんから、自然を大

切にするのは当然のことです。だから、私は自然を大切に思

う。なので、人間が環境破壊を続けていることは、愚かだと

しか言えません。

 とはいえ、現在の地球規模の環境破壊を止めるには、大幅

に人口を減らすことと、経済活動を極端に縮小させるしかな

いと考えるので、温暖化防止についても物を言う気にならな

い。発展途上国の人たちや、先進国の貧しい人たち(私も入

っているのだろう)数十億人に「死んでくれ」とは言えませ

んから。


 前回も書いたように、みんなで貧乏するしかないのです。

しかし、きっとそれでも足りないのです。人が増え過ぎまし

た・・・。


 ホント、どうなるのでしょうね?

 私が生きているうちに「人類の惨劇」を目にすることにな

るかもしれない。

 温暖化どころじゃない。その前に、石油の高騰と水資源の

枯渇によって、食糧危機が起こるとしか思えない。石油が高

騰するとプラスティックも高騰するので、食糧のみならず、

さまざまな物の生産コストと流通コストが跳ね上がる。跳ね

上がり過ぎて、産業自体が立ち行かなくなるかもしれない。

 再生可能エネルギー(意味のよく分からない言葉だ)は、

火力・原子力発電の代わりにはならないし  ちょっと計算

すればすぐに分かる話だ   石油は燃料として以外でも、

現代文明を支えているのだから、石油が手に入りにくくなっ

たら、この文明は一気に衰退せざるを得ないのだ。(『イデ

オネ・ラサカイエンシス登場!』・2019/7 参照)


 環境を破壊するバカ(私もあなたもその一人です)も、単

純にイメージだけで環境保護を訴えるバカも、一旦落ち着く

がいい。

 自分たちのアタマのバカさ加減とじっくりと向き合って、

自然の理(ことわり)からなるべく外れないようにしなが

ら、「ほんとうに人としてしあわせに生きて死ぬにはどうす

べきか?」を人類全員で考えるのなら、少しだけ希望はある

のかもしれない・・・。

(そんなことは起こりえないので、私は絶望していますが)





2019年9月24日火曜日

気候変動を止められたとしても・・・



 海外では、気候変動(まぁ地球温暖化のことでしょうが)

をなんとかしろと若い子たちが声を上げ始めているようだけ

ど、「みんなで貧乏する気」はあるのかな?

 本気で気候変動を止めるのなら(それが温室効果ガスのせ

いだとして)、今の経済活動・・ようするにむやみやたらに

資源を使いまくる文明の在り方をストップしなければならな

い。少なくとも化石燃料の使用を現在の一割以下に抑えなけ

れば話にならないだろう。

 化石燃料の使用が減れば、それに伴って他の資源の使用も

減るから  石油や石炭が使えなければ、他の資源の運搬や

活用もできないからね  経済活動も抑えられ、物の使用も

減り、文明はごく小さなものになる。ようするに「みんなが

貧乏になる」。まさか、今の暮らしはそのままで、化石燃料

の使用を減らし、気候変動を止めようなんて思ってるんじゃ

ないだろうね? もしそうならあまりにもナイーブ過ぎる

し、エゴイスティックな話だ。


 「みんなで貧乏する」どころか、化石燃料の使用を大幅に

減らせば、億単位の人間が飢え死にすることになるだろう。

貧しい人たちがね(私も入っているかもしれない)。

 そうして、地球人口が激減して初めて、人類は化石燃料に

頼らない暮らしを取り戻すことができるだろう。その暮らし

は中世以前のようなものにならざるを得ない・・・、だから

「みんなで貧乏する気はあるのかな?」と言いたくなる。


 “再生可能エネルギー” なんて、おとぎ話だよ。国連だか

何だか知らないけど、「2050年までに、温室効果ガスの排

出を0にする」なんて言ってるそうだ。テレビを見ながら吹

き出してしまった。よくもまあ大の大人が集まってそんなこ

と言うもんだ。

 もし本当にそうするのなら、それぞれの国が交流を断ち、

それぞれの国の中でも小さな集団で小さな地域に分かれて、

あらゆるものを地産地消で完結させ、それに満足して生きて

行く必要がある。他所と交流し、自分の所に無い「何か」を

求めるには、余分なエネルギーが要るからね。


 日本の江戸時代でさえ、文化の発展に伴って、燃料・材料

として木を沢山切ったから日本中ではげ山が広がったんだか

らね。それを、今の文明を化石燃料無しでやろうなんて、あ

まりにも子供っぽい希望だね。


 私もそんなことは望まないけど、もう覚悟するしかないん

だと思うよ。この文明は、そんなに遠くない将来に終わるん

とね。若い子たちには申し訳ないけど、イヤでもこれか

ら、「貧乏するしない」ということになると思うよ。

 運が良ければ中世に戻って、“前の中世では持ちえなかっ

た価値観” でもって、皆が幸福に暮らせるかもしれない。

「ホント、人間は何千年もバカだったよな!」ってね。


 若い子たちにそんな未来を生きて欲しくて、私はこんなブ

ログを書いてるんだよ。

 「アタマは悪さをするから気を付けてね」って。


 だって、このまま行けば、「人口崩壊」「水と食料をめぐ

る戦争」が起こる確率はとてつもなく高いだろうから。その

「わるさ」をするのは、わたしたちの〈アタマ〉だからね。


 暗い話になってゴメンナサイ。




 (よかったら『地球温暖化どころじゃない・・』2017/8 

も見てみてください)

2019年9月22日日曜日

地獄は嫌だ



 昨日《 地獄は「正義」を土台にして作られる 》と書いた

後、 “地獄への道は「善意」で敷き詰められている” と誰か

が言っていたのを思い出した(私の言うことにオリジナリテ

ィなどありません)。地獄から逃れようという「正しい」

「善い」思いが却って地獄を生む。


 私も地獄は嫌だ。

 私は、生きているあいだにエゴという地獄から抜け出した

いと思っている。

 これほど強欲なこともないだろうが、その強欲は私のエゴ

なので、「地獄から抜け出したい」という思いが強いほどエ

ゴも強い。より地獄の “地獄性” が強くなってしまう。バカ

な話だな。



 何ごとも「あっさり」いかなきゃいけない。

 気楽にいかなきゃいけない。

 自分で深刻ぶったり、こだわったりするのもいけないが、

他人に対して、深刻に、執拗に、「正しさ」なんかを求めた

るのは最悪だ。

 「正義の人」「善意の人」「真面目な人」

 そういう人ははた迷惑極まりない。そういう人間こそが地

獄を作る。

 (「悪い人」「悪意の人」「不真面目な人」が地獄を作る

のも、間違いないけどね)


 「深刻さ」も「こだわり」も「正しさ」も、人が “そう思

う” だけでしかないんだ。

 それによって、却って「あるがまま」の世界を見損ねるん

だ。

 錯誤の上に錯誤を重ねてゆくんだ。

 地獄を生んでゆくんだ。



 お釈迦様は悟りをひらき《 我、大地と有情と同時に成道

す 》と言った。

 私流に解釈すると、“世界は完璧だ” ということになる。

 だって、今ここに世界はあるがままにあって、それがこの

世界であるのは間違いないのだから、人間がそれに不服を言

ったってしょうがない。世界はこの瞬間に完成し、瞬間ごと

に完成し続けているんだ。それが人から見てどれほど過酷で

醜悪に思えようとも。


 大智禅師は書き残している《 晴天白日、人誤る事多し 

 なんでもないのに、人がエゴの目から世界を見るので間違

いを犯す。


 達磨さんも言っている。《 廊然無聖 》。

 「なんにもないよ」と。


 老子も言っている。《 無為自然 》。

 「“そのまま” をそのままに」・・・。



 仏教だろうと、キリスト教だろうと、イスラム教だろう

と、ヒンズー教だろうと、老荘だろうと、近年のスピリチュ

アルマスターだろうと、伝えようとしていることは同じ(ま

ちがいを伝えようとしている者が大勢いるのはともか

く・・)。


 「世界はそのままで完璧だ。それをそのままにしておくの

が良い」


 わたしたちは、それを「そのまま」に受け取ればいいのだ

が・・・。


 エゴの目で見れば、“世界は不完全” 。“世界は地獄” 。

 「そのまま」見れば、“世界は完璧” 。“世界は浄土” 。


 世界には「正しい」も「間違い」も無いし、「善悪」も無

い。

 人が「正しさ」を見れば、そのことが「間違い」を生む。

 人が「善」を見れば、そのことが「悪」を生む。


 人の思考・活動はマッチポンプ。

 人はずっとずっと一人相撲を続けてきた。きっと何万年も

ね・・・。


 そろそろ飽きてもいい頃だろうと思うが・・・。





2019年9月21日土曜日

許さない人たち



 京アニの放火事件が起きた時、「許せない!」と発言する

人たちが秘めている “怖さ” について書いたんだけど

(『「許せない!」か・・・』2019/7)、この世の中で

は多くの人が、自分の周りや社会で起こる気に入らない出来

事や、それに関わる人々を、「許さない」という態度をとる

(韓国では、国のトップがそうたきつけてたりする)。しか

し、何のためか? 許さなければ、何かいいことがあるのだ

ろうか?

 いいことなんかありはしない。一時、アドレナリンが出て

気分がいいだけのことだろう。その後には更なる面倒なゴタ

ゴタが待っているのが普通なのだが、人は「許さない」のが

好きだ。


 何か “良くない事” をした個人や組織に「責任を取らせ

る」ことと、「許さないこと」は、別のことだと私は考え

る。

 「責任を取らせる」ことは、社会的・実務的な事であるの

に対して、「許さないこと」はあくまでも心情的な事だ。

「許さない」ことにこだわり過ぎると、現実を見失ってどん

どん問題が増悪して行き、自分をドロ沼に沈めて行くことに

なる。


 なんだってこういう話を書いているかと言えば、このとこ

ろの韓国の反日と、「福島第一原発の汚染水は海洋投棄する

しかない」という前環境相の発言に刺激されてのことのよう

だ。


 韓国が「日本を許さない!」と言い続け、現実無視を貫い

て自らの首を絞めているのはもはやマンガのようだが、汚染

水の海洋投棄を心情的に「許さない!」のも現実無視だろ

う。

 たまり続ける汚染水をため続けることは出来ないし、害の

大きい放射性物質が取り除いてあるのなら、自然界に放出

しても科学的には問題が無い。風評被害を問題視する人たち

や、ゼロリスクを求める “安心安全原理主義者” は「許さな

い!」と言うだろうが、じゃぁどうするんだ? タイムマシ

ンを作って、過去に戻って原発事故が起こらないようにリセ

トするのか?


 起こってしまったことはしょうがないのだ。それが現実な

ら、その現実には現実的に対処するのが筋だろう。私は、大

阪の松井市長と吉村知事の「汚染水を大阪湾に流してもい

い。協力する」「科学が風評に負けてはいけない」という発

言を支持する。

 そもそも、チェルノブイリ原発事故が起きても、日本人の

総意は「原発反対」にならなかったのだから、この度の事故

の処理に対しては、日本全体でその責任を引き受けるべき

だ。東電と政府にだけ責任を押し付けるのは卑怯だと思うね

(今回、当時の東電の経営陣が刑事裁判で無罪になったこと

には「それはないだろ」と思っている。だって敷地内の高台

に非常用電源設備を設けておけば済んだ話なんだから。そん

なの経営陣のポケットマネーでも出来た程度のことだろうし

ね)。


 私はなにも「科学が絶対」と思っているわけではない(そ

の「科学の粋」のはずだった原発が事故を起こしたのだから

ね)。

 自分に都合の良い時は、わずかばかりのデータでも科学を

根拠にするくせに、自分に都合の悪い時は、「そのデータの

科学的根拠は疑わしい」「科学は絶対ではない」などと平気

で言う輩が大勢いるのが不愉快でならないだけだ。

 “許さない人” たちというのは、自分の気が済むためには

平気で現実を無視する。そして、“気に入らない人・事” を

断罪する。それが妥当かどうかは気にしない。いや、「それ

が妥当である」と思わせてくれることだけを根拠として採用

する。


 《 「正しい」とは、そういうことにしておけば気が済む

ということ 》と今まで何度も書いてきた。

 “許さない人” は、常に「正義」とセットになっている。

 意識しているかどうかに関わらず、「自分は “正義” の側

だから、それを損なうものは断罪していいのだ」と考えてい

る。なぜなら「正義」とは「正しい根拠」という意味と捉え

ることができるから・・・。つまり、「 “正義” の側が根拠

にすることは、常に正しいのである」と思っている。・・・

困ったもんだ。


 かくて、社会には現実無視の「正義」がまかり通り、問題

は適切に解消されることなく、世界はさらなる混迷を深めて

行く・・・。


 韓国の反日は放っておくしかないだろうし、汚染水の処分

が風評被害をもたらさないようには、日本人全員でその科学

的正当性を支えるべきだと思うよ。汚染水はいずれは自然界

に放つしかないのだから、感情的になって先延ばしにしてい

てもどうにもならないでしょうよ。


 そもそも、「理性的」であることが人としての “徳の高

さ” や “格” を表すのではないの?世界的にも?

 日本人に「自分達の民度は高い」という意識があるのな

ら、感情的に物事を判断するのはいかがなものか。お隣の国

の、感情的な “許さない人” たちを見て、〈他山の石〉とす

べきでしょう。感情的になった時点で、自身の程度の低さを

露呈してしまっているんですよ。


 やっぱり、「許さない」というのは、地獄を作る行為でし

ょう・・・。


 こんな言葉があたまに浮かんだ。

 《 地獄は「正義」を土台にして作られる 》

 ありがちだけど。




2019年9月17日火曜日

見えない「デモ」



 私が子供だった頃(学校に行っていた頃)、自分の周りに

は不登校や引きこもりの子はいなかった。いたのかもしれな

いが、自分たちの意識にのぼる程の人数ではなかったのだろ

うし、「不登校」や「引きこもり」という言葉も無かった。

今と比べると、実際にかなり少なかったんだろうと思う。

 なぜ今、不登校や引きこもりがこんなに多いのかと言え

ば、社会の中に余裕(あそび)がないからだろうなぁ。誰で

もそう思ってるんじゃない?


 テキトー・そこそこ・それなりに・間に合えばい

い・・・。

 そういう言葉を吐くと非難される世の中になった・・・。

恐ろしいことだと思うんですけどね。


 わたしたちはほとんど機械のように、効率的に、正確に、

ミスなく、予定通りに、望まれる形で、話し、行動しなけれ

ば許してもらえない。しかし「望まれる形」を望んでいるの

はいったい誰か?


 誰もがお互いに、自分のエゴを社会の常識の中に忍ばせ

て、“常識の名のもと” に自分の都合の良いように他人をけ

ん制し、コントロールしようとする。

 A氏がB氏を、B氏がC氏を、C氏がA氏を・・・と、その

不愉快なゲームは果てしなく続いてゆく・・・。その結果、

とてもとても狭く凝り固まった “エゴの集合無意識” が、社

会に生きる者全員に無言の圧力を掛けてくる。

 「ここ(狭く凝り固まった世界)から、はみだすんじゃな

い!」


 でも、人間は皆出来損ないだ。誰にでも得手不得手があ

る。ちょっとした状況の変化で、「そこ」からはみ出しかけ

ると、途端に、全体に掛かっていた圧力がそこに集中する。

狭く凝り固まっているところなので、逃げ場が無い。もうは

み出すしかない。

 子供たちは不登校になり引きこもり、大人たちは鬱病やパ

ニック障害になる。さらに悪い因縁  私は不運な因縁と言

いたいが  にある者は、なんらかの依存症になる、犯罪を

犯す、自殺する、人を殺す・・・。


 私もあなたも、誰がいつその立場になるか分かったもんじ

ゃない。皆がそのことを知っているので、「自分はそうなり

たくない」と、他人に対するけん制を止めようとはしない

し、さらに強めたりもする。そのせめぎ合いは終わることが

無い。


 昔は昔でムチャクチャな事があったし、酷いこともあっ

た。でも、今のような息苦しさが無かったことは確かだ。こ

んな風になってきたのは二十五年ほど前からのような気がす

る。ケータイの普及、鬱病や不登校の増加、それにアレルギ

ーの増加なんかは同じような上昇グラフを描くんじゃないか

な。その要因は同じだと思うね。


 ケータイと言うのは、「携帯電話」じゃなくて実質的には

「個人電話」なのね。社会が常に個人を社会の中に囲い込む

か、個人が社会から一歩出た場所に別の人間関係を作るため

に使われる物です。

 鬱病や不登校は、さっきも書いたように社会らはみ出して

しまう(押し出されてしまう)から起こるのだし、アレルギ

ーは自分とは違う物を極端に排除しようとする反応です。今

の世の中は、個人が小さく小さく圧縮されて、皆、自分の中

に他者を受け入れる余裕が無い。その当然の結果として、精

神的にも肉体的にも社会的にも様々な問題が起こる。


 『引きこもって当たり前じゃない?』(2019/4)って前

に書いたけど、ホント、そんな風になるほうが人としてまと

もなんだと思うよ。それでなぐさめにもならないだろうけ

ど・・・。



 香港で、中国共産党の支配からなんとか距離を保とうと、

デモなんかが続いているけど、日本で、不登校や引きこもり

や鬱病やパニック障害やその他の在り方で、社会からはみ出

してる人がいっぱいいるのは、ある意味「デモ」なのかも知

れないね。

 「こんな世の中、おかしいだろ?」と。


 (香港では、「こんな世の中、おかしいだろ!」でしょう

  が、日本では「おかしいだろ?」になる。そのあたりは

  国民性の違いですね。それだけでもないけど)





2019年9月15日日曜日

暇につぶされない。暇をつぶさない。



 「人生は暇つぶし」だなんてことを言う人がいる。ついこ

の間もそんなセリフを聞いたが、私も、一応そのことに異論

は無い。人生はそういうもんだと考えている方がいいだろ

う・・・。


 というのは表向きの話で、「暇つぶし」をすることは、実

は「暇につぶされる」ことなので、気を付けていないと深い

穴にはまってしまう。


 意味が分からない?


 「暇をつぶそう」とするということは、まず「暇」という

ものが有って、自分がその「暇」の影響下にあるということ

です。自分よりも「暇」の力の方が大きく、「暇」の圧力に

圧倒されて何かをせずにはおれなくなっているので、「暇つ

ぶし」をしてしまうのです。その行為は,自分の意識の上で

は「暇をつぶしている」のですが、本当のところ「暇」に動

かされてその場しのぎに何かをしているだけで、主導権を握

っているのは「暇」の方です。ですから、「暇をつぶしてい

る」のではなくて、「(自分の方が)暇につぶされている」

のです。

 そして「気を付けていないと深い穴にはまってしまう」と

いうのは、“その場しのぎの何か” が依存症や強迫神経症の

ような存在になってしまって、人生が “それ” に乗っ取られ

てしまうということです。その結果、人生の終わりに「とこ

ろで、自分は “何” がしたかったのか・・・」と呆然とする

ことになりかねません。


 ビジネスに血道を上げている人や、「趣味」や「遊び」と

称するものに入れ込んで人生を楽しんでいるつもりになって

いる人が、その人生の終わりにどのような感慨を抱くのかを

考えると、他人事ながら暗い気持ちになります(一時だけ

ね)。



 リチャード バックの小説『イリュージョン』(村上龍 

訳)の中に、こんな一説があります。


  自由に生きるためには

  退屈と戦う必要がある

  退屈を殺して灰にしてしまか

  退屈に殺されて家具になるか

  激しく根気のいる戦いである



 この一文が何を表しているのかはバックに尋ねてみなけれ

ば分かりませんが、〈退屈に殺されて家具になる〉という感

覚はよく分かります。「退屈に殺される」と、この世界の道

具になってしまって生き損ねるのです。(『退屈を味わう』

2017/5 という回にも引用しましたが)


 「暇」だと「退屈」します。

 しかし、「暇」「退屈」は自分に対する “世の中からの要

請” が無い時に生まれますから、それは世界や自分というも

のの本質に目を向ける絶好の機会なのです。ところが、人は

「退屈」を恐れます。何故でしょう?

 それは、世界も自分も無意味だからです。

 そのことに気付いてしまうからです。いいや、実は元々

のことに気付いていることから目をそらしていたいのに、

「暇」だとそのことが意識に上がってきてしまうので、それ

を恐れるのです。「無意味」  あるいは「理解不能」  

ほど人が恐れることはありません。人が「死」を恐れるの

も、生きていることが「無意味」だと感じさせるからです。

 その恐れゆえに、人は皆、必要もなく本当は望んでもいな

い事に、人生のほとんどを費やして生きて行くことになりま

す。


 その時その時は何か大したことをしているつもりが、実は

「退屈」に殺されていて、ある時、あるいは人生の終わりが

近付いた時、世界の片隅で家具になっていた自分に気付いて

呆然とします。

 「いったい、何がしたかったんだろう・・・」。


 だけど、「退屈に殺された」「暇につぶされた」と気付

けるのならまだましです。ただただ、アタマの中に悲しい・

恐ろしい「?」が浮かぶようなら、完全に生き損ねたので

す。もう終わりです。GAME OVER!


 「人生は暇つぶし」と考えて、あまり深刻に捉えずに生き

て行くのは精神衛生上結構なことだと思いますが、もっとイ

イのは「人生に “暇” ほど良いものはない」と思えることだ

ろうというのが私にとっての正解ですね  もちろん、「暇

な時間に何かができるから」ということではありませんよ。


 このブログは暇つぶしになりましたでしょうか?





2019年9月11日水曜日

終わってますけど?



 今、You Tube で Jazz を流しながら(「作業用」とかい

うやつです)、PC に向かっている。こういうことをしてい

ると、「もう文化はドン詰まりだなぁ」と改めて思う。
 

 私は特に Jazz に詳しいわけではないが、今流れている曲

は結構いいレベルの演奏で、こういうものがいつでも手軽に

聴けるというこの時代は「凄いなぁ」と思う。と同時に「終

わってるなぁ」とも思う。

 マイルス デイビスやコルトレーンが活躍した時代、サッ

チモやデュークエリントンが笑っていた時代、キース ジャ

レットが jazz の熱を程よく冷ました時代。それぞれの時代

とそれぞれの個性が新しい音楽を生んでいった。というより

は、そこにはまだ埋めるべき隙間が存在していたので、そこ

からは必然的に新しい芽が出てきたのだ。

 けれど、もう隙間は無い。

 新しいものが出る余地が無い。


 洗練度は増し、ノウハウが確立され、play としてのハ

イレベルの Jazz がそれこそ湯水のように流れ出している。

それらは、確かに良いものだ。しかし、そこに驚きを感じる

ことはとても少ない。

 あるミュージシャン、シンガーの個性や技量・センスに魅

力を感じることはあっても、そこに「新しいもの」は無いの

だ。さっきから流れている曲を聴きながら、そこに象徴され

る “文化のドン詰まり” に思いを致す。「何もかも、もう終

わりのようだけど、いったいどうするんだろうなぁ」と。


 今日、あたらしい i Phone 発売のニュースがあったのだ

が、案の定「カメラが高機能になった」というだけの事らし

い。やっぱりスマホももう終わってるね。十年で行き詰まっ

ちゃったんだ(笑)。かわいそうに。(『もうすぐ、スマホ

は飽きられるだろう』2018/7参照)


 ネタ切れの人気マンガの終了を引き延ばしてファンからヒ

ンシュクをかうように、あらゆる文化が追い込まれている。

“文化の高齢化” とでも言うべきか。成熟しきってしまっ

て、もうにっちもさっちも行かない。あと十年ほどしたら、

スポーツもエンターテイメントも一気に崩壊するか、狂気と

しか呼べない方向に進むんじゃないだろうか。それがどうい

う状況かは具体的に言えないけれど、差別や戦争に絡んで欲

しくはないなぁ(「そうなるんじゃないか」という危惧があ

るからこそ、そう思うんだけどね)。


 どんなことにも成長の限界というものがある。それが成長

し続けることができる環境というものには必ず限界があるか

らだ。そこからはみ出すと、それは成長ではなくて、変質あ

るいは変成となって、別のものになってしまう。人類の文化

・生き方は、もう根本的に変わらざるを得ないところまで来

てしまっているんだろう。それは、数千年かけて描き続けた

絵巻物が灰燼に帰すような大事件となる。それが、音楽を聴

いていて分かる。


 「あと十年ほどしたら・・・」と書いているので、あと十

年もしたら、これが私の妄想・思い込みかどうかは分かる。

 何がどうなるかは知らないけれど、面白半分に待っていよ

うと思う。

 どうなるのだろう? 

 次はどんな “お話し” なのかな?

 それとも、“すべての終わり” なんだろうか?


  それまで Jazz でも聴いてリラックスしていよう。

  では、今からチェット ベイカーの「Let's get lost」で

も聴こう。(いい選曲だ!)









2019年9月8日日曜日

S・YAIRI YD-304



 私は四台のギターを持っている。その中で一番古いのが、

四十年以上前の  “S・YAIRI” という日本のメーカーのギタ

ーです。型番はYD-304というもので、当時の定価が

80000円のものですね。塗装が一部傷んでいますが、今で

もいい音で鳴ってくれます(「ベルサウンド」と呼ばれる独

特の “鳴り” です)。

 そのギターの弦を久し振りに張り替えたのですが、ふと思

ったのは、その四十年ほど前の頃のこと。


 その頃、三ノ宮に「三木楽器」というビンテージギターだ

けを扱う店があって、そのショウウインドーには “マーチ

ン” の四百万円もするギターが飾ってあった。そのギターは

製造から四十年程たったもので、当時の私には大昔の物だと

思えて、その値段も「当然かな」と思えたものでした。


 ところが、今、自分の手の中に製造後四十年経ったギター

がある。

 ハイクラスの品物ではないけれど、日本では高い評価を受

けていたメーカーのミドルクラスの物だ。四百万円なんてす

る道理も無いが、あの時「三木楽器」のウインドーに飾られ

ていた物より、いい音がするかもしれない(とうぜんなが

ら、あのギターがどんな音がしたかは知らない)。見た目も

いい具合のビンテージ感が出ている。


 ・・・と、ここまで書いたところで弾きたくなったので、

今『別れの朝』などを弾いて歌っていた。


 で、こんな話を始めて、何を言おうとしているのか自分で

もよく分からないのだけど、どうも “時代” ということを書

きたいのではないだろうかと思う。自分の持ち物が “ビンテ

ージ” になるなんて、なにやらため息が出るような、呆れる

ような・・・。


 わたしたちは「未来」を知らない。当然ながら、「未来」

には何の厚みも無い。

(「現在」はというと、それは「未来」への取っ掛かりでは

なくて、「過去」のなれの果てのようなものだろう)

 一方で、「過去」にはその時間の経過の分だけ厚みのよう

なものがあるように感じる(その厚みは、時には汚れだった

りもするが・・・)。その厚みに、人はビンテージギターに

対するような価値を感じたりするのだが、それ以上に、重荷

を覚えることの方が多いだろうと思う。


 わたしたちは「過去」に繋がれている。

 わたしたちには「未来」というものは無い。わたしたちに

とって「未来」というものは “取りこぼした「過去」”  か、

“挫折の代償” のようなものだろう。“本当の「未来」” はわ

たしたちのイメージの外にある。


 想定し、夢を見て、設計し、作り出すことによって、わた

したちは “本当の「未来」” を消していってしまってるのか

もしれない。来るべきだった「未来」というか、“「未来」

の本質” というものを知りえないまま生きているのかもしれ

ない。


 高級品ではない私のギターが、ビンテージの味わいを帯び

てきたように、「未来」というものは、「気付いたらそうな

っていた」というものだろうし、「思いがけない」からこ

そ、「未来」としての価値があるのだろう。「良い」「悪

い」「望む」「望まない」に関わらず、「思いがけない」こ

とこそが「未来」の「未来」たる値打ちだろう。(などと思

う) 






2019年9月4日水曜日

カネタタキが鳴いてるよ。




 窓の外でカネタタキが鳴いている。

 カネタタキというのは、いわゆる “秋の虫” です。「カン

カンカンカン」という感じで鳴くのですが、人によっては

「チンチンチンチン」とも聞こえるでしょう。いずれにせ

よ、「鐘を叩くようだというので」カネタタキという名が付

いたようです。

 1 cm ぐらいの小さな虫ですが、そのからだのサイズに見

合わず、結構大きな声で鳴きます。


 そのカネタタキの近くではコオロギも鳴いている。ツヅレ

サセコオロギかミツカドコオロギの声だと思うけれど、うろ

覚えで断定できない。まぁ、何にせよ「秋だなぁ」。


 虫の声に情緒的なものを感じるのは日本人特有らしい。他

の国の人はそういうことはまずないそうで、日本人以外では

フランスのプロバンス地方の人たちにそういう感覚が有ると

か聞く。


 日本人のこういう特性は、「漢字かな混じり文を使うこと

と関係しているらしい」という研究もあるそうだが、「じゃ

ぁプロバンスの人たちはどうなんだ?」ということになる。

単に文化的な理由じゃないだろうか。


 どんな風に説明をするかはともかく、そこに情緒を感じる

という事は、日本人は「虫も人間だ」と思っているのだろ

う。ゴキブリはゴキブリなんだろうけど・・・。


 ちなみにアメリカ人にとって、セミはゴキブリに等しいく

らいの嫌われ者らしい。13年ゼミだとか17年ゼミだとか

の「素数ゼミ」と呼ばれるセミが、定期的に大発生して嫌が

られるせいらしいが、「アメリカ人よりずっと昔からそこに

住んでいるのだから、仲良くしろよ」なんて思う(ゴキブリ

はもっと古いけど、グローバルに嫌われてる・・・。日本で

も・・・)。


 話がそれかけた。日本人にとっては「虫も人間」らしい。

 とはいえ、最近は虫を気持ち悪がる日本人の方が多いよう

だ。

 「なぜ気持ち悪いのか?」と訊いても、「とにかく気持ち

悪い」と言うだけだけれど、私は理由を知っている。虫が嫌

われるのは、それを「理解できない」からだ。それは「理解

しようとしない」からでもある。いや、そちらの方が正解だ

ろう。現代人は「虫という存在を理解しようとしない」か

ら、虫を気持ち悪いと感じている。
 

 人は「理解できないもの」を気持ち悪いと思う。

 そういうものが存在すると、自分の世界の統一感が乱され

るのでイヤなのだ。

 そして、「無視する」「排除する」「抹消する」という行

動にでる。理解できるものだけで自分の世界を構築しようと

する。で、いじめ・差別・パワハラなどが起きる。

 「虫も人間」ならば、「人間だって虫」という事になるの

はごく自然な流れですね。なので、「理解できない奴」は

「虫」扱いになるわけですが、それは何も日本に限ったこと

ではなくて、世界中で「理解できない奴(理解したくない

奴)は虫」という扱いをして、殺したりしているようなの

で、よその国の人たちが「虫も人間」だと思うようになるの

も、結構容易いのではなかろうか? ちょっと学習すれば、

日本人のように虫の声に情緒を感じるようになれるだろう。

良かったね。・・・・。

 

 自分に理解できないものが存在するのは当たり前です(

分のことも理解できないのだし)。むしろその方がはるかに

多い。

 そもそも「理解」というのは「つじつま合わせ」ですか

ら、各人各様の “ご都合主義” です。みんなが勝手に自分の

都合に合わせて世界を「理解」し、そこからはみ出すものや

自分の世界を乱すものを憎む。虫という存在は、まさにその

象徴でしょう。


 それにしても、「虫も人間」という感覚と「人間も

虫」  “虫けら” ということですが  という感覚の、な

んという違い。


 最近、人間のやっていることを見ていてつくづく思うこと

は、「仲良くしろよ・・・」ということばかり。結局のとこ

ろ、人間がすべきことは「まず、仲良くすること」に尽きる

と思う。問題があるから仲良くできないのじゃなくて、仲良

くしないから問題が生まれるんだ。


 世界中の人間が虫の声を愛でるようになるならば、人それ

ぞれお互いの生き方を愛でることもできるようになるような

気がする。

 仲良くしろよ。ホント。